31 エピローグ
時は流れて、四月の下旬。
王都の周辺やハイン村でも、桜が八分咲きになっていた。
俺とハルカは、二月の末に搾った日本酒を樽に入れて、とある桜の木の下に運んでいく。
それは王都とハイン村のちょうど中間地点に一本だけ生えている、ソメイヨシノによくにた桜だった。
広い草原になぜかポツンと生えているため、旅人たちの目印になっている。
日本酒のお披露目を、今日ここで行なうのだ。
俺たちが造った日本酒は、搾り終わったあと六十度まで加熱して滅菌し、それから約二カ月の熟成を経て進化した。
二号タンクに比べて劣っていると思われていた一号タンクの酒が、時間とともに雑味が消えていき、どちらも甲乙つけがたいものになったのは驚かされた。
やはり日本酒造りは何が起きるか分からない。
無論、味の違いは残っている。
一号タンクのほうがやや甘口、二号タンクは辛口に仕上がった。
そして一号タンクと二号タンクの荒搾りと中垂れをブレンドし、飲みやすさ重視に仕上げたのが、この樽の中身だ。
産まれて初めて日本酒を口にする者でも、これなら違和感なく飲めるはず。
しかし、味の好みなどしょせん、人それぞれ。
今日ここに来る人たちがどんな反応をするのか、実に楽しみである。
「それにしても、見事な桜ね」
木の根元に座ったハルカは、頭上を見上げてそう呟く。
今日は雲一つない快晴で、その明るい日射しによって桜の花びらがより一層鮮やかに輝いて見えた。
そして、その景色の中にいるハルカもまた、美しい。
「今日は日本酒のお披露目と花見をかねているからな。晴れてくれてよかったよ」
俺も桜の下に腰を下ろし、ハルカの隣に座る。
するとハルカは、俺の肩に頭を乗せてきた。
「私ね。正直、日本酒が本当に造れるのか半信半疑だったわ。造れたとしても、あんなちゃんとしたものになるとは思ってなかった」
「そりゃ酷い。と言いたいところだが、実は俺もだ。とりあえず形になればいいと考えていた。味を追及するのは来年以降だと……それが蓋を開けてみたらこれだ。まあ、自分で造った酒だから、贔屓しているところがあるけどな」
「それは、まぁね。でも、このまま日本に持って帰っても恥ずかしくない出来よ」
「賢者様のお墨付きなら間違いない」
俺たちは春の陽気の中、のんびりと会話を楽しむ。
そこへ聞き慣れた少女の声が近づいてきた。
「勇者様、賢者様!」
見れば、ルシールが馬車の荷台から上半身を出し、こちらに手をブンブン振っている。
その馬車は桜の前で止まり、ルシールと村長が降りてきた。
それからレイチェル、エヴァン、イライザさんが草原の上を踏みしめる。
イライザさんの腕の中には、赤ん坊がいた。
この家族、初めは赤ん坊の名前をニホンシュにしようとしていたのだが、俺とハルカの熱烈な反対に合い、クリスティンという普通の名前に落ち着いた。
エヴァンは最後までごねていたが、俺の「じゃあお前、俺たちが作ったのがワイン蔵だったら、子供にワインって名前つけるのかよ」という言葉でようやく折れた。
「桜、きれい。すごい!」
レイチェルは首を目一杯上げて、咲き誇ったピンクの花をまじまじと見つめる。
「本当に綺麗ねぇ。ハイン村にも桜はあるけど、こんなに大きな桜の木は初めて見たわ。ほら、クリス。次にいつ見られるか分からないから、しっかり見ておくのよ」
イライザさんは乳児に向かって無茶を言い出す。
クリスティンはキャッキャと楽しげだが、母親の言葉を理解しているとは思えない。
そんな家族を、エヴァンが嬉しそうに見つめている。
正直、うらやましい。
「勇者殿、賢者殿。このような場にお招き頂きありがとうございます。今日は王都の方も見えるとか?」
村長が改まった口調で俺たちに語りかけてくる。
なにせハイン村は田舎だ。人の行き来も少ない。
そんな田舎の村長が王都の人間と会うのだから、緊張するのも無理はない。
「王都の人間といっても、俺たちの知り合いが何人か来るだけですから、そうかしこまらずに」
「そうですか。安心しました」
村長は肩の力を抜いた。
もっとも、俺の知り合いには女王陛下も含まれている。
忙しい人だから来るかどうかは分からないが、顔を合わせたら村長、腰を抜かすんじゃないか?
それはそれで面白そうなので、黙っていよう。
「ツカサくーん、ハルカちゃーん!」
これはオールドマザーの店長、エレミアさんの声だ。
王都の方角からテクテク歩いてくる。
その左右には、商人のロランと、更にクー・シー傭兵団の幼き団長ソフィアの姿もあった。
「エレミアさん、王都から歩いてくるの大変じゃなかったですか?」
「いいえ。小旅行みたいで楽しかったわ。それに頼もしいボディーガードが二人もいることだしね」
そう言ってエレミアさんは、ロランとソフィアを見やる。
「いやぁ、私がボディーガードなんて畏れ多い。万が一、盗賊やモンスターが出たら、ソフィアさんに全て任せて逃げることしかできませんよ。はは」
「このヘタレが。仮にそうだとしても、男として虚勢くらい張ってみろやボケ。ボディーガードとして連れてきたなら、金取るぞコラ。つーか、こんな王都の近くに盗賊やモンスターなんかいねーだろうが」
ソフィアがいつもの口調でロランにくってかかる。
だが、その服装は戦いに赴くものではない。町娘がお出かけ用にオシャレしたような姿だった。
一応、腰に剣をぶら下げているが、普段の彼女からすれば軽装もいいところ。
戦う機会はないと初めから承知しているのだ。
「んあ? ツカサ、てめぇ何を微笑ましい顔で見てやがる」
「いや、別に。ソフィアも意外とスカートとかリボンが似合うんだなぁと思って」
「な、ちょ、はっ、こ、これはあれだ! 今日はお前らにとって大切な日だから、それなりに着飾ってやろうと親切心でだな……つか、オレが選んだじゃなくてエレミアがどっかから持ってきたんだからな。そこを勘違いするなよ!」
ソフィアは分かりやすく照れ、スカートを握りしめながら怒鳴り散らした。
戦場での勇ましい姿と正反対で、実に可愛らしい。
怒るとは思うが、なでなでしておこう。
「て、てめぇケンカ売ってんのかァァッ!?」
やはり怒った。面白い。
「もう、ダメじゃないのソフィアちゃん。せっかく可愛い格好なんだから、もっとおしとやかにしなさい。女の子でしょ」
「……ちっ。ジェナみてぇなこと言いやがって。調子狂うぜ」
どうやらソフィアは、エレミアさんが苦手らしい。
暴力でソフィアの右に出る者はそうそういないが、こうやって大人力で責めてくるタイプは天敵なのだろう。
「くやしいけど、私の目から見ても可愛いわよ。レイチェルと一緒に遊び回っていても違和感ないぐらい」
「あん? 誰だよ、そのレイチェルって?」
ソフィアはハルカにいぶかしげな目を向ける。
すると、遠くからレイチェルがパタパタと走り寄ってきた。
「私だよ」
「なんだ、ガキじゃねーか」
「……私がガキなら、あなたもガキ」
レイチェルはソフィアの頭をペタペタと触る。
こうして並ぶと、ほとんど同じ身長だった。
「気安く触るんじゃねぇよ。お前、何歳なんだよ」
「十歳だよ」
「ハッ。やっぱガキだな。オレは十三歳だ」
「ふーん……その割には小さい。私と身長同じ」
「こ、こいつ……チッ。人が気にしてることを」
ソフィアは苦虫をかみつぶしたような顔で悔しがる。
流石の狂戦士も、子供相手には掴みかかったりしない。そして理屈ではレイチェルのほうが正しいから反論もできない。ソフィアの完全敗北だ。
「気にしてたの? ごめんね。おわびに握手したげる」
レイチェルはソフィアの手を取り、ぎゅっと握る。そして上下にブンブンと振った。
「これで友達」
「お、おう……?」
もう完全にレイチェルのペースである。
「私の妹見せてあげる。こっちこっち」
「おい、待て。勝手に引っ張るな。つか、エヴァンもいるじゃねーか。お前、もしかしてエヴァンの娘か?」
「そう」
「なら、最初にそう言えや。エヴァン、てめぇも微笑ましく見てんじゃねーぞ!」
「いやぁ、団長。お久しぶりです。そういう格好をしているから、一瞬誰だか分からなかったですよ」
「ざけんな!」
なんて言いながら、ソフィアはレイチェルに引っ張られて走って行く。
子供は子供同士。仲が良くて結構だ。
「さてと。日本酒のお披露目を始めるか。アンジェリカ様はやっぱ来れないみたいだな」
「そりゃ女王陛下だもん。そうそう時間作れないでしょ」
残念だが、アンジェリカ様には王宮で飲んでもらおう。
直接持っていく機会はいくらでもある。
と、思いきや。
馬が地面を蹴る音と、車輪が回る音が響いてくる。
「一目ですっげー金がかかってると分かる馬車が来るぞ」
「誰が乗っているのかも一目で分かるわね」
そのすっげー馬車から、豪奢なドレスに身を包んだ、十代後半の麗しい少女が優雅に降りてきた。
「あ、あ、あなた様は! 女王陛下!?」
ハイン村の村長が引きつった顔で彼女を見つめる。
「如何にも。妾はアンジェリカ・アルバーンである」
超大国アルバーン王国。その頂点に君臨する人である。
そうだと知った瞬間、村長は白目をむいてぶっ倒れた。
「おじいさま!?」
ルシールが慌てて抱き起こすが、村長は気絶したままだ。
そんなハイン村の二人を女王陛下は「やれやれ」という顔で見つめ、それから俺とハルカに視線を移す。
「ニホンシュは完成したのだな?」
「はい。今造れる最高のものを用意できたと断言します」
「それは重畳。しかも、この場所でお披露目をするセンスがよい。おかげで王宮を抜け出す口実ができた。今日は夜まで帰らんぞ」
アンジェリカ様は不吉なことを言い出す。
もしや俺たちのせいで、この国の政務が止まったりしているのだろうか。
恐ろしい。
だが、女王陛下御自らの判断なのだから、俺ごときが異論を挟むことではない。
今は桜を見て、酒を飲むときだ。
「じゃあ、皆。これを受け取ってくれ。升って言うんだけど、これに酒を入れて飲む」
俺とハルカで四角い木の器、升を配る。
それから樽の蓋を外してご開帳。
「ほう。これは……見事な香りだ」
女王であるアンジェリカ様の表情が一瞬、好物を前にした少女のそれに変わる。
酒に興味のないレイチェルまで、樽を凝視している。
「私も飲みたい」
「いや、けど、お酒だしなぁ」
ルシールやソフィアのように、子供のくせに酒好きの奴も確かにいる。
だが、見れば分かるとおり、二人ともまともじゃない。
レイチェルにはこのまま、素直に育って欲しいのだ。
「でも、ここまできて飲まずに帰るのも可哀想だし。舐めるだけってことでどうかしら?」
イライザさんがそう提案した。
「……まあ、母親であるあなたがそう言うなら」
「やった……!」
レイチェルはとても嬉しそうだ。
大酒飲みにならなきゃいいけど、と俺は真剣に思う。
しかし、ハイン村の大人は一人残らず酒好きだ。俺がどんなに願っても、レイチェルの将来は決まっているのかもしれない。
「んじゃ、どうぞご自由に。この樽は空にしていいので。というか、持って帰るのが面倒だから飲んでしまえ!」
俺が宣言した途端、全員が目の色を変えて突進してきた。
あやうく吹き飛ばされそうになるが、俺は勇者だ。
エヴァンやソフィアという強敵の腕をかいくぐり、自分の升に酒を入れて争奪戦を一抜けする。
「ふう……肉にたかる獣か、あいつら」
少し離れた場所で一息ついた俺は、桜を見上げながら、自分が作った純米酒の香りを嗅ぐ。
ああ、やはり、いい。
味も近代的設備で作ったものと遜色ない。
しかし、逆に言えば――。
「ツカサ、ハルカ! このニホンシュは素晴らしいぞ。六月の妾の誕生日パーティーにこのニホンシュを出す。樽を一つ……いや二つ王宮まで届けよ」
「分かりました」
アンジェリカ様たちの評価も高い。
レイチェルもぺろぺろと美味しそうに舐めているし、気絶していた村長もいつの間にか復活して浴びるように飲んでいる。
ルシール、ソフィア、エヴァン、エレミアさんが飲み比べを開始し、それをイライザさんが「あらあら」と赤子を抱いて見つめる。
俺が造った酒で、皆が喜んでくれている。
この光景に異を唱えるほど俺は偏屈ではないし、できる限りのことを尽くしたという自負があった。
なのに、それでも。
「納得してないって顔ね」
ハルカが俺の隣に立ち、呟いてから、升で日本酒を一口飲む。
「こんなに美味しいのに。何が不満なわけ?」
そう問いかけるハルカの顔は、挑むような笑顔だった。
俺が何を思っているのかお見通しという顔だ。
「……この酒は美味い。それは自慢できる。しかし、じゃあ品評会に出して金賞が取れるかとなると、否だ。その水準には程遠い」
味のことだけではない。
今回、俺たちは楽をしていた。
なぜなら、普通の酒蔵なら、複数の銘柄を一冬で造る。
精米歩合が違ったり、米の種類が違ったり。
ゆえに複数の作業を同時進行するのが通常だ。
なのに俺たちは、麹造りならそれだけ。酒母造りならそれだけ。
一つの作業を集中して行えた。
無論、最初だからあえてそうしたのだが……今後生産量を増やしていくなら、今年のような楽はもうできない。
「でしょうね。でも、日本酒が存在しない世界でゼロから造って、一年目でこれよ。素直に喜びなさいよ」
「喜んでるさ。その上で、もっと美味い酒を造りたいと思ってしまう。俺は欲深い男なんだよ」
「ふーん。じゃあ、そんなツカサを独り占めしてる私も、欲深い女かしら?」
ハルカは俺の腕に自分の腕を絡めてきた。
「おいおい。皆がいる前で積極的だな。もう酔ったのか?」
「ちょっとね。けど、大丈夫よ。誰も見てないわ。ほら、ツカサの造った酒に夢中」
なるほど。
全員が草の上に座り、桜を見ながら酒を飲むことに熱心だ。
これならどんな話をしても、聞かれることはない。
「ところでツカサ。酒の名前、決めなくていいの?」
「それなんだが……ずっと悩んでたんだよ。なにせ、この酒は俺とハルカの子供みたいなものだからな。適当な名前はつけられない」
俺がそう答えると、ハルカは頬を桜色に染める。
「子供、か……そうね、このお酒、私とツカサの子供なのね」
「そういうこと。で、この光景をそのまま借りたらいいんじゃないかと思った」
「この光景?」
「楽桜。これでどうだろう?」
桜の木の下で、村人から女王陛下までが楽しく一緒に酒を飲んでいる。
普通ならあり得ない光景だが……それを実現させてしまう酒なのだ。
「楽桜……うん、いいと思う。最高の名前だわ」
「ハルカならそう言ってくれると思ってたよ。ところでさ。前に、子供ができたら結婚しようって話したよな? 覚えてるか?」
「覚えてる、けど……」
「で、この酒は俺らの子供なわけじゃん? だからさ」
俺はそこで一度言葉を切り、ハルカの顔を見ながら申し込む。
「結婚しようぜ」
「……うん!」
ハルカは一呼吸おいて、満面の笑みで頷いた。
瞬間、春風が吹く。
桜の花びらがわずかに舞って、酒の上に落ちる。
まるで楽桜が、俺とハルカを祝福してくれているような気がした。
俺とハルカはそっと唇を重ねてから、宴の輪に加わる。
そして誰かが宣言していたとおり、それは日が暮れるまで続いた。
この酒を売りに出せば、買った人が同じように花見を楽しんでくれるだろうか。
きっと楽しんでくれるだろう。
アルバーン王国の春は、まだ始まったばかりなのだから――。
第一部、完!
第二部もいつか書きたいですが、いつになるか分かりません!
ちょっくら資料集めしてくるぜ!!




