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29 仲添と留添と赤ん坊

 三段仕込みの二段目である『仲添』も、基本的には『初添』と変わらない。

 発酵タンクの状態を確認しながら、水、麹、蒸米を加えていく。

 ただし、初添よりも加える量が多い。おおよそ倍。

 その分、重労働だ。

 また、初添は十二度で仕込んだが、仲添は十度まで下げる。


 そして三段目の『留添』の日。

 追加する水、麹、蒸米の量は、昨日の更に倍。

 この日を以てして、ロランが持ってきてくれた全てのエルフ米を使い切った。

 発酵タンクの縁のすぐそばまで水位が上がっている。

 これほどの量になると、棒で掻き混ぜるのも大変だ。

 だが、三段階に分けて仕込んだから、なんとか人間の力でも撹拌できる。

 これが一度にやっていたら、分解されていない数百キロの蒸米を丸ごと相手にする必要がある。

 仕込み温度は八度から九度だ。

 寒い冬だから、温度を下げる分には楽でいい。

 冬の冷気でも足りない場合は、ハルカの魔力で冷却する。日本ならタンクの周りに氷を積み上げる。

 日本酒造りを冬に行なうのには、そういった理由があるのだ。


「ふう……これで三段仕込みは終了だ。醪が完成するまであと十七日くらいか……あるいは二十日以上かかるか、それは酵母菌の機嫌次第だな」


 とはいえ、完成まで温度管理は休めない。

 それに発酵が進めば、泡が立ち、タンクから溢れてしまうので、掻き混ぜて泡を消してやる必要がある。


「あとは俺とハルカだけで大丈夫だろう。今日はいつも通り、道具を洗って、掃除して、それで解散だ。醪を搾るときはまた手伝ってもらうから、よろしく頼む」


 俺が皆の前で語っていると、そこにルシールとレイチェルが走ってやって来た。

 寒い冬なのに、汗を流し、息を切らしている。

 普段はのんびりした顔のレイチェルまで危機迫る表情になっていた。

 これはまさか……。


「た、大変ですよエヴァンさん! イライザさんが、イライザさんが!」

「赤ちゃん産まれそう!」


 酒蔵に緊張が走る。


「な、なにぃぃぃ!?」


 エヴァンの絶叫が響いた。

 そして次の瞬間、彼はレイチェルを抱きかかえて走り出していた。

 まるでモンスターの群れに突っ込む、特攻隊長の如き速さである。


「お、お父さん待って……速い、目が回る……!」


 そんなレイチェルの悲鳴も、一瞬で遠ざかってしまった。


「どんだけ慌ててんだよ……まあ、無理もないけど」

「そうね。で、イライザさんは大丈夫なの、ルシール」

「はい。産婆さんがついているから大丈夫です。けれど、わたくしたちも応援に行きましょう!」


 小さな村で新しい命が生まれるのは一大イベントだ。

 俺たちは酒蔵の掃除を後回しにして、ゾロゾロとエヴァンの家に向かう。

 すると、家の中から、オギャーオギャーと元気な声が聞こえてきた。


「ど、どうしようツカサ! 赤ちゃんが、赤ちゃんが!」


 ハルカは産声を聞き、目を白黒させる。


「なぜそこでお前が慌てる。けど、無事に生まれたなら俺たちは帰るか。邪魔になるばかりだろ。酒蔵の掃除もまだだし」

「そうですね。男の子か女の子か分かりませんが、教会で洗礼するのが楽しみです」


 ルシールはしみじみと呟いた。

 そう言えば、この村の教会はルシールが一人でやっているのだった。

 何とありがたみのない洗礼だろうか。


「おい、産まれたぞ、産まれたぞ!」


 俺たちが引き返そうとしていると、エヴァンが飛び出してきた。


「知ってるよ。泣き声が、ほら。外まで聞こえてる」

「おお、本当だ! 俺の子ながら実に元気だ! それでツカサとハルカ。お前ら、俺の子をちょっと抱いてくれよ」

「え、どうして俺たちが? ありがたいけど、まずは家族でやれよ」

「もちろん、もう抱いたさ。けど、お前ら世界を救った勇者と賢者だろ。産まれてすぐそんな二人に抱いてもらったとなれば、きっと女神の祝福があるぜ!」


 なるほど。

 言われてみれば、俺たちは英雄だった。

 未だに実感はないが、それでエヴァンが喜んでくれるなら、赤ちゃんを抱かせてもらおう。


「そういうことなら喜んで」

「そうね。私も赤ちゃん抱きたかったし!」

「助かる。少なくともルシールの洗礼よりはありがたみがあるぜ」

「ちょ、ちょっと酷くないですかぁ!?」


 ルシールは「ひぃぃぃん」と泣きべそをかく。

 その哀れなシスターさんのおもりは村人たちに任せて、俺とハルカはエヴァンの家に入っていく。


「自分の子供じゃないのに緊張してきた……」

「わ、私も……!」


 出産を終えたイライザさんが、ベッドの上で赤ん坊を抱きしめていた。

 疲れ切っているだろうに、それを顔には浮かべず、聖母のような微笑みで我が子を見つめる。

 そしてレイチェルがベッドに身を乗り出して、この世界に産まれてきたばかりの新たな家族に、物珍しそうな目を向けていた。


「あら、勇者様に賢者様。わざわざ来てくれたんですか? ではどうか、この子を抱いてあげてください」

「妹! 妹だった!」


 あの大人しいレイチェルが、大きな声で訴えてくる。

 命が産まれる瞬間を見て興奮しているのか。それとも家族が増えたことが単純に嬉しいのか。いや、きっと両方なのだろう。


「最初に私が抱いてもいい?」


 ハルカは何やら遠慮がちに聞いてくる。

 俺が黙って頷くと、恐る恐るといった感じでベッドに近づき、イライザさんから赤ん坊を受け取り、不慣れな手付きで抱き上げた。


「わっ、動いてる!」

「ふふ。そんなに小さいのに力強くて、凄いでしょう?」


 イライザさんは赤ちゃんが元気に生まれてきたことを安堵するように、そして自慢げに呟く。


「私と違って暴れん坊になりそう」

「あら。レイチェルだって、赤ちゃんのときは凄かったのよ」

「そうなの?」


 レイチェルは首を傾げて、身に覚えがないという顔をする。


「ねえ、ツカサ。あなたもこっちに来て見て見なさいよ。赤ちゃんよ赤ちゃん!」

「そんな興奮するなよ。赤ちゃんがビックリするだろ」


 とはいえ、俺も興味津々だった。

 ハルカの前に立ち、その腕の中にいる小さな体を覗き込む。

 すると、目が合った。

 こんなに小さいのにちゃんと動いている。そんな当たり前のことが不思議で、心が震えた。

 俺はそっと指を伸ばしてみる。

 赤ん坊はそれを握り替えしてきた。

 思っていたより、ずっと強い力だった。


 神刻の保持者である俺とハルカは、おそらく子供を授かることはない。

 しかし、他人の子とはいえ、こうしてハルカが赤ん坊を抱いて、俺がそれを見ている。

 俺たちが魔王を倒したからこその光景だ。

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