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30 完成

 発酵タンクは二つある。

 俺とハルカは、一日に四回ほどその様子を見て、香りを嗅ぎ、耳を澄まして音を聞く。

 俺たち以外に誰もいない酒蔵は、静寂に包まれている。

 その中に、醪の発酵の音が静かに染みこんでいた。

 あるときは、小鳥のさえずりに聞こえる。

 あるときは、水のせせらぎのようにも聞こえる。

 そしてときたま、胎児の鼓動のようにも聞こえるのだ。


 発酵現象により中央部の温度が上がり、対流現象が起きている。

 まるで本当に生きているかのようだ。


 酵母菌がブドウ糖を分解し、アルコールと炭酸ガスを発生させていた。

 クリーム色の表面に立つ、大きな泡、小さな泡。

 醪が見せる表情は毎日変わる。

 俺は毎日、朝と夕に二回それを掻き混ぜて、全体の温度を均一にする。


 アルコールが増えていくと、やがて酵母菌が死んでいく。死んだ酵母菌はアミノ酸に変わる。

 発酵タンク内部の酵母菌が減るにつれ、表面の泡も少なくなっていく。

 俺はそれを観察しつつ、醪の味見をして『搾り』の日を決断しなければならない。

 本当なら、アルコール度数、アミノ酸の量、酸度などを機械で測定したいところだ。しかし、この世界でそれは叶わない。

 それに機械測定が可能だとしても、最後に勝負を決めるのは、やはり杜氏の勘。

 全ては俺が決める。


 そして、醪の仕込みを始めてから二十一日目。

 俺は味と香りを確かめてから、ハルカに向かって呟く。


「一号タンクは明日の早朝に搾るぞ」




 発酵タンクにハシゴをかけて、俺とハルカが大きなひしゃくで醪をすくう。

 そして、村人たちが持っている木綿で作った袋、『酒袋』に醪を入れていく。

 村人たちは醪の入った酒袋を、『(ふね)』と呼ばれる木箱の中にキッチリと積み上げていく。


 すると醪は自らの重みで搾られ、槽の口から、液体が顔を出した。

 樽の中にたまっていくそれは、間違いなく日本酒の香りを放っている。

 ちょろちょろと流れ落ちる音が、俺には産声に聞こえて仕方なかった。


「ねえツカサ、大変よ! お酒が白く濁ってる!」


 ハルカは樽に貯まっていく日本酒を見つめ、裏返った声で叫ぶ。

 確かに今流れている酒は、どぶろくほどではないにしろ、濁っている。

 しかし、問題ない。


「搾って一番最初に出てくる酒は濁ってるものなんだよ。『荒走り』っていうんだ。お前、知らなかったのか?」


 俺が尋ねると、ハルカはハッとした顔になり、それから頬を膨らませる。


「し、知ってるわよ! ただちょっと慌てただけよ!」

「ふーん。まあ、この辺が本の知識でしか知らない奴と、実践を経験した俺の違いだな」

「もう、いじわる!」


 木綿の繊維は荒い。

 ゆえに、こうして酒粕ごと流れてくる。

 酒粕が混じった酒を『荒走り』と呼ぶ。荒走りは香りが強く、そして見た目に反してみずみずしい味わいだ。


「皆、ちょっとだけなら味見していいぞ。ちゃんとコップも用意してある」


 俺がそう言うと、ハルカを含め、ルシールやエヴァンといった村人連中が、我先にと樽から荒走りを組み上げ飲む。槽の口から直接注いでいる奴もいる。

 そして無論、俺も飲む。


「あ、美味しい……!」


 ハルカは一口飲んだだけで頬を緩ませた。

 そして俺もまた、美味いと感じた。

 これはしょせん荒走りに過ぎずない。そして、まだ熟成させていない新酒だ。これから味が変わっていくし、二号タンクだって残っている。

 だが、それでも。

 この日本酒の存在しない世界でゼロから造り上げた日本酒。

 ド素人の村人たちを率いて、曲がりなりにも完成させた日本酒。

 その最初の一口を、こうして無事に飲むことができた。

 ああ、涙が出そうだ。


「これがニホンシュ……ッ! どぶろくでも美味いと思ったが……こりゃすげぇ!」

「飲みやすさが半端じゃないぞ。これならいくらでもいける!」

「こんな美味い酒がこの世にあったなんて……」

「バカ。この世になかったものを今、勇者様と賢者様が造ったんだよ!」


 村人たちの口にも合ったようだ。

 これだけ苦労して造ったのに、異世界人の口には合いませんでしたというオチだったら悲しすぎる。

 だが、それは杞憂に終わった。

 みんな、笑顔になっている。


「勇者様。ニホンシュ、大変美味しいです! もっと飲んでもいいでしょうか?」


 ルシールがスキップするようにしてやってきた。

 しかし、流石にこれ以上飲ませては、製品にする分がなくなってしまう。


「味見はここまでだ。作業はまだ続くんだから、酔いつぶれたら困るだろ」


 俺の一言で、ルシール以外の村人たちも、搾りがまだまだこれからだと思い出してくれた。

 酒が流れる勢いが弱まってきたので、酒袋を更に積み上げていく。

 それをくり返し、一号タンクが空になるまで酒袋を槽に乗せる。

 ついに荒搾りが出なくなった。


「別の樽を持ってこい。酒袋の上に重しを乗せて、更に搾るぞ」


 白く濁った荒走りが入った樽を退かし、空の樽を設置する。

 それから酒袋に、平らな石を置く。

 すると石の重みで酒袋の中の醪が搾られ、今度は透明な酒が流れ出した。

 先程の荒走りにより木綿の繊維に酒粕が詰まり、その酒粕が醪を濾過して濁りのない日本酒を生み出しているのだ。

 こうして出てきた透明な日本酒を『中垂れ』という。

 中垂れは非常にバランスのとれた味わいで、品評会に出されるのは主にこの部分だ。


 こうして一日かけて醪を搾った次の日。

 更に石を載せて、搾り直す。

 こうして出てきた酒は『責め』と呼ぶ。

 責めはアルコール度数が高く、雑味が多いので、このまま商品にすることはない。

 荒走りや中垂れとブレンドして使う。


「これで終り? 搾りきったの?」

「ああ。一号タンクはな。二号タンクも明日搾る。皆、よろしく頼むぞ」


 俺は一号タンクの出来映えに満足し、その日はハルカとともにぐっすりと寝た。

 しかし、次の日。

 二号タンクの荒走りを飲んだ瞬間、電流が走った。


「う、まい……美味いぞ、これ!」


 まるで口の中から体中に染み渡っていくような感触だ。

 水のように飲みやすいのに、そのくせコクもある。


「ほんと! 一号タンクよりいいわ! でも、どうして? 同じ米と水を使って、同じように仕込んだのに……」

「それが酒造りの不思議なところだな……何十年という経験を積んだ杜氏でも、全く同じ酒を造ることは不可能だ。しかし、そうか。俺とハルカと……そしてハイン村の皆で造ったんだな、これ」


 このまま日本の酒屋に並べても通用する味だ。


「ずるいですよ。二人だけで盛り上がって。わたくしたちにも飲ませてください!」

「そうだぜ。そんなに美味い美味いって言いながら、俺らには味見させないとかねーよな?」


 ルシールとエヴァンが本気の顔で迫ってくる。


「仕方ないな……けど、このあと中垂れもあるんだからな。飲み過ぎるなよ!」


 そして、二号タンクの中垂れは、珠玉の出来だった。

 ハイン村の人々は、それを一口飲んだ瞬間に固まり、言葉を失った。


「これは……もう神の水ですね……」


 ルシールがそんな言葉を絞り出す。

 大げさだ、と日本酒を飲み慣れた俺は思った。

 思ったが、しかし。

 絞りたてでこれほどの味ならば、熟成させたらどうなるのだろう。

 それを思うと、興奮がとまらない。

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