02.急転直下
「ベルー!ベルちゃーん!」
私が何故だか、美しい山奥で子豚になっていると気付いてから、凡そ1年という時間が過ぎた。
一向に、そもそも此処が何処なのか、どうして此処にいるのか、どうして私は豚になってしまったのか、どうやったら帰れるのか、どうやったら元に戻れるのか、知りたいことの一つも知ることが出来る気配はない。
覚えようと思った訳ではないけれど、言葉だけは、何とか理解出来るようになったから、それが一応進展と言えばそうかもしれない。
だからと言って、言葉が話せる訳じゃないから、情報を集めるのも難しいんだけどね。
ただ、言葉を覚えたことで、一つ分かったことがある。
今居るこの山、間違いなく日本じゃないし、多分だけど、アメリカとかフランスとか中国とか…そういった外国でもなさそうなのだ。
どうして分かるかと言えば、言葉が全然そういうのと違うのだ。
学校で習う程度の英語が分かるだけで、他の国の言葉なんて分からないけど、テレビで聞くのと全然違っている気がする。
もし田舎特有の訛りがキツいから、とかいう理由だったら分からないけど。
でも多分違うと思う。
だけど、そうだとしたら、本当に此処は何処なんだろう?
中国の山奥の高山民族とか?
それにしては、飼い主?の女の子がアルプス風なんだよねぇ…。
「ご飯だよー!ベルちゃーん?」
「ぷぎぃっ!(はいっ!)」
何度も私を呼ぶ声が聞こえたから、私は考え事をやめて、ようやく縁の下って言えば良いのかな?小屋と地面の隙間から顔を出す。
そうすると、普段私の世話を全面的にやってくれている女の子が、満面の笑みを浮かべて駆け寄って来た。
「そんなところにいたのね。探しちゃった!」
「ぷぎ…(考え事してたんです。ごめんなさい…)」
「ふふ。ベルは私の言葉が分かるみたいだね。気にしなくて良いんだよ!」
人間としての尊厳とか誇りとか、平凡な私にだって多少なりとはあるんだけど、こうして彼女…エミリーちゃんに撫でられると、あまりの気持ち良さに、うっとりしてしまう。
因みに、私はエミリーちゃんにベルと呼ばれている。
ちょっと私には可愛過ぎる名前だと思うけど、いつの間にかそう呼ばれていたから、今更嫌がるのもどうかと思って、スルーしている。
「はい、おいでーベルちゃん!」
「ぷいっ(はいっ)」
両手を広げて、抱き上げられるよう促すエミリーちゃん。
私は反射的に彼女の腕の中に突っ込む。
うぅ…条件反射って怖い。
私は普通の人間ですって言っても、こんな行動を取ってばかりいたら、誰にも信じて貰えなくなってしまいそうだ。
…この姿じゃ、そもそも信じて貰えないと思うけど。
「今日はベルの好きなお芋のパンだよ」
「ぷぷぅっ!(ホントに!?)」
思わず喜びの声を上げてしまう。
お芋のパンは、好物の一つだ。
それに、本来であれば豚が食べるようなものではなく、人間が食べるものなだけあって、本当に美味しいのだ。
どうして私が人と同じものを食べているのか、ということには理由がある。
この状況に気付いた最初の頃は、私にも文字通りの豚の餌が与えられていた。
正直なところ、食べられたものじゃなかった。
私は、それしか食べるものがないのなら、と思って必死に食べてみたりもしたんだけど、身体が受け付けなかった。
戻したり、お腹を壊したりしている内に、心配してくれたエミリーちゃんたちは色々と違うものをくれるようになった。
やがて、普通に人が食べるものなら大丈夫、ということが分かって、それからはエミリーちゃん一家の食卓に混じって、部屋の隅の方で同じような食事を頂けるようになったのだ。
この状況を歓迎している訳じゃないけど、私、エミリーちゃんの家にいることになってて良かった、と思う。
他のところだったら、とっくの昔に命を落としていたかもしれない。
栄養失調で。
「お前は変わってるよねぇ。他の誰も食べないのに…。まぁ、私たちの分もあるから手間じゃないし、良いんだけどね」
「ぶいー?(やっぱり変わってるの?)」
そう言えば、一度も小屋の仲間たちが人の食事のようなものを食べているのを見たことはない。
メニューによっては食べられる気もするけど…色々あるんだよね。
「とにかく、いっぱいお食べよ?普通ならもう立派なサイズのはずなんだからね」
何となくは伝わっているみたいだけど、やっぱり言葉が話せないから、満足な答えは貰えなかった。
うーん…でも、仕方ないよね。
かなり会話に近いコミュニケーションを取れてるだけでも、ありがたいって思わないと、きっとバチが当たっちゃう。
そもそも、この状況がバチっぽいけど…バチ当たりなことをした覚えはないから偶然だって思っておこう。
それよりも、私の大きさは平均より相当小さいらしいことの方が気になる。
豚のまま早く大きくなりたい、なんて思わないけど、大丈夫なのかな?
実は病気を抱えてる、なんて言われたら、ただでさえ酷い状況なのに、私はこれからどうしたら良いんだろうって、途方に暮れちゃいそうだもの。
「…あら?どうかしたのかしらね、ベルちゃん?」
「ぶ?(何?)」
動物たちが住む小屋から少し離れたところに建つエミリーちゃんの家に到着していざ入ろうとした直後、エミリーちゃんが足を止めた。
一体何事かと思っていたら、遠くから微かに、複数の声が聞こえて来ていることに気付いた。
此処は、一応村として成り立っているらしくて、かなり距離はあるけど、他の人が住む家も幾つかある。
だけど、こんな風に声が重なって幾つも聞こえることは、少なくともこの1年で一度もなかった。
祭り…にしては、エミリーちゃんがのんびりしているし…。
「騒がしいわね。ちょっと見て来るわ、ベルちゃんは此処に居てね」
ひょい、と私をその場に置いたエミリーちゃんは、他の家がある方向へと駆け出して行った。
私はそれを見送りながら、何となく嫌な予感を覚えた。
何と言ったら良いのか…鼻の奥に、不快なニオイが届くのだ。
何かが焦げたような…腐ったような…良く分からないけど、とにかく、何だか嫌な感じがする。
エミリーちゃんのこと、このまま見送って良いんだろうか?
「ぷいいー…(エミリーちゃん…)」
「良い子で待っててねー!」
不安な声が漏れたけど、エミリーちゃんにはちゃんと聞こえたらしくて、遠くから笑顔で手を振ってくれた。
胸が温かくなる。
私、本当にこの家に居なかったら、とてもじゃないけど耐えられなかったよ。
エミリーちゃんなら大丈夫だ。
こんな嫌な予感なんて、アテになるようなものじゃない。
豚になって、知らない場所にやって来ちゃうような日に、何も嫌な予感なんて感じなかったんだから。
だから、大丈夫。
ドオン!
「ブッ!?」
そう思いこもうとする私をあざ笑うかのように、エミリーちゃんが姿を消した方向から、けたたましい音が響いて来た。
それと、モウモウと立ち上る煙。
何かが爆発したんだと思えた。
分かった瞬間、頭が真っ白になる。
今まで一回も事故に遭ったこともなければ、目撃したこともないような私が、初めて間近で見る、危険。
誰かが料理に失敗でもしたんだろうか。
それだって怖いけど、重なって届く音を良く聞き分けると、何人もの悲鳴が中に混じっていることが分かってしまった。
ただの事故にしては、恐怖の色が濃いような気がする。
「(え、ど、どうしよう!?どうしたら良い??エミリーちゃんは大丈夫かな?確認に行った方が良い?でも、此処で待っててって言われたし…)」
ただの杞憂なら良い。
安全を確認して来て、また勝手に動いたのねって怒られたって、それなら全然構わない。
でももし、もしも、思っている以上に怖いことが起こっているとしたら?
想像もつかないけれど、私は事態を受けとめかねていた。
真っ白になった頭は、何も答えを出してくれない。
ひたすらに呆然としながら、煙と、きっとエミリーちゃんが居るだろう場所を見つめ続ける。
それで事態が変わることはないし、何も分かることもない。
それでも、動くことが出来ない。
足は鉛みたいに重くて、瞬きに至っては、瞼の存在さえ忘れてしまった。
「(だ、誰か来る…?)」
しばらくすると、ガシャガシャと、金属音を帯びた足音が聞こえてくる。
金属音なんて、普通にしていたら鳴るはずがない。
村の人たちに、そんないかつい音を立てながら歩く人はいない。
そんなことあるはずないと思いながらも、私は一つの可能性を思い浮かべる。
そして、そのまま恐怖心に負けて、私は一人で家の下に逃げ込んだ。
本当は、エミリーちゃんの無事を確認しに行きたいし、人として、そうすべきなんだって分かってるのに、動けない。
逃げようとする時だけ走れるなんて、酷過ぎる。
泣きそうになりながらも、私は何とか息を殺して、気配を悟られないようにしながら、必死に様子を窺った。
徐々に近付いて来ていたのは、兵隊と言うには統率の取れていない集団だった。
錆びた銀色の、質の悪そうな鎧を着た人達。
山奥とは言え、どうしてこんな、中世みたいな鎧を着ているんだろうか。
疑問には思ったけど、それどころじゃない。
彼らの手にある、生々しい赤色に染まった剣や槍を見てしまった私は、思わず悲鳴を上げてしまいそうになった。
歴史の教科書とか、映画とかでしか見たことがない。
戦?それとも、略奪行為?
そんなものに、どうしてこののどかな村が巻き込まれるの?
エミリーちゃんの家に、無遠慮に入って行く鎧の人達。
何ごとかを話してはいるけど、言葉が違うのか、何を言っているか分からない。
どうしてこの村を襲うのかも分からない。
私は混乱しきりながらも、流れる涙は抑えられなくとも、せめて気付かれないように嗚咽だけは押さえようと口を硬く引き結ぶ。
遠くの方から、小屋の仲間たちの悲鳴が聞こえて来た。
その後、食糧みたいに木の棒につるして歩いて行く鎧の人達が見えた。
ああ、私も見つかったら豚肉になってしまうんだ。
そう思うと、恐怖で涙も枯れ果てた。
「(エミリーちゃん…大丈夫かな…?)」
こんな、現代世界とは思えない状況の中で、私はただ自分の身の安全と、エミリーちゃんの無事を祈っていた。
神様なんて信じたことはないけど、この時ばかりは一心不乱に信じた。
そうしている内に、エミリーちゃんの家には何もないと思ったのか、それとももう奪い尽したのか、徐々に鎧の人たちの気配が遠ざかって行った。
そして、後に残った二人が、何ごとかを話している。
せめて言葉が分かれば、と思ったけど、全然想像もつかない。
とにかく、早く遠くへ行って欲しくて、硬く踏ん張っていると、一人が兜を脱いで、小脇に抱えた。
それを見た瞬間、私は今までで一番悲鳴を上げそうになった。
てっきり普通の兵士だと思い込んでいたその人の頭は、犬のものだったのだ。
犬というには少し野性味溢れている気もするけれど、そんなことは問題じゃないと思う。
犬の頭をした人が、普通に二足歩行をして、武器を持って、鎧を着ている。
そんなことが、現実に有り得るんだろうか。
目の前で確かに起きている景色だけど、信じられない。
まるで、ファンタジーの世界だ。
恐怖におののく私は、ニオイで勘付かれやしないかと怯え続けていた。
火でも放たれたのか、やけに焦げ臭いから、きっと私程度のニオイはかき消されているはずだ。
そう信じながら、震えながら、祈り続ける。
だけど、そんな祈りは虚しく、片方が家の下を覗き込んで来てしまった。
目が合う。
最早、悲鳴なんて出なくて、だけど枯れたと思った涙はこぼれ出した。
奥の方に逃げれば良いのに、身体は動かなくて、難なく、私の身は犬の姿をした敵の手に落ちた。
このまま食肉になるしかないのだろうか。
そう思った直後、私を美味しそうだとでも思ったのか、舌舐めずりをしていた犬の首が消失した。
首ねっこを掴まれていた私の身体は、そのまま地面に落ちるかと思われたけれど他の誰かに抱きとめられる。
何が起きたのかと混乱している内に、もう片方の敵も首を失って倒れる。
非常にグロテスク極まりないけど、助かったのだろうか。
あまりの事態に、私の頭は多少麻痺していたのかもしれない。
若干恐怖が薄れたと思った私は、私を抱きとめた、つまりは私を助けてくれた人へと視線を向けた。
「▽&%))’””#$!」
「っ!!!???」
そして、緊張しきった私の意識は、とうとうプッツリと途切れることになった。
そこにあった顔は、今の犬より余程恐ろしい。
豚と言うのか、それとも、イノシシと言うのか、私の身体ほどもある巨大な牙を持つ、二足歩行の化け物の顔だったのだ。
もう事態は、理解の範疇を超えてしまった。
自分の身の安全を祈ることも忘れて、私は意識を手放した。
このまま食肉になるのならば、最早仕方ないのかもしれない。
こんな状況で、生き延びられるはずがなかったのだ。
最後に静かに、そんなことを思った。
子豚「怖いよー!」
子豚「エミリーちゃんは無事ー!?」
子豚「助けてー!」