19 種麹完成
エヴァンや、その他の村人たちの協力を得て、麹蓋は完成した。
そして、教会から椅子を外に出し、スペースを広くし、いよいよ麹カビの繁殖を始める。
日本酒造りに使う麹カビを『種麹』という。その種麹を作るのだ。
だが、ここで問題が浮上する。
俺は確かに酒蔵の息子で、実際に酒を造ったことがある。
ところが、そのときに使った種麹は、種麹屋から買ってきたものだ。
これは俺の実家だけでなく、日本中ほとんど全ての酒蔵がやっていることである。
一応、種麹の作り方は知識として知っているが……成功するかは神のみぞ知るところ。
「大丈夫よ、ツカサ。だって教会で作るんだから。女神様も見守ってくれるわ」
「そうだな。罰は全部ルシールが被ってくれたし。何とかなるだろ」
また、俺たちには大きな武器があるのだ。
それは、ハルカが魔術に秀でた賢者だということだ。
つまり、温度管理が容易なのだ。
酒造りはほとんど全ての工程で温度管理に神経を使う。
現代日本なら機械で部屋の温度をコントロール出来るが、この世界では無理だ。
ビールやワインを造っている人たちには本当に頭が下がるが、俺たちは楽をさせてもらおう。
「俺も魔術が使えるけど、やっぱ賢者のほうが精度が高いからな。頼りにしているぞハルカ」
「任せて頂戴。小数点レベルで調節してあげるわ」
種麹を作るのに必要なのは、まず精米した米だ。
ただし、酒造りとは違って、白くなるほど精米する必要はない。
玄米に軽く傷をつける程度でよい。
精米は既に、王都の水車で済ませてある。
洗米はさっき終わらせた。米俵一つ分の米を洗うのは骨が折れる作業で、ルシールにも手伝わせたところ、ヘトヘトになって途中で寝込んでしまった。
しかし、俺たちには眠っている時間はない。
村人が全員寝静まった真夜中。かつてワイン造りに使われていた井戸の前で、俺たちは魔力の明かりの下で作業を行なっていた。
一度洗った米に、更に水を染みこませる浸漬という作業だ。
これは季節によってかかる時間が変わる。
真夏ならば五時間で済むし、冬なら二十四時間はかかる。
今は六月初頭なので、十二時間程度だ。
「よし。十分に水に浸したな。教会まで運ぶぞ。水を溢すなよ」
「ツカサこそ気をつけなさい。あんた結構おっちょこちょいなんだから」
俵一つ分の米と、それを満たす大量の水が入った巨大な桶。
それを俺とハルカは、慎重に運んでいく。
教会の真ん中に桶を降ろして、ふう、と安堵の息を吐いた。
この教会にある時計は、村唯一のものだ。それで時間を確認すると、零時を少し過ぎた頃。このまま十二時間、放置しておけばよい。
「やれやれ。久しぶりに神経を使ったな」
「ほんとよ……早く寝たいわ」
そして次の日の正午。
ルシールが教会の鐘を叩いて、その時間を村中に教えてくれた。
村人にとってそれは、昼飯時を伝える鐘だ。
だが、俺とハルカにとっては仕事の始まりを告げる鐘だ。
俺とハルカは教会に急ぐ。
ルシールも見学にやってきた。
俺たちは米に水が十分染みこんでいるのを確認して、桶の水を捨てる。ザルを使ってよーく水を切る。
「ルシール。ビール密造に使ったという大鍋を貸してくれ」
「これですわ」
大鍋に米を入れ、そして居酒屋の厨房まで持っていく。
そしてかまどに火を入れ、一時間近く徹底的に米を蒸す。
それが終わると、大鍋を持って、また教会へ走る。忙しい忙しい。
次は長テーブルに清潔なシートをかぶせ、その上に蒸した米を広げる。
米が七十度ほどに冷めたら、木灰をほんのちょっぴり、全体の一%ほど混ぜる。
木灰を混ぜると、麹カビの育ちが良くなるのだ。
ちなみに椿の木灰が最良といわれているので、ちゃんと王都で入手してきた。
抜かりはない。
そして、米が四十度くらいに冷めると、いよいよ麹カビを振りかける。
この麹カビは、前にどぶろく用に培養したものを、シャーレで更に増やしたものだ。
「ところでツカサ。木灰をいれるとどうして麹カビの育ちが良くなるか知ってる?」
「いや、そこまでは……」
「木灰を入れると、米がアルカリ性になるのよ。麹カビはアルカリ性の中でも育つけど、弱い他の雑菌が死んじゃうのよ。それと木灰に含まれるミネラルが、麹カビの栄養になるの」
「へえ。流石は賢者。雑学大魔神だな」
「まあね……って、誰が大魔神よ!」
褒めてやったのに、ハルカはぷんすか怒り出す。
しかし流石、大学の醸造学科に行こうとしていただけのことはある。
こういった科学的知識においては、俺より詳しい。
「よし。米を掻き混ぜるぞ。ルシールも手伝ってくれ」
「はい、喜んで!」
俺たち三人は手をよく洗ってから、米と麹カビと木灰が均一になるよう混ぜる。
それが終わると、次は米を麹蓋に移す作業だ。
杉の木で作った箱。つまり麹蓋数十個に、米を入れていく。
面倒な工程だが、小さい箱で小分けに管理することで、温度管理を容易にするのだ。
この麹蓋を積み重ね、そして教会内部の温度を三十五度まで上昇させる。
「ハルカ、頼む」
「任せなさい!」
ハルカの魔術により、室温が一気に上昇した。
流石は賢者だ。
これが魔術師の神刻なら、このような微妙な温度管理ができず、教会を炎で包んでいただろう。
勇者である俺でも、ここまで微妙なコントロールは難しい。
「よし……これで一段落だ。ルシール。手伝ってくれてありがとう」
「ほんと、助かったわ」
「いえいえ。これも全てはニホンシュが飲みたいため……もとい、勇者様と賢者様のお手伝いをするのは、この世界に住む者として当然のことですわ」
ルシールはそう言って、疲れたから昼寝すると言って教会の外に出ていった。
俺たちも休憩したいのは山々だが、まだやることがあった。
まず、教会内部の温度を一定に保つための魔術式を構築して展開する。
これが現代日本ならヒーターや冷房を使えばいいのだが、この世界では賢者の魔術に頼るしかない。
魔術式には、更に除湿の効果もつける。部屋の湿度を下げることにより、麹カビが水分を求めて米の内部へと根付いていくのだ。
「うぅ……流石に面倒な術式ね……」
「頑張れハルカ!」
ハルカの足元から魔法陣が広がり、教会の床に刻まれた。魔法陣が消えるまで、ここは真夏のような温度をキープし続けるだろう。
そして、魔法陣を長持ちさせるため、この教会の壁一面に断熱用の結界を張り、熱が逃げないようにする。これは単純な魔術なので、俺も手伝うことができた。
「ふう、やっと一息つけるな。ハルカ、お疲れ」
「本当に疲れたわ。ちょっと、なでなでしてよ……」
賢者様は急に甘え始めた。疲れがたまって、自分のツンデレキャラを忘れてしまったのかも知れない。
お望みどおり、なでなでしてから外に出ると、木陰でルシールがスヤスヤお昼寝していた。気持ちよさそうだったので、俺たちもその隣にお邪魔して昼寝する。
やがて目が覚めると、教会の塔の時計が三時を指していた。
「あれ? たしか三時にも鐘を鳴らさなきゃいけないのよね?」
「そのはずだが……ルシールは熟睡しているぞ」
肩を揺すっても、ほっぺをつねっても、最後の手段とばかりにビンタしても起きない。もしや死んでいるのではと不安になったが、「ビール美味しいです……」などと不届きな寝言が聞こえてきた。
「ふざけやがって。このまま放置してやろうか」
「まあ、ルシールはどうなっても自業自得だけど。鐘を鳴らさないと村人が困るわ」
当たり前だが、この世界はまだ腕時計が発明されていない。
だから人々は教会の鐘を基準に行動する。
六時に目を覚まし、十二時に昼食を食べ、三時には休憩を取り、六時に仕事を終えて家に帰り、そして九時の鐘で皆が眠りにつく。
どうしたものかと悩んでいると、畑のほうからレイチェルがトコトコ走ってきた。
「お父さんとお母さんが、鐘はまだか聞いてこいって」
「うーむ……ご覧のとおり、鐘を鳴らすはずのシスターが寝てるから……」
「やっぱり」
レイチェルは特に驚いた様子もなく、ルシールの頬を指先でプニプニする。
どうやらこのシスター。居眠りの常習犯らしい。
もしかして、領主の次男坊を追い出したのは失敗だったんじゃないのか?
「仕方がない。俺らで鳴らすか」
教会の塔に登り、三人で紐を思いっきり引っ張って、ガゴーンガゴーンと鳴らしてやった。その音でようやくルシールは目を覚まし、口からヨダレを垂らしたまま、慌てて塔を登ってくる。
「今更来ても遅いぞ」
「もう鳴らしちゃったわよ」
「ルシール。おねぼうさん」
「うぅ……違うのです。居眠りしていたのではなく、つい瞑想に集中してしまって……」
レイチェルですら呆れるような言い訳をするシスターを放置して、俺とハルカは再び教会に入る。
そして積み上げられた麹蓋の並びを入れ替えた。定期的にこうすることで、各麹蓋の温度を一定に保つのだ。
「夜中とかどうするの?」
「ちょいちょい起きて、見に来るしかない」
「面倒ねぇ……」
「日本酒造りが始まったら、この比じゃないぞ」
「げえ……」
こうして数日間、俺たちは地道な作業を続けた。
そして米の内部に麹カビが十分に根付いたことを確認してから、今度は湿度を一気に上昇させる。ステンドグラスが水滴に覆われるくらいの、超高湿度だ。
今まで米の水分だけに頼って増殖していた麹カビが、今度は空気中の水分を求めて外に出てくる。
米表面で麹カビが繁殖を始め、胞子が形成されていく。
そして米に麹カビを振りかけてから一週間が経過した頃。
もはやこれ以上ないというくらい、米は麹カビに覆い尽くされ、黄色く変色していた。
しかし、まだ完成ではない。
なぜなら、このまま冬まで放置しておくと腐ってしまう。
そこで、再び賢者の出番だ。
「行けハルカ! 熱風だ!」
「うりゃぁぁ!」
ハルカの手の平から、熱風が噴き出し、麹カビと米を乾燥させていく。
パサパサに乾いたそれは、もう米の面影がなかった。
なにせ内部まで麹カビに支配されている。
これこそが種麹。
完全に乾燥しているが、再び水分を与えれば中の麹カビがまた元気に動き出す。
初めてで不安だったが、これで何とか完成だ。
「種麹ゲットね! あとは酒蔵の完成を待つだけよ!」
「うむ。ちょっと造りすぎたような気もするが……少ないよりはマシだ。これで来年以降も安心だ」
それどころか、俺たち以外にも日本酒を造りたいという者が現われたら、分け与えることができる。