こんな馬鹿げた事 (side 一条)
目の前にある大きな鏡、そこに映る姿に何とも情けない気分になる。
この大きな鏡のある、化粧品に囲まれた一室は成海の自室だ。
彼の両親は美容の世界では一流と言われる人間で、その一人息子である成海は幼い頃から自宅と店舗が隣接している環境からそこで働く両親の姿を見つめながら育って居た。
物心ついた頃から働く彼らと、その手先で作り出される作品とも言える変身を遂げる顧客の姿を目の当たりにしていたこいつは、やがてその仕事そのものに興味を持ち、その事を喜んだ両親から機材も知識もふんだんに与えられた結果。
成海は既に中学生離れした腕を持っていた。
うちの家は仕事柄パーティーなどに出席することが多く、着付けや手の込んだ準備が必要な服の時家族は昔から成海の両親の営む店を利用していて、部活をしていた俺は夕方からそのような集まりがある時は店に直行して、シャワーと着替えなどを済ます時もあった。
そういう時、余り人を使うのを好まないとかで基本夫婦二人きりの小ぶりなこの店では、スーツを着るのと軽く頭を整えるだけという俺は成海に任せられることが多かった。
最終的には大人がチェックするとは言え、成海の腕は素人の俺から見れば本職と遜色なかったし、結局リテイク等は一度も無い。
俺の準備を済ませた後は、真剣な顔で両親の施す母のメイクなどを見つめていたり、準備を済ませた姉に問われるままに流行の色などの相談に乗っている成海を見るにつけ、心底この仕事が好きなのだろうとは思っていた。
そんなマニアとも言えるような成海が去年辺りから言い出した言葉
「ね? 一回で良いからメイクさせてくれない? 元々綺麗な顔だと思ってたけれど、今の君なら女神にでも出来ると思うんだ」
「女神……って女装か? ふざけるな、第一女のメイクがしたければ姉さんに頼めば良いだろう?」
俺の姉、詩音も昔からここに世話になっているし、こいつのことも気に入っている、俺とよく似ているらしい姉ならばそんな願いなど二つ返事で引き受けるだろうとそう言うと
「詩音さんも素晴らしい素材だよ、実際何度かモデルになって貰ったことはあるんだ、でも、あの人は女神と言うよりは女王様でね、詩音さんともよく似ているのにどこからどう見ても男である君を女性としてメイクしてみたら、きっとその揺らぎが不思議な存在感になると思うんだ、きっとそれは別人の君だよ! ね? 見て見たいと思わない?」
「思うか!」
「え~、今だけの事だと思うんだよね? 君に成長期が来てしまったらそれはそれで綺麗だろうけれど、無理が出てしまう、今だけなんだよ?」
挙げ句に身長のことまで言い出すのに
「成海?」
黙れという気持ちを込めて強く睨むと、流石に失言に気がついたのかしょんぼりとごめんと答えた。
その様子に僅かに気の毒だとは思ったが、その願いを聞く気は無かった。
普段は気にしないようにしているものの、低すぎると言うほどでは無いが平均に足りない身長はコンプレックスでもあったし、だからこそ身なりには気遣って年齢相応かそれ以上に見えるように努力もして来た。
それに、忌々しいことにあいつは女としてはかなり身長が高く……出会った頃よりは大分近づいたとは言え、未だ隣に立っても並ばない視点に歯がゆい物を感じていた。
「あんなに嫌がってたのにねぇ? 僕は嬉しいけど……あ、藤堂さん? そのオレンジのシャドウをお願い」
「ん? これで良い?」
「そうそう、ありがとう」
俺の右側で右手の先を摘まんで極薄いピンク色の殆ど透明なマニキュアを塗っていた藤堂は成海の言葉に自分の近くにあったそれを渡しながら、ふと俺を見上げると
「うっわぁ……」
今まで見たことも無いような嬉しげな顔で俺の顔を見る。
俺の素の顔ではそんな顔はしない癖に女になった方が嬉しいのかと不機嫌な気分で見返すと、誤魔化すようにへらりと笑ってまた俺の指先に集中すれば、視界に入るのは普段は見る事はない、藤堂を上から見下ろす視点……。
黒田ならば、恐らく日常だろう風景。
……手塚があんな時を言い出した時、鳴木は即座に無いだろうと言い、俺が承知をすると黒田は信じられないと言った表情をした。
それはそうだろう、どこの馬鹿が好きな女の前で女装なんて晒したい物か、只でさえ、こいつは油断すれば俺を従兄弟なんかと混同して男として見て居るかさえ怪しいというのに、これ以上こいつの前で男としての俺が揺らぐような事はしたくない。
だが、確かに手塚の案は名案でもあった。
俺にも手塚にも完璧な変装をさせる奴には心当たりがあったし、女二人の方が相手は油断するだろう。
それに俺が付いていれば、少なくとも何か有ってもあの二人が駆けつけるまで藤堂を守ることは出来る。
全てを満たす完璧な案。
……そう、俺さえ飲み込めば。
あの日こいつが零した涙……今まで、何を言われても、理不尽な目に遭っても一度だって見せたことが無いそれを、流させてしまった原因は俺たちにある。
まして、俺は過去にあいつを傷つけて居た。
その事を償いたいなどと思いながら、結局守り切ることすら出来なかった自分に出来ることがあるなら……。
コンプレックスもプライドも無理矢理押し殺してやろうと思った。
とはいえ、流石にこの姿を複数の人間にさらされるのは避けたかったから、手伝いが必要なら藤堂一人、隠れて現場には鳴木と黒田が来るがそれ以上は誰にも言うなと話が決まって、成海に頼みに行けば嬉しげな顔で二つ返事で引き受けた。
最初に爪磨きを渡されたけれど、流石にこれが終わった後もピカピカとした爪はと渋った結果、じゃぁ、自分では無理だねと藤堂にマニキュアを渡して居て、頑張る! なんて指先を取られるのに一瞬後悔したけれど、後の祭りで。
片手を終わらせて、今度は左手の指先をつまんでいる。
本当はこんな情けない形じゃ無く、素の儘の俺でこいつを守りたい。
だけど、今はこれが俺に出来る精一杯なら、それでこいつを守ろうと思う。
「こんな馬鹿げた事、お前のためじゃなければ……」
店ににあるとっておきのパウダーを取ってくると言って、成海が席を外したから二人だけの部屋で、俺の隣で慣れない風に小さな筆を動かしながら丁寧にマニキュアを塗る藤堂を見つめ、知らず口にして居た独り言。
ため息の様な小声ではあったが、耳に届かなかったかとヒヤリとして藤堂に目をやれば、そのまま一心に俺の指先を見つめているのにほっとして、そっと息を付いた。