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第一章 何も意味がない世界で その5

「あ...またこっち見てる」


 だいぶ年季の入った民家を覗き込むようにして、亜香里が僕に「ほらっ」と声をかけた。そこには玄関の灯りに照らされた柴犬がじっと僕たちを見つめていた。亜香里が歩くにつれて柴犬の目線もまたゆっくりと後を追う。


「なかなか静かな犬だね。僕の近所の犬とは大違いだ」


 僕が住むアパートの斜向かいの家の犬、もとい番犬は、人を見かけるとすぐさま騒ぎだす。しかも首から吊り下げられたチェーンのようなものをガチャガチャ鳴らして狂ったように吠えまくるから少し怖い。

 それに比べて、ここの柴犬はとても静かだ。ちゃんと飼い主に躾られているのかもしれない。お座りの体勢で尻尾を左右に揺らしながら僕らを見つめていた。

 

 すると亜香里が足を止めた。

 数秒経っても彼女は動こうとしなかった。ずっとおんぶしていたせいで疲れてしまったのだろう。

 「そろそろ、降ろしてもいいよ」僕はそう言ってみたが、それでも亜香里は黙ったまま動こうとしなかった。


 「......亜香里?」


 気味の悪さを感じてもう一度声をかけると、やっと彼女は気がついたのか、頭を横に振ったあと歯切れの悪い返事を返した。


 「......ああ、ごめん、ちょっと」


 そしてまた数秒黙った後に、「うん」と頷いてから、彼女はさっきまでとは打って変わって明るい口調で話し始めた。

 

 「今から予言してあげる」そう言って、犬の方へ顔を向ける。「もう少ししたらあの子が『ワン』っていうから、ちゃんと聞いてて」


 藪から棒に何をいい出すのかと思っていると、亜香里はゆっくりと数を数え始めた。


「ごぉー、よーん......」


 訳もわからぬまま、視線を先程の犬に戻す。果たしてあのおとなしそうな犬が吠えるのだろうか。それも亜香里のタイミングに合わせて。

 まさか石でも投げつけるんじゃないかと思ったが、両手が塞がれている状態ではそれもできないだろう。じゃあなんで亜香里はこんなに自信満々な態度でいるのだろうか。そんなことを考えていると、その時が来た。


「......いーち、ぜろっ」「ワンッ!」


 見事に的中した。ほぼ同時といってもいいタイミングだった。亜香里は得意ぶった様子で「どう? すごいでしょ」と鼻を鳴らした。

 地味ではあるものの、確かに凄いことではあった。

 本当に一回鳴いただけで、今では元通り大人しそうにしている。


「まさか、何か合図を送ってたとか?」


 たとえば「(ぜろ)」の言葉に反応して吠えただけとか。そう思ったのだが、どうやら違うらしい。


「ぶー、不正解」

「......正解は?」

「正解は。......うーん、どうしよっかな。ネタ晴らしするのもつまらないし。まっ、いつかわかる時が来るよ」


 亜香里はもったいぶって種を明かさなかった。


「いつかわかる......ねぇ」


 もう一度柴犬を見ようとした。だけど、庭の木が邪魔になって、その姿はもう見えなかった。


 それから僕たちは少し進んだ先にある1本の坂道にたどり着いた。車が通れないほどの狭い道。ここを通れば亜香里の家までだいぶショートカットできるのだが、なにぶん急な坂道なもんで、おんぶしたまま上るにはハードルが高い。それに亜香里は女の子だ。

「降ろしていいよ」

声をかけてみたが、亜香里は「ここまで来たら最後までやらせて」と僕の提案を断った。そしてゆっくりだけど着実に坂を登りはじめる。

林で囲まれた坂道を抜け、十字路の角を右に曲がると、亜香里の家はすぐそこにあった。ここに来たのはひさしぶりだ。もしかしたら半年ぶりになるのかもしれない。

首を伸ばして彼女の家をみると、緑側(えんがわ)のガラス戸から電球色の光が漏れていた。また半開きにされた小窓からは白い煙が立ち上がっており、食欲をそそるような甘い香りが夏風と共にやって来た。カレーの匂いだ。

「ぐぅ...」

聞き逃してしまうほどの小さな音がした。僕のお腹がさみしそうに鳴いていたのだ。

思えば起きてから何も口にしていない。そのことに気づいた途端、胃の中が空っぽになったと錯覚するくらいの空腹が僕を襲った。

そして、次の瞬間___


「ぐうううぅぅ...」


深くて大きな音。まるで大地が鳴り響いたような音が鳴った。

うわっ...まじか.....

都会と違ってここはとても静かだ。雑音が無いぶん、微かな音でもはっきりと聞こえたりする。

......間違いなく今のは亜香里にも聞こえていたはずだ。

恥ずかしさのあまり、だんだんと顔が熱くなってくる。

しかし、そんな僕の予想と反して亜香里はというと___


「ゴホッ、ゴホ...ん゛、ん゛ん゛ん゛ッ」


大袈裟に咳ばらいしていた。

「......」

そのあからさまな反応を見て、2回目のは僕じゃなかったと確信する。

というか亜香里、その反応は一番やっちゃいけないやつ。

下手な猿芝居が終わると、彼女はさも何事もなかったように歩き続けた。

...うん。僕は何も聞いていないし、何も知らない。

そっと心の中でつぶやいた。


「...ん、じゃあ降ろすよ」

玄関近くまで来ると亜香里はそう言って、僕が降りやすいように腰を低くした。

「あ、あぁ」

右足からゆっくりと地面に降ろす。

...あれ?

長い時間おんぶさせてもらっていたせいか、立っていることに妙な違和感を感じた。どこかふわふわした感じ。平衡感覚がマヒしているのかもしれない。

「どう? 足の方は」

亜香里がそう尋ねてきたので、その場で足踏みをしてみる。少し痛みが走ったが、気にするほどのことじゃない。これなら問題なく歩けそうだ。

「うん。 だいぶ良くなったよ」

その言葉に対して亜香里は「ほんとに?」と突っかかってきた。

「ほんとだって」

嘘はついていない。なんならまた全速力で走れるくらいだ。

「...そう、ならいいけど」

そして亜香里は僕に背中を向けながら先へと歩いた。

そっけない態度だったが、もしかしたら彼女はずっと僕の足の心配をしていたのかもしれない。


「......なあ、亜香里」


彼女が振り向く。


「ん? なに...?」


少し気恥ずかしいけど、僕はもう一度彼女に伝えたかった。


「ありがとう」


「なっ...!」


亜香里は魚のように口をパクパクとさせてから僕のことをきつく睨みつけた。

「さ、さっきも同じこと言った! 何度も言わなくていいからっ!」

あれ? 怒ってる?

「ま、まあ...それほど僕は亜香里に感謝してるんだ。1回や2回じゃ足りないくらいだよ」

「...っ」

彼女は「ぐぬぬ」と唸りだした。人に感謝されることに慣れていないのか、はたまた僕に感謝されるのが気に食わないのか。どちらとも取れるような反応をしていた。後者でなければいいが。

「わーった...」

どこか観念したように亜香里は頭に手をつく。

「じゃあ......じゃあもし私が困った時は...あんたが私を助けてよ」

彼女がそんなことを言うとは思わなかった。というより...

「亜香里が困ってる姿なんて想像できないけど...」

いつも前向きでひたむきな彼女が悩み事を抱えている事なんてあるのだろうか。今までを振り返ってみても、彼女がそんな様子を見せたことはなかったと思う。

すると亜香里は「そんなことない」と首を横に振る。

「なんか勘違いしてると思うけど、私だってただの人間だよ。 悩みの1つや2つくらいざらにある。 それに......」


何故かそこで口籠った。


「...それに?」

「な、なんでもない! とにかく、いざって時に力を貸してくれればいいの!」

別に約束事にしなくても、僕はいつだって亜香里の味方だ。

「...わかった そんときは僕が一番に駆けつける」

それで恩返しができるのならお安い御用だ。

「うぅっ...調子狂うなぁ......」

彼女は首元を触りながらため息をついた。そして何かを思い出したかのように「あっ」と声を出した。

「そうだ、ちょっと待ってて」

亜香里は玄関の引き戸を開け「ただいま~」と言いながら家の中へと入っていった。ドアが半開きのままだったので中を覗いてみる。亜香里は靴棚の上で何かを探しているようだった。カチャカチャ音が鳴っているから鍵でも探しているだろうか。彼女の様子が気になっていると家の奥から1人の女性がやって来た。

「おかえり~」

彼女は夏美さん。亜香里の母親だ。

「...あれ? 結城くん?」

夏美さんは僕に気づくと、ニコッと柔らかく微笑んだ。

僕は頭を下げて会釈する。

「あら、久しぶりね~。見ない間に大きくなっちゃって」

「...先日も会ったと思うんですが......しかも同じこと言いませんでしたか?」

「あれ~そうかしら? 忘れちゃったわ~」

夏美さんはウフフと笑っている。

そう、実は夏美さんとはこの前、スーパーに買い物をしている時にたまたま会っていた。ちなみにその時の会話は...


「あら、久しぶりね~。見ない間におおきくなっちゃって」


一字一句同じことを言っていたと思う。ちなみに僕は中学校3年生から1cmたりとも伸びていない。

夏美さんはどこか......いや相当抜けているところがある。そんな夏美さんは亜香里が何かを探しているのに気づくと、ズボンのポケットから鍵を1つ取り出した。

「亜香里? もしかして探してるのってこれかな~?」

「あ、それそれ。......って、また私の使ってたの? ママも自分のあるでしょ?」

亜香里の質問に対して夏美さんは「えへへ~亜香里の自転車の方が乗りやすくてね。 ごめんね~」とゆるーい感じに謝っていた。たしかに亜香里の家には1人1つというように自転車が3つ並んでいる。気のせいかもしれないが、その中で一番右にあった自転車だけがまるで新品かの様に輝いていた。

「...まあ別にいいけど」

亜香里は夏美さんから鍵を受け取ると僕のところまで近寄ってきた。

「はいっ」

目の前には鍵がぶら下がっている。

「...え?」

「私の自転車使っていいよ。歩いて帰ると時間かかるでしょ?」

一番左にある自転車を指しながら「あれが私のね」と彼女は言った。

たしかに自転車を使えば10分くらいで家に着くと思う。だけど...

「あの、ありがたいけど、ほんとにいいのか?」

「いいっていいって。 ほら、美咲ちゃんもあんたのこと待ってるんだから」

『美咲』というワードに胸がちくっと痛んだ。でも、亜香里が言う通りあまり遅くなると美咲に心配をかけてしまう。ここは素直に自転車を借りるべきなのかもしれない。

「...それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ。 あした学校が終わったらすぐ返しに行くから」

「うん、わかった。 ママもあしたくらい大丈夫だよね?......っていうか、ママは自分の使ってよね」

亜香里は呆れた様子で、夏美さんに文句を言った。

すると夏美さんは亜香里に謝るわけでもなく、なぜか口元に手を当てながら「あらあら」と僕のことをじっとみつめていた。まるでさっきの柴犬のように。

「......夏美さん?」

そんなにみつめられるとなんだか変な気分になりますよ?

訳がわからず亜香里の方に視線を送ると、彼女もまた何かに気づいたのか「うわっ!」と声をあげた。

虫でもついているのかと思ったけど特に何もない。ますます状況がのみこめなくなる。

「ちょっと...2人ともどうしたんですか? そんな急に黙っちゃって」

2人に質問を投げかける。

初めに答えたのは亜香里だった。

「その、あんた...それ......どうしたの?」

気まずそうに僕の下腹部辺りを指さした。

「え...ズボン?」

訳がわからないまま亜香里が指さす場所を見てみると___


「ん...? ......うえ゛っ!?」


いままで暗い場所にいたから気づかなかった。

んだ...これ......

僕のズボンが血のような跡で汚れている。ただそれだけなら全く問題ないのだが、いったい何がどうしてこうなったのだろうか。

目をこすってからもう一度確認してみる。

やはり()()()()()()が異様に血で汚れていた。まるで子どもがお漏らしてしまったかのように、あそこは血の海と()していた。

___あ、そりゃ引くわ

その様子は変態を通り越して見る人に恐怖を与えるほどの迫力があった。

けど勘違いしないでくれ。たぶん、これ鼻血だ。

あのときの鼻血でズボンが汚れてしまっただけであって、決してあそこから出血したわけではない。しかしまあ、ここまで見事に汚れていると芸術作品のようにも思えた。

「亜香里~110番よ~」

夏美さんが恐ろしいことを言い出した。

「ちょ、そこは119番じゃないんですか!? 冗談ですよね!!?」

てか亜香里も受話器に手をかけないでくれ!

「あ~...なんだか騒がしいな」

そんな中、新聞を片手に一郎さん(亜香里の父親)がやって来た。一郎さんは僕の存在に気づくと、険しい顔をしながら僕のあそこへと視線を落とす。そして人を殺すかのような鋭い目つきで僕を睨んだのち、頭をポリポリと掻きながらため息を吐いた。


「亜香里、110番だ」



―――――――――――――――――――――――――――――—――――――――—




「はぁ~~~...疲れた...」


僕はいま自転車で夜の田舎町を走っている。この自転車は亜香里から貸してもらったものであり、明日には返さないといけない。それに、この暗い中を自転車のライトだけで走るのは危ないと指摘され、腰に付ける用のライトも貸してもらった。これなら安全に自転車を運転できる。


___それにしても...


さっきは本当に焦った。夏美さんは「冗談だよ~」と言いながら亜香里とクスクス笑っていたが、一郎さんだけは笑っていなかった。いや、表面上では笑顔だったのだが、目が笑ってなかった。もしあの場に亜香里と夏美さんがいなかったら、尋問という名の拷問を受けていたと思う。事情を説明してなんとか誤解されずに済んだが心底冷やっとした。

「あ、そうだ...」

美咲との約束を思い出す。

「ケーキ買わないとな」

ここからすぐ近くにちっちゃな商店街があったのを思い出す。ケーキ屋さんが1軒だけぽつんと並んでいたはずだ。

あまり無駄使いはできないが、きっと美咲もお腹を空かしているだろうし、少し大きめのケーキを買ってもバチは当たらない。

「よし、行くか」

ペダルに体重を掛けて立ち漕ぎをしようとした___が、ふいにあの言葉が頭をよぎった。


「見つけた」


「......」

ゆっくりと自転車を止める。

「......だめだ。いったん忘れよう」

あの少女がいったいなんだったのか、僕にはもう知ることはできない。いくら考えても答えが出るわけじゃない。考えるだけ無駄だ。

それにメールにはあと二箇所指定があったが、それはもう少し先の話だ。今じゃない。

「すぅー...」

大きく息を吸い込み、

「......はぁ〜〜〜」

すべて吐きだす。

「よしっ!」

再びペダルに足を乗せ、僕は自転車で駆け出した。


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