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06 アサリのバター醤油酒蒸しと女王陛下

 実のところ、この私、波瀬(はぜ)ハルカはメイド服を気に入っている。

 無論、最初は嫌々だった。

 オールドマザーにどぶろくを置いてもらう交換条件として、店長のエレミアさんに無理矢理着せられ、ウェイトレスとして働くことになったのが始まり。

 とてもとても恥ずかしかったが、ツカサが「似合っている」と言ってくれたのが嬉しくて、頑張ってメイド服で働いた。


 メイド服そのものが嫌だったわけではない。

 むしろ、とても可愛いと思う。

 しかし、自分がそれを着るとなれば話は別だ。

 衣装負けしてしまうのではと不安だったのだが――。

 いざ蓋を開けてみれば、お客さんからは大好評。

 私自身も何だか楽しくなってきて、今でもときおり、オールドマザーで働かせてもらっている。


 また、メイド服を着ているとツカサが喜んでくれるので、たまに家に持ち帰って、夜の営みを――いや、これはどうでもいい。思い出したら顔が熱くなってきた。


「ハルカちゃん、なに赤くなってるの? もうすぐ開店時間だから、表に看板出してきてちょうだい」


「は、はーい」


 店名が書かれた看板は、建物に固定され、最初から外に出ている。

 今、エレミアさんに指示されたのは、今日オススメのメニューをチョークで書いたボードのことだ。

 これがあれば美味しい料理を道行く人にアピールできるし、開店していると常連さんたちに伝えることができる。

 私が提案したのだが……実のところ、地球の飲食店がやっていることのパクリである。


「よいしょっ、と」


 私はメイド服のスカートを揺らして、店の前に看板を置く。

 オールドマザーは、大通りから少し離れた小道に建っている。

 だから人の数は少ないが、仕事帰りと思われる人たちがチラホラいる。オレンジ色の夕日が、彼らの細長い影を石畳の地面に刻んでいた。


「おい、看板が外に出たということは、今開店したということか?」


 突然、背後から声をかけられた。

 どこかで聞いたような少女の声だ。

 やたらと偉そうである。

 振り返る前からその正体を察し、そして実際に振り返ると、やはり。

 そこには予想どおり、美しい金色の髪を伸ばした十八歳くらいの女性がいた。

 夕日の光がその金髪に反射し、まるで燃えているようにも見える。


「アンジェリカ様、また来たんですね。そんなしょっちゅう王宮を抜け出しても大丈夫なんですか?」


「お、王宮!? なんのことか分からぬぞ。妾は雑貨屋で働く一介の娘。アンジェリカという名ではないし、王宮とは無縁である!」


 彼女は見え透いた嘘を並べる。

 なるほど。頭巾を被って人相を隠しているし、着ている服は普通の町娘のものだ。

 しかし、庶民はこんな綺麗に髪を手入れしたりできないだろう。

 そもそも、こんな美しい金髪を生やしている人は、王都中を探しても唯一人のはず。

 ゆえに顔を見なくても、分かる者が見れば、一瞬で正体が知れてしまう。

 すなわち、アンジェリカ・アルバーン女王陛下である。


「前に来たときはパン屋で働いているって設定でしたよね」


「て、転職したのだ!」


「……そうですか。まあ、店は開いているので入っていいですよ。まだ他のお客さんは来ていませんし」


「ほう、それは好都合。顔はできるだけ見られたくないからな」


「一介の娘が、どうして顔を見られたくないんですか?」


「それはだな……妾の美しさにやられた男たちが、パン屋に押しかけたら店に迷惑がかかるからな」


「あれ。やっぱりパン屋なんですか?」


「……雑貨屋だ!」


 そう訂正して、一介の娘を名乗るアンジェリカ様は店に入っていく。


「あら? まあ、これはこれはアンジェリカ陛下。ようこそお越しくださいました」


 エレミアさんも、一瞬でアンジェリカ様の正体を見破った。

 まったく、よくもここまで無事に辿り着けたものだ。

 もっとも、普通の人は女王陛下を間近で見る機会がないから、よほど注意していないと見逃してしまうのかもしれない。

 とはいえ、何度もこんなことを続けていれば、いつか『女王陛下が王宮を抜け出して酒場に通っている』と王都全体に噂が広まってしまう。

 今のところその噂はオールドマザーの常連の内だけでとどまっているが、まあ時間の問題だろう。


「ち、違うぞ! 妾はアンジェリカではなく、普通の町娘だ!」


 普通の町娘は〝妾〟なんて一人称を使わないと思うのだけれど。


「なるほど、分かりました。それで、今日は何をお作りしましょうか?」


「うむ。表の看板に『アサリのバター醤油酒蒸し』と書かれていた。それをもらおうか。あとニホンシュな」


「かしこまりました」


 エレミアさんは早速、調理に取りかかる。

 私はその間、ワイングラスに日本酒を注ぎ、アンジェリカ様の前に置く。

 するとアンジェリカ様は頭巾を外して日本酒の香りを吸い込んだ。

 本当に正体を隠す気があるのか、非常に怪しい。


「ああ……よい香りだ。この香りは何度嗅いでも飽きないな。樽で追加注文したのに、どうして王宮に持ってきてくれないのだ? 前に買ったやつはとっくに飲んでしまったぞ」


「いやいや。アンジェリカ様だけに売っていたら、他の人の分がなくなっちゃいますよ。アンジェリカ様は誕生日パーティー用にも樽二つ予約しているじゃないですか。独り占めは駄目ですよ」


「くそ……おかげでニホンシュを飲むために、こうして変装し王宮を抜け出さねばならなくなったんだぞ……」


 アンジェリカ様はそう忌々しそうに呟き、日本酒をクイッと一口。

 ふぅぅ、と一息ついてから、ハッと顔を上げる。


「言っておくが、妾はアンジェリカではないからな!」


「いえ。いくらなんでも無茶ですよ。いい加減、観念したらどうですか?」


「……くっ。こうなっては仕方がない。何を隠そう妾は……アンジェリカ・アルバーンだったのだ! 他言無用だぞ!」


 アンジェリカ様はヤケクソ気味に語る。


「アンジェリカ様。そんなざまで、今まで正体を隠せていたつもりだったんですか? 聡明なアンジェリカ様にしては随分とお粗末なやり口に思えますけど……」


 そうなのだ。

 この人は決してバカではない。

 むしろ逆。

 若く美しい外見に加え、アルバーン王国の国政を担う実力も有していた。

 お飾りの女王ではなく、名実ともに国家元首として君臨している。

 だからこそ、オールドマザーで晒しているこの体たらくが不思議だった。


「……妾とて、この変装に無理があることくらい承知している。しかしな……こうでもしないとニホンシュが飲めないのだ。それにオールドマザーの料理は絶品だし……あの味噌と醤油とかいう調味料、本当に素晴らしかったぞ。もっと量産しろ。人手が足りないなら妾が何とかするぞ」


 味噌と醤油は、完全に自分たち用のつもりで、片手間に造ったものだった。

 まさか女王陛下が王宮を抜け出してまで食べに来ると予想もしていなかったので、ストックしている量も少ない。

 日本の調味料をありがたがってくれるのは嬉しいが……私たちの本業は酒造。

 味噌と醤油の大量生産は、正直面倒だ。

 いっそ製法を公開して、勝手に造ってもらうべきかもしれない。


 むしろ日本酒だって、造りたいという人がいれば造り方を教えても構わない。

 どうせツカサほど上手に造れるわけがないし、造れたとしても、それはそれでいい。

 ライバルがいたほうが、燃えるというもの。

 そして何より、美味しい日本酒を沢山飲めるのは大歓迎だ。


「まあ……ツカサに相談しておきます」


「頼んだぞ。料理と酒が美味しければ妾のやる気が上がる。すなわち、この国の未来がかかっているのだ」


 なんと。

 それは一大事だ。


「おまたせしました、アンジェリカ陛下。アサリのバター醤油酒蒸しです。ひとまずは、これでやる気を出してくださいな」


「おお、これでアルバーン王国は救われる!」


 エレミアさんが出した料理を前にして、アンジェリカ様は大げさに喜んでみせる。

 しかし、国家の存亡はともかく、声を上げたくなるほど良い香りなのは確かだ。

 なにせ、バターと醤油と日本酒である。

 香りだけで金を取れそうな程だ。

 アンジェリカ様はお皿に顔を近づけ、鼻をくんくんさせる。

 とても幸せそうな表情だ。

 式典などで見せる凛々しい雰囲気とは、まるで別人に見える。


「では、いただきます」


 アンジェリカ様は箸を手に取り、貝殻から中身をつまみ、パクッと口に入れる。


「アサリなんてありふれた貝なのになぁ……調理しだいでここまで化けるとは。いや、もともと嫌いではないのだが。一体何種類の旨みが混ざっているのやら。ああ、美味い。そして酒が進む」


「喜んでいただき光栄です」


 エレミアさんは軽く頭を下げた。


「それにしてもアンジェリカ様。随分と箸の使い方が上手になりましたね。日本人並ですよ」


「うむ。練習したからな。しかし、それでもアサリの中身だけを掴むのは難しいぞ。特に貝柱がどうしても残ってしまう……」


「だったら、貝殻を手掴みしたらどうでしょう?」


「貝殻を手掴み?」


「はい。こんな感じで……」


 私はアンジェリカ様の隣に座り、手でアサリを一つ持ち上げる。

 そして口元に運んで、ちゅるりと中身だけを吸い上げた。

 指先には貝殻だけが残る。


「おお、その手があったか。流石は賢者。妾もやってみよう。それにしてもハルカ。店員が客の料理に手を付けてはいかんだろう」


「いや、まあ、授業料ということで」


「ふむ、アサリの美味さに免じて許してやろう」


 今は私を糾弾するより、アサリを食べることに集中したいらしい。

 早速、私の教えた方法を実践する。

 ちゅるり、ちゅるり。

 アンジェリカ様はアサリを吸い込む。

 それから日本酒をクイッと飲む。

 また、ちゅるり。


「ああ、いかん。いかんぞ、これは。止まらぬではないか。エレミアよ、もう一皿作ってくれ」


「かしこまりました」


 アサリを全て食べ終えたアンジェリカ様は、皿の底に残った汁を見つめる。


「これも飲んだほうがいいのだろうか?」


「当然です。アサリと醤油とバターと日本酒の旨みがギュッと詰まったスープですよ? 残すなんてもったいない!」


 私は力説する。


「そうか、分かった。見るからに美味しそうだもんな。スプーンをくれ」


「アンジェリカ様。スプーンではなく、皿ごと持ち上げて、豪快に飲み干しましょう」


「む? 女王である妾にそんな野蛮な食べ方をしろと?」


「ええ。ここは庶民の店なんですから、庶民的にいきましょう。大丈夫。他にお客さんもいませんから」


「そうか……分かった!」


 アンジェリカ様は小鉢に貝殻を捨て、皿を持ち上げる。

 そして一気に、ごきゅ、ごきゅ、ごきゅ。

 飲み終わってから、口の周りを舌でペロリ。


「いやぁ……素晴らしい! スプーンでちまちま飲まなくて正解だった。一気に飲んだからこその濃厚さだ。口の中で旨味のパレードが起きているぞ」


 アンジェリカ様は深く満足してくれたようだ。

 日本酒にも手を付けず、余韻に浸かり始める。

 と、そのとき。

 店の扉が開き、新しいお客さんがやってきた。


「いらっしゃいませ……あれ、あなたは確か」


 そこにいたのは、メイドさんだった。

 ただし、私のようなコスプレではなく、本職。

 王宮に遊びに行くと、いつも紅茶やお菓子を運んできてくれる、女王陛下専属のメイドである。

 名前は確か、セシリー。


「お久しぶりです賢者様。陛下がここに来ているのではと思い……ああ、やはりここでしたか。さあ、帰りましょう」


「陛下? はて、何のことだ。妾はただの町娘だぞ……」


 アンジェリカ様は私の後ろに隠れ、頭巾を被り直す。

 今更そんなことをしても、手遅れもいいところ。

 案の定、セシリーさんは眉をピクリと動かし、口をへの字に曲げる。


「陛下。王宮の監視網をかいくぐり脱出した手腕は見事です。それに関しては陛下の勝利。陛下の脱走を阻止できなかった私たちの失態です。ゆえに陛下が束の間の自由を満喫していても、私たちには何も言えません。しかし、こうして見つかったからには時間切れです。さあ、帰りましょう」


「いや、しかしな、セシリーよ。アサリをもう一皿注文したところなのだぞ……」


「陛下!」


 セシリーさんの眼光が鋭くなり、凄まじい迫力でアンジェリカ様を貫いた。

 そばにいた私までビクッとしてしまう。

 この人。只者ではない。

 身の回りの世話をするだけでなく、おそらく護衛役もかねているのだろう。


「……分かった。今日のところは帰るとしよう。しかし、妾は必ずまたオールドマザーに来るぞ!」


「何をおっしゃいます。もう二度と脱走などさせません。警備はより一層強化させていただきます」


「ふん。妾はそれをも上回って見せよう」


 アンジェリカ様は椅子から立ち上がり、髪とスカートをなびかせ、颯爽と店をあとにする。

 残されたセシリーさんは、エプロンのポケットから財布を出し、一枚の金貨を私に差し出してきた。


「金貨ですか……あのお釣りがないので、もう少し安いコインはありませんか……?」


「いえ。お釣りは結構です。陛下がいつもお世話になっていますので、そのお礼に。今後ともよろしくお願いします」


 今後とも? はて?


「もうアンジェリカ様を王宮から脱走させないつもりなのでは?」


「そのつもりですが……陛下は何気に手練れなので。おそらく、すぐに警備の穴を見つけてしまうでしょう。まあ、脱走されても、私があとをつけているので問題はないのですが」


「はあ……」


 その警備の穴というのは、アンジェリカ様に自由を与えるための口実で、わざと開けられているのでは?


「まあ、そういうことでしたら、遠慮なく。ところでセシリーさん。そのスカートの中にも、何か色々入ってますね」


「分かりますか? 賢者様の前で誤魔化しはできませんね」


「重心とか見れば、何となく」


 おそらくは、投げナイフとか短剣などの武器だろう。

 王都の中でモンスターと遭遇することはまずないが、人間の敵は人間だったりする。

 魔王という共通の敵がいる間は、皆がそのことを忘れていた感じだった。

 しかし、魔王は滅びた。

 人々は懐かしい時代を思い出し、国家間のイザコザや、権力闘争やらに興じている。

 そしてアンジェリカ・アルバーン女王陛下といえば、重要人物の中の重要人物。

 いつどこで誰が狙っているかも分からない。


「おいセシリー。いつまで妾を待たせる。誘拐されてしまうぞ」


 扉を半開きにし、アンジェリカ様が顔だけを覗かせる。


「ちゃんと周囲の気配に気を配っているので大丈夫です」


「ふむ、そうか。しかしセシリー。妾のあとを付けるなら、もっとバレないようにしろよ。修行が足りん」


「……気付かれていましたか」


 セシリーさんは一瞬だけ悔しそうに顔を歪めたが、すぐに無表情に戻り、アンジェリカ様を追いかける。


「何だか嵐のような二人だったわねぇ」


「そうですね……ところでエレミアさん。追加のそれ、作っちゃったんですね。どうしましょう?」


「そうねぇ……もったいなから、私たちで食べちゃいましょ」


 不幸なアンジェリカ様が食べ逃したアサリのバター醤油酒蒸しは、こうして私とエレミアさんの胃袋に収まることになった。

 ちゅるり、ちゅるり。

 ああ、美味しい。

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