セミは儚き夢を見るか。
ミンミンミンミー。
蝉達の声はその部屋にまで届いていた。
「あぁぁぁぁついぃぃぃぃ」
人形が飾られた棚に、綺麗に整えられたベッド。壁にはアーティストのポスターが貼られた、いかにも少女の部屋と言える場所で、彼女は半ば叫ぶように言い、部屋の中央に置かれた可愛らしい丸テーブルに突っ伏した。
「彩美、さっきからそればっか」
その部屋にいるもう一人の少女が涼しい顔で呟く様に言う。
「だって暑いじゃん。それとも何、くーは暑くないっていうの?」
「くーだって暑いよ。でも宿題やりに来たんだからやらないと。夏休み、あと半分だよ」
「やる気でないんだからしかたないじゃーん」
彩美はそう言うと自分の近くにあった扇風機にあーと言いだした。それと同時に部屋の扉が開かれる。
「こら、彩美。しっかりやりなさいよ! 何のために家に来たんだか」
入ってきたポニーテールの少女が手に持っていたお盆をテーブルに置く。
「朔は麦茶だよね。彩美はコーラっと」
「ありがとう、恵理」
朔は広げていたノートを片付け、恵理からコップを受け取る。テーブルの上に彩美の物がないのを見て、恵理は呆れたように額に手を当てた。
「何、やっぱり彩美はやってなかった訳?」
「いいじゃん。あたしに勉強は合わないって」
「そんなこと言って高校進学できなくても知らないよ」
恵理はお盆に乗っているコーラを彩美の前に置いて残ったコップを手に取る。彩美も自分用のコーラを飲む。
ミンミンミンミー……。
会話の無くなった部屋を蝉の声が満たす。
「蝉、鳴いてるね」
朔が呟く。
「煩いったらありゃしないよね。何で蝉って鳴くんだろう?」
「そんなの知らないよ」
恵理が軽くあしらう。それを合図にしたかのように彩美が立ち上がる。
「やっぱり、夏の暑さの一部は蝉の鳴き声が占めてると思うのよ!」
「また出たよ、彩美のよく分からない演説。その根拠はなんなのさ」
「蝉が鳴いてから暑くなってきてる気がする!」
頬杖をついていた恵理が崩れ落ちる。それを気にせず彩美は演説を続けた。
「だからさ、蝉が鳴かなければもう少し涼しく……」
「蝉ってさ」
彩美の演説を遮る様に、朔が呟いた。二人は朔を見つめる。朔は部屋の網戸の向こうを見つめていた。もしかしたら、今鳴いている蝉を眺めようとしているのかも知れない。
「蝉って……夢、見たりするのかな……」
「夢って、将来の夢とかの夢?」
恵理が聞くと、朔はこくりと頷いた。
「くーっていつも変な事思いつくよねー」
「……やっぱり変、かな?」
「そりゃそうだよ。だいたい、蝉って七年も土の中に居たのに一週間しか生きられないんだよ? 夢なんか持ってないよ」
「どうでもいいかもしれないけど、よく知ってるね」
「嫌いな物に対してはトコトン調べるのが彩美さんなのです!」
「はいはい、じゃあその集中力を勉強に向けましょうね、彩美さん」
彩美は頬を膨らませて、恵理を睨む。
「一週間しか生きられないと、夢、見ないのかな?」
「うーん。どうなんだろ? 蝉も生きてるんだから夢見たっていいとは思うんだけど……」
「あんな奴ら、煩いだけだって! 見た目もなんかキモイし!」
「あんたはただ蝉が嫌いなだけでしょうが」
「そうとも言う!」
彩美は胸を張って言う。
「じゃあさ、明日確かめてみない?」
朔がそう提案する。彩美はいかにも嫌そうな顔をした。
「えー? 明日ぁー? まぁ部活は無いけどさぁー」
「そう言えば、夏休みの最後にテニス、試合だっけ?」
恵理が思い出した様に言うと、彩美はテーブルに片足を乗せた。
「よくぞ言ってくれました! そうなのです、8月の終わりに試合があるのです! あたしも出場するのです! 応援よろしく!!」
「それで、確かめるって神社の方に行くの?」
恵理は華麗なスルーで朔と話を進めた。彩美はむなしさのあまり、決めポーズを取ったまま固まっていた。
「うん。明日の一時でいいかな?」
「私は大丈夫。そこの銅像は?」
「ぶーぶー。私の話に乗ってくれてもいいじゃん」
ふてくされている彩美に恵理は呆れた様にため息を吐く。
「応援ならいつも行ってるでしょ? それより明日は?」
「一日暇ですぅ」
「じゃあ決定ね」
恵理は朔に確認を取ると、満足げに頷いた。
「てか、くー。確かめるって何か当てがあるの?」
「うん。任せて」
朔は自信満々に頷いた。
「じゃあ明日の一時に神社に集合ね。彩美、遅れないでよ?」
彩美は不満げに机に突っ伏した。
この町の神社は、町はずれに位置している。その為、夏祭りの時には歩き疲れた人々で賑わっていたりするが、基本的には人の来ない場所となっていて、どんな神が祭られているか等は、もうあまり知られていない。子供の遊び場としては十分な広さを持っていて、近くに大規模な森もあるので、子供達はそこそこの頻度で訪れている。その神社に最後に姿を現したのは、彩美だった。時刻はすでに1時を過ぎていた。
「あ、やっときた」
神社に繋がる長い階段を上る彩美の姿を見て、恵理が言う。
「彩美ー! 早く来なよ。もう遅刻だぞー!」
「はぁ、はぁ……。もう無理……。疲れた……」
恵理が呼ぶと、彩美はそんな事を言って階段に座り込んだ。
「ばててるね」
「あいつ、あれでもテニス部かよ」
朔と恵理は階段を下りながら笑いあった。
「走ってすぐ座ると体に悪いぞー」
「無理、座らせて……」
「痔になるよ?」
「マジで!?」
朔の言葉を聞いた彩美は急いで立ち上がり、振り向いた。
「嘘だけどね」
「なんだよー。てか、くー。凄い格好してるね」
彩美は振り向いた時に朔の姿を見た。白いワンピースに麦わら帽子、肩からは虫かごを提げて、手には虫取り網を装備していた。完全に蝉を捕まえに行く気満々である。
「朔、凄く気合い入ってるよね」
恵理が苦笑いしながら言う傍らで朔は自慢げに胸を張っていた。
「んじゃ、彩美の息も整ったみたいだし、行こうか」
恵理の先導で、3人は神社脇にある森に足を踏み入れた。森に入った途端に夏特有の蒸し暑さが襲ってくる。この日は風があまり吹いていない為、暑さが何割か増されている様にも感じる。そこに遠くから蝉の声が聞こえてきていた。彩美に言わせればそれもまた暑さを増しているのだろう。
「そういえば、くー。当てがあるって言ってたけどどこに向かうの?」
この森には何か所か名前の付いている箇所がある。樹液がよく出ている虫の広場とか、中ほどにある湖には森の湖など、様々だ。森を探検する時はそう言った物でだいたいの方向を伝えるのが常識とされている。
「わかんない」
だから朔がそんなことを言った時には二人はとても驚いた。
「わかんないって……。当てがあるんじゃなかったの?」
「当てはあるよ。夢で見たもん」
恵理はお得意の呆れポーズで朔を見た。朔が言うには、数日前の夢で、この森を訪れてその際見た事のない蝉にある場所に案内されたという。よく覚えてないがその場所なら蝉の事がよく分かるのではないか、ということらしい。
「……まさかの夢オチ。それってくーの想像なんじゃないの?」
「それも一緒に確かめるの」
「それって迷子になるパターンじゃ……。嫌だよ、あたし。中学3年生にもなって森で迷子とか」
「まぁだいたいの方向さえ見失わければ最悪神社の近くには出られる筈だけど……」
流石に恵理も不安を隠せない様だ。そんな二人の不安を物ともせずに朔は先頭を歩き続けた。
「まず案内してたのが見た事無い蝉って辺りで十分怪しいよね」
「確かに。朔はよくそう言う夢の話してくるしね」
「うんうん。この前なんか、自分が魔法使いになる夢見たっていってたし!」
「あ、あれね。あれは面白かったなー。最後自分に魔法かけてリスになっちゃったんだよね」
「くーはリス好きだからそれいいやーって思っちゃうなんてくーはホントに変だよね」
「まぁそれが面白いから付き合ってるんだけどね」
「きゃ」
恵理と彩美が朔の夢の話で盛り上がっていた時に、前から朔の悲鳴が聞こえた。前を見てなかった二人は慌てて前を見る。そこには朔の姿はなかった。
「く、くー!? どこ!?」
「ここ」
彩美が慌てて呼びかけると、暢気な声が足下の方から聞こえた。見てみると、どうやら盛り上がってた様になっている道から滑り落ちた様で、ちょっとした坂の下に朔の姿があった。
「なにやってんのよ」
恵理が呆れた様に呟く。
「こっちの方、夢で見た道に似てたから、つい」
「夢で見た道に?」
彩美は聞き返した後、朔が指差した方向を見てみた。草は長く、木の枝も飛び出している様な人の入った形跡をまるっきり感じさせない様な場所だ。
「……こんなとこ通るの?」
「行ってみたい。だめ?」
「だめって訳じゃないけど……」
彩美は助けを求める様に恵理を見る。
「今回は朔が見た夢を確かめるって事もあるみたいだし、行ってみようか」
「えー!?」
不満そうな声を出す彩美を置いて、恵理は坂を滑り降りる。残された彩美も渋々恵理についていく。
「うー。たかが蝉の為にこんな所にまで入る事になるとは……」
最後尾で彩美が不満げに呟く。それを無視して恵理が先頭で木の枝をどかしながら進む。心なしか蝉の声が大きくなった気がした。
「夢だとあとどれくらいで着いたの?」
「えーと……」
恵理の質問に朔が答えようとした時、目の前に一匹の蝉が現れた。その蝉はまるで三人を導くかのように真っ直ぐ飛んで行った。
「あ、あの蝉!」
「あの蝉?」
「夢で見た奴!」
朔が蝉を追って駆け出す。恵理と彩美はお互いに顔を見合わせた。
「夢で見た奴って事は?」
「くーの夢が本当だったってこと?」
「二人ともー。はやくー」
朔の呼びかけに応じて二人は朔の元に駆けだした。
蝉は三人が見えなくなると待っているかのように木に止まっていて、3人が追い越そうとすると速度を上げながら飛んでいた。朔は本当に夢であった光景だと喜んでいた。そして、蝉の案内で三人は大分開けた場所に辿り着いた。
「はぁ、はぁ。あの蝉、どんだけ走らせるのよ……」
「彩美はテニス部のくせに体力なさすぎ。それにしてもここどこだろう?」
恵理が辺りを見回す。元々人が来た様な形跡がない場所を入ってきたのだ。当然そこは見た事のない場所だった。
辺りをきょろきょろと見回す三人の目の前に案内をした蝉が再び現れた。朔が手を出すと、それを待っていたかのようにそこに止まる。
「これってヒグラシだよね」
「だよねって言われても私はわかんないよ。彩美みたいに調べたりしてないもん」
「それもそうか。ヒグラシっていうのは、夕暮れ時に鳴き始めるんだよ。カナカナって鳴くんだよ。でも、この辺りではあんまり見ない蝉だね」
「本当に調べたんだ……。あんまり見ないなら朔が見たことなくても不思議じゃないか」
恵理が言うと同時にヒグラシが朔の手から飛び立った。そのまま森のどこかに消えてしまった。
「これ以上、奥に行くのも危ないし、戻ろう」
恵理がそう言って来た道を引き返そうとした時、今まで聞こえていなかった蝉の声が近くで聞こえ始めた。それはまさしく彩美の説明にあったヒグラシの鳴き声だった。
「こんな時間からヒグラシが? まだ日中だよ?」
彩美が不思議そうに辺りを見回すと、次々と新しい声が聞こえ始めた。
アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、クマゼミ……。
それはすぐに蝉達による大合唱になった。
「わぁ……!」
朔が思わず声を上げる。それほどに見事な物だった。
多種多様な鳴き声によるハーモニー。今まで蝉は煩いだけだと思っていた彩美でさえもその鳴き声に聞き入っていた。
「もしかしたら、私たちにこれを聞かせたかったのかもね」
恵理が呟く。
「もし、蝉にそう言う意思があるんだとしたら……これが蝉の夢なんじゃないかな?」
「これが蝉の夢?」
恵理の言葉に朔が聞き返す。
「うん。彩美、蝉は土の中に七年くらいいるんだよね?」
「うむ! あたしが参考にした図鑑が間違っていなければその通りだぞよ!」
「図鑑で調べたんだ……。まぁそれはいいとして。七年の中で蝉はいつか大声で鳴く事を夢にしてたんじゃないかな」
「じゃあ、今のこの合唱が……」
「蝉が一週間で叶える夢……」
彩美と朔は鳴いている蝉を見回す。そう言われてみれば、この蝉達はどこか嬉しそうに、楽しそうに鳴いている気がする。
「蝉が短い一生の中で叶える儚い夢。ロマンチックじゃない?」
「うん。そうだね」
「あたしも、なんか蝉が好きになってきたかも」
三人はそれから少しの間、蝉の声を聞いていた。
「さて、じゃあ私の家に行きますか」
突然、恵理がそう言いだす。
「え? 何で?」
「だって昨日、蝉の事で盛り上がって結局勉強全然してないでしょ?」
「う……それを言われると……」
彩美が口ごもる。
「朔もいいでしょ?」
「うん。宿題もやらないとね」
「うー。くーまで……」
「じゃあ、ここから私の家まで競争ね!」
「負けたらジュース奢りで」
恵理が走り出す。朔もそれに続いて駆け出す。
「あ、ちょっと待ってよ!」
彩美が少し遅れて走り出す。森に少女達の楽しげな声が響き渡った。そんな彼女たちを蝉達が静かに見守っていた。