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石の上にも……

 「なんですって?!」

 「だから、婚約は解消したのよ」


 涼しい顔で、姉は言う。


 「全く、あんな婚約パーティーは聞いたことも見たこともないよ」


と長兄のハリーが続けて言う。


 「『婚約するつもりでしたが、よく考えたら合わないと思うので、やめることにしました』なんてさ。二人でにこにこしちゃって言うものだから、みんななんの冗談かと思ったよ」

 「でもさ、マデリーンが『この二人では、すぐに大げんかになって早晩離縁に至るのは目に見えていますので、結婚するだけ無駄かと』って言ったときは、みんなうなずいていたよ」


 これは2番目の兄クリス。続けてハリーが言う。


 「マデリーンは怖いからね。だからといって、ルーセントは折れてなんかやらないしな。似たもの夫婦でいいかと思ってたけどね」

 「二人ともいいかげんにしなさいよ。なんて失礼なのかしら。私のどこが怖いって?」


 これはマデリーン姉様。


 「「おお~、こわ~~」」


 兄二人が声をそろえる。


 いったいどういうことだろう。姉の婚約がだめになったというのに、この軽い雰囲気は。婚約パーティーだって、台無しに……って、パーティーは?!


 「え? パーティー? ああ、急遽、うちの薔薇を愛でるという名目の、普通の夜会になったのさ。楽しかったよな」


とクリス。母と父も話に加わる。


 「そうね。皆さんも楽しんでくださったし。久々にお会いできた方々もいらして、私もたのしめましたわ」

 「ああ、和やかでいい会だったな。大叔父の身体の具合も良さそうだったな」

 「そうですね、アデル大叔母様もご機嫌でいらしたし」


 わけがわからず呆然とする私に、家族はまるで大したことはなかったかのように話す。父と母の顔には少し疲れが見えるが、それはパーティーの翌日であることを考えれば、不思議なことではない。


 姉様に気をつかっているのだろうか……私がそう思ったのも無理はないだろう。一度は結婚してもいいと思ったのだ。それをやめたというのは、生半可な気持ちでやったことではないはずだ。

 みんなに置いていかれたような気分で、食欲の起こらない胃を叱咤して、軽くではあったが、なんとか夕食を押し込んだ。それを待って、マデリーンが言った。


 「マリー、あとで私の部屋に来てくれる?」

 「はい。はい、姉様」


 姉様がそう言ってくれなくても、私はそうするつもりだった。家族の前で、私の気持ちをぶちまけるわけにはいかない。私のせいでごめんなさい、と泣きわめくわけにはいかないのだ。



 マデリーンの部屋で、紅茶を運んでくれたメイドが下がると、私は口を開いた。


 「姉様っ、姉様、なんでっ!」

 「落ち着いて、マリー。事の次第を話すから」


 私は落ち着かない気持ちをなだめながら、半分浮かした腰をまた椅子に戻した。


 「びっくりしたのはわかるわ。でもね、あなたのことはただのきっかけだったのよ。わかっていると思うけれど、私とルーセントは愛し合って結婚を考えたのではないわ。どちらも適齢期で、まわりもうるさいし……ほんとにうるさかったのよ」


 頭にきちゃうわ、と姉は話す。

 姉の求婚者はほんとに大勢いた。才色兼備で知られた姉のことである。求婚者本人がその美貌にくらっとしたという輩だけでなく、「うちの息子にしっかりした嫁を」という親たちからも、ラブコールはすごかったのだ。しかし、姉は首を縦に振らなかった。「私に一生、猫をかぶって暮らせというの?」とのたまって。

 そう、姉はその激しい(兄たちに言わせると「こわい」)気性をおくびにもださず、淑女として振る舞っていた――――と本人はそう思っているのだ。確かに夜会などではわりとおとなしかったかもしれない。普段の本人よりは。しかし、隠しきれていなかったのは間違いない。それでも、そんな激しい気性でも求婚者が多かったのは、姉の魅力がずば抜けているからだと私は思っている。

 ルーセントも姉同様、ご令嬢方に人気があった。外見もなかなかだし、公爵家で代々外務大臣という家柄も魅力的なんだと思う。


 「あのねぇ。ルーセントも私も、まわりに寄ってくる人たちに辟易していたのよ。彼も私も、そこらのお坊ちゃんお嬢ちゃんでは太刀打ちできるわけがないのは、わかるでしょ?」


 わかる。

 本気で二人と議論したりけんかしたりしたら、それはひどい目に会うだろう。男だろうと女だろうと、相手が間違ったことを言っていたら容赦はしない。自分が納得がいくまで議論するし、相手が悪いと思ったら、徹底的にやりこめる。ただし、そこまでやるというのは、相手に敬意を持っているか、誰かを守る場合に限られる。それ以外の人にはもっといい加減な対応をしている。

 姉とルーセントは、小さいころから、意見が対立したときはしっかり議論してきた仲だ。しかも激しく。それは、近しい人には有名で、だから、兄たちも「似たもの夫婦」などと揶揄したのだ。


 そんな姉だが、彼女は自分の懐に入った人間にはものすごく優しい。私にはもう、甘いとしか言えない。だから、私の気持ちを知って、結婚を取りやめたのだと思うのは当然じゃないか。



 「だから、もう面倒くさいから結婚しちゃうか、って感じだったのよね。お互いの両親が反対するわけはないし。お互い嫌いなわけじゃないしね」


 今私たちが住んでいる王都の家の隣りにはルーセントの家、つまりシェファード公爵家の敷地がある。両家とも領地は別にあるのだが、父親の仕事の関係で、ふだんはこの王都に住んでいる。ルーセントの父親とうちの父が親しいせいで、私たちは小さい頃から家族ぐるみのおつきあいをしていて、もう嫁いでしまったルーセントの姉君などは、ルーセントより私たち姉妹をかわいがってくれたほどだ。故に、姉とルーセントの結婚は反対されることはないのはわかりきったことだった。

 そこで口を開こうとした私を手で制して、姉は話を続けた。


 「でもね、それはマリーにあんな顔をさせるためじゃないのよ。私もルーセントもびっくりしたし、ショックだった。自分たちの考えなしの行動のせいで、マリーにあんな顔をさせてしまったことが。だから、二人で話し合ったのよ。もう少しまじめに結婚というものを考えようって」


 「姉様……」とつぶやく私に、彼女は優しく、ごめんね、というようにほほえむ。そして、首を2~3回振って、ちょっとシリアスな顔をする。


 「でもね、マリー。私たちは婚約を取り消したけれど、もう将来的にお互いとは結婚しないということではないのよ。私も彼も、お互いを含めて、真剣に結婚してもいいという人を探そうということになったのよ」


 そう言ったあと、「マリーのおかげで、いい加減に結婚しなくて良かったと思ってる。感謝してるわ」と姉様は言った。


 どう考えていいのかわからなかった。なので、なにも言う言葉が見つからない。あれこれ考えながら目を泳がせている私に、姉は更にもう一言伝えた。


 「マリー、どういうことかわかる? ルーセントは誰か他の人と結婚するかもしれないってことよ」


 今まで兄弟のようにそばにいた彼が、もう近くにいることはなくなるかもしれないということ。義兄になる機会もいったんつぶれてしまった今、将来彼のそばにいる可能性はほぼ無いに等しい。そこで突きつけられた現実は、私の脳に大きな爆弾を落としたようで、その後数日は、考えるという行為もできず、ただふわふわと生活していたように思う。





 そして数日後、姉は、「結婚すると思っていたから、あきらめていたんだけど、私、文官の試験を受けることにしたわ」とまた爆弾を落とした……と思ったのは私だけで、家族は「やっぱりね」という顔だった。

 父は「うん。マデリーンなら大丈夫だろう。どの部署でもやれると思う。試験も受かるだろうしね」と言う。母は若干あきれた顔をしていたが、「がんばってちょうだい」と言った。兄たちは、ま、いいんじゃないの、という感じだ。


 そして、マデリーンは、私に向かって、


 「というわけだから、父様の秘書はあなたに任せるわ。しっかりね」


と明るい顔でのたまった。



 姉は当然の如く文官の試験をパスした。

 これをパスして文官になれば出世は間違いなしというだけあって、難関なことで有名な試験だ。貴族の子息の誰かが受かろうものなら、そのニュースはあっという間に社交界を駆け巡る。娘らの結婚相手候補として、たちまちリストアップされるのだ。それほどの試験なのに、姉がパスしたことに家のだれも驚かなかった。

 すぐにマデリーンはお城に出仕することとなる。


 そして、私は、姉の爆弾宣言のあとすぐに、父の秘書となるべく勉強を始めた。

 それからの毎日は、私にとっては怒濤の日々だった。うちは侯爵家。貴族の中でも位が高い方だ。故に、その領地は広い。しかも、父はその実直な性格と外交手腕を買われて、陛下の命で近隣の国からのお客様を国のあちこちに案内することもある。なので、その父の秘書となるからには、頭にいれなくてはならない知識がごまんとあった。

 うちの領地についてだけではなく、自分の国のこと、周りの国々のこと、もう経済から政治、文化、言語などなど、毎日、先生についてひたすら勉強の日々。友人とお茶会、などという暇はまったくなくなった。それどころか、食事の時間でさえ、兄たちにわからないところを質問しないと、次の先生の授業に間に合わないというありさまだった。今まで甘やかされてきたツケが一気にまわってきた。

 それから、苦手な夜会に出て、他の貴族と顔見知りになる必要もあった。兄たちにエスコートしてもらいながら、会話やダンスをこなすことは、私にとって心底骨が折れることだった。もちろん姉様のようにできるわけはないけれど、父の顔に泥をぬるわけにはいかない。もう、頭にあるのはそれだけだった。

  秘書の実務自体は、最初は執事のロンバートが彼の部下とともに私に変わって大部分をやってくれていたが、徐々に私に移行していくことになった。



 「本当に、私はなんて甘やかされてきたんだろう。今まで、お父様やお母様、お兄様やお姉様に甘えて、何にも学んで来なかった。まゆの中で大切に大切に守られて来たんだわ」と思うことしきりだった。私には兄や姉のような才はまるでない。ただただ真面目に一歩ずつ、いやいや行きつ戻りつ、それでも前に進んでいくしかなかった。

 今まで、私だけ家のために何もせずに来た。そのことを考えたら、弱音を吐くなどというのが許されるわけはない。父も母も、他の家族も、私の身体をいたわってくれはしたし、わからないところは何度でも教えてくれたけれど、「やらなくてもいい」とは言わなかった。そのことを私はうれしく思っていた。とうとう末っ子の私も、一人前になるべき人間として扱われているのだと思ったから。




 そうして、亀のような歩みではあったけれど、私なりの精一杯の努力を重ね、3年がたったころ、私は父の秘書として、なんとか仕事をこなせるようになった。領地に視察に行っても、最初は領民の前でおどおどしてきちんと話をすることもできなかった娘が、領民に明るく声をかけてもらえるようになった。

 父のスケジュールの管理などの秘書としての仕事、そして侯爵家のお金の管理や領民のトラブルの対処など、まだ満足という出来ではないにしろ、領主としての父のサポートはだいぶできるようになったと思う。

 人とのつきあい方も学んだ。他の貴族の前でも臆することなく、しかも控えめに振る舞えるようになった。もちろん、苦手なことには変わりがないけれど、ちょっとしたことで、赤くなったり青くなったりすることは滅多になくなったのだ。人間なんとかなるものだわ、と自分で思う。3年前の自分とはだいぶ違った生活をこなしている自分にびっくりだ。




 そんな頃、姉の結婚が決まった。

 お相手は、なんと宰相様だった。姉より8歳年上の、「やり手の宰相」だと諸外国にまで名が広まっている人である。もともとのきれいな造りの顔にその冷たい表情が似合いすぎて、ちょっと怖い感じのする人だ。

 「あのくらい腹黒な人じゃないと、私と渡り合えないでしょ」とは姉の言。そう言いつつ、姉は大輪の薔薇のような、匂い立つような美しさで笑った。なんというか、見ているものがくらっとしてしまうような艶がある笑顔だった。

 マデリーンは、「まじめに結婚というものを考え」て「真剣に結婚してもいいという人を探」せたのだと、姉の幸せそうな顔を見て思った。



 しかし、スキャンダラスなところは一つもないのに、こんなにセンセーションを巻き起こす結婚も珍しい。

 宰相様も一癖も二癖もあることで有名なお方だが、姉だって負けてはいない。そんじょそこらの殿方では対抗できない口と才知、そして美貌を兼ね備えた、これまた一筋縄ではいかない令嬢として名をはせている。ちまたでは、宰相様は「あの侯爵令嬢を落とした男」として「さすが」と株をあげたとか……。

 ともかくも、その年の社交界の話題はすべて、このカップルにさらわれたと言っていいような状況だった。

 当然、結婚式もすごかった。宰相の友人の皇太子様や隣国の王子様など、そうそうたるメンバーが集まり、自分が結婚するわけでもないのに、私はものすごく緊張してしまった。


 式にはルーセントも来ていた。

 姉はあんなこと言ってたけれど、ルーセントは姉のことを好きだったかもしれない。それはこの3年間、私の心の隅にずーっと巣くっていた思いだった。そのルーセントの気持ちを、私の振るまいが台無しにしてしまったのかもしれない。もしそうだったとしたら、お詫びをしなくちゃとずっと思っていた。

 でもその元凶である私の顔など見たくもないかもしれない。そう考えたらとても会うことなどできなかった。あの時の私は、ルーセントに嫌われるかもしれないと思うだけで、心臓がぎゅーっと押しつぶされそうだったのだ。

 だから、逃げた。ルーセントが私を冷たい目で見るかもしれないと思っただけで耐えられなくて、彼から逃げたのだ。もともと接点は少なかったが、それでもなるべく会わないように、会わないようにと行動するようにした。




 しかし、3年。

 姉は結婚した。ルーセントにも決まった人ができたかもしれない。もうそのくらいの年月が過ぎたのだ。私もちゃんとルーセントに謝って、自分のおかした罪を裁いてもらわなくては。


 「ルーセント様」


 結婚パーティーの会場は宰相様のお屋敷。その庭園でのパーティーは、秋の花々が一斉に咲き誇っていて、けれどもどこか優しい香りを漂わせ、姉の結婚を祝ってくれていた。その庭で、私はルーセントに声をかけた。もう兄様とは呼ばなかった。そんな年じゃないし、そう呼ぶことを許されるとは思えない。


 「マリー? ああ、マリー。久しぶりだね……。時々夜会などで見かけたけれど、君はいつも忙しそうで、こうして話すのは久しぶりだ」


 ルーセントは前と同じように、私に柔らかく笑った。


 「ちょっとお時間よろしいですか。お話ししたいことがあるのです」

 「……大丈夫だ。ああ、あの木の下のテーブルはどうかな。木陰だし、姿はここからも見えるけれど、少し離れているから、話は聞こえないだろうから」


 私はうなずいて、ルーセントのあとをついて行った。


 「それで、話って?」


 彼にしては珍しい。何の前振りもなく、いきなり話の核心をついてきた。こんな唐突な話し方をする人じゃなかったのに。他の人に対してはどうだかわからなかったが、私に対してはもっと穏やかで丁寧な話し方だった……そこまで考えて、はっとする。

 彼は私と話なんかしたくないのではないか。だから、さっさと話を終わらせたいのでは? そこまで考えて、焦った私は、いきなり「ごめんなさい!」と頭を下げてしまった。


 「お、おい、どうしたの、マリー? いきなり頭を下げて」

 「……本当は、3年前に言うはずだったことなのです。謝ったからといって、許されることではないのですけれど」

 「いったいなんのことを言ってるんだい?」

 「姉様との結婚を、私が駄目にしてしまったことです」

 「えっ?! マデリーンから理由を聞かなかったの?」

 「聞いています……でも、それは姉様の理由で……」

 「ええっ! ……じゃあ、マリーはぼくが彼女をあきらめたと思っていたの?」

 「もしかしたらそうじゃないかと。姉も結婚してもいいと思っていたくらいですから、愛情はあったのだと思っています。それが、もしかしたら、恋愛感情じゃなかったとしても。でも、でも、ルーセント様は、もしかしたら、本当に結婚したかったのでは、と。私があんなことを言い出さなければ、想いを遂げられたのではと……」


 そう言う私に、全く呆れたという顔で、早口でやや強い語調で、彼はこう言った。


 「なんてこった。3年間、本当にそう思っていたの? 信じられないよ。君の中で、ぼくはどれだけお人好しなの? あのね、ぼくは本当に手に入れたいと思ったら、絶対に離さない。どんな邪魔者があられようと、一度承知してくれた結婚を諦めるなんて、そんなことするような人間じゃない。たとえ、妹のようにかわいがっていた君の頼みであろうと、それに左右されることなんかないんだよ。全く、ぜんぜんわかってないよ、君は」


 そのときの私の顔はまるで馬鹿みたいだっただろう。口をぽかーんと開けて、ルーセントに見入ってしまった。

 この目の前の人はいったい誰なのだろう。いつも優しい声で、ほほえみながら私に話しかけてくれたあのルーセントとはまるで別人……。


 そんな私を見て、はっとしたように、彼は表情をやわらげた。


 「ああ、ごめん。びっくりしたんだな。そうだね。君の前で、ぼくはいつも穏やかだったからね。君はほんとに可愛くて、守ってあげなきゃいけない妹のようだったから。声を荒げる必要なんかなかったからね」


 そうだったのか。ああ、確かに、姉や兄たちと話すルーセントは、口調も少し強い感じだったな、とぼんやり思い出す。


 「でも、君は変わった。もちろん、大人になったのだから、見かけも変わったけれど……なんていうか、もういつでも守ってあげなければならない子どもではない」


 そこで言葉を切って、私の目をしっかりと見てこう続けた。


 「聞いているよ、お父上の秘書を立派に勤めていると。あれから、たったの3年、3年だぞ。……がんばったんだな。マリー、君はほんとにすごいよ」


 私は胸がいっぱいになった。

 私にできることなんか、ほんとに姉やルーセントに比べたら微々たるものだ。けれど、3年前の私は、一人で言葉も通じない異国に放り出されたような状態で、そのスタートからやっとぎりぎりの生活ができるようになったという感じなのだ。それだけ違う世界だった。それ故、つらくて部屋で泣いたことも数知れない。

 そんな私の努力を認めてくれる人がいる……そう思ったら駄目だった。もう私の涙腺はこらえきれずに決壊してしまった。大人になったとほめてもらったばかりなのに、このざまだ。

 いきなりぽろぽろと涙をこぼした私を見て、ルーセントはびっくりしたようだ。


 「えっ、あっ、どうしたんだ?! マリー、何か気に触ることを言ったか?!」

 「いいえ、いいえ。違うんです。うれしくて。私のことをそんなふうに言っていただけるなんて。まだまだ姉様の足下にも及ばないような状態なのに……。嬉しかったのです。ごめんなさい。……これでは淑女とは言えませんね」

 

 泣いてしまったために、私はパーティーの人混みにすぐに戻るわけにもいかなかった。ルーセントは私につきあって、そこで話をしてくれた。お互いの家族の近況や、最近の趣味のこと、仕事のこと……ほんとに他愛のないことばかりだったが、私の心はだんだんと温かくなっていった。ああ、これが「癒やされる」ということなのかもしれない、私はそう思った。もしかしたら、自分が思うより疲れていたのかもしれない。気を張り詰めて背伸びし続けた3年間へのご褒美のような気がした。

ルーセントには感謝してもしきれない気持ちでいっぱいだった。


 夕方が近づいていた。


 「ルーセント様、ありがとうございました。みっともないところをお見せしました。ルーセント様にいただいた言葉を励みに、また明日からがんばります。少しだけ、と思っていたのに、ずいぶんお時間をいただいてしまって……申し訳ありません」

 「いや。久しぶりにマリーと話せて楽しかったよ。泣き顔まで見せてもらったしね」


 彼はそう言って笑った。



 もう彼とこんなふうに話をできる機会はめぐって来ないだろう。この3年間がそうだったように、彼と私にはほとんど接点はないのだから。

 でも、私は、きっと一生忘れないだろう。

 これから先、いろいろ困難なことも起こるだろうが、この日のことを思い出せばきっと乗り越えられる、そう思った。


 そうして、幸せな秋が過ぎ、新しい年が明けたころ、私は自分の縁談があることを聞かされた。


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