あいつ……変わったな
「ぼーっとするかテキスト解くかどっちかにしたらどうだ?」
「……っ!?」
数学のテキストを前にいつの間にか睡魔に負けて意識が遠のいて居たらしく、教室に入ってきた鳴木が呆れたような顔で私の顔を覗き込んできた。
「ぶっ、その顔、おまえ殆ど寝てたんだろ、テキスト開いたまま何やってるんだ?」
「あ~、昨日解けなかったのを今やってるんだけどね、全然解けなくて、余り寝てないから意識遠のいてたよ……」
来年からは受験生、それにつれて塾での課題も少しづつ難しくなって行っている気がする。
昨夜は苦手な数学の問題に躓いてしまい、すっかり寝不足のままここに来て何とか解こうと頑張っていたんだけど……。
「あー、それな、ちょっと引っかけなんだ、いいか? ここのAはこっちのCと……」
気の抜けた私の顔に吹き出しながらも、カタンと私の前の席の椅子をひき、そこに座ってなんと解説をしてくれるのに吃驚する。
けれど、全く私ではほどけなかった数式が鳴木の解説でするすると解けていくのに、慌ててテキストを指す鳴木の指先に集中した。
「ありがとう、凄いね! 本当に解けた! もしかしたら先生がプリントの記号間違えたんじゃ無いかと思ってたよ」
「講師のせいにするなよ、俺からすればその絡まった髪の毛解く方が難しそうに見えるけどな?」
「人が素直に感謝しているのに……」
軽く睨むと
「ま、だんだん難しくなるよな、……他は大丈夫なのか?」
「え?」
少し前ならこんなちょっとした会話から、お互いに言葉がエスカレートして行って追いかけっこに発展してたのに、鳴木はまだ私のテキストなんて眺めていて……
「藤堂、何かココ計算おかしいぞ」
「えぇっ!?」
「ほんっと、おまえって数学駄目だよな、まぁ、筋道立てて考えるとか明らかに向いてないのは分かるけど……」
いちいち余計な言葉は付け加えるんだけれど、何故か続けて教えてくれるから、私は余計な言葉は聞き流して、数学に関する言葉だけを耳に入れるようにしていく……。
「お、一条……来たのか、大丈夫なのか?」
「あぁ、一応病院寄ってきた、大したことは無いそうだ」
「どうかしたの?」
「あぁ、こいつ今日の練習で後輩避けようとして足挫いたんだ」
教室に一条が入ってきて声をかける鳴木、私の隣でされた会話に
「え? 大丈夫なの?」
隣に立つ一条を見上げると、何故か少し驚いたような顔をして私を見下ろしている。
並んで立てば私の方が背は高いから、こんな風に見上げるのは中々新鮮だなとついマジマジ見てしまうと
「あ……あぁ」
居心地が悪そうに視線を逸らすのに、日曜日の記憶がよみがえる
「駄目だよ? 痛いと思ったのに無理して歩いたり、お風呂で暖めたり、お医者さんの言うこと聞いて早く直さないと!」
「……藤堂? おまえは一条の母親かよ?」
笑いながら鳴木に言われてはっとした。
「あ、いや、ごめん……従兄弟が同じ様な怪我したんだけど、大人しくして無くてね、静かにしていれば早く治るのに暇があれば動き回ってるから治り遅くて、体力もてあましているから付き合ってなんて伯母さんに言われて、呼び出されてずーっとゲームに付き合わされてたりしたもんだから」
退屈だと嘆く従兄弟に、ちゃんと大人しくしていないからだよと言うものの、拗ねたように視線を逸らしているから私もむきになってしまい、ゲームに付き合いながら口が酸っぱくなるほど言ってしまった言葉が思わず口から出てしまった。
けれど、一条はそんな私の言葉にうるさいというわけでもなく、微かに笑って
「そうだな、無理はしない」
それだけ答えて自分の席へとゆっくり歩いて行った。
そんな一条の背中を見送っていた鳴木は私に向き直ると、あいつ……変わったな、なんて呟くのに
「まぁね、最近は落ち着いてきたみたいで来る事無くなったけれど、一応逃げ道も提供したし?」
そんな風に答えながら、でも、鳴木もちょっと変わったよね? ってこっそり思う。
……そう、気がつけば、睨みながら嫌味ばかり言ってきた一条の足の心配なんてする私がいて、鳴木も相変わらずからかってきたりはするけれど、いつの間にかお互い塾の廊下を走り回るようなことはしなくなっていて、それどころかこんな風に助けてもくれる。
一年前には想像も付かなかった現状に、人という物は変わる物なんだ、なんて事をしみじみと思った。