わたしという灰
ご注意:本作品は東方Projectの二次創作作品です。
まだろくに煮えてもいない鍋に箸を突っ込んでぐるぐるとかき混ぜてみた。あるだけぶち込んだ里芋もぜんまいもウドも食べ頃というには程遠い。大分待った気もするが、案外それほど時間は経っていないのかもしれない。
「すまないな、妹紅。何だか無理につきあわせたみたいで」
立ち上る湯気の向こうから慧音が言った。本当に申し訳なさそうな顔でそういうことを言うやつは、実はあまり多くない。だから彼女はいまどき珍しい人種と言える。
「別にいいよ。タダ飯が食えるなら、何でも」
誘ってきたのは慧音の方で、食材の準備をしたのも、調理をしたのもすべて彼女だ。私がしたことと言えば食器の準備やら鍋洗いやらの雑用くらいで、今日はほとんどご相伴に預かっていると言っていい。私が謝られるようなことなんて、何もないのだ。
「あとどのくらいだろう」
「やたらにかき混ぜるのは行儀が悪いぞ、妹紅」
たしなめられた。何だよ自分だって食べたくてウズウズしているくせに、とは思いこそすれ口には出さない。慧音は教師だ。その職業柄、つい口をついて出てしまうものがあるのだろう。私はせいぜい従順な態度を示すことにして、箸を握る手を引っ込めた。
私はあまり話さない方なので、慧音が黙っているとこの狭い小屋は一挙に静まりかえってしまう。ふたりの間に鍋がなければ、私を取り巻くありとあらゆる音は消え去ってしまうに違いなかった。
今夜も泊まりかなあ、と、山菜鍋を観察する頭の片隅でちらりと思う。おそらく泊まりになると私は踏んだ。そもそもよくないのは、慧音は世話焼きな性格で、私は頼まれたら断れないタイプだということだ。成り行きなんて目に見えている。夕食が終われば彼女は風呂を勧めてくるだろう。いつものことだ。もちろん私は断れない。特に詰まっている用事もなければ、私はそのままずるずるとこの家に居座って、気がつけば朝だ。そんなことばかりというか、もはやそれがお決まりのパターンになっている。
迷惑だよなあ、とは思うのだ。しかし、彼女がさも当たり前のように、そのうえ嬉しそうに世話をしてくれるのを見ていると、どうしても帰る気にはなれないのだった。つまり、ここにこうして座っている時点で、私には選択の余地なんて残されていないのだ。
「妹紅よ」
私が鍋に向けていた集中に割り込むように、慧音が話しかけてきた。
私は、
「何だ」
と返すだけにとどめたものの、内心では、『ようやく来たか』という思いの方が強かった。
慧音が私を夕食に誘う状況というのは、実は限られている。私のことで言いたいことがあるときか、私に話を聞いてほしいときか、そのどちらかだ。大抵は寺子屋の問題児の話だとか、今後の授業の展望だとか、とにかく学校のことばかりなのだが、その度に慧音は熱っぽく、しかも長々と語るのだった。私が気の短い性格じゃなくてよかったな、とつくづく思うものの、彼女に言わせれば『誰にでもこんな話はしないよ』とのことである。喜んでいいのだろうか。
「寺子屋のことか」
それとなく振ってみる。
「いや、今日はそのことじゃなくてだな……妹紅、お前に話があるんだ」
「私に?」
驚いたと言えば驚いた。取り分け最近の慧音は何かにつけて自分の話をしたがる節があったから、まさか私についての話題を持ち出されるとは思ってもみなかったのだ。
「でもまあ、とりあえずは食べようじゃないか」
見れば、囲炉裏の山菜鍋はいい塩梅に煮え立っていた。よし食べようとは思ったものの、しかしいまの慧音の様子は、少しだけ話をそらしている風でもあった。
言いづらいことなのだろうか。だとすれば下手な追及はすまいと思って、私はしばし食事に専念した。
慧音が重い口を開いたのは、結局、鍋の山菜があらかた食べ尽くされてからのことだった。
「最近、どうだ? 妹紅よ」
「どうだって……何が」
探るような目だなあ、というのが第一の感想だった。大体いつもなら食事中に「美味しいな」とか何とか言うはずなのに、それもなかった。今日の慧音は少しおかしい。
「どうしたんだ、何だか今日のお前、変だぞ」
思ったままを口にすると、彼女は難しい顔をして笑った。とても器用な顔だ。
「……そうか?」
「そうだよ。いつもと様子が違うし、口数も少ないし。それに私に話があるって言って、なかなか切り出さないじゃないか」
慧音は、ほんの少しだけ黙り込んで、
「そうか、やっぱりわかるか。いやはや、妹紅には負けるな」
「こんなの誰だってわかる」
まったく話にならない。どだい、隠しごとが下手すぎるのだ、慧音は。
「で? 私に話って何なんだ」
「そうだな。これはとても言いにくいんだが」
「いいから早く」
「……怒らないか?」
「怒らないよ」
私は、自分の知らない部分で、案外気が短いのかもしれない。
「お前の人間関係のことなんだ」
「…………」
眉がピクリと動いたのが、自分でもはっきりとわかった。その一瞬の感情の発露を、おそらく慧音は見逃さなかったに違いない。
おそるおそる顔を窺うと、先ほどとはうって変わって慧音はこちらを真っ直ぐに見つめていた。そこには生半な覚悟では動かしようもない意志の光が宿っている。口火を切ることで据わる肝というものもあるのだろう。もう逃げられないなと私は直感する。
以前にも同じ話題を慧音に振られたことはあったが、そのときはどうにかこうにか話をそらして乗り切った。思えば、慧音はそのときからリベンジのチャンスを窺っていたのだろうと思う。
「最近どうだというのは、だからそういうことなんだ。お前がきちんと人付き合いできているのか、人のために働けているか、誰かに迷惑をかけていないか」
「迷惑なんてかけてない。頼まれれば竹林の道案内だってやる。護衛もしてる。お前は心配しすぎだ」
つっぱねるような口調になってしまったのはやはりよくなかった。これでは私の感情が慧音にまるっきり筒抜けだ。
「ちゃんとやってるだろ。お前は私の親か」
いきおい口から飛び出した『親』という言葉。私にとってこれほど現実味のない言葉もなかった。かれこれ千年も前にあの世へ逝ってしまった私の両親。思い出せるはずのない顔。浮かない気分が、いっそう重みを増した。
「もちろん。それは私もわかっているつもりだ。一昔前に比べれば最近の妹紅は見違えるようだとも思う。でも、だからこそなんじゃないのか」
「何だよ、だからこそって」
いまひとつ慧音の言いたいことが伝わらない。こちらの気分が見透かされているというのもあって余計に私は苛立ちを覚えてしまう。
どうにか間をもたせるために、私は具材の消えた鍋の海からタケノコの切れ端をすくいあげて口に運んだ。さっきまであんなに美味しかったのに、どうしていまはこうも不味く感じるのだろう。
一方で、慧音は少しも私から目線を切ろうとしなかった。
「おかげで妹紅の名前も少しずつ人里に知れてきている。永遠亭への道のりが安全になったことで診療を受けられる人間も増えた。それはとても素晴らしいことだ。でも、やはりまだ知名度が足りないと私は思うんだ」
「……私に商売しろっていうのか? 大々的に売り出して?」
「違う、そういうことじゃない。私が言いたいのはだな妹紅、お前からの働きかけが足りないということだ」
核心をつかれた気分だった。おそらくいま、慧音の目には、沈痛な面持ちの私が映っていることだろう。
こうなれば完全に慧音のペースだった。囲炉裏の火にこの部屋の灯りが支配されているように、私もまた、部屋の片隅で頼りなく揺れる火かげでしかない。
「妹紅の頼まれたら断れない性格は、私が思うに、きっと立派な長所なんだ。だからいままでも多くの人を助けて、その命を守ってきたわけだろう? でも、それだけではやはり片落ちだとも私は思うんだ。自分から積極的に世の中に働きかけて、人付き合いを大切にしていけば、もっと多くの人の役に立てる」
「何だ……それじゃまるで、私が人付き合いを大切にしてないみたいじゃないか」
「違うのか?」
即座には否定できなかった。
「違わないけど……でも、私だって私なりにいろいろと……」
その『いろいろ』の中身を問われたら、きっと私はひとつも答えられなかったに違いない。そうならなかったのは慧音がそれ以上問い詰めてこなかったからで、問い詰めてこなかったのは慧音が優しかったからだ。
「お前が過去に経験したことは知っている。気持ちがわかるとは言わないが、わかろうとはしているつもりだ。お前がおいそれと人間を好きになれるとは思っていないが、そのための努力はきっと無駄にならないんじゃないか」
言葉もなかった。
しかし白状するなら、簡単に言ってくれるなあ、というのが正直な私の感想だった。
慧音は正しい。彼女が見ている方角も、言っていることも、すべてはまぶしいほどの正しさに祝福されている。彼女とともに歩くことで、私は灰のようだった数百年の記憶を洗い流すことができるのかもしれない。
ただ、その光は私に向けるにはまぶしすぎた。
正しさは暴力に似ている。融通が利かないからだ。私のような、いままで生きてきたこと自体が間違っているような人間の燃えカスに向ければ、その存在ごと押し流してしまうような荒々しさを持っている。
それが怖くて、私は、慧音が持つ圧倒的な正しさの前にちっぽけな敵愾心を燃やしてしまうのだった。
壁を作ってしまうのだった。
「お前には、多分わからないよ」
弱々しい声は、到底私のものとは思えなかった。
「……妹紅、いま何て」
「お前にはわからないだろって」
今度はかすれた。
情けない。
「まだ幻想郷に流れ着く前のことだよ。不死になって間もない頃の話。みんな私を冷たい目で見るんだ。どこに流れてもそうだった。最初は優しかったのに、そのうち気味の悪いものとして私を扱い始める。妖怪と言うやつもいた。ついぞ手は出さなかったけど、殺してやろうかと思ったよ」
殺す。すんなり言えてしまった私が、何より哀しかった。
「でも、その一線だけは越えちゃいけない。そう思って、妖怪退治を始めた。ただの憂さ晴らしだったんだ。人間のためになるからという理由で、合法的に殺生ができる。でもそんな暮らしにもすぐ飽きた」
慧音は正座の姿勢を崩さないまま、じっと私の話を聞いている。聞かなくていい話を、こうも真剣に。
真剣に。
そして言った。
「……そうか。それが妹紅の、偽りない歴史か」
そこで唐突に気づいた。
もしかすれば、彼女のその姿こそが、私にとって救いだったのかもしれない。
波立っていた感情の海が、急速に静けさを取り戻していく感覚があった。
かつて行きずりの猫を話し相手に置いたときはこうはいかなかった。猫だけじゃない、樹はざわざわと鳴るばかりで、石に至ってはぴくりとも動かない。みな薄情だった。
しかし慧音は違った。
誠実なのだ。初めて出会ったときからそうだった。はなから私を分かり合える人間として見てくれた。それだけじゃない。
笑いかけてくれたのだ。
私が、千年の空白をおいてこの身に浴びた、それは本物の笑顔だった。
そうだったじゃないか。
お前にはわからないだろうと、そんなことを言って突き放してはいけない相手じゃないか。
慧音は。
誰より優しい慧音は。
誰より大切な慧音だったじゃないか。
私は、
「私も人間なんだって、ただ認めて欲しかっただけなんだ」
それだけだったのだ。
「……そうか」
慧音は音もなく立ち上がった。囲炉裏を回ってこちらに歩いてくる。私はその姿を目で追って、
追って、
追って、
「つらかったな。妹紅」
抱きしめられていた。
甘い匂いがした。
優しさが香るとすれば、私はきっとその匂いに包まれているのだろうと思った。
「ようやく自分の気持ちを口にしてくれたな。もう大丈夫だ。たとえお前を嫌う人間がいても、私がついてる。私が味方だ」
その言葉に、心遣いに、涙さえこぼれそうだった。
「……ありがとう」
声が揺れているのが、自分でもわかった。
「迷いの竹林にな、人が倒れていたんだ」
「えっ」
ここ最近の話だとすれば、初耳だった。
「ほんの二、三日前のことだ。若い女性で、永遠亭に行く途中で妖怪に襲われたと言っていた。幸い軽い怪我だったからよかったんだが、彼女は竹林を案内してくれる人間、つまりお前がいることを知らなかったんだそうだ」
「そう、だったのか……」
慧音が私の人間関係を探ってきた理由が、ここでようやくわかったような気がした。
「不幸な事故だろう? 責めるわけではないが、お前が護衛を務めていれば回避できたことだ。だから妹紅よ、お前はもう少し前に出てもいいと思うんだ」
一言も言い返せない。やはり慧音は正しかった。そしてこの正しさは、より多くを救う正しさだ。
「一朝一夕に治せとは、もちろん言わない。けれど、お前の手を必要としながらお前を知らない人間は大勢いる。そのことを覚えておいてくれ」
「そうだな。いまはまだ思い切れないが……努力してみる」
「たまには寺子屋に遊びに来てはどうだ? すこしやんちゃが過ぎるが、可愛い子どもたちだ。お前にもすぐになつく」
「行かせてもらうよ。近いうちにきっと」
頼まれて、断る私ではなかった。
鍋をつつく仲間が欲しいです。