26 松尾様の起源
秋洗い。
それは桶やタンクに染みこんだ昨年の酒の香りを完全に取り除くための洗浄作業だ。
もちろん、酒を仕込み終わったあとの春洗いもやった。
だがやはり、冬の仕込みに向けて、もう一度洗うのだ。
釜でお湯を湧かし、発酵タンクや酒母タンク、米を洗う桶に熱湯を貯めて除菌する。
それを流してから更に念入りに洗う。
単純作業ではあるが、重労働でもある。
だから村人たちに手伝ってもらうことにした。
無論、魔法を使えば簡単にできる。
しかし、あまり魔法でズルばかりしていると、バチが当たるような気がする。
この世界の女神エレミアール様はともかくとして、酒蔵には松尾様の神棚があるのだ。
松尾様は酒造の神様だ。
日本各地の酒蔵にその神棚がある。
京都にある松尾大社がその総本社で、日本各地にある松尾神社はその分社だった。
俺たちは松尾神社から御札をもらってきたわけではないから、ここにある神棚は勝手に作った偽物だ。
しかし、ちゃんと拝んでいるので、松尾様の御利益があるはず……。
ところで、松尾様は女神であるという。
酒蔵に女性が入ると松尾様が嫉妬し、酒が腐ってしまうという言い伝えがある。ゆえに酒蔵はかつて女人禁制だった。
その風習がいつまであったのか正確なところは知らないが、昭和初期を舞台にした『奈津の蔵』というマンガに、そういった話が出てくる。
鉄道が走り、電気が引かれるような時代になっても、まだ松尾様の嫉妬を恐れていたのだから、なかなか根強い風習だったのだろう。
今は違う。
俺たちの酒蔵には当たり前のようにハルカやルシールが出入りしているし、日本の酒蔵でも女性杜氏が活躍している。
「何で昔の酒蔵は頑なに女人禁制だったんだろうなぁ。そんなに松尾様が怖かったのか?」
俺は桶をゴシゴシ擦りながら、何気なくハルカに尋ねてみた。
「あれはちゃんと合理的な理由があるのよ」
雑学大魔神……もとい賢者である彼女は語り始める。
「蔵人って普段は農家とか別の仕事をしていて、冬の間だけ家を離れて酒を造るでしょ。つまり、酒を造り終えるまで奥さんに会えないわけ。禁欲生活よ。そんなところに女性がいたら……間違いが起きるかもしれないでしょ?」
「ああ、なるほど……」
俺がもし、酒を造っている間、ハルカと会えないとしたら、これはもう大変なことになる。
しかし俺はハルカ以外の女に手を出すつもりは毛頭ない。
ゆえに爆発するだろう。
妻同伴で酒を造れる俺は、とても幸せである。
「まあ、女人禁制なんてどう考えても間違ってるわよ。そもそも酒造りって女性の仕事じゃないの」
「ん? そうだったっけ?」
「ほら。巫女が米を噛み潰して口噛み酒を造っていたのは有名だし、ワイン造りでブドウを踏みつぶすのも女性でしょ」
「そう言えば、そうだなぁ」
俺が感心した声を出すと、ハルカは嬉々として語り出した。
ウィキペディアならぬハルペディアいわく――。
ビール造りは中世ヨーロッパにおいて、各家庭の主婦が行なうものであった。
当時の生水は危険だったので、ビールを飲用水として使うためである。
秘伝のレシピとビール仕込み用の鍋が、嫁入り道具になっていたらしい。
だが中世も時代が経つにつれ交易網が広がり、生産性が向上し、ビールは醸造所で造るものになっていく。また修道院で造ったビールも好評を博した。
今、俺たちがいるこの世界だってそうだ。
醸造所で造られたビールが広く普及している。
もっとも、自家製ビールが消滅したわけではない。
ハイン村でもルシールが趣味的に造っている。
この国においては自家製ビールの大半が密造酒なのだが……よほど大規模にやらない限り黙認されているのが現状だ。
「そういえばルシールのビールって密造だったな。俺がアンジェリカ様から許可をもらったから、今は大丈夫だけど」
今となっては懐かしい去年の話だ。
俺がしみじみと語ると、別の桶を洗浄していたルシールが肩をビクッと震わせた。
「あと不思議な話があってね。松尾大社って主祭神は二柱いるじゃない」
「それは聞いたことがある。えっと……大山咋神と中津島姫命だったか?」
「そう、よく覚えてるわね」
「まあ、酒蔵の息子だからな」
日本神話に特別興味があるわけではないが、松尾大社は酒造家にとって聖地のようなものだから、かろうじて脳味噌の片隅に残っていた。
「そう言えば、一体どっちが松尾様なんだ?」
「うーん……まず大山咋神は農耕の神様で、男神だから違うでしょ」
「すると中津島姫命が松尾様か」
「確かに中津島姫命は女神だけど、海の神様とか島の神様とか言われてて、あんまりお酒と関係なさそうなのよね……」
「そうか……確かに海とか島に比べたら、農耕のほうがまだ酒に関係あるな」
だが大山咋神は男神だから松尾様ではない。
これは確かに不思議な話だ。
「それで思ったんだけど、日本の神話って大和朝廷が作ったものでしょ? 松尾様って今の松尾大社ができる前の土着の神様だったんじゃないかしら? そもそも松尾大社の名前からして松尾山から取ってるし。松尾様の正体は、松尾山に住んでいる土着の女神様! これで決まり!」
ハルカは誇らしげに自説を語る。
なるほど。
大山咋神も中津島姫命も松尾様でないとすれば、そういう考え方も成り立つ。
しかし――。
「大和朝廷が成立する以前の古代の神様が、どうして酒の神様になって俺たちに信仰されてるんだ? 古代に日本酒はないだろ? 土着の神様がいたとして、いつ、どういう経緯で酒の神様に?」
「わ、わかんにゃい……」
俺の指摘に、ハルカはあっさりと白旗をあげた。
雑学大魔神といっても所詮は素人。
プロの学者でもない奴の知識などこの程度のものだ。
ふふん!
「なんで嬉しそうなのよ!」
それは落ち込んだり悔しそうにしているハルカが可愛いからさ。
「さてと。洗い終わった桶とタンクは天日干しにするぞ。横にして並べておいてくれ」
酒蔵の庭に杉でつくられた桶がずらりと並んだ光景は、なかなか風情がある。
俺の実家の酒蔵は全て琺瑯製タンクを使っていたから、とても新鮮な気持ちになれた。
「あとは乾くまで放置だな。皆、お疲れ様。暇な人には酒を振る舞うぞ」
村人たちは誰一人として帰らず、昼間から宴会が始まった。
農作業をしなくてもいいのだろうか?
そうして愉快な時間が過ぎていき、やがて空が茜色に染まった頃。
イライザさんが赤ん坊をおぶってやって来た。
イライザさんの次女、つまりレイチェルの妹は、楽桜を仕込んでいる最中に生まれた。
言ってみれば楽桜の幼馴染みである。
二月の中旬に生まれたから、そろそろ九ヶ月目か。
随分と大きくなった。
ハイハイするスピードがやたら速くて困ると、この前エヴァンが嬉しそうに語っていた。
そのエヴァンがイライザさんに語りかける。
「おう、どうしたんだ? レイチェルと家で留守番してるんじゃなかったのか?」
「え、レイチェル来てないの? さっき酒蔵に遊びに行くって出ていって、それでもう日が暮れるから迎えに来たんだけど……」
「な、なに!?」
エヴァンだけでなく、俺たちも騒然とした。
この村で生まれ育ったレイチェルが、村の中で迷子になるなどありえない。
また、黙って一人で遠くに行くような子ではない。
つまり、なにか事故にあった可能性が高い。
「レイチェルを探すぞ!」
俺が叫ぶより早く、村人たちは酔いから冷め、村中に散っていった。
だが、どこを探しても見つからなかった。
エヴァンとイライザさんが泣きそうな顔になっている中、ハルカがレイチェルを発見した。
天日干ししていた発酵タンクの中で、ルシールと一緒に居眠りをしていたのだ。




