05.悪夢の誘い
更に、二年という時が過ぎ、僕は五歳となった。
その間にも、事態が急激に変化したりはしないかと、僕は怯え続けていたが、特にそのようなこともなく、僕は僕の命を守る為に着々と準備を進めていた。
劇的な変化を伴うような何かを行っている、という訳でもないので、準備とは何かについては、頭の中で考えるのも止めておこうと思う。
万が一、僕のような力を持つ人と出会った時のことを考えると、とてもではないが、安易に具体的な言葉として考えることは出来ない。
「「ご主人様」「エリオ様」「エリオット」「失礼致します」」
そのようなことをぼうっと考えながら、久しぶりに具体的に何をするでもなく、自室から窓の外を眺めていると、複数に重複した声が僕を呼んだ。
チラリと視線だけを向けると、スラッと背の高い、痩せぎすの男が立っている。
彼は二年前、母親が僕にくれた、僕だけの奴隷。そして、唯一の奴隷。
二年前よりは、随分見られるような姿になったと、僕は何となく思った。
「何、レイ?」
かつて彼に名を尋ねた時、「レイオール」と端的な返事がやって来た。
それが彼の名前なのだとすぐに分かったし、呼んでもやりたかったが、考えてもみれば、それは望ましいこととは言えなかった。
理由は簡単。
僕が彼の名を呼ぶことに、両親は良い顔をしないだろう、ということだ。
だから僕は、何も聞かなかったことにした。
その上で、さも僕自身で考えた呼び名かのように、僕は彼のことをレイと呼ぶことに決めたのだ。
それ以来、僕は彼をレイと呼ぶ。
まるでそれ以外にも複数の人と会話しているかのように感じながら。
それでも、そこにただ一人立つ彼を。
「「お茶です」「お茶持って来たよ」「休憩しませんか」「お邪魔でしたか」」
レイは、幾つもの方向から僕に言葉を投げる。
重複して聞こえるその言葉たちを聞き分けるのは、至難の業だ。
それでもこの二年で、すっかり伝わるようになったのだから、慣れとは面白いものだと思う。
僕が聖徳太子になれる日も近いだろうか。
「ん、ありがとう。邪魔じゃないし、そもそも休憩中だよ」
僕の言葉を受けて、レイは未だに慣れない手つきで紅茶を淹れる。
たった二年程度の付き合いだと言うのに、早くも主人である僕に似ているのだろうか。
不器用なところなど、似なくても良いのに。
そのような冗談を考えて、僕は思わず渇いた笑いを漏らす。
たった二年で、僕は彼に親しみを覚えているというのか。
反射的に、このような冗談を考える程に。
どれ程親しみを覚えようが、思いは返って来ないのに。
何しろ僕は、彼を解放出来るのにも関わらず、未だ彼を縛り付けている。
解放しようが、彼に行く所はないのだとか、そのようなことは関係がない。
彼の自由を、一方的に限定している犯罪者だ、僕は。
そんな僕に、どうして彼が思いを返してくれるだろうか。
僕等の間には、殺伐としたものしかない。
その筈だし、それで良い。
何しろ僕は、生きる為に、茨の道を行くのだ。
そこは孤独の道。
きっと、誰も付いてこないし、誰もいない。
何故なら、僕自身が踏み拉いてゆくのだから。
好んでそのような道を行くつもりはない。
しかし、それしか思いつかないのだから、仕方がない。
時折胃液を刺激する、かつてのあの地獄のような光景がフラッシュバックするよりも、ずっと辛い道になるだろう。
それでも、死を受け入れられない僕は、その道を選ばざるを得ないのだ。
そうであるのならば、僕はこれ以上、彼に親しみを覚えない方が良いだろう。
いずれ来る別れに、僕が、耐えられそうになくなってしまうから。
「「なら」「でしたら」「寝た方が良いよ」「お茶を飲んだらひと眠り」」
僕好みの甘いフルーツティーを口に含む。
口の中で軽く転がしながら、僕は一考する。
一休み、ひと眠り、か。
それは確かに、甘い誘惑ではある。
「何故、そう思う?」
僕が嚥下してから、ゆったりと問いかけると、レイは方を揺らす。
本人は隠しているつもりなのだろうが、僕が冷たいような、抑揚のない声を出すと、彼は決まって怯えていた。
時折、レイが父に呼び出されているのは知っている。
その際の、「声」も聞いた。
恐らく、僕の様子を尋ねたいだけなのだろうが、父の言うそれだけ、はそれだけで終わらないのが常だ。
ついでに八つ当たりなども受けているだろう。
息子もまた、自分と同じ価値観なのだと信じて疑っていないあの人は、隠すこともなく、レイをぶつから。
もし僕が、心の声を聞くことが出来なかったとしても、流石に気付くだろう。
それ程の扱いを受けていて、その息子の冷たい声を聞けば、怒られるのではないと頭では分かっていても、身体が反応してしまうのだろう。
その反応は、僕を苛立たせるが、だからと言って僕は、何も言わない。
怒るようなことではない。
この苛立ちは、僕自身へ向かうべきものだ。
ただの、八つ当たりなのだから。
「理由なんて何でも良いよ。教えて」
「「分かった」「かしこまりました」「はい」「うん」」
躊躇いがちに、レイが形の良い口を開く。
「「最近は特に、忙しくなさっておりましたので」「疲れてるみたい」「顔色が悪い様に見えました」「休んだ方が良いかと考えました」」
ああ、確かに。
僕は軽く息をつく。
こうしてゆったりと、窓の外を眺める余裕もなかった。
具体的に何があった、という訳ではないというのに。
僕という人は、日本人であった時から変わらず、時間の使い方が下手なようだ。
きっと、無駄な行程も、幾つかあっただろう。
五歳にして疲れによって溜息が漏れるなど、あり得るだろうか。
僕は、自分の身の上の不幸を呪いながら、紅茶を飲みほした。
「納得したよ。なら、少し眠らせてもらおうかな」
「「それが良うございます」「見守ってます」「時間を見て起こすよ」「ゆっくりと、お休みくださいませ」」
「そうだね」
僕は軽く頷くと、ジャケットだけ脱いでレイに手渡し、ベッドに横になる。
少し硬めのそれは、僕のリクエストを受けて作られてしまったものだ。
待たせてごめんね、などと、申し訳なさそうな顔をする両親の向こう側で、一体何人の技術者が犠牲になってしまっただろうか。
僕の簡単な我がままの裏で、誰かが傷付くことなど、あってはならない。
僕はあの日以来、我儘を可能な限り言わないように努めて来たのであるが、このベッドが、両親の暴力の届かない、他国の技術者によって作られていることを、僕は今も切に祈っている。
とは言え、ベッドに罪は無い。
寧ろ、この数年、僕の疲れを優しく癒してくれたベッドだ。
きっと今日も、安らかなる眠りを提供してくれるだろう。
恐らくは、このような時間に眠ったとて、問題なく受け止めてくれる筈だ。
僕の安眠は、約束されたもの…だと、思っていたのだが。
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「やぁ、ハジメマシテ」
眠りに落ちたのだとハッキリ分かる、何処か気だるい真っ暗闇の中。
そのシルエットは、一人佇んでいた。
不気味に響く、壊れた変声機を通したような、声。
男とも女ともつかない。
けれどその言い回しから、僕はそれが男であると思った。
確証などは一切存在しないが。
「誰?」
「アハハ。キミ、それでもキゾクかい?」
「…は?」
小馬鹿にしたように笑う声に、僕は思わず眉を顰める。
そもそも、明らかにそのようなことを指摘するような状況ではない。
否。
彼は、そのような些細なことを指摘出来る程、有利な立場にいるということだ。
少なくとも、彼はそう思っているのだ。
僕はそう判断して、警戒心を強める。
ただでさえ、僕の夢である筈の此処で、僕以外の人の姿があって、あまつさえ会話が少なからず成り立っているのだから、警戒しない筈などないのであるが。
「ハジめてアったヒトには、まずはジブンからナノるのがジョウシキってものだろう?ああ、それとも、キミはオウゾクでイチバンエラいから、そんなキまりにシバられないのかな?」
このような怪しい人物…果たして人物に分類して良いのかすら分からないような存在に、常識云々と説教を受けたくはない。
僕は頬が引き攣るのを感じながら、次の言葉を考えた。
人の夢に干渉出来る魔術など、聞いたことがない。
そのようなことが出来るということは、この不気味な男は、相当の実力者、という判断で良いだろうか。
それとも、ただの夢?
否。
その判断は危険過ぎる。
ただの夢ならば、それに越したことはないが、そう思って行動して、もしそうではなく、現実だった際に、マイナスとなるようであったらば大変な話だ。
だったらば、下手に口を開くのは良いのだろうか。
相手の気を損なえば、僕の命はないかもしれない。
このような、国家の転覆以外で命を落とすなど、認めたくはない、が。
可能性としては多いに有り得る。
人など、自分よりも大きな力の前には、所詮無力なのだから。
「フフフ。ナヤんでるね。オレがナニモノかワからないから、どうするのがセイカイかって、カンがえてるよね?」
「……何か、問題でも?」
「いいや、そんなものはないよ。ただ、キミはミたメにハンして、とてもシリョブカくて、シンチョウなセイカクをしているよね」
「……」
褒められているのか、貶されているのか。
十中八九後者だろうが、怒っている場合ではない。
怒って得られる結果など、ロクなものではないだろう。
「ねぇ、エリオットくん。…いいや、オトヒコくん。キミは、こんなセカイはマチガっているとオモわないかい?」
「っ!?その、名前は…」
僕は息をのんだ。
この男は、今何と呼んだ?
僕は結局名乗っていないのに、エリオットと呼んだ。
それは、百歩譲って、事前に調べられていたからと思えば理解出来る。
だが、音彦という名はどうだろうか。
両親にさえ言っていないのだ。
その名を、知っている者がいる筈はない。
僕は一気に表情を硬くする。
反射的に一歩距離を取ったが、男は気にする様子もなく、言葉を続けた。
「ヒトがヒトをシイたげ、シハイし、ダレかがダレかをキズツける。こんなイエにいるキミなら、ワかってくれるよね?こんなセカイは、カえなければならないと!ねぇ、そうだろう?」
うっとりと、自分の世界に入り込んだ様に、酔っぱらったように、男は言う。
この世界は間違っている?変えなければならない?
…そんなこと、今の僕にとってはどうでも良いことだ。
生きるか死ぬかの瀬戸際で、世界のことなんて気にしていられる筈がない。
「……」
「フフフ。キュウにイわれたらワからないか。まぁ、そうだよねぇ。でも、キミはオレにキョウリョクしてくれるよね?」
「…僕に、何をさせるつもり?」
質問をする、というのは、かなり危険な綱渡りだ。
何が相手の怒りに触れるか分からない。
それでも、聞かねば始まらないこともある。
僕は、出来れば避けたくはあったが、何とか必死にそれだけを尋ねた。
「ナニを?カンタンなハナシさ。このセカイをヘイワにミチビく、そのテツダいをしてもらいたいんだよ!」
大仰に両手を広げ、僕を誘う。
言っていることは、まるで救世の英雄を導く賢者のそれのようだが、雰囲気がまるで神聖なものに感じない。
言ってしまえば、詐欺師のそれに近い。
僕は、逡巡する。
彼の手を取る気は、そもそも一切ない。
世界は、滅びさえしなければ、正直どうでも良いのだ。
僕の身に火の粉が降りかかって来さえしなければ。
本来僕は、ただ穏やかに生を終えたいだけなのだから。
とは言え、それを許されない状況になる可能性だって有りとは理解している。
そうなった時、僕がどうするのか。
それは未だ決めかねてはいるが、可能な限り静観し続けるだろう。
僕に、英雄の真似ごとが出来る筈もないからである。
世界を平和に導く?
その言葉をすべて信じたとしても、僕はその手は取らないだろう。
そのような誘い文句は、もっと、より相応しい人物にすべきだ。
では、何に悩んでいるのか。
当然、断った時のデメリットを考えているのだ。
この不気味な男を、敵に回すことになるのだろうか。
いや、そもそも僕の夢に勝手に侵入して来れるようなものを相手にして、僕が勝てる道理はない。
一方的に蹂躙されるだろう。
それこそ、両親が奴隷たちを支配しているかの如く。
僕は搾取される側へと、一気に転落する。
どうする?
どうしたら良い?
すべてを丸く治めるには…。
「フフフ。コタえは、イマすぐじゃなくてもカマわないよ。もしも、オレにキョウリョクしたくなったら、いつでもヨんで」
必死に悩む僕を、嘲笑うかのように口元を歪める男。
すべてお見通しなのだ。
僕は、彼の掌の上で転がされているだけなのだ。
悔しさを感じること自体が間違っている。
この男は、常軌を逸した存在なのだから。
せめてと、僕は心の奥底で、シルエットだけの癖に、どうして笑っているかどうかまで分かるんだ、と八つ当たりながら、ゆっくりと目線を逸らした。
「…どうやって?」
何を言っても、無駄だと思って、僕はか細い声で尋ねた。
分からなくても良い。
別に、今後一切、この男を呼ぶつもりなどないのだから。
ただ、何となく、僕はそう尋ねていた。
「どう、とはなかなかにウィットにトんだシツモンだね。フフフ、イシキなんてしなくても、キミがオレをヨぶべきだとオモえば、ココロがカッテにオレをヨぶはずだから、シらなくてもイいんだよ」
声が遠のく。
意識が浮上していく。
僕は、この男が目の前を去るのだと理解した。
「それじゃあ、いつかまたアおうね。オトヒコくん。そのトキは、オレのナカマになってくれているとウレしいな」
そんなことは有り得ない。
そう思った直後、慣れ親しんだ景色が視界に広がる。
…どうやら、目が覚めたようだった。
「……」
「「お目覚め如何?」「起きたんだね!」「良く眠ってらっしゃいましたね」「気分は良うございますか?」」
間髪いれずに、レイが僕の方に近寄って来る。
目覚めの水を差し出してくれるのを受け取って、僕は深く溜息を落とした。
魘されてすらいなかったようだ。
僕の気分は、こんなにも最悪だと言うのに。
「ああ…とても良い気分だよ」
この世界はどうやら僕が考えている以上に、複雑怪奇な作りをしているらしい。
ああ、本当に良い気分だ。
そんな予想もしえない、抵抗もしきれない大きな力に逆らおうと言うのだから。
これからを思うと、最早溜息すら枯れ果ててしまうようだった。
エリオ「というか、あの人誰だ…」
レイ「?」
エリオ「…相談すら出来ない僕の辛さ」
レイ「???」