03.一縷の可能性
開いてはいけない、災厄の箱。
或るいは、イヴの口にした知恵の実。
人とは、そういう存在なのかもしれない。
それが例え、獣の姿をしていようとも。
人が人である定義とは、果たしてその欲求によるものなのだ。
恐らくは。
きっと。
僕が開いてしまったその扉は、どちらだったのだろう。
永遠に楽園を追放されてしまう、罪深きもの?
それとも、その奥には、僅かながらも希望は入っているのだろうか?
僕は扉の向こうに広がる景色に絶句した。
そうして、臆病な僕はその場から逃げ出した。
何を言うこともない。
何を聞くこともない。
そうしていれば、あの光景は夢だったのだと、思い込むことが出来る。
そう信じて、僕は急いで自室に戻ってベッドにもぐりこんだ。
二歳には辛い高さのそれに、必死でかじりつく。
視覚情報を閉じれば、忘れられるだろうか。
いや、忘れられる筈だ。
まだ、夢に出来るはずだ。
僕は必死で目を閉じる。
けれど、いざ目を閉じれば、悪夢のようにリピートされる先程の光景。
駄目だ。
目など、此処では意味がない。
開いても閉じても、するすると滑り込んで来る。
振り払おうとしても無駄だ。
網膜の奥深くにまで刻み込まれて、消えてくれない。
あまつさえ、幻聴さえ聞こえて来た。
今までに、そこで先程の狂宴が続けられているかのようだ。
耳元で囁く女の声。
彼らを罵倒する父の声。
ケタケタと嘲笑う母の甲高い声。
消え入りそうな救いを求める声。
底なし沼のような、暗い恨みに冷えた声。
耳を抑えても、遠慮なく傾れ込む。
やめてれくれ…やめてくれ!
僕はそんな声、聞きたくないんだ!
悲鳴を上げても、無視をしようとしても、まったくもって意味を成さない。
辛くて、苦しい。
この思いを、誰かに聞いてもらいたい。
共有してもらいたい。
…助けて欲しい。
そう思ったが、言えるはずもなかった。
それは、生来からの僕の気質か。
それとも、あんなものを見てしまった後で、とてもではないが、縋りつくに値する人たちであるようには思えなかったからか。
いや、それは恐らく、どちらもなのだろう。
助けを求められるような人は、一人もいない。
その事実に気付くと、僕は愕然とした。
僕は一体この二年の間、何を見て来たのか。
僕に周囲は、果たして本当に優しかったのか。
本当は、気付いていたのではないか。
僕の世話をする人達の首に巻きついた、鋼の蛇。
ただのお洒落か、そういう文化なのだと思っていた。
けれど、違ったのだ。
本当は、分かっていたのではないか。
それが、拘束具なのだと。
それが、彼らを縛る枷なのだと。
分かっていて、僕は彼らを、普通の使用人だと思っていたのだ。
妙にぎこちなく、或いは何かを言いたそうにしていても、何も口にしないこともあった。
あれは、口にしなかったのではない。
口に出来なかったのだ。
魔術なるものが存在する世界。
あれはきっと、僕の考える普通の枷ではないのだ。
動きを限定させるだけに飽き足らず、封じることすら出来るのだろう。
そのような非人道的なものを、どうして使える?
恐ろしくはないのか。
どうして、あのように楽しそうに笑える?
笑い声が、消えてくれない。
僕は、グッと涙をこらえた。
泣いても、意味などない。
泣いて事態が好転した試しなど、一度もないのだ。
僕は思う。
両親は、僕の考えるような、優しい人たちではなかった。
少なくとも、僕に対しては優しくとも、すべての面がそうではない。
ならば、いつかその報いを受ける日が、来るのではないだろうか、と。
あのように、使用人…否、考えたくはないが、奴隷のような彼らに対して、酷いことをしているのだ。
膨らんだ不満が、不信が、憎しみが。
いつ爆発しないとも限らない。
或いは、分かっていて、あのような振舞いをしているのだろうか。
もしそうだとするならば、あの拘束具に、それ程の信頼を置いているのだろう。
けれど、何事も100%など存在し得ない。
絶対など、あり得ることではない。
古来より悪しきものは退治される。
それは決まりであり、王道であり、理想のことでもある。
両親は、いつか弑されるだろう。
いや、弑されなければならない。
きっと、それを知った僕も、同じこと。
そう思うと、更なる震えが起こった。
ガクガクと、寝具を思った以上に揺らした。
その音にさえ、怯える始末だ。
日本人の僕の終わりは、知らない。
気付けばこの世界にいたのだから、死んだのかもしれないが、意識の上では、ただ外を眺めていたのが終わりなのだから、恐怖を覚えるようなことでもない。
だが、これから先に迎える終わりは、違うだろう。
そのような悪の王国の王子が、穏やかな終わりなど、どうして迎えられようか。
どれ程それを、僕が望もうとも。
どのような残虐な悪意で、僕は殺されてしまうのだろうか。
この世から消えるだけでも、恐ろしいというのに、僕は、悪意を受けとめる覚悟まで持たなければならないのか。
そのようなこと、出来る筈がない。
どうして、物語の英雄は、死を受け入れることが出来るのだ。
僕には、到底出来そうもないのに。
僕も死ぬことが、きっと報いなのだと、分かっているのに。
僕は、死が恐ろしい。
死にたくない。
死にたくないのだ。
だとすれば、僕はどうしたら良いのか。
両親を止める方法など、僕には思いつかない。
素直に、子供らしく忠言をすれば良いのか?
否。もしそれで両親の不興を買うのも恐ろしい。
僕にあの暴力が向かうと思うと、身体が動かなくなる。
ならば、他にはどうしたら良いのだ。
分からない。
両親を止める責任はあろうが、止めることは出来ない。
僕などに、一体何が出来る。
僕は、ただ日本という異なる世界から生まれ変わったという点でしか、特異なる面など、持ち合わせてはいないと言うのに。
しかもそれは、他の人と比べて優れている訳でもない。
日本での知識は、まったく僕を助けてはくれない。
…どうしたら、良い。
僕は、その日からしばらく、考えることに終始した。
常に無言で、遊びに行くこともなく、ひたすら考えていた。
両親は僕を心配したが、申し訳なさも感じなかった。
誰にでも彼にでも平等であることは、必ずしも正しいとは言えないのかもしれないのだが、だとしても、両親の彼らへの対応が正しいとは、認められない。
彼らが悪いことをしたとは、思えない。
悪いことをしていたとしても、やり過ぎなものもそこにはあった。
時を経ても、尚鮮やかにリフレインする。
ああ、僕はこのような記憶を抱えて生きねばならないのか。
それは、何という拷問なのだろう。
僕は、永久に針山を素足で上り続けるのか。
そのような幻覚を振り払うように、僕は考え続けた。
そうしてある日、転機が訪れた。
父親と話していた時のことである。
ふと父親が、僕にもいずれ、彼らを使う力をつけないといけないな、と言った。
本当の二歳であれば、意味も分からなかっただろう。
だが、僕はすぐに理解した。
父親は、僕が大人になったら、彼らへの命令権を、僕に移すつもりなのだ。
移す予定があるのならば、それが可能ということだ。
僕は、それを知りたいと思った。
それは、チラリと過ぎった、悪魔のような発想。
もし、早い内に、僕へとその命令権が移れば、安心できるのではないか、と。
意識して見てみれば、城にいる両親以外の者たちは、大抵両親に憎しみの念を募らせていた。
いや、殆どの者はそれすら認識出来ない程に憔悴しているようにも見えた。
ただ、確かに存在するのだ。
いずれ、復讐せんという強い瞳で、両親の背中を睨みつける者が。
ならば、近い内にその日はやって来る。
僕はその日に、死にたくない。
その為に、命令権の解除方法などを把握せねばならない。
これ程父親が、裏切られるなど微塵も疑っていないのだから、余程難しい条件なのだろうが、安心は出来ない。
僕は、努めて子供らしく、父親に尋ねた。
しかし、当然まだ答えてくれるはずもない。
…その、筈だった。
「え…?」
父親の口は動いてはいなかった。
ただ弧を描いて、僕の頭を撫でるだけで。
だと言うのに、その方法が。
命令権を移動する方法、その解除方法などが、ザッと頭に入って来たのだ。
まさか、魔術で僕に教えてくれたのか。
驚いて父親を見上げても、父親は不思議そうに首を傾げるのみだった。
父親が、意図的に教えてくれた訳ではなさそうだ。
つまり、どういうことだろうか。
父親の心の中を過ぎった言葉が、入って来た形のように思える。
僕は、相手の心が読めるのか?
そんな馬鹿な。
そのような便利な魔術があれば、誰もかれも使っている筈だ。
僕は困惑気味に、もう一度ジッと父親を見た。
けれど、何も聞こえては来ない。
先ほどと同じ状況にするべきだと考えた僕は、また父親が答えにくそうな質問を投げかける。
すると、やはりそうだった。
父親は答えないのに、父親の声で、僕の脳内に響くものがあった。
それは明確な意思を持って、ハッキリと呟いている。
そうして、良く聞けば、父親が頭の中で考える独り言のような響きが含まれていることが分かった。
そう。
これが、機会だ。
僕は、不意に父親から使用人を…奴隷たちを奪い取る手段を得て、それ以上に貴重なのが、相手の強く考えていることを、聞きとることが出来る、ということに気付いたのである。
これは、非常に強いアドバンテージであった。
何故僕にそのようなことが出来るのかは、まったく分からなかった。
後で調べてみても、そのような魔術は存在さえ見つけることは出来なかった。
この世の何処かには居たとしても、一般的ではない。
ならば、勘付かれる可能性は極めて低い。
僕が、上手く立ち回りさえすれば。
僕は喉を鳴らし、慌てて父親の前を固辞した。
そうして、またしても自室に引きこもる。
それを怒る両親ではないことは幸いだった。
僕は紙に書いて証拠を残す訳にもいかず、頭の中で作戦を立て始めた。
途中で、日本語で書けばバレないのでは、とも思ったが、ここで異端さを見せては逆効果だと思って、やはり考えるだけに留めた。
父親から聞き取った、あの拘束具の状況からまとめる。
あれは、あくまでもただの枷で、重要なのはそれにかかった魔術にある。
それは、隷属魔術。
相手を自分の思い通りに屈服させる為の、非道なる魔術である。
発動させる為には、一定の条件が存在する。
一、長ったらしい呪文を一言一句間違えずに唱える。
それは、頭の中で考えても問題は無いらしい。
とは言え、頭の中で考える方が、考えが逸れたりすれば失敗する為、実は口に出すよりも難易度が高いようである。
二、対象者は一人から、発動者の魔術を使う為に使う力、魔素の容量に応じて、複数人に一気にかけることも出来る。
ただし、人数を増やせば増やすほど、効果は薄れて行く。
三、一度隷属魔術にかかった者に対して、重ねがけすることは出来ない。
ただし、解除してから再びかける分には問題はない。
四、この魔術を使うだけの魔素を体内に持つ必要がある。
この条件は当然と言えば当然だが、この魔術は通常の人では考えられない程に、魔素を消費するらしく、滅多に使える者はいないと言う。
それもあって、母親は僕達は選ばれた存在だ、などと言っていたのかもしれないと、僕はここで気付いた。
五、隷属条件変更の為のキーワードを設定する。
これは、発動者が自由に決められるが、変更は出来ない。
ATMのパスワードのように、三回失敗すればロック、などということはない。
変更する気がないのであれば、発動者からすれば、キーワードは忘れてしまった方が有利なのかもしれない。
なかなかややこしい気もするが、重要な点は少ない。
最も重要なのは、五つ目の条件だ。
隷属条件変更の為のキーワード。
何が重要かと問われれば、このキーワードが知られてしまえば、発動者の意思に一切関わらず、隷属条件は変更出来てしまう、ということである。
僕がそれを知ったことは、まったく問題ではない。
僕が知る分には、僕にデメリットなどあろうはずもないからである。
けれど、それを他人に知られてしまえばどうなる?
その瞬間、すべては終わりだ。
王国は灰燼に帰し、僕はこの命を落とすだろう。
だが、逆に言えば、その効果を上手く利用出来れば、僕の命を延ばすことは、可能であると思えた。
…尚も突き詰めて行く必要性がありそうだ。
僕は、一人ベッドに横たわる。
久しぶりに、少しくらいは眠ることが出来そうだった。
エリオ「…誰とも喋ってない訳じゃないんです」
エリオ「ただ、物語上で描く必要のある会話がないんです」
エリオ「ああ…なんて殺伐とした生活を送る二歳児なんだろう…」