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29 純米大吟醸造り

 精米を終えた米は、米倉で三週間ほど寝かせておく。精米したての酒米は熱を帯びていて、内部の水分の分布にムラがあるからだ。

 三週間経てば、今度は洗米だ。

 また村人たちに手伝ってもらう。


 ところで去年は、洗米を行なったあと浸漬を行なった。

 浸漬とは米を水に漬け、水分を吸わせる作業だ。

 去年、精米歩合70%の米に対しては一時間半も浸漬を行なった。

 しかし50%まで磨いた今回の米は、遥かに水を吸いやすくなっている。浸漬は不要だ。

 いや、それどころか、洗米ですら時間をかけすぎると水分過多になってしまう。


 そこで俺は、限定浸漬という方法を取ることにした。

 洗米する前に米の一部を使って、吸水試験を行ない、米が目的の吸水率に達するまでの時間を計るのだ。

 ストップウォッチが欲しいところだが、残念ながらそれは持っていない。

 ビバラに作らせたら良かったなぁ、と後悔しつつ、一分刻みの砂時計で代用する。


「……ストップ! 米を桶から引き上げろ。吸水試験はここまでだ。ハルカ、何分何秒経った?」


「九分十五秒ってとこね」


 ハルカは砂時計を睨みながら呟く。

 現在、米は、水分を三割ほど含んでいる。酒造りで理想的な状態だ。

 つまり、洗米を九分十五秒で終わらせれば、残りの米もこの状態になる。

 ちなみにこの『九分十五秒』という数字は、その日の天候や米の様子で変わってくる。よって今しか使えない数字だ。


「よーし、みんな。洗米するぞ。ハルカ、九分十五秒経ったら合図をくれ」


「りょーかい」


 洗米を終えると、次は釜で蒸す工程だ。

 米が外硬内軟、つまり外が固くて中が柔らかい状態になるまで蒸す。

 これには一時間ほどかかる。

 それが終わると麹造り。そして酒母造りと続いていく。

 まあ、この辺は去年と変わらない。

 もちろん、精米歩合も天候も違うから細かい差異はある。そこが腕の見せ所だ。

 しかし工程そのものは同じである。


 そして三段仕込み。

 造った酒母、麹、蒸米、水を三回に分けて発酵タンクに仕込むのだ。

 すなわち、今までの作業の集大成。

 こうして仕込まれた発酵タンクの中身は(もろみ)と呼ばれる。

 この醪の中で酵母菌がブドウ糖を分解してアルコールにし、日本酒を造っていく。

 その酵母菌は去年と同じ菌。

 この酒蔵に住み着いた酵母菌の力をもう一度借りる。

 ある意味、蔵人とは、微生物が酒を造っている手伝いをしているに過ぎないともいえる。

 さて。日本酒が完成するまで、約二週間から二十日くらいだ。


 それを待つ間、水車で残りの米を精米する。

 なにせ今年は発酵タンクが三つもある。

 一つは今仕込んでいる、精米歩合50%の純米大吟醸。これは新しく購入した三号タンクだ。

 残る二つは去年と同じ精米歩合70%の純米酒。去年からある一号タンクと二号タンク。水車で精米するのは、その70%の純米酒用だ。


 純米酒の作業を進めつつ、純米大吟醸の発酵タンクの様子を見なければならない。

 時折、櫂と呼ばれる棒で醪をかき回す。

 発酵を促進するためであるし、また発酵が進むと表面が泡立ってくるので、発酵を沈静化させるために櫂入れすることもある。

 この辺は醪の様子を見ながらやるので、なかなか難しい。

 しかし、俺は実家で修行を積んだし、去年は純米酒を完成させている。

 その自信があったので油断していた。


 発酵タンクの中に櫂を入れたとき、その重さに驚いた。今まで造ったことのある、どの醪とも違う。


「ツカサ、これでいいの……? なんか変じゃない?」


 一緒に櫂入れをするハルカが不安げに呟く。


「変だ。変だけど……だからって今更やめるわけにはいかない。このくらいなら、普通の人間だって気合いを入れれば何とかなる範疇だ。掻き混ぜろハルカ!」


「う、うん!」


 不安を拭うようにして俺たちは櫂入れを行なった。

 発酵が始まると表面に泡が出てくるはずだが……その気配がない。

 何だ? 俺は何かを間違えたのか?

 いいや、完璧ではないにしても、間違いは犯していない。

 ゆえに、信じて自分にできることをやるしかない――。

 そうして三号タンクに不穏なものを感じながら、俺たちは純米酒の作業も進めていく。


 だが、全ては杞憂だった。

 通常よりは遅れたものの、醪の表面に泡が出てきた。

 発酵が始まったのだ。


「やれやれ。微生物の気まぐれには困ったものだ」


 そう呟きながら、俺はホッと安堵の息を吐く。

 最終的に醪が仕上がるまで、通常より長い三十日もかかってしまった。

 米を磨いたことでタンパク質が減り、それを栄養にしていた微生物たちの繁殖が遅れたのかもしれない。

 初めて挑戦する純米大吟醸造り。

 まるで松尾様に覚悟を試されているようだ。


        ※


 完成した醪は、木綿で作った酒袋に入れ、搾ることによって酒粕と分離され、日本酒となる。

 搾り方は、三種類ある。


 まず、自動圧搾機にかけて機械的に搾ってしまう方法だ。現代の酒蔵で主に使われているのがこの手法であり、短時間で一気に搾ることができる。


 それから、(ふね)と呼ばれる箱の中に酒袋を並べ、重しを乗せて搾る方法。昨年、俺たちはこの方法を使った。自動圧搾機に比べて時間をかけて段階的に搾るので、日本酒の味が、『荒走り』『中垂れ』『責め』と三段階に変化していくのが面白い。


 そして、究極の搾り方――雫搾り。

 なにが究極かと言えば、この手法は……搾らない。

 矛盾しているようだが、だからこそ凄い。

 まず、醪を入れた酒袋をタンクの上に吊るす。――以上だ。

 人工的な力は一切加えない。

 重力に引かれて自然に酒が落ちてくるのを、延々と待つ。ひたすら待つ。


 気が遠くなる非効率的な作業だ。

 時間はかかるし、圧力をかけないから抽出できる量も少ない。

 しかし、だからこそ、雑味のない日本酒の本当に美味しいところだけを取り出すことができる。


 今年の純米大吟醸は、雫搾りでやる。


 またもや村人たちの力を借りて、朝早くから発酵タンクの中の醪を酒袋に入れていく。

 そして大きな樽の上に木の棒を置き、そこに酒袋を縛って吊るす。

 吊るされた酒袋が、まるで首を吊った死体に似ているから、雫搾りのことを『首吊り』と呼ぶ蔵人もいる。不謹慎だが……分からなくもない。


「よし、三号タンクが空になったな。皆、ありがとう。あとは酒が自然に落ちてくるのを待つだけだ。時間がかかるから、今日はもういいぞ。ご苦労様」


 俺は村人たちにそう呼び掛ける。

 しかし、誰も酒蔵から出て行こうとしなかった。

 なにやらキラキラした目差しで雫搾り中の樽を見つめている。


「……言っておくが、飲めるようになるのは夜だぞ?」


 その瞬間、全員が〝なーんだ〟という顔になり、それぞれ家に帰ってしまった。

 現金な連中である。


 俺とハルカだけになった酒蔵は、途端に静寂に包まれた。

 酒袋から垂れてくる雫が、ポタポタと音を鳴らすばかりである。


「ねえねえ、ツカサ。これ、私たちは何もせず、待つだけなのよね?」


「ああ……一応、いま垂れてきてる雫はちゃんと濾過されてない奴だから、途中で取り出すけどな」


 酒袋は木綿で作られている。

 木綿の目は粗いから、酒粕も一緒に落ちてきてしまう。

 しかし、時間が経つと酒粕が目を詰まらせ、丁度よく日本酒だけを濾過してくれるのだ。


「私、さっきから落ちてくる雫を見てて思ったんだけど……あのCMを思い出さない?」


「あのCMって?」


「ほら。一滴一滴見つめる、化粧品の」


「ああ……懐かしいなぁ!」


 もう長いことテレビを見ていないから忘れていたが、そんなCMもあったなぁ。


「懐かしいCMと言えば、醪に櫂入れしてるとき、あれを思い出した。魔女のおばあさんがドロドロの物体をかき回してるお菓子のCM。ねればねるほど色が変わる奴」


「テーレッテレー! って音が鳴る奴!」


 俺とハルカは日本酒の雫を見つめながら、懐かしのテレビCMについて語り合った。

 途中で樽の底に貯まった、白く濁った酒を取り除く。

 そのあとは透明な日本酒だけが落ちてきた。


「あとは本当に待つだけだな。俺たちも退散するか」


「そうね。その前に、酒母の様子を見ておきましょうよ」


「おう、そうだな」


 今年造っている酒は、この純米大吟醸だけではない。

 去年と同じ、純米酒も造っている最中だ。

 現在は酒母を仕込んでいるところ。

 いくら純米大吟醸に力を入れているからといって、純米酒をおろそかにすることはできない。


 仕込んだ酒は全て美味く仕上げる。

 蔵人として当然の気概である。

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