な……何を言ってるんだよ?
「わっ!」
「……っ!」
一条が差し出すお茶を受け取ろうとしたその時に、後ろから走ってきた子供が背中にぶつかり、彼は咄嗟にコップを私から遠ざけた。
だから私にその中身が掛かることは無かったけれど、急に動かしたのもあって彼の服にお茶がかかってしまうのが見えた
「大丈夫か?」
なのに自分の汚れも確認しないまま私に声を掛けるのに
「私は平気、でもスーツの袖が……」
さっき濡れてしまって見えたその場所にハンカチを当てようとするも、一条はそれを制して振り返ると
「ご、ごめんなさい、貴明! だから危ないって言ったのに!」
ぶつかって来た子のお母さんらしい人が謝りつつ、子供を捕まえて居た。
「あぁ! 服にかかってしまったんですね」
「ごめんなさい……」
私のハンカチを見て慌てるお母さんと、その隣で一緒に頭を下げる小学校一年生くらいの男の子
「殆ど掛かって居ませんので大丈夫です、こちらこそ不注意ですみません、お子さんに怪我はありませんか?」
大人びた対応を見せる一条ににお母さんは驚いた顔をした後、思わずというように頬を染めて、本当にこんな時の彼は私に見せる顔とは別人のようだと思う。
男の子にも怪我は無いか? なんて声を掛けている姿は、この子がもし女の子だったなら、本物の王子様とでも思うかもしれない?
「ちょっと服貸して、洗面所行くよ? 処置が早ければ多分シミにはなりにくいしね」
お茶はそれなりに掛かって居たと思うけれど、あの場でそれを確認すればぶつかった相手が気にする……そんな気遣いをしたらしいことに気づき、親子の姿が見えなくなってから一条に声を掛けた。
丁度新しい料理を出してきたみーのに何処か水を使える所がないかと聞くと、部屋の奥から出た通路の先に洗面所があると聞きそこに向かうことにする
一条にジャケットを渡してもらって見てみると、腕を上げた状態だったせいかジャケットよりもワイシャツの袖に掛かってしまったらしく、そちらの方が目立つ。
ジャケットには余り掛かってないようで、被害は少なそうだとは思いつつ、水滴の飛んだ所を拭き取り、水に濡らし固く絞ったハンカチで挟んで叩き……ワイシャツはカフスを外して折り返しを伸ばし、お茶が掛かった部分の下に、みーのが貸してくれた白い布巾をあて、ハンカチをすすいで固く絞りトントンと当てていく。
粗忽な私が何かこぼすたびにお祖母ちゃんがやってくれた方法だけれど、効果は抜群で徐々に薄くなるシミにそれを繰り返していくと
「うまいものだな……おまえには何だか助けられてばっかりだ」
私の手元を黙って見て居た一条がふいに、思いも寄らないことを言い出すのに手を止める。
「本当に、お人好しというか、あんな態度だったのにな俺は……」。
すると彼は、そのままぎゅっと強く拳を握り締め、思い切ったように顔を上げると、悲壮なほど真剣な瞳で私を見つめた。
「ずっと、おかしなことを言って絡んでいた、悪かった」
挙げ句頭を下げたりするから、思わず硬直してしまう。
「な……何を言ってるんだよ? 今更っていうか、私は今は一条は友達だと思ってるし」
「おまえは何も言わないからって、このままにしておくのは駄目だと思ったんだ、一回きちんと謝りたかった」
目を細めてどこか切なげな顔でそんな事を言われて、どうしたら良いか判らなくなってしまう。
落ち着こうと手元に意識を戻し作業を再開して、消えていくシミを見て居るうちに何だか似てる……って思う。
昔、苦手だった一条、けれど一条が側に居るようになってからは、眉間に皺は寄せながらも、いつも心配をしてくれて、トラブルの時は助けてもくれて……そんな関わりを持つうちに、過去の一条のイメージは私の中からはどんどん薄らいで行っていたんだ。
「うん、これなら大丈夫かな? でも、あくまで応急処置だから帰ったらお母さんと相談してみて」
「ありがとう」
袖から手を離すと、その折り返しを戻し、手慣れた手つきでカフスを付けている一条。
そうして視線がそれ、緩んだ空気に私も漸く言葉を返す余裕が出来た。
「……あのね、昔鳴木にも言われたんだ、私が相手を煽る所があるんだって」
そう言えば、この前も一条に同じ事を言われたなと思いつつ先を続ける
「色々な事を色々な人にされて、理不尽だと思ってたけど、確かにそれから少し気をつけるようになったら変わる部分もあったんだ、勿論今でも許せないことや理不尽だと思うことはあるよ? でも、一条は……私の対応が違ったら何か違ったのかも」
「あれは、そんな意味で言ったんじゃ無い、……あの頃の俺が本当に馬鹿だったんだ、勝手にいらいらして」
「でも、私もいっぱい迷惑かけたよ、助けても貰ったし、まだ、昔のことを気にしているなんて思わなかったよ……」
「ずっと、謝りたいとは思っていた、だが、口に出すことであの頃の俺をおまえが思い出したら、離れていくかもしれないって……」
それが怖かったと、小さな声が聞こえて、いつも凜として自信ありげに見える一条が瞳を揺らすのに、そんな不安を抱えていたんだと知る。
「やだな? そんな事しないよ、っていうか、私こそトラブルメーカーらしいし、一緒に居ると巻き込まれちゃうのに一条は離れないでくれた……これからも、側に居てくれる?」
ならば、もう気にしていないし、今は感謝していると伝わるといいと告げた言葉に
「あぁ」
頷く一条の声は小さかったけれど、その瞳にはもう、さっきの思い詰めたような光は無かったのにホッとした。
「これ、受け取ってくれないか?」
スーツを渡すとそのポケットから艶やかな赤い包装紙に緑のリボンが掛かった小さな包みを出して私に差しだした。
「メリークリスマス、……謝れて良かった」
「え?」
開けてみろと促されて、包みを解くと、さらりと手のひらに華奢な作りのキラキラ光る鎖が乗っかった。
赤く輝く細い鎖の両端にシリコンのゴムみたいのが付いている……これは、何だろう?
「グラスコードだ、おまえよく眼鏡をつけたり外したりしてるだろ? そのシリコンの部分を眼鏡のつるに掛けて、使わない時はそのまま首に下げとけば良い」
「へぇ……こんなものがあるんだ、便利だね、それにとても綺麗……良いの?」
「あの眼鏡に合うと思ったんだ、返されても困る」
「ありがとう」
華奢な作りの鎖をそうっと袋に戻して、鞄に入れ、
「あ、そうだ、私も……えっと、一条はこれだ、受け取って?」
代わりに同じく赤いラッピングの包みを取り出した
「赤って男の子の色じゃないのかもだけど、一条はなんか赤かなって」
驚いたように受け取って、開けていいかと聞かれて頷く
「リストバンド?」
「うん、高校でもサッカー続けるんだよね? 実はママと今日のお呼ばれの話をした時にね、クリスマスだしいつものお礼がしたいなって相談したの、手紙の時のこととか色々あったじゃない? ……そしたらね、運動部ならリストバンドに刺繍とかどう? って」
「おまえがこれを?」
「私はママみたいに手芸とか得意じゃなくて、あんまり上手じゃないんだけどね」
イニシャルを刺した部分をじっと見つめているのが、なんだか気恥ずかしくて、気軽に使い潰しちゃって? そう付け加える
「……大事にする、ありがとう」
だけど、一条はそんな私に、ふわりと見たこともないほど優しく笑ってくれた。