家に帰って
玄関を開けてただいまあと奥に声を掛けると、左手の居間から、妹の真琴がひょっこり顔を出す。
「姉たん、お帰りい」
真琴は四歳児らしい、どことなく覚束ない足取りでトコトコと駆け寄ってきて、框に腰かけて靴を揃える私にしがみついてきた。
我が家は古い。
今は亡き祖父が終戦直後建てたもので、幾つかの修復はしたものの当時から内装もほとんど変わっていない。
「いえーい、ただいまあ」
立ち上がると同時に真琴の体を抱っこして持ち上げる。素直な性格で大好きな妹だ。可愛くて可愛くて仕方ない。
居間に入ってもう一度、ただいまというと、料理を盛った皿を両手に母が台所からちょうど出てきたところでおかえりと言ってきた。
その反対に畳に寝転んでゲームをしている弟の隼人は、私を無視してゲームに夢中となっている。 小学五年生となる弟だが、生意気盛りで真琴と違ってちっとも可愛くない。
「隼人もお母さんを手伝いな」
着替えようと真琴を降ろすと、私は居間をでるついでに、隼人の頭をコツンとこづいた。
「何すんだよ!この暴力女!」
「手伝いもしないで遊んでいる、甲斐性無しの男に言われたくないわねえ」
私は言い返せず悔しそうに睨む隼人へ、勝ち誇った笑みを置き土産すると、さっさと鞄を持って二階へと掛け上がっていった。
「うるせえ暴力女!ばーか、ブース、ブース!」
「隼人、早く手伝いなさい!」
階下から悪態をつく隼人に、母の叱責が飛ぶ。
良い気味だと思いながら私は自室に入った。
「折原さん、引っ越しちゃうの?」
ちゃぶ台を囲んで食事中、私が折原のことを話すと寂しくなるわねと、残念そうに呟いた。何度か家に遊びに来ているから、母は折原の人となりをよく知っている。
「姉ちゃん、朱音さんが引っ越してマジなの?」
意外なのは隼人の反応だった。引っ越しの話を聞かせた時、一番驚いたのが隼人だったからだ。箸にごはんをつけたまま、その手は微動だにしない。
「うん。中休連が終わる頃には引っ越すんだって」
「嘘だろ……。何で、何でそんなに平気な顔して言えるんだよ。大切な友達だろ?」
「平気じゃないけど、明日すぐてわけじゃないし、最後の大会だってあるわけだから、今から落ち込んでられないでしょ。折原だってそうだよ」
「いや、だけどさ……」
「なに?随分と折原のこと気にしてんのね。大好きな折原姉さん、いなくなるのが寂しいの?」
からかうつもりで言ったのだが、隼人は口を固く結んで私に鋭い目をむけた。 顔が真っ赤だ。
すると、みるみる表情が歪んでいき、丸めた紙みたいにくしゃくしゃなってしまった。驚いたことに眼の端に涙が浮かんでいる。
「……もう、ごはんいらない」
そう言って隼人は立ち上がると居間から出ていこうした。
「兄ちゃん、デザートのプリンはいらんの?」
真琴が無邪気に尋ねると、隼人はお前にやると小声で言って居間出て、二階に駆け上がっていった。
「どうしたの?あいつ」
「バカね、あんたは」
母は台所からラップを持ってきて隼人が残したおかずの皿をくるみ始める。
「隼人は折原さんのこと好きなのよ。気がつかなかったの?」
「あいつが?折原のこと?」
「あんたと違って穏やかで優しいし、背が高くていかにもお姉さんて感じでしょ」
「あんたと違っては言い過ぎじゃん……」
「とにかく、謝らなくていいけど、励ますくらいはしときなさいよ」
母はラップでくるんだ皿を持って立ち上がった。おそらく落ち着けば、隼人がお腹を空かして降りてくるとにらんでのことだろう。
「あいつが折原をねえ……」
あいつも男なんだなあと変な感心みたいなものが湧いてきて、隼人が駆け上がっていった階段の方を見つめていた。
隣では真琴が、うまいうまいと舌を鳴らしながら、プリンを頬張っていた。
※
体育館の入り口が何やら騒がしくなり、私はシュートを打つ手を休めて見ていると、三年のキュプテンを務める篠塚先輩が他の先輩たちと騒ぎながら入ってきた。
手には薄いパンフレットみたいなのを持っていて、それぞれ覗きこんでは「マジかよお」「ヒッデー」などと、悲鳴にも似た声をあげている。
「お疲れさまでえす」
私が先輩たちに挨拶すると、挨拶には応えず、磯崎ちょっと来なよと私を慌ただしく手招きして呼んだ。
「どうしたんですか?」
「先生からパンフ貰ったんだけど見なよ。ヒッデーから。ヒガイチと三回戦だって」
ヒガイチとは山崎さんがいる強豪成田東一中の略称だ。
「これじゃアタシら、ベスト16前にぶつかるわけじゃん。うちら去年と春にエイト入りしたのに、この組み合わせありえなさすぎね?」
どういうこったよとキャプテンの愚痴は続く。いつの間にか周囲には、折原他部員が集まっていて、「まじでー」とか「ありえねー」といった声が飛び交っている。
いきなり負けムードみたいなチームの雰囲気には不満があったが、気持ちはわからないでもない。
成田東一中はそれだけ強い。
「山崎さんとかあ、困ったねえ」
折原が近づいてきてそんなこと言ったが、その表情はちっとも困っているようには見えない。
「アンタは楽しそうね」
「そりゃ、この全国常連校に勝てば、16とか8どこじゃなく、優勝でしょ?凄いことじゃない」
「……」
「去年の夏、春とヒガイチとは負けたけど接戦だったし、春にはベスト4の吾妻南中にも勝ってる。ここ乗りきったら優勝を考えても良いと思うけどな。向こうは負けたら全国どころか16にも入れなくなるから、相当プレッシャーがあると思うよ」
事も無げな口ぶりで話す折原の言葉を私だけでなく、周囲の部員たちも、真剣な表情で耳を傾けて聞いていた。
「だから、私たちには実力やチャンスもある。思いっきりぶつかろうよ」
折原が部員たちを見渡し、語り終えるとシンと静まり返っていた館内に、ざわめきが起き始めた。
「チャンスかあ」、「そうだよね。ヒガイチのがキツイはずだよね」と部員たちからは暗い表情が消え、言葉には明るさが戻り、表情には気合いと希望に満ち溢れている。
キャプテンが「よし、優勝を目指そう!」と檄を飛ばすと、みんなは一斉に拳をあげて「オウ!」と叫んだ。
「みんな凄いね。さっきまで暗かったのに」
私も頑張らなくっちゃとニコニコしながら、折原は両手の拳を握りしめて、自分に気合いを入れ直している。
いや、凄いのはアンタだって。




