02.覗き見た深淵
僕は、柔らかな光…否、寧ろ痛々しい程にギラつく光を感じて、目を開く。
教育実習も最終日を迎え、今日という日を終えれば、また教師からいち生徒へと戻って行く。
それが嬉しくもあり、残念でもある。
そのような心持ちで、僕は夕日を眺めていた。
その筈だった。
けれど、目を開いて視界に入って来たのは、何処か薄ぼけた洋室の天井だった。
そのようなことがあり得るのか。
僕はただ、夕日を眺めていて、瞬きをした。
それだけであった。
それだけで、何故直後に見知らぬ部屋に横たわっているのだろうか。
僕は困惑気味に身体を起こそうとする。
しかし、鉛になったように身体は素直に動こうとしない。
少しは動いてはくれるのだが、思うようにならないのだ。
寝返りすら満足にいかないなんて、あり得るのか。
僕は、訳が分からないままに、何とか目だけ動かして辺りを見回した。
けれど、やはり視界は薄ぼけたまま。
ここが何処であるのかは、さっぱり分からなかった。
何とか目を凝らして見てみると、部屋の中には、絢爛な調度品が置かれていることに気付いた。
それは、僕などのような学生の部屋に有る筈の無い存在だ。
アールデコ調とでもいうのか、それとも、他の何かなのか。
家具など学んだことがない僕には、まったく予想もつかないが、それがかなりの高級品であろうことくらいは理解出来た。
あのギラつく宝石のような石は、本物の宝石ではないのだろうか。
そんな家具を、平気で幾つも置くような家に、何故僕は横になっているのか。
そのような金持ちの知り合いは、とんと存じ上げないのだが。
どれ程家系を遡ったところで、出会えるとも思えない。
考え過ぎて茹であがったような頭で、それでも僕は考え続ける。
一体僕はどうしてしまったのか。
一体此処は何処なのか。
僕はこれから、どうなってしまうのか。
考えるべきことは尽きない。
そんな中、部屋に入って来る人がいた。
声は言葉として耳に届かず、雑音として流れて行く。
初めは、英語よりも酷い。
本当に言葉としては認識出来なかった。
けれどそれは、言葉として意味を持つものなのだと、すぐに気付いた。
入って来たのは、ドレスを着た女性だ。
隙無く塗りたくった白粉と、ギュッと強く引かれた口紅。
毒々しい程のその顔に、僕はそこはかとなく恐ろしささえ覚えた。
ぷん、と香る香水はキツく、鼻が曲がりそうだ。
いや、香水だけではない。
一体何の香りなのか。
柑橘類のような、爽やかなものではない酸味が混じっている。
僕は、言うまでもなく不快感を覚えた。
元より、そこまで他人と積極的に関わりを持つような性格ではない僕が、当然このような、夜の女とも取れる女性と、近しい距離にある状態に慣れているはずがなく、好印象を抱くはずもなかった。
しかし、重要なのはそのようなことではない。
この女性は、僕の方へと歩み寄って来ると、嬉しそうに口の端を上げ、僕を抱き上げたのだ。
確かに、そこまで大柄とは言えない、寧ろ小柄である僕だが、それでも成人男性を、軽々と抱き上げられる女性がいようか。
いるとすれば、それはきっと、日本を背負って立つような、有望なスポーツ選手か誰かであるはずだ。
とは言え、目の前の女性は、そのように力のある人にも見えない。
寧ろ、纏っている服はドレスのようで、非常に貴族的に見える。
扇やスプーンより重い物など、持ったことはないのではないだろうか。
日本人女性の平均よりも、力などないかもしれない。
そんな人が、僕を抱き上げる。
しかも、僕を抱き上げて、抱きかかえて、まだ余裕がある。
そこまで大きい女性がいるだろうか。
これは、反対だ。
恐らく、僕が小さいのだ。
つまりは、僕が縮んだのか。
僕の考える基準よりもずっと大きい国に来たのか。
…有り得ない。
頭に浮かぶのは、そのように突飛もないものばかり。
有り得ない。有り得るはずがない。
なのに、僕の頭は酷く冷静に、それらの中のいずれかが正しいのだと告げた。
僕がそのようなことを考えているなど、露ほども思っていないだろう。
女性はただやんわりと微笑みながら、僕をあやす。
不思議と、子守唄だと分かる彼女のハミングは、僕の眠気を誘った。
妙な倦怠感。
続かない体力。
襲い来る眠気。
僕は、やっとの思いで自らの腕を視界に入れた。
それは酷く小さく、縮尺が変わっていることに気付いた。
ここでようやく、僕は自らが赤ん坊になっていると理解する。
それもまた、理解不能な異常事態ではあるのだが、変に身体が変化したのだと言われるよりも、ずっと受け容れ易いと思って、思わず笑いが漏れた。
どうやら、この理解不能な状況に、思考が麻痺して来ているらしい。
女性は、自らの歌で僕が笑ったのだと勘違いした様子だった。
嬉しそうに目を細める女性。
僕が赤ん坊と化してしまったのであれば、彼女は母親だろうか。
そうであるならば、今の僕は、原因はまったく分からないが、生まれ変わってしまった、ということになるのか。
そして、そう捉えるのならば、日本人としての僕は前世、ということなのか。
改めて女性を見る。
貴族の如き鮮やかな深紅のドレス。
しかしそれは、まるで…否、本当にそうなのかもしれないが、遊女かのように、みっともなくもガッパリと開いていて、谷間が強調されている。
嫌悪感を覚える僕は、間違っているのかもしれないが、ともかく僕は、もし彼女が母親であるのならば、あまり幸福ではないと思った。
しかし、彼女の僕を見る目は、蔑むようなものではないし、普通の母親が、普通に息子を見る目と言っても良いと思える。
このような状況を現実として受け容れるのであれば、両親という存在は、極めて重要と言える。
ならば、外見がどうであれ、僕に対して好意的に接してくれるような女性が母親であるのならば、喜ばしいことなのではないか、と思った。
そうだとして、此処は何処なのだろうか。
女性の髪の色も目の色も、どちらも黒く、それは服装さえ考えなければ、日本人のもののようにも見えたが、霞む視界で必死に観察すれば、目鼻立ちは、決して日本人のそれではないことが分かる。
加えて、彼女の背には、黒々とした艶やかな翼が生えている。
てっきり最初は、背負っているだけ、つまりはコスプレのようなものだと思っていたのだが、時折ふわふわと動くことから考えても、これは間違いなく彼女の背から生えているものだと分かった。
女性の手が、僕の背の方に移動すると、何か、背中ではない部位に触れる感触があった。
その感覚から言って、僕にも同じような翼が生えているのだということが、自然と理解出来る。
しかし、だとすれば、僕は人間ですらないのかもしれない。
極めて人間に良く似た、まったくの別人。
天使というには黒い翼は、寧ろ僕にあまり良くない想像を掻き立てさせた。
けれど、そのような僕の憂慮は、本当に浅はかなものであった。
そう思う程に、後の二年は本当に穏やかに過ぎて行った。
二年もすれば、僕は言葉も覚え、自身を取り巻く状況を理解していった。
僕の名前は、エリオット・フェリアード。
歴史ある大国、フェリアスの王子である。
この世界における獣人の一種である、翼人族と言われる種族らしい。
翼を持つ者は、獣人の中でも頂点に位置し、彼らを従えるのは、当然のことであり、また彼らを導くのは義務でもあるのだと、常に母親は言っていた。
父親は国王であり、部下には厳しかったが、僕には甘かった。
僕が欲しいという物すべてを買い与え、また、僕が欲しいと言わずとも、すぐに何かを用意した。
母親は正妃であり、ヒステリックなところと、どこか享楽的な雰囲気を考えなければ、僕には優しかった。
主に僕の面倒を見る使用人たちも遠慮気味ではあったが優しく、僕は一切の辛い思いを感じることなく、日々を過ごした。
ただ、僕は城内の特定の区域の出入りしか許されておらず、若干の息苦しさはあるように思えたが、深く考えてもみれば、それでも前世における自宅よりも、ずっと広く高級な場所で生活が出来るのだから、文句などなかった。
きっと僕は、相当に恵まれていた。
そのような立場に甘んじていては、いつ凋落の日を迎えるか分からない。
僕は、自主的に勉強を始め、最初の頃は天才だなんだと持て囃されたが、僕の覚えが悪いと分かると、どちらかと言えば親馬鹿の如き褒め方へと切り替わった。
だが、そのような周囲の反応など関係はない。
これはあくまでも、自分の実を守る為の手段なのであって、褒められる為にやっている訳ではないのだから。
人よりもずっと物覚えの悪い僕は、二年経とうが満足に知識を得られなかったが言うほどの危機感は抱いてはいなかった。
何しろ、僕を囲う周囲は優しかった。
甘やかしてくれる両親がいて、勉強を教えてくれる人がいて、美味しい物を食べさせてくれる料理人がいて…。
僕の中の、余所から来たという後ろめたさか、それとも罪悪感か、そうした不安な気持ちは、年を追うごとに薄れて行く。
贅沢な物に呑まれて、何も見えなくなりそうな時間。
それでも僕は必死に書物を開く。
一体何故、そこまで勉強するのかと問われても、答えはなかった。
ただ、薄れようとも消えない不安感がそうさせるとしか、言えなかった。
もう、頑張らなくとも良いのかもしれない。
そう思って、本を置こうか。
僕は次第にそう思いはじめていた。
僕の中で警鐘が鳴り響く。
この本を置いてしまえば、僕は波にのまれてしまう。
消えてしまう。なくなってしまう。
何故そのような世迷言を考えるのか。
僕は頭を振って、散策に赴いた。
散策など、果たしてこの世に生を賜ってから、したことがあっただろうか。
言われた場所だけを往復する日々。
僕は、自室や図書室など、限られた部屋以外を知らなかった。
道中の壁の模様さえ。
どれだけ余裕がなかったのだと、自嘲する。
そのように焦る必要などないのだ。
僕は恵まれている。
富んでいる。
幸せなのだ。
なのに何故、日本にいた時以上に、身の置き場に迷う必要があるのだ。
とことこ。
僕の幼い足音が響く。
床も大理石なのか、それとも地球にはない石なのか。
高級そうな床は、やがてまた高級そうなカーペットに覆われる。
僕如きの軽い足音は、消えてしまう。
それでも、何処からか聞こえてくる声は、カーペットになど呑まれることなく、僕の耳へと届いて来た。
このような声は、音は、聞いたことがない。
僕は、引かれるようにその声の聞こえた方向へ歩を進めた。
薄暗い廊下の向こう側。
決して行くな、などと禁じられている訳ではない。
ただ僕は、行ったことがない場所だ。
興味もなかった。
行く必要性など、一度も感じたことはなかった。
なのに。
何故、こうも焦りを覚えるのか。
近付くにつれて大きくなる声は、音は、僕の耳を抓り上げる。
痛いのか、痺れるのか。
いずれにせよ、あまり良くない感覚が広がって行く。
バクバク。
心臓の音がうるさい。
僕の息遣いが止まる。
ああ、僕は呼吸をきちんとしているのか。
この息苦しさは、何なのか。
薄暗い廊下の果て。
僕は、そこに地下へと繋がる階段があることに初めて気付いた。
この城の中は、僕の知らない場所の方が多いのだろうが。
それでも、妙なショックを覚える。
僕は、今まで一体何を見ていたのかと。
同時に、この先を見なければ、今まで通りでいられると。
引き返してしまおうか、という思いも過ぎる。
何の声だ。
何の音だ。
僕は、分かっている。
ただの二歳の少年であれば、きっと分からなかっただろう。
否。
子供はすべて理解すると言う。
ならば、きっと訳も分からず理解しただろう。
僕のように、分かっていながら、分からない様に蓋をすることは、決してしないのだ。
綻びの音が聞こえる。
偽りの平穏が崩れて行く。
中を見てはいけない。
音を聞いてはいけない。
その扉の向こう側。
嬉々として鞭を振るい、容易く人を傷つける父親など、母親など。
悲鳴を上げるみすぼらしい男など。
嬌声を上げるやせ細った女など。
既に身体を失い、声も失くした人、など。
打ち捨てられた、人であったもの、など。
広がるのは、果たして現実の光景なのか。
熱に浮かされた僕の、幻覚なのではないか。
信じ難いそこの。
冷たく、苦しく、吐き気を催す程のリアルさは。
容易く僕の心を締めあげた。
見なくて良いよ。
知らなくて良いよ。
忘れても良いよ。
優しい声。
甘い声。
けれど僕は、最早扉の閉め方を、忘れてしまったのだ。
エリオ「楽しい話題が思いつきません」
エリオ「会話する相手もいないですし…」
エリオ「どうして僕ばっかりこんな目に…はぁ」