02 味噌とキュウリと醤油と目玉焼き
日本酒を造るために用意した麹だが、その用途は何も日本酒造りに限定されない。
例えば料理に使ったり。
あるいは味噌や醤油を造ったり――。
実は昨年の六月、種麹を完成させたあと、味噌と醤油を仕込んでいた。
なにせどちらも材料が似通っているし、仕込んでしまえば酒造りほどの手間暇はかからない。
あれから十一ヶ月が経った。そろそろ完成する頃合いだ。
俺とハルカは、台所の隅に放置していた二つの桶を開け、中身を確認する。
見た目は良い。
香りも慣れ親しんだ、あの日本の調味料そのものだ。
こちらの世界に来てから三年になるが、こうして再び味噌と醤油の香りを嗅げて幸せである。
「さてさて。肝心の味はどうだ?」
まずは味噌をヘラでとって食べてみる。
米麹をたっぷり使ったせいか、甘口だ。色はいわゆる白味噌のもの。
これで味噌汁を作るのが今から楽しみだ。
次に醤油をスプーンですくって舐める。
濃い色の見た目通り、香りも味も強い。
スーパーなどで売っているオーソドックスな濃口醤油と言えるだろう。
これなら、どんな食材にでも使えそうだ。
「いい感じだな」
「うん。味噌も醤油も美味しく出来上がってるわ。これならオールドマザーで使ってもらえそうね」
俺とハルカは笑顔で頷き合ってから、味噌と醤油を小瓶に入れ替え、オールドマザーへと持っていくことにした。
アルバーン王国は人口三百万を超える大国だ。
俺とハルカは、その王都ミヤゾノンに住んでいる。
ミヤゾノンは世界有数の都市であり、人と物の往来が実に激しい。
特に、ミヤゾノンに拠点を構える『アルバーン商人ギルド』は、周辺諸国の物流をほぼ支配しており、彼らに頼めば、ほとんどの物を手に入れることが可能だ。
そしてミヤゾノンはたんに活気があるだけでなく、治安や景観も優れており、何とかこの街に店を持ちたいと考えている商人が数多くいる。
そんなミヤゾノンの小さな通りに、ひっそりと酒場が建っていた。
店の名は、オールドマザー。
その名とは裏腹に、店主のエレミアさんは若く、そして美人である。
俺とハルカの行きつけの店だ。
「エレミアさん。こんばんは。今ちょっといいですか?」
そう言って俺はオールドマザーの扉を開ける。
オールドマザーは開店時間になっていないので、お客さんはまだ誰もいない。
カウンターの中でエレミアさんが一人、準備をしているだけだ。
「あら、ツカサくんにハルカちゃん。いらっしゃい。ごめんね、店はまだ開けてないのよ」
「それは知ってますよ。前に話した味噌と醤油が完成したんで持ってきたんです。よかったら使ってください」
そう言って俺はカウンターの上にガラス瓶を二つ乗せた。
「どぶろくのときみたいに、この世界の人たちの舌に合うか、テストしたいのよ。お願いエレミアさん、協力して下さい!」
ハルカは神様を拝むように手を合わせる。
「味噌と醤油? これがそうなのね……ふーん。どうやって使ったらいいかしら?」
エレミアさんは瓶を手に取り、興味深げに眺めた。
「そうですね。たとえば味噌は……エレミアさん、キュウリありますか?」
「ええ。塩漬けにしようと思って買ってあるけど」
「味噌とキュウリの組み合わせは最高なんですよ。一本ください。それと小皿も」
俺は小皿に味噌を盛り、それからキュウリに味噌を付けてエレミアさんに渡した。
「さあ。パクッと食べてみて下さい」
「随分と自信ありげね。それじゃ遠慮なく」
エレミアさんはキュウリを豪快に口に入れ、シャリッと噛み切る。
それからシャリシャリシャリと噛み砕く。
「味噌とキュウリ、どうですか?」
「美味しい? ねえエレミアさん、美味しい?」
俺とハルカは身を乗り出して尋ねる。
エレミアさんはそれに答える代わり、またキュウリに味噌を付けて食べ続けた。
あっという間に一本を食べ終え、無言で二本目に味噌を付ける。
「ちょっとズルいですよ、エレミアさん! 私だってキュウリ食べたいのに!」
「だって、もの凄く美味しいから……ハルカちゃんも食べたいなら、勝手に食べていいわよ」
「食べる!」
ハルカはカウンターに侵入し、キュウリを見つけ出す。
何せハルカは、このオールドマザーでよくバイトをしている。
どこに何があるのか、自分の家のように把握しているのだ。
「おい、ハルカ。俺にもキュウリくれよ」
「分かってるわよ」
それからしばらく、俺たちは無言でキュウリに味噌を付けてモグモグ食べ続けた。
だが、キュウリばかり食べていては河童になってしまう。
それに今日は、味噌だけでなく、醤油の良さもエレミアさんに知ってもらいたい。
「醤油は煮物にも炒め物にも使えるけど……手っ取り早く知ってもらうには何がいいかしら?」
「そうだなぁ……これは俺の趣味だが、卵かけご飯が猛烈に食べたい気分だぜ!」
「私も! けど、この世界で卵かけご飯を食べるのは無謀でしょ」
「だよな……」
鶏の卵の表面には、サルモネラ菌がついている。
鶏の体は、卵管と直腸が途中で繋がっており、卵も便も同じ穴から排出されるという奇妙な構造になっているからだ。
これを出荷前に殺菌している国としていない国があり、日本は当然、殺菌している国だ。だから気軽に生卵を食べることができた。
そしてアメリカは殺菌していない国なので、生卵を食べる日本人を見て驚くという。
無論この世界の卵は殺菌などされていない。
以前、エレミアさんに生卵を食べたいとリクエストしたら、正気を疑われたほどだ。
「生が無理なら、焼いちゃえばいいのよ。エレミアさん、厨房を少し借りるわよ」
「いいけど、厨房に入るならメイド服に着替えてね。この店の制服なんだから」
「えー……いつもそう言ってますけど、肝心のエレミアさんはメイド服を着てないじゃないですか」
「私は店長だからいいの」
「横暴です!」
そう文句を言いつつ、ハルカは店の奥に行って、ロングスカートのメイド服に着替えてきた。
何だかんだで、ハルカもこの制服を気に入っているらしい。
「ハルカ。何を作るつもりなんだ?」
「目玉焼きよ。ツカサも食べる?」
「もちろんだ!」
するとハルカは鼻歌を歌いながらフライパンに火をかけ、卵を三つ割った。
そして片面焼きに仕上げ、きちんと三枚の皿に取り分ける。
「はい、おまちどおさま!」
「あら、美味しそう。ツカサくんはハルカちゃんみたいなお嫁さんがもらえて幸せね」
「も、もうエレミアさんったら何を言ってるんですか……!」
ハルカは赤くなってうつむく。可愛い。
「まだ結婚してませんけどね。式は六月にハイン村でやります」
「あら、そうだったの? じゃあ私も呼んでくれるかしら?」
「ええ、もちろん」
俺はハイン村の領主であるから、結婚式をハイン村の教会で上げるわけだ。
別の街のもっと大きな教会でもいいのだが、村のシスターであるルシールが「是非に!」と言うので、そういう話になった。
俺たちとしても、あの村の人々に祝ってもらいたいと思っていた。
ルシールの思惑とは関係なく、選択肢は初めからなかったのかもしれない。
「それじゃ、醤油とやらの味を拝見しましょうか」
エレミアさんはフォークで目玉焼きの白身の部分を切り取り、醤油と絡めて、口に放り込む。
そして「まあっ」と感心した声を上げる。
「しょっぱいのに、甘いわ。不思議な味ね……ほんと、何にでも使えそう!」
「ですよね。醤油と味噌があるだけで、日本の料理が色々作れますよ。つまり日本酒に合う肴を作れるってことです」
「そうね。でも、目玉焼きはニホンシュと言うより、ビールのほうが合いそうだわ」
「そうですか? 両方いけると思いますよ」
そう呟きつつ、俺はフォークで黄身を突き刺した。
中は固まっておらず、トロリとした液体が溢れ出してくる。
それと醤油を混ぜて、ぱくりと一口。
何という美味。
ただ卵を焼いただけの料理だが、調味料次第でその味は万華鏡のように変わる。
かつて俺とハルカがいた地球では『目玉焼きに何をかけるか』という論争が老若男女の間で繰り広げられていた。
そして実のところ、俺はソース派だった。
だが、たった今、醤油派になった。この醤油のおかげで改宗する。
醤油は、いい。
「こうなったら刺身が欲しいな。刺身と日本酒……想像しただけでヨダレが出るぜ。というわけでハルカ。今度、海辺の町にいって、新鮮な魚を探そうぜ」
「そうね。何なら、私たちで魚をとってもいいわ」
白身魚。赤身魚。タコ。イカ。エビ。貝……などなど。
一刻も早く食べたい。
当然、ワサビも必要だが、それは商人ギルドに頼めば手に入る。
そして刺身に合わせるなら、あまり香りの強くない酒のほうが良いだろう。
この前、桜の木の下で皆にお披露目した酒はかなり吟醸香が強いから、別の酒……例えば二号タンクの中垂れなどが合うだろう。
あれは辛口淡麗だから、刺身にピッタリだ。
あと魚なら、白身魚を味噌漬けにして焼いても美味い。
醤油と味噌があるだけで、夢がどんどん広がっていく。
もちろん夢のまま終わらせるつもりはない。
すぐにでも実現させるのだ。