第1章 何も意味がない世界で その3
主な登場人物
神楽坂 結城【主人公】
木ノ下 亜香里【主人公の幼馴染】
「ひっ、はっ...っはあ、っひ......はっ」
全速力で走り続けたせいで、息が詰まりそうになる。
「くっ、はっ、はっ、はぁ」
口内が乾燥しきって、喉の奥が焼けるように痛い。
「はっ、ふっ、はっはぁ...はっ」
メーターが振り切れたのか、心臓が狂ったようにバクバクと脈打つ。脚が悲鳴を上げていて、思うように動かすことができない。
まるで20メートルシャトルランを走ってるみたいだ。今すぐにでもリタイアしたい気持ちになる。
だけど、走るしかない。
走らなければ、殺される。
頭の中はそれでいっぱいだった。
立ち塞がる木々の間を縫うようにして、前へ前へと進む。
道路に出て走った方が明らかに速いと思うが、あえて障害物の多い森の中を選んだ。
もしかしたら、相手は銃器等を持っているかもしれない。
もちろんそんな訳ないとはわかっているが、可能性の芽はできる限り摘んでいかなければならない。相手が人殺しだった場合、0とは言い切れないんだ。だとしたら相手に身を晒すことは死を意味する。むやみな行動は避けるべきだ。
しかし、森の中も場所が悪かった。僕が走るたびに、無造作に伸びた草が「ガサガサ」と音をたてる。距離を取ってから身を隠そうとも思ったが、これじゃ走って逃げる以外選択の余地はない。
「はぁっ、はあ....くそっ! なんなんだよ!」
相手が追って来ていないか確かめたくなった。しかし、こういう場面では振り返っちゃいけないような気がした。彼女が遠くにいれば油断するだろうし、近くまで迫っていれば変に力を入れてしまう。徒競走と同じだ。振り向かずに真っすぐ走ることが正解なのだ。
「走れ......とにかく走れっ!」
そう自分に言い聞かせて、棒になりそうな両足を前へ前へと突き動かす。
気づくと鼻血が止まっていた。その代わり、獣のように開いた口からだらりと涎が垂れてくる。目元も涙で滲んでいる。呼吸することがままならず吐き気を催した。
「おぇぇっ」
胃液が喉元まで逆流する。
脇腹が悲鳴をあげた。
何度か、体が限界を迎えた気がした。
それでも、走り続けなければならなかった。
――――――――――――――――――――――
「はぁ、はぁ......くっ」
森を抜け、人目がつくような場所に辿り着く。だいぶ走ったと思う。辺りは真っ暗だ。
「はっ、はぁ、はぁぁ......おぇぇ」
またしても吐き気が込み上げてきた。
喉にたまった痰に不快感を感じて、ペッとその場に吐き出す。酸欠を起こしているのか、意識が少しだけ朦朧とした。
ここまで来れば、大丈夫かもしれない。
体感で5キロは走ったはずだ。実際はもっと短かったかもしれないが、流石にもう追って来てはいないだろう。
背後から人の気配は感じない。とはいっても、まだこの目でしっかりと確認はとっていない。
口内に残っていた唾をゴクンと飲み込む。
正直言って、すごく怖い。だけど、確認しなければならない。
「ふぅ...」
意を決して、振り返る。
視界の中に彼女はいない。
だが暗すぎるせいで、遠くの方がまるでわからない。
暗闇に目が慣れつつあったが、それでも数10m先のものとなると、まるで暗幕がかかっているかのように一面が真っ黒に映って見える。
ポケットからスマホを取り出しライトをつけた。
その光をやって来た方向へ向けてみる。
......
............
「来て...ない...か」
森へと真っ直ぐ続く一本道。
人影は一つもない。
森の中まではわからないが距離は十二分にある。たとえ少女がそこから追って来たとしても、余裕で逃げ切ることができる距離だ。それにすぐ先には、ある程度人通りが多い道路に差し掛かる。今だって車が何台か通っているくらいだ。いくら人殺しであろうと、人目の付く場所では問題を起こそうと思いやしないだろう。まさに安全地帯。
安心感と共に、逃げ切ったという達成感が僕を満たした。無意識にガッツポーズをとる。
「はぁぁあ...やった...逃げ切ったぞ」
すると、張り詰めていた緊張が解け、自然と腰がその場に落ちた。足がガクガクと痙攣している。しばらく走れそうもなかった。
「もう、無理」
バタンと大の字になって寝そべる。
荒い呼吸に合わせて胸が大きく上下する。Tシャツが汗でびっしょり濡れていたせいで、風が吹くたびに体温が下がっていった。夏だというのに寒さを感じるなんて。
それにしても、こんなに疲れるものなのか。中学生の頃なら、もうちょい走れていたと思う。最近、運動していなかったことが仇となった。帰宅部の鏡だな僕は。
寝そべりながらもう一度、自分が走ってきた道をライトで照らして確認した。やはり、そこには誰もいない。突然またあの少女が現れるなんて事はなかった。後方から、車が一台過ぎ去って行く音がした。
「はぁ」
スマホのライトを消してから、夜空を見上げる感じで仰向けに寝そべった。目の前にはプラネタリウムを連想させるような星空が広がっていた。
「いったい何だったんだあの子は...」
突然姿を現した少女。
服は所々が土で汚れていて、見たことないがどこかの学校の制服を着ていた。髪は長く、前髪が目元まで伸びているせいで幽霊を思わせる印象を持った少女だった。
僕が木の背後に隠れる前に周囲を確認したが、それらしき人物はいなかった。そもそも僕以外、誰1人としてあそこにはいなかったはずだ。なのに僕が移動して、たった数十秒の間で彼女はあの場に現れた。
謎だ。
現実的に不可能なのではないか?
それに、あの子が美咲を殺した犯人だと言えるのだろうか。勝手にそう思い込んでいたが証拠は何一つない。見た目は中・高生ぐらいの少女。その子が殺人を犯したとは思えない。
でも、そしたらなぜ彼女は僕に向かって「見つけた」なんて言ったんだ?
僕を探していた?
なぜ?
「...B級ホラー映画かよ。ったく」
謎に謎を呼ぶ少女。
だが今は、そんなことに悩むより、できるだけ早く身体を回復させなければならない。もしこのあと追ってこられたら逃げなきゃならないし......あまり帰りが遅いと美咲も心配するはずだ。
「......あれ」
何かが引っかかった。
なんだ、この違和感。
何か見落としている気がする。
明らかにおかしいことがあったような、なかったような。
目を瞑りながら記憶の中を漁ってみるが、それらしきものは見当たらなかった。
「だめだ。疲れで頭がまわんねえわ......」
「それ、いつものことでしょ」
「っ!?」
突然、女性の声が響いた。
___誰だ!?
無理やり上半身を起こし、声の主に視線を向ける。
「あんた、そんなとこで、なに寝そべってるのよ」
そこには幼馴染みの亜香里が、腕を組み、変人を見るような目で僕のことを見下ろしていた。
2020/01/09の夜までには次話を投稿します。