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朧月

作者: 新流晃夜

課題で書いた陰陽師ものの短編です。

ふわっとこれだけで読める話を書きました。



 平安と後に名づけられる時代に、わたくしは確かに存在していて、あの方とも、確かに共に過ごしたのでございます。

 女房はおろか、乳母さえもいなくなってしまった空っぽの屋敷の中、どこにも行くあてのなかったわたくしは、誰か帰ってきてはくれぬものかと待ち続けました。

けれど時折訪れる客人は、わたくしに「出て行け」「消えろ」と暴言をぶつけるばかりで、誰ひとりとして手を差し伸べては下さいませんでした。

 そんな折、あの方はいらしたのです。



 御簾を揺らした夕風に、知った気配を感じて顔をあげた。

「いらしたみたい。門を開けてきて」

 懐から取り出した紙に命じると、紙は(めの)(わらわ)に転じて(わた)殿(どの)を歩いて行った。

夕餉(ゆうげ)のお支度をしなきゃね」

 次から次へと紙を人に変えて、水汲みや膳の用意をさせる。

 まもなく出来あがった膳を捧げ持たせ、後ろに酒と湯を持たせた紙の人を従えて、彼が待つ部屋へ向かった。

(はる)()様、お待たせいたしました」

 門を開けさせた女童に脱いだ直衣(のうし)を持たせて、(かり)(ぎぬ)に着替えた彼が振り返る。

清華(さやか)、いつもありがとう」

「いいえ。これがわたくしの役目ですもの」

 そうしてねぎらってくれる言葉ひとつで、十分満たされる。

 せっせと膳の用意をしてくれる紙の人を見て、晴哉様はふと微笑んだ。

「式を使うのが上手くなりましたね」

 さっと頬が赤くなるのが自分でもわかった。晴哉様から見たら、どんなに情けない顔をしていることだろう。

 恥ずかしくなって、袖で顔を覆った。

「いやですわ。こんな、まだまだです。命じたこと以外はしてくれませんもの」

 今も、少し気を利かせてくれれば気付くはずなのに、端によせられた円座(わろうだ)には気づきもせず、全ての用意が整ったら紙に戻ってしまう。

 結局膳の前に円座を用意するのは自分の役目だ。

「それでも、式をいくつも扱えるのは凄いことです。陰陽寮にもいったいどれくらいの者がこれだけの式を扱えることやら」

 掛け値なしの褒め言葉が誇らしくて、こっそり式作りを頑張ってよかったと思う。

「晴哉様。今日はいつまでいてくださいますの?」

「申し訳ないのだけれど、ちょっと寄らなければならないところがあって、あまり長居は出来ないんです」

「そうですか……」

「そんなに落ち込まないで。大納言様にお会いしに行くだけですから」

 あからさまに調子の下がった声に、晴哉様が苦笑いなさる。

 落胆が言葉にも出てしまう、このわかりやすい性格が憎らしくなった。

「代わりに、明日は一日こちらにいられますから。今日お伺いする大納言様の奥方から、絵巻物を貸して戴けることになっているんですよ」

「まあ!」

 絵巻物など簡単に手に入る身分ではなかったから、たまに晴哉様が借りてきて下さるものが本当に楽しみだった。

「時間はたくさんあります。何をしたいか考えておいてください」

 話しながら膳を平らげ、晴哉様は立ち上がってお部屋から出て行く。

 (きざはし)までお見送りするために急いでおいかけた。

「晴哉様、お気をつけて」

「あなたも。清華。万一のことがあったら、奥に隠れておいで」

 そうして晴哉様がお帰りになってしまうと、わたくしはまた広い屋敷に一人きり。左大臣様や右大臣様のように名のある方の御屋敷と比べれば物の数にも入らないような小さな屋敷でも、一人でいるととても広かった。

 そんな寂しさを紛らわせたくて、また女童を模した式を作る。

晴哉様は、かの安倍晴明のお血筋の陰陽師で、式以外にも占いやお祓いをよくなさっている。

その晴哉様が、式というものの作り方と操り方を教えてくださって、一人の寂しさを紛らわせていた。

 それでも、わたくしの式は晴哉様の式とは違って話をしてくれるわけでもなく、今でもごく稀に現れる客人は、あるだけのものを集めたもてなしさえも蹴飛ばして、好き勝手して帰っていくだけだった。

 晴哉様がいらっしゃる以前から、そういう酷い殿方の訪れはあったけれども、一度と言わず、その扱いに耐えかねて火鉢の炭をぶつけたことがあった。

あれはなかなか効果があったようで、無礼な客人は泡を食って帰っていった。

 晴哉様にこのことをお話したら、面白そうに笑ってくださって、でも、やりすぎないように窘められてしまった。

「さ、お行き」

 出来上がった式を庭で遊ばせていると、まだ父と母が生きていた頃のことを思い出す。

 あの頃は、下働きの童や女童も、女房もいて、毎日笑い声が絶えない家だったのに。

 その日のことは、よく覚えていない。

 思い出そうとすると、身体が震えて、何も思い出せなかった。

 式に手伝わせ、戸締りをして、早々に(うちぎ)を引きかぶる。

 明日になれば、晴哉様が来て下さるはず。そうしたらもう一人ぼっちではないのだと、ひたすら眠ろうと努めた。



「御客様、ですか?」

「はい。とはいっても、私の兄ですから、そんなにかしこまらなくても大丈夫」

 翌朝、日が高くなってからいらした晴哉様はお一人ではなかった。

 後ろにいたのは晴哉様とそう年齢の変わらない優しげな男の人で、御客人というものに抵抗があったわたくしは、少なからず安心した。晴哉様が一緒にいらして下さるからかもしれない。

 晴哉様お一人なら御簾も几帳も退けてしまうけれど、扇も無しに見知らぬ殿方には会えない。

咄嗟に手元に扇がなく、しかたなしに簾中にいたわたくしに、その方は軽く頭を下げた。

「お初にお目にかかります。あなたが清華姫?」

 人懐っこそうな笑みを浮かべた彼は、明羅(あきら)様とおっしゃるそうだ。

 御兄弟と聞いてよく見比べると、御簾の外に並んでお座りになったお二方は、どことなく似通っている気もする。

明羅様は、ぐるりと部屋を見渡して、微笑んだ。御顔立ちのせいか、笑うと晴哉様より年下に見えてしまうけれど、本当は晴哉様よりひとつ上らしい。

「いい御屋敷ですね」

「ありがとうございます。でも、古いばかりの屋敷ですわ」

「そんなことはありませんよ。とても良いご家族だったのでしょう? 屋敷全体からそんな感じがします」

「ええ、本当に良い人ばかり、で……」

 どうしてだろう、突然瞼の奥が熱くなる。

 けれども、変わらず微笑んでいらっしゃる明羅様を見たら、そんな不思議な感覚は一瞬で霧散してしまった。

 結局明羅様は早々に御帰りになってしまったので、その日は晴哉様と絵巻物を観て過ごした。

 流石に大納言家の絵巻物だけあって、色彩も華やかな、美しい一品だった。

 そういえば、一幅だけあったはずの、母上の絵巻物はどこへ仕舞ってあっただろう。



 晴哉様の御着きを知って、繕っていた袿を急いで羽織り、はしたなくならない程度に渡殿を駆ける。

 繕い物が間に合っていてよかった。この(はなだ)の袿は、晴哉様が下さった絹で作った大切な衣。晴哉様が、わたくしに似合うと言って下さった色だった。

『あなたに、似合うと思ったので』

 晴哉様がほんの少し頬を染めながら縹の反物を下さった時、あまりのことに言葉も出なかった。

 あまりにも嬉しくて、縹色に染められた艶やかな絹の一反と晴哉様を交互に見ることしか出来なかった。

 これも入用でしょうと、わざわざ裁縫道具のひと揃いまで御持ちになった晴哉様が、以前なにかのついでに裁縫を嗜むと話したことを覚えていて下さったのだと知って、感極まって泣き出してしまったのだ。

 ……一番最後は、少々恥ずかしい思い出でもある。

「晴哉様」

「先触れもなくすみません。予定よりも早く退出出来たものですから」

「いいえ。その、嬉しゅうございます」

 たまにはと、勇気を振り絞って言ってみたけれど、あまりの羞恥心でまともに晴哉様の御顔が見られない。

 黙ってしまった晴哉様を、そっと伺い見てみると、晴哉様は耳を赤くされて、口元をおさえていた。

「晴哉様……?」

「あ、いや、失礼を……まさか、あなたから、そんなことを言って頂けるなんて……」

 晴哉様はそれきり黙されて、わたくしも何を申し上げればいいかわからず、気まずい、というよりも気恥かしい空気が流れた。

 うつむいて目に入ってきたのは、晴哉様が持っていらした葛篭(つづら)だった。

「晴哉様、そちらの葛篭は……?」

「そ、そうでした。あなたと見ようと思って、兄上にお願いしたものです」

 慌ただしく開けられた葛篭には、いくつもの物語が収められている。

「あまり読んだことがないと言っていましたよね」

「ええ。お借りしようにも、なかなか伝手がなくて」

「では、一緒に読みましょう」

 晴哉様の御兄さま、明羅様。いったいどんな繋がりがあってこの立派な巻物語を借りてこられるのだろうと疑問にも思ったけれど、それよりも初めて読む物語への興味が勝った。

 順々に巻物を広げて、晴哉様と物語を追いながら、宵には火を灯して、ついに読み疲れたら、そのまま(しとね)で――

 そんなことを考えながら、一番上の物語を手に取った。

「源氏物語ですわね」

「一番人気があると伺ったのでこれにしましたが、何か不都合がありますか?」

「いいえ。一番読みたかった物語です」

「それはよかった」

 こんなにもお優しい殿方と肩を並べて物語を読む。なんて幸せな時間だろう。

 父上や母上がいらしたら、この素敵な方を喜んで迎えて下さったに違いない。

 晴哉様に、物語に出てきた言葉の意味を聞きたくて、晴哉様の袖を引いた。

「は――」

「そこにいたか! 安倍晴哉!」

 全身の血の気が引くのが、自分でわかった。

 晴哉様も、急に顔を引き締めて、そっと袖の陰でわたくしの手を握って下さる。

 招いたわけでもないのに庭へ堂々と入り込んできた公達は、笑い方も振る舞いもあまり好もしくない雰囲気の御方だった。見たところ、晴哉様より少し年上のようだ。

行則(ゆきのり)殿」

「ほほう、それが噂の。なるほどな」

「行則殿。何用でこちらへいらしたのですか。私は」

「近寄らぬと、約束はしていなかろう?」

 晴哉様が緊張なさっているのが、重ねた掌から伝わってくる。

「晴哉様……」

 晴哉様は、いつものように微笑んで振り返ろうとなさったけれど、公達は大声でがなり立てた。

「聞いているぞ、安倍晴哉! お前が、もうふた月もこの一件を解決出来ていないと!」

「それは!」

「いっそあやつに頼んでしまえ! お前なぞよりよほど有能なのだろう?」

 小馬鹿にしたような言い方が無性に腹立たしくて、その憎たらしい顔に灰をぶつけてやりたくなった。

「しかし安倍晴哉ともあろう者が、落ちたものだな」

「行則殿、それ以上は」

「何故だ? そこにいる、それがそうなのだろう?」

 それ、と物のように言われたのが自分だと気づいて、胸の奥から何かがこみ上げてきた。

 どうして、見知らぬ公達にそんな扱いを受けなければならないのか。いったいわたくしが何をしたというのか。

 すがった晴哉様は、庇うようにわたくしを几帳の影へおしやる。

「見えるなら話が早い。とっとと言ってしまえばよかろう。それとも、私がやろうか」

「おやめ下さい! これは私が受けた一件! あなたには!」

「関係あるのだよ。あの安倍晴哉がふた月も掛かりきりの一件、この私が解決すれば、私の名は一躍広まるだろう!」

 愉悦の笑い声が耳触りで、耳をふさいだ。

 それでも笑い声はまとわりつくように耳の奥に残って、内側から恐怖を呼び起こす。

 以前にもこんな笑い声を聞いたことがあるような気がする。

 自分の優位性を確信して、無抵抗の相手を貶め蹂躙する。

 そんな相手を、相手というよりも、そんな状況を、わたくしは知っている?

 何故わたくしは屋敷に一人ぼっちなのだろう。

 何故――。

「何を躊躇う必要がある? 貴様がこれまで何度もやってきたことだろう」

「やめてください」

「これまでと今回と、何が違う? それとも、本当にそれに魅入られたか」

「この件は私が必ず片をつける! だから!」

「悠長なことを言う。おい、女!」

 いったいどんな用があって、彼はこちらを指差すのか。

 そっと晴哉様の後ろから伺うけれど、晴哉様はそんなわたくしをおし留めた。

「聞かないで。聞かなくて良い」

「つくづく呆れたな! 女、よく聞け!」

「清華! 耳をふさいで!」

 お二人の声が代わる代わる耳を打つ。

 兎にも角にもこれまで遭遇したことのない状況にひたすら戸惑って、何を聞くべきか優先すべきか判らなかった。

「お前は!」

「清華!」

 怒鳴り声。

 いくつもの叫び声。

 重なる悲鳴。

 暗い、そこは。

「そこまでになさい。藤原行則殿」

 二人分の声をかき消して、場違いなほど落ち着き払って草を踏んだのは、晴哉様の兄君、明羅様だった。

「行則殿、何度も申し上げましたね。邪魔をなさるなと」

 以前屋敷へいらした時と、明羅様の雰囲気が違う。前にいらしたときは、幼く見えるほどに穏やかで可愛げのある人だったのに。

「ふん、今さら出てきて、どういうつもりかは知らないが」

「それは貴方の方でしょう。何を勘違いしているのか、晴哉の邪魔はさせませんよ」

 くすりと笑った口元を、優雅に扇で差し隠す。

 その扇が、先日との雰囲気の違いだった。先日お会いした時、明羅様は扇をお持ちでなかった。

「邪魔? 私はただ、ふた月も焼跡の物の怪を退治出来ない奴の代わりに」

「それ以上言うと、私も少々手荒なことをしますよ」

「出来るものならやってみるがいい! こんな――」

 ぱちりと音を立てたのが、明羅様の扇だと気付いたときには、『行則』とかいう公達の口は固く閉じられていた。

 直前まであれだけ喋って、怒鳴っていた人が、どうして急に黙ってしまったのだろうと不思議で仕方なくて、もう少しだけ几帳の隙間から表を覗いてみる。

「言ったでしょう。少々手荒なことをしますよ、と。忠告を聞かなかったのは貴方です」

 空中に明羅様が指で線を描く。

「さて、邪魔者には退散して頂きましょうか」

 それに沿って、『行則』はなにやら喉の奥で呻きながら去っていった。

 完全に姿が見えなくなって、ようやく晴哉様が力を抜いた。

「怖い思いをさせましたね。清華」

「いえ、いいえ、晴哉様……」

 それよりも、庭の明羅様から目が離せない。

 前にも同じ光景を見たことがある。

 こうやって怖い人が帰ったあと、ああして庭に立って、こちらを見ていた、あの人。

 晴哉様。

 何故わたくしは一人で屋敷にいたのだろう。

 何故誰もいないのだろう。

 何かあったはず。

 最後の夜は。

 重なる悲鳴。

 一人ぼっち。

 暗い所。

「あ、あ……」

 恐ろしい声が、すぐ近くで。

「大丈夫」

 耳に触れたのは、ずっとそばにいてくれた、晴哉様の手だった。

「怖いものはもういない。私がいます。清華。だから大丈夫」

幼い子供に言い聞かせるような、優しい声。

いつもの晴哉様だ。

「晴哉、様……」

「清華……」

 砂利を踏む音に驚いてそちらを見れば、明羅様が階を上がろうとするところだった。

「兄上、御手間を……」

「それはいいよ。それより清華姫のことだ」

 明羅様は目の前で膝をついて、扇を懐へしまった。

「こんな予定ではなかったけれど……潮時だ。清華姫、貴女に、とても大事な話をしなくては」

 その大事な話が、決してめでたい話ではないのだと、雰囲気でわかってしまった。

「すこしだけ、辛いかもしれません。でも、晴哉は隣にいますから」

 もう何も考えたくないと思いながらも、晴哉様の兄君がそこまで酷いことをするはずがないと信じて、ずっと隣で支えて下さる晴哉様を信じて、小さく頷いた。

 明羅様は特に何もおっしゃらなかった。ただ、短く断ったあと、わたくしのこめかみに触れただけだった。

 それだけで、十分だった。




 何をしたわけでもなかった。

 父は決して高い官位を戴ける身分ではなかったけれど、母と、わたくしと、慎ましく暮らすには不自由しない家だった。

 母は琴や裁縫の得意な人で、父が袖を通すものは、たとえ小袖一枚でも母が縫った。

 わたくしは父から漢詩を習い、母から裁縫の手ほどきを受けた。

 乳母は女が漢詩を習うことに良い顔はしなかったけれど、わたくしがすらすらと詩を暗唱するようになると、今度は宮中の女官になれるかもしれないと、笑って応援してくれるようになった。

 乳姉妹の橘は、何かにつけて姉のように世話を焼いてくれていた。母に、この優しい乳姉妹に良い人が出来るようにと、こっそり相談したこともあった。

 わたくしもいずれは、相応の殿方を通わせて子を産み育て、静かに老いてゆくものだと、無意識に信じていた。

 戌の刻を過ぎて、にわかに騒がしくなった西の対から、乳母が裾を蹴立てて走ってきた。すぐに隠れるようにと言って、乳母はわたくしを塗籠に押し込めた。

 途端に外から恐ろしい怒鳴り声がして、乳母の悲鳴と、橘の悲鳴が相次いで聞こえた。

 

おそろしくて、塗籠の中で衣を被って震えていたわたくしは、その扉が開いたことに気付かなかった――。




 手の平を見つめる。

 しっかりとした質感があって、とてもこれが幻だとは信じられなかった。

「わたくしは……もう、この世の者ではありませんのね」

「はい」

「行かねば、ならないのですね」

「……貴女のご両親も、あなたを待っています」

 首を横に振った。

「違います。明羅様。乳母と、橘もですわ」

 どうすればいいのか、なんとなくわかった。

「晴哉様」

 眉根を寄せて、泣きそうな、苦しそうな顔をした晴哉様。そんな初めて見る御顔に、晴哉様が全て知っていたことを悟った。

 知っていて、死人に付き合ってくれていたのだ。

「晴哉様。清華は、晴哉様がいてくださって、幸せでした」

 最後に一度だけ、叶うのなら、世の姫君たちと同じように。

「ありがとうございました」

袿を差し出して、身体から力を抜いた。



「兄上」

「ん?」

「ありがとう、ございました」

 朽ち果てた焼跡の中で縹の袿を抱いて、兄上の顔もろくに見られないままに頭を下げた。

「ふた月経っても、私には、彼女を傷つけないように成仏させる方法など、みつかりませんでした」

 死人が作った袿には、信じられないことにまだ仄かな温かみがある。

 焼け落ちた屋敷に怨霊が出るから祓ってほしいと頼まれて、この場所を訪れたのがふた月ほど前。そこにいたのが、怨霊ではなく死んだことを忘れた姫君だと判った途端に祓えなくなってしまった。

 どこからともなく灰が降ってきたという話も聞いたが、なんということはない。ただ彼女が、土足で彼女の家を踏みにじる無礼者を追い返しただけだったのだ。

「だけどね、晴哉。彼女の心を救ったのは、確かに君だったよ。彷徨う死人が穏やかに逝くなんて、滅多にあることじゃない」

 敬愛してやまない兄は、時折幼い頃よくしてくれたように頭を撫でてくれる。

「そう、で、しょうか……」

「だって彼女、言ったでしょう。ありがとうって。その袿も。そういうことなんだよ」

 兄上には、ずっと前から相談に乗ってもらっていた。

 彼女を祓えなかった自分は、すでに物の怪の術中に嵌っているのではと心配になって、兄上に直接視てもらったが、兄上は害無しと判断して、思うようにすればいいと言ってくれた。

揃って牛車に揺られながら、もうひとつ疑問に思っていたことを聞いた。

「兄上、教えたのは私でしたが、何故彼女は、式を扱えたのでしょう?」

「ああ、あれか。……ふふっ」

 今、兄上がとても不可解な笑いをしなかっただろうか。

「あの、兄上?」

「んー?」

 絶対なにかやった。この人がこんな風に笑うときは、絶対に何かしたときだ。

 滅多に使わない扇を口元に翳すのは微笑を隠すためだ。

「まさか、兄上。実は全部見ていたんですか? あの式、清華のではなく、兄上のですか!?」

 考えてみれば、式の中に見慣れた顔がいたような気もする。兄上が誰かをおちょくる時に使う式だ。実際何度かおちょくられたことがある。

「可愛い弟が害がないとはいえ、霊とふたりっきりじゃ心配でしょう?」

「兄上!」

 叫んでから、兄上がわざとからかって元気づけようとしてくれているのだと悟って、少しだけ感謝しながら、この薄藍の袿は一生大切にしようと誓った。

 物見窓の外、虚空に輝く月は、どうしてか霞んで見えた。


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