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STAY WITH ME  作者: yukino
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第七章


   雄一郎が勤務する「八ヶ岳ガーデンリゾートホテル」は、ゴールデンウィークを間近に控えて忙し

  くなった。


  「仕事が忙しい」事を口実に、あれから梓とは会っていないが、携帯メールや電話で連絡を取り合っ

  てはいた。

   あの夜の事には一切触れず、雄一郎は梓の身体を気づかい、梓も雄一郎の優しさを改めて感じ取っ

  ているようで、二人のメールや会話の内容は、以前と全く変わらなかったが、雄一郎は、梓の家に行

  くのが躊躇らわれた。

 

   足が遠のいていると、辛い現実を忘れる事が出来、ホッとしている自分がいる事に気がついた。

  しかし、それは現実から逃げているだけであって、何の解決にもなっていない事にも気がついていた。

 

  

   忙しかったゴールデンウィークが過ぎて、雄一郎の仕事も落ち着いた頃「実は、福島の実家に里帰

  りしているの。久しぶりの里帰りで、両親や妹達に引き止められていて、帰るのは六月半ばになるか

  ら、着帯はこっちでしようと思うの。私は元気だから安心して」と梓から電話があった。

  

  「着帯か……その事以外にも、まだ片付けなくてはならない事がいろいろある。今までは、梓と二人

  の事だけを考えていれば良かったのだが、これからはそういう訳にはいかない。梓の両親や妹達に、

  挨拶もしなくてはならない。梓は、離婚が成立していない自分との事を、家族にどう話しているのだ

  ろうか? 家族は、自分を温かく迎えてくれるのだろうか?」


   子供が生まれる前のお目出度い儀式の事を、全く考えていなかった自分の迂闊さを反省すると同時

  に、現実的な問題が目の前に迫り、少し憂鬱な気分になった。



  「着帯は無事に済んだのよ。6月半ば頃に帰るけれど、順調だから心配しないでね」

   梓から連絡があったのは5月末であった。

  

  「福島に迎えに行き、その時に両親にきちんと挨拶をしたい」という雄一郎の申し入れを「それはも

  う少し待って。でも、子供が生まれる事を両親も妹も喜んでいるから」梓はそう言って断った。

   気が重い事が先延ばしになった事に少しホッとしたが「何か変だ」と、雄一郎は感じた。



  「ただいま。帰って来たのよ。都合の良い時に来てね、待っているから」という連絡が入り、自分の

  仕事と休みのスケジュールを考え、梓の家を久しぶりに訪問したのは、サッカーワールドカップ南ア

  フリカ大会で、日本がカメルーンに勝利し「ワールドカップ初戦初勝利!」と日本中が沸き立った翌

  日だった。

 

   約束の日、雄一郎は定時でホテルを出た。


  「今頃、村上は大喜びをしているだろうな。ワールドカップ開催中は、日本の試合に合わせてシフト

  を組んでいる、と自慢していたよな。今年もそういうシフトを組んでいるのか?」


  

   雄一郎は四年前を思い出した。



  「オーストラリア戦のパブリックビューイングをやるから観に来いよ」と村上に誘われ、真理と二人

  で、戸部にある村上の自宅を訪れた。

 

  「今日は勝つぞ!」

   出迎えた村上は何故か、日韓ワールドカップ時の「BECKHAM 7」のイングランドナショナ

  ルチームのユニフォームを着ていた。

  

  「似合わない!」

   その姿を見て、笑いの壷に入った真理は涙を流して笑った。

  

  「俺に惚れるなよ」

   村上は照れ笑いを浮かべ、リビングに二人を招き入れた。

   

   村上家のリビングでは、45インチ大画面のプラズマテレビが、村上以上に大きな態度で二人を迎え

  た。

  

  「これを買っちゃったから、ユニフォームは買えなかった」

   村上は言い訳をしていた。


  「村上家ビューイング」は盛り上がった。試合開始と同時に、雄一郎が持参したシャンパンを開けて、

  日本の勝利を願って乾杯をした。


  「柳沢! なんで打たないんだよ! もっと責めろ!」

   村上は吠えた。


   代表GKの座を川口に奪われた、楢崎ファンの村上家の一人息子の和也は「川口、出過ぎだよー! 

  バカ! バカ! バカ!」と怒っていた。


   ……楽しくて平和だった……


   日本がブラジルに敗れた時、早朝に真理からの電話で起こされた。

  

  「ヒデがピッチで泣いている……」

   電話口の真理も泣いていた。


   ……そうだ、あの頃流した涙は「笑いや感動の涙」だった……あれから、あの頃を境にして、真理や

  自分が流す涙は「悲しみの涙」に変わった。別れ話を切り出して、真理はたくさん泣いているのだろう

  ……でも、そうさせたのは……自分だ。




 


   気がつくと、いつもの車を止める場所に到着していた。


  「以前は梓の家に行く時には、梓以外の事は考えられなかった。今の自分はそうではない」


   その事に気付き、今まで考えていた事を振り払い、気持ちを切り替えて雄一郎は車から降り、いつも

  のように周りを気にして梓の家に向った。

 

   梓と会うのは久しぶりである。お腹もだいぶ目立って来ただろう。子供の事を考えると、少しウキウ

  キした気分になった雄一郎は、梓が住む1号棟の階段を登ったが、何か今までと違う気配が身体を包ん

  だのを感じた。

   ズボンのポケットから合鍵を取り出してドアを開けようとした時、階段に人の気配がして、慌てて鍵

  をポケットにしまい、身ずまいを正してチャイムを鳴らした。


  「菅原さんは引っ越しましたよ」

   階段を上がって来たのは隣の主婦だった。

  

  「引っ越した?」

   隣の主婦は何を言っているのだろう?


  「先月末に引っ越されましたよ」

   怪訝そうな雄一郎に、隣の年配の主婦はまた言った。

 

  「引っ越した?」

   そんな筈はない……昨日も「明日は大丈夫? 夕食は何がいい?」と梓から確認の電話があった。


   雄一郎は動揺を隠すように「どちらに、ですか?」と尋ねた。

 

  「それが知らないんですよ。転居先を教えてくれるって約束していたんですけれど。何も教えてくれな

  いまま引っ越しちゃったみたいで……」

   持っていた買い物袋をドアの前に置いて、少し不服そうに主婦が答えた。

  

  「お宅のように誰か訪ねてきて、それが大事な用件だったら困るでしょうに。お宅はどんなご用なの」

  

  「以前亡くなられた菅原さんのご主人と奥さんが勤務されていたホテルの者です」

   雄一郎は名刺入れから名刺を取り出し、主婦に手渡した。

 

  「それでどんなご用件なの?」


   愛想のない言い方だったが、好奇心が見え見えの隣の片岡ふみ子という主婦に、何か探る事が出来る

  かもしれないと思い、後先の事も考えず、雄一郎は咄嗟に思いついた事を話し始めた。


  「去年の末に、菅原さんの奥さんはホテルを退職されているのですが、再婚されるとかで、秋にはお目

  出度という事でした。ご主人の事もありましたので、こちらでお祝い金を出す事になっていましたので、

  その手続きのために伺ったのですが」

 

  「お目出度? 結婚? そんな話聞いてませんよ。そんな嬉しい事があるのなら、私に真っ先に話をし

  てくれる筈ですよ。何かの間違いじゃないですか?」

 

  「確かにそう仰ってましたよ。少し前に無事に着帯も済んだと、ホテルに連絡を頂いておりましたが」

   雄一郎は丁寧にふみ子に説明した。

 

  「エーッ、人違いじゃないですか? 引越しの時だって元気に動き回っていましたよ。秋に生まれるの

  なら、もうお腹だって目立っている筈なのに……細いズボンを穿いていましたよ」

   ふみ子は大げさに驚いた。

 

  「だってね……あらっ、こんな所でなんだから、良かったら中に入りませんか?」

   ふみ子は雄一郎の話しに興味を持ったようで、ドアを開けて家に入るように勧めた。


  「ご迷惑じゃないですか?」

   ふみ子の言葉の一つ一つにかなり動揺しつつも冷静を装った。

  

  「私は一人住まいだから構いませんよ」

  

  「失礼します」と雄一郎は片岡ふみ子の家に上がりこんだ。



   ふみ子は親切にも冷蔵庫から冷たい麦茶を出してくれた。思いがけない出来事で、口の中がカラカラ

  になっていた雄一郎は麦茶を一気に飲み干した。


  「さっきの事ですけれどね……菅原さんの奥さんのお目出度の事は本当ですか? 有り得ない話ですよ。

  だってね……こんな事言っちゃっていいのかしら……」

   一瞬、ふみ子は考え込む様子を見せた。


  「私を信じてお話してください。伺ったお話は私の胸の中だけで納めておきますよ。だから安心してく

  ださい」

   何としてもふみ子から話を聞き出したい雄一郎は、警戒心を抱かせないように、優しく話しかけた。

  

  「そうですか? でもね……」

  

   ふみ子はまだ躊躇っていたが、黙って引っ越した梓に少し腹を立てていた事もあって、話をする事に

  した。


  「じゃあ、お宅を信用してお話しますけれど……実はね、ご主人が亡くなって、私がお焼香に行った時

  に菅原さんは『子供がいたら良かった。淋しくなかったの』って泣き崩れたんですよ。『余計なおせっ

  かい』って思ったけれど『どうして子供を作らなかったの?』って聞いたら『病気で子供が産めない身

  体になった』って。私は悪い事を聞いちゃって『ごめんなさい』って何度も謝ったのをハッキリ覚えて

  ますよ。でも奥さんは、こんなおせっかいな私にもそれからも良くしてくれて……」

   ふみ子は少し涙目になった。


   雄一郎はショックに打ちのめされた……そんな話は信じる事が出来ない……


  「それは菅原さんの作り話という事はないですか? ホテルを辞めた理由はお目出度だったんですよ」


   梓から母子手帳を見せられた事もあった。手に取って確認してはいないが、表紙に可愛いイラストが

  描かれていて「母子手帳」とハッキリ書かれていた。


  「それからもう一つ、ご主人のお焼香の時に、奥さんから聞いたってお話されましたが、当時菅原さん

  は、ご主人を無くしたショックで声を失っていた筈ですが」

 

  「あらっ、やだ! そんな事はありませんよ。洗濯物を干す時に、ベランダでいつも挨拶を交わしまし

  たよ。何度も言いますが、お宅が言っている菅原さんは別の方じゃないですか?」

   ふみ子は、唖然としている雄一郎を怪訝そうに見つめた。


  「ご主人の労災の手続きも私が担当したのですが、私は隣の菅原さんのお部屋に、何度もお邪魔をして、

  奥さんとはしばらくの間、筆談をさせて頂いていました。だから、間違いはありませんよ」

  

  「じゃあ、いつから声が出るようになったのですか?」

   

   主婦の問いに一瞬雄一郎は戸惑った。

  

  「菅原さんは、ホテルで働いていた時もお話が出来なくて、悩んでいられましたよ。声が出るようにな

  ったのは、ご主人を亡くされた年のクリスマスの頃だったと思います。声が出た事を大変喜ばれていま

  した」


   ……梓は「あなたのお陰で声が出るようになった」そう言って涙を流していた……


  「エーッ? お宅は変な事ばかり言って……声が出ないなんて信じられないですよ。だって、ベランダ

  に出ると、隣から奥さんの歌声がよく聞こえて来ましたよ。私はその声を聞いて、元気になって良かっ

  た。そう思って安心していたんですから。確か、ご主人が亡くなられた年の秋になる頃でしたよ。そう

  そう、庭にコスモスが沢山咲いていたから」


   ……秋になる頃……それは二人が深い関係になった頃だ……


   ふみ子は今度は疑うような顔つきで、考え込んでいる雄一郎をじっと見ていた。


  「菅原さんの携帯電話番号はご存知ないの?」

 

  「伺っていません。片岡さんはご存知ですか?」


  「いいえ、知りませんよ。引越し先も、役所に届けを出していれば調べられるでしょうけれど、素人じ

  ゃそんな事出来ないですものね……会社で調べられないの?」

  

  「……そうですか……分かりました。ホテルに帰ってもう一度確認してみます。いろいろご親切にあり

  がとうございました。片岡さん、お願いがあります。今、私と話をした内容は、内密にしておいてくだ

  さい。私も片岡さんから伺った細かい事は決して口外しません。いろいろありますので……」

  

  「分かってますよ。菅原さんの事もありますものね。私はいいんですけれどね、お宅は大丈夫? でも、

  なんだか変な話よね」

   ふみ子は今度は同情し、心配している様子で雄一郎を玄関で見送ってくれた。


  「本当にありがとうございました。失礼します」

   丁寧に礼を言ったが、雄一郎はパニック状態になっていた。


   北側の駐車場に、梓のレモンイエローの軽自動車が無かった。

  「いつもと違う」とさっき感じたのはそれが原因だったのか? 

   雄一郎は、隣のふみ子に気づかれないように、南側に回って梓の部屋を眺めた。ベランダに面した窓

  は、真っ黒な口を開けていた。


   ……引っ越したのは本当だ……


   ……しかし、信じられなかった……梓は演技をしていたのか?……妊娠もウソだったのか?……何の

  ために……





  


   ショックが大き過ぎて、雄一郎はどうやってマンションに辿りついたのか、記憶がなかった。

 

   我に返った時には、目の前のウィスキーのボトルが空になり、灰皿には煙草の吸殻が山になっていた。

   

   携帯を取り出し梓に電話をかけた。さっきから何度も電話をかけていた。


  「お客様がおかけになった電話番号は現在使われておりません……」

   アナウンスは変わっていなかった。


  「バカヤロー!」と叫んで携帯電話を放り投げた。

  

   キッチンから、新しいウィスキーのボトルを持って来てグラスに注ぎ、ストレートで一気に飲み干した。

  煙草の吸いすぎで口の中が気持ち悪かった。

   熱いシャワーが浴びたくなり風呂場に向ったが、立ち上がった拍子によろけてしまい、泳いだ手でテー

  ブルの上の灰皿を落としてしまった。フローリングの床に煙草の吸殻がぶち撒かれ、ニコチンの嫌な臭い

  が鼻をついた。手で吸殻を拾い集めたが、自分が惨めになった。

   

   這うように風呂場に行き熱いシャワーを浴びて、バスタオルを巻いただけの姿でベッドに倒れこんだ。

  頭の中がグルグル回って気分が悪かった。


   ……何が起きたのか? さっきの事は現実なのか?……



    村上と真理が笑って手招きしていた。

  「待てよ」と二人を追いかけているがなかなか追いつけない。

  「早く」と二人がまた手招きしている。早く二人の所に行きたいが足が動かない。

  必死に二人の所に行った時、足を誰かが引っ張り、真っ黒な穴の中に落ちてしまった。



   自分の叫び声で雄一郎は目を覚ました。時計を見るとまだ日付けは変わっていなかった。

   

   ゆっくりと起き上がり、またウィスキーを飲みながら煙草を吸った。


   黙って姿を消した梓が急に愛おしくなり涙が流れた。


  「声が出なくなったという事と妊娠がウソだったとしても、何故、突然に姿を消したのか? 梓は本当に

  俺を愛していたのか?」

   

   ……分からなくなった……


  「俺は本当に梓を愛していたのか? 愛していたのは確かだ。梓を愛していた。だから、梓と子供と三人

  で歩む事を決めた」


   ……真理への思いがあったとしても、自分の梓への思いは確かだった……


   しかし……「梓の事が少し鬱陶しくなった事があった。ロイヤルガーデンのBILLを発見した時だ。

  取り乱した梓を見て怖さを感じた事があった。あれは何だったのか? あの後、梓と長い間会わない期間

  があった。仕事が忙しいと口実をつけたが、何処かでホッとしている部分もあった。その時に、どうして

  そういう気持ちと真剣に向き合わなかったのか? だが、俺は逃げた……梓だけじゃない。俺は真理から

  も逃げた……真理……『子供』そうだ『子供』だ……梓は、それで俺をがんじがらめにした……それは、

  真理から俺を奪うために……?」


   いろいろな事が頭をよぎり、考えつく限りの事を考えて、その考えが「子供……妊娠……真理」に辿り

  ついた時、雄一郎の心の中にあった「梓への愛おしさ」が急に「梓への恐怖」に変化していった。


  「俺が梓に溺れたのは真理というベースがあった上での『背徳の妙味』だったからではないか? 『背徳

  の妙味』の結果がこの様か。バカにも程がある」


   雄一郎は自分を責めた。


   放り投げた携帯電話を取ったが「誰に電話をかけるんだ」ハッとしてまた携帯を思いっ切り放り投げた。

  携帯電話がオーディオラックに当たり、嫌な音を立てて足元に跳ね返って来た。


  「壊れたか……愛も壊れたのか……」


   携帯電話を見つめる目から涙がこぼれた。恐怖感を抱いても、梓への思いは簡単には消えなかった。


   ……梓の気持ちが悲しかった……


  「梓は、子供が出来た、とウソをつく必要なんてなかったんだ。梓と別れるつもりはなかったのに。ずっ

  とこのままでいたかった……」


   梓に触れたくて携帯電話に手を伸ばしたが、掴み損ねた携帯電話はベッドの下に滑りこんだ。



   少しして、今度は脱ぎ捨てたズボンのポケットに入っている携帯電話を探った。その時、冷たい物が手

  に触れた。


   梓の部屋の合鍵だった。

  

   雄一郎は携帯電話と合鍵を取り出して、その二つをじっと見つめた。


   携帯電話の向こうには真理がいて、合鍵の向こうには梓がいた。

  手が無意識に真理を検索し、発信ボタンを押していた。コール音が響いたが携帯は留守電に切り替わった。


  「勝手よ、勝手すぎる」怒った真理の声が聞こえた気がした。


  「いいさ、真理に罵倒されようがどう思われようが構わない」

   そう思ってもう一度電話をかけた。


  「もしもし……」

   眠そうな真理の声が答えて、雄一郎は一瞬うろたえた。電話に出てくれる事を待っていたが、いざ、声

  を聞いてどうしていいか分からなくなった。


  「もしもし……」

   また、真理が呼びかけた。

  

  「真理か。今何してる?」

  

  「何してる? って……人間やってる息してる……もう、せっかくいい夢みていたのに……」

   真理は笑っていた。

  

  「そうか……邪魔して悪かったな」

 

  「どうかしたの? 何か変よ」

 

  「……」

   雄一郎は応えられなかった。

  

  「具合いでも悪いの? 大丈夫?」

   真理が心配そうに呼びかけた。

 

  「大丈夫だよ」

   声を詰まらせながら、やっとの思いで答えた。

 

  「泣いてるの? 何があったの?」


   これ以上真理の声を聞くのが辛くなった雄一郎は「悪かった。おやすみ」と言って自分から電話を切っ

  た。


  「真理に頼るなんて、本当に最低な男だ」

   ひとり言を言って、またウィスキーを煽った。

 

   しばらくして、雄一郎の携帯が鳴った。


  「真理だろうか? 梓だろうか?」と一瞬考えたが、自分から電話をかけて、真理を求めておきながらも、

  まだ梓からの電話を期待している自分が、猛烈に情けなくなった。

   

   目をつむって着信名を確認せず、受話ボタンを押した。


  「ついに地獄に堕ちたか?」

   相手は村上だった。

  

  「真理から電話で、お前の様子が変だから電話をしてくれって。真理が心配してたぞ。何があったんだ?」

 

  「悪かったな。ちょっと仕事でミスちゃって……もう大丈夫だよ」

 

  「ウソ言うなよ。仕事でミスったからって今のお前が真理に泣きつくかよ。いい加減な事を言うなよ。原

  因は女だろう? 女に逃げられでもしたんだろう。それで辛くなって真理に泣きついたのか。最低な男だ

  よな!」

   村上が吐き捨てるように言った。

  

  「何とでも言えよ。お前に非難されるに値する男なんだから」

 

  「だけど、女に逃げられたのが辛いんじゃないよな。本当に大事なのは真理だって気がついて、自分の事

  がどうにも分からなくなったんだろう。それが当たりだろうな。お前の事はよく分かるよ。人間には、お

  守り役とお守られ役があるんだよ。俺はお前のお守り役、そんなところだろうから」

 

  「簡単には口に出来ない。それに話すと長くなる」

 

  「覚悟してるよ。今、俺のお守り役が酒と煙草を用意してくれた。お前の話を聞いてやれよ。っていう命

  令だろう。俺は明日は休みだから時間は気にするなよ」

   村上はウソをついた。明日は朝から仕事だし、弓恵はすっかり寝入っていた。


   雄一郎は、真理が子宮外妊娠をした時の事を思い出した。あの時も村上がこうして自分を救ってくれた。


  「お前の気持ちと、弓恵さんの気持ちは分かっていて有り難いが、俺の気持ちが整理出来ない。申し訳な

  いが今はまだ話せない」

  

  「分かった。それならそれでいいよ。だけど俺は……」

   そこまで言って村上は口をつぐんだ。


   ……今、自分の勝手な思いを伝えるべきではない……


  「心配してくれるお前の気持ちは重々承知してる。バカな俺に少し時間をくれよ」

 

  「お前はバカか? 俺の友達にバカはいない筈だけどな」

 

  「本当に悪かった。また、連絡する」

   雄一郎は電話を切った。



  「切断中 川村」の画面をじっと眺めていた村上は、真理に電話をかけた。直ぐに真理は「どうだった?」

  と応えた。

   ずっと心配していたのであろう。真理が雄一郎を案ずる気持ちを考えたら、村上は胸が痛んだ。


  「あいつは全くバカな男だ。最上客を怒らせたらしいよ。地元の政治家も一緒だったから、面倒な事にな

  ったそうだ。怒らせた客は、ロイヤルガーデン・プレミアムクラブの顧客だったから、お前に確認をした

  かったらしい。会社が一丸となって戦っている時に迷惑な話だよな。機会があったら『しっかりとプライ

  ドを持て!』って言ってやれよ」

  

   そんな事は有り得ない、真理は分かっていた。村上もウソをついている。

 

  「らしくない事して……大丈夫なのかなあ?」

   真理は騙されているフリをした。

 

  「事態が収拾したら俺に何か言ってくるだろう。あいつのクレーム処理には定評があるから、責任を持っ

  て対処するさ。お前も余り心配するなよ。明日は仕事か?」

 

  「私は公休。村上さんは?」

 

  「俺は仕事だ。全く、あいつのせいで目が冴えちゃったよ。酒でも飲んで寝るとするか」


   その時、弓恵がリビングに現れた。弓恵は携帯電話をかけている村上に「真理ちゃん? 私に変わって」

  と手振りで示した。


  「なんかさ、弓恵がお前に話をしたいらしい。変わるからな」

   村上は携帯電話を弓恵に渡した。


  「こんばんは。お久しぶり」

   弓恵のハスキーな声は魅力的だった。

  

  「夜遅く起こしちゃったみたいでごめんなさい」

   真理は謝った。

 

  「心配しなくても大丈夫よ。真理ちゃんに伝えるわ。『愛すること、忘れること、そして許すことは、人

  生の三つの試練』ヨーロッパのことわざよ。じゃあおやすみなさい」

   弓恵はそう言って寝室に戻って行った。


  「もしもし、分かったか?」


   弓恵の存在感の大きさに圧倒された村上が、電話口で真理に話しかけたが、真理はすぐには返事が出来

  なかった。久しぶりに聞く弓恵の言葉は重く、真理はその言葉を自分の中で噛み砕いていた。


   ベッドの中で真理からの電話を受けた村上は、寝ている弓恵を起こさないように、とリビングルームで

  二人と話をした。弓恵は、村上と二人との電話でのやりとりを聞いていて、三人が本音を言わない事にや

  きもきしていたのだろう。村上も弓恵に感謝をした。



  「いつも迷惑をかけてごめんなさい。本当にありがとう。じゃあ、おやすみなさい」

   電話を切って真理はベッドに戻った。






  「愛すること、忘れること、許すこと、それが人生の三つの試練……」

   何度もその言葉を頭の中で繰り返していた真理は、村上と同じように、眠気がすっかりどこかに吹っ飛

  んでしまっていた。


   時計は午前1時を指そうとしていた。


  「山梨に行ってみよう」

   突然そんな気持ちが湧き上がった。


  「しかし、行ってどうするの? 見なくてもいい事を見て、聞かなくてもいい事を聞いて、傷口がもっと

  広がるかもしれない。余計な行動を起こさなければ、踏ん切りもつき、早く穏やかな日々を送る事が出来

  るかもしれない」

  

   何度も寝返りを打ちながら心の迷いと戦っていたが、どうしても、電話での雄一郎の様子が頭から離れ

  なかった。


  「菅原梓との間で何かあったのだろうか? 私に電話をかけてきた、という事は救いを求めているのかも

  しれない……でも、山梨に行って嫌な現実を見る事になったら……」

  

   それは辛い事だが「人生の三つの試練」に自分が立ち向かう事が出来るか、雄一郎と会って、その事に

  きちんと向き合ってみたい。そして自分の目で現実を確かめてみたい……と気が済まなくなってきた真理

  は覚悟を決め、起き上がってシャワーを浴びて支度を始めた。

 

   真理が、愛車のシェナレッドのBMWツーリングワゴンに乗り込んだのは、午前2時を回っていた。

  エンジンをかけると、ミディアムスローなクレイグ・ディビッドの「フィール・ミー・イン」が流れた。

  クレイグ・ディビッドは、雄一郎が好きなアーティストの一人だった。

  

  「二人でこの車に乗ったのはいつだったのだろう?」

   過去を探ったが、思い出す事が出来なかった。


   真理は自分の世界に入りたくて、選曲ボタンを押してジャネット・ケイを選んだ。そして、顧客リスト

  から写し取った、菅原梓の住所をナビに入力した。雄一郎が住んでいるマンションは、会社の借上げ社宅

  なので、そこで一緒に暮らしているとは思えなかった。

   現地到着予定時刻は6時と表示されていた。

 

   真理が運転するBMWは新山下から高速に入った。

  トラックが多く少し不安だったが気を引き締めた。

   BMWは首都高から中央自動車道に乗り順調に走行した。ジャネット・ケイの包容力のある優しい歌声

  は、真理を落ち着かせ、深夜のドライブを楽しんでいるような感覚になり、自分がこれから起こすであろ

  う行動を忘れさせてくれた。

   途中ナビが「この辺で休憩しませんか」と案内をしたが、PAにも寄らず、ほぼ予定通りに真理は目的

  地に到着した。



   梓が住む団地はもう活動を始めていた。

 

  「1-102」という住所から、マンョンだと思っていたが梓の住居は県営団地で「ここが二人の愛の

  巣?」と意外であった。

  

   団地の外れにある来客駐車場に車を納め、車から降りようとした時「私はここで何をするつもりなのだ

  ろう」と考えて、行動を移す事に躊躇った。


   ホテルに梓が現れた時「私だったらそんな事をしない」と梓を非難したが、自分は梓と同じ事、それよ

  りもっと恥ずかしい事をしている。「嫌な女」は……自分。

   しかし、落ち込みそうな気持ちに目を背けて、手帳で棟と部屋番号を確認して梓の部屋に向った。

 

   ドアの前に立った時には、心臓が飛びだしそうになっていた。

  表札が出ていないのが変だと思ったが、少しの間ドアの前で室内の気配を伺った。上階のどこかの部屋の

  ドアが開く音がしたので、真理は慌ててその場を立ち去り「どうしようか?」と考えて南側の2号棟に向

  った。

  

   2号棟の北側通路からは梓の部屋が望める。

  「泥棒猫みたい」と思ったが、目で梓の部屋を探した。

   

   梓の部屋を見た時違和感を覚えた。部屋に色が無かった。

  「何故だろう?」と棟全体を見渡して気がついた。ベランダに面した窓にはカーテンがかかっていなかっ

  た。

  

   ……空室なのだ……


  「引越しをして雄一郎と一緒に住み始めた」

   ショックだった。


   しばらくの間、そのまま梓の部屋を眺めていたが諦めて車に戻った。

 

   車に戻った真理は猛烈に煙草が吸いたくなった。臭いがつくのが嫌で車の中では煙草は吸わない。愛車の

  BMWは禁煙車だったが、規則を破って煙草に火を点けた。

   煙草は不味かったが勇気を与えてくれた。立て続けに二本吸って車を発進させた。

   

   次に向う先は雄一郎のマンション。もう梓と一緒に住むために何処かに引越しをしたかもしれない。


  「それだったらそれでいい。自分に突きつけられた現実をしっかりと受け止めよう」

 

   雄一郎のマンションも目覚めていた。

  マンションの北側にある駐車場に到着した時、出勤なのだろうか何台かの車が出て行った。

   

   雄一郎の愛車の黒のチェロキーリミテッドは、いつもの場所に停められていた。

  

  「チェロキーがあるという事は引越しはしていない。このマンションで、彼女と一緒に生活をしているのだ

  ろうか?」


   しかし、停まっているチェロキーを見て、真理はまた違和感を覚えた。車好きの雄一郎は、駐車する時は

  きちんとスペースに納めるが、目の前のチェロキーは、前輪が斜め横を向いていた。エンジンを切る時に、

  ハンドルを真っ直ぐに戻さなかったのだろう。

   車の止め方に、昨夜の電話での雄一郎の様子が重なった。


  「どうしよう?」と真理は一瞬躊躇した。

  BMWはルーフキャリアが付いているし、ボディカラーも目立つ。もし、雄一郎が出て来たらすぐに見つか

  ってしまう。

 

  「そうなったら修羅場を繰り広げるのもいいかも」

   真理は車を降り南側に回って、マンションとの敷地の境にある細い道の木の隙間から、二階にある雄一郎

  の部屋を伺った。カーテンも閉まっていない部屋には、電気が点いていた。


   正直惨めだった。別れた、と言っても、まだ夫である雄一郎の部屋を、こんな風に探っている自分が嫌だ

  った。正々堂々と、雄一郎の部屋を訪ねたって何の問題もない。そうなのかもしれないが……その時、雄一

  郎の部屋の窓が開いた。

   真理は咄嗟に身を屈めた。

 

  「見つかった」

   そう思って覚悟をして思わず目をつぶった。

  

   少しの間そのままじっとしていたが、何も起きていない気配を感じて、また恐る恐る部屋を見上げた。

  エアコンの室外機が置かれているだけの殺風景なベランダは、男所帯のうら淋しさが漂っていた。

 

   真理は車に戻った。

 

  「私は何をしに山梨まで来たのだろう?」

   またその事が頭をよぎった。

   

   車の中にいる真理を、怪訝そうに眺めながら数台の車がマンションを出て行った。他人に稀有な目で見ら

  れる事が恥ずかしかったが、次の行動に移る事が出来なかった。



   

 


   ハンドルにもたれかかって、しばらくの間試行錯誤を繰り返していた。


   と、その時……気配を感じて顔を上げた時……フロントガラスの向こうに雄一郎が現れた。


   真理の中で周りの景色が消え、唖然と立ちすくんだ雄一郎の姿だけがクローズアップされた。


   無意識にドアロックを解除して、雄一郎を車の中に招き入れていた。

  我に返り、改めて見た雄一郎は今まで真理が見た事がない程憔悴しきっていた。


  「グッドモーニング!」

   真理は明るく雄一郎に挨拶をしたが、笑顔にはならなかった。


   昔……まだ幸せだった頃……しばらくぶりに会う休みの日、そう言って二人の貴重な一日をスタートさ

  せていた。


  「いつからいたのか?」

   雄一郎は、いつものように目じりに優しそうな皺を寄せて真理に尋ねた。

  

  「ずっと昔から……」

   そう答えた。

   

   不思議だった。雄一郎と会うのはあの「悪夢の日」以来である。「真理の他に好きな人が出来た」そう

  言って去って行った。自分は棄てられた、のだが、何なのだろう? しばらくぶりに会った雄一郎に優し

  く、穏やかな気持ちになれる自分がいる。


  「そうか……ずっと昔からいたのなら、ここにいるのも飽きたよな。コンビニに煙草を買いに行きたいけ

  れど、車を出してもらっていいか?」


  「了解!」

   真理はBMWを発進させた。


   コンビニに着くまで二人は一言も言葉を交わさなかった。


  「スターバックスのコーヒーと、あらびきウィンナが入ったパンを買って来てね」

   降りた雄一郎に真理は声をかけた。

   

   コンビニから出て来た雄一郎は、両手に買い物袋を下げていた。マンションに着く間も、やはり二人は

  一言も口をきかなかった。


  「入るか?」

   駐車場に車を納めた時、雄一郎が口を開いた。

  

  「……」

   真理は答えなかった。

  

  「遠慮する事はないよ。俺一人だから」

   言った後、その言葉の意味を真理がどう受け止めたかが気になった。

  

   真理は雄一郎に従った。  


   部屋はアルコールと煙草の臭いが染み付いて、雑然としていて汚かったが、真理は周りを見ないように

  して座り、ガラステーブルの前でじっと動かなかった。

   雄一郎はテーブルの上を手早く片付けて、袋からスターバックスのコーヒーと、あらびきウィンナーの

  パンと、自分用のお茶と握り飯を取り出した。

   真理はその動作をじっと見つめていた。


   雄一郎は「むさくるしい」その言葉がピッタリと当てはまった。それに二日酔いなのだろうか、とても

  お酒臭い。真理は黙ってコーヒーを飲んでパンを食べた。

   重苦しい雰囲気だったが、居心地は悪くはなかった。


  「昨夜は起こしちゃって悪かったな」

   握り飯を食べ終えてお茶を飲んだ雄一郎が謝った。

  

  「イケメンが台無し。鏡を見た?」

   真理はバッグから鏡を取り出して手渡した。

  

   鏡で自分の顔を確認した雄一郎は苦笑いをした。


  「仕事でミスった。なんてウソでしょ? 車の停め方もらしくなかった」

   空き家になっていた梓の部屋が真理の頭に浮かんだ。

  

  「少し時間をくれるか? 真理には話をしなくてはならない事がたくさんある」

  

   雄一郎は、裏切っている自分の事を心配して、深夜に車を飛ばして山梨まで駆けつけた真理には申し訳

  ない。という気持ちでいっぱいだったが、まだ気持ちの整理がついていなかった。


  「分かった……」

   二人の視線が絡み合った。


   真理は胸が苦しくなり下を向いた。

  

  「寝てないんだろう? ベッドを使えよ」

   そう言って雄一郎は、シーツとピロケースを外し洗濯機に汚れた物を放り込み、クローゼットから新し

  いセットをを取り出して、真理のためにベッドを整えた。

   

   昨夜は電話に起こされる前に少し眠っただけだったが、神経が冴えて眠気は感じなかった。


  「私は眠くない。それより本当に大丈夫? 大丈夫だったら帰るけれど」

   山のように吸殻が溜まっている灰皿をキッチンで綺麗に洗って、テーブルに戻した。


  「そうだ」

   テーブルの上に置かれていたバティック柄の手鏡を手に取った。

 

  「この鏡ね、米沢さんの奥様にバリ島のお土産で頂いたの。知っているでしょう? 議員の米沢さん。今

  月末に、お父様の米寿のパーティの予約が入っているの。凄いの、100人以上の規模よ。この間、打ち

  合わせに見えた時『川村君は元気?』って。『パーティが終わったら、八ヶ岳のガーデンリゾートに避暑

  に行く予定』そんな事を言っていたの。米沢さんが来た時には、元気でシャキッとしてなくてはダメよ。

  『いつ見ても川村君はカッコイイね』っていう言葉を私は聞きたいから」


   真理の話に雄一郎は思わず笑顔を見せた。


  「真理が帰る前に、シャワーを浴びさせてもらっていいかなあ? ビシッとして見送りたいからさ」

  

  「……」

   真理は黙ってうなづいた。



   雄一郎がシャワーを浴びに行って、部屋に一人残された真理は落ち着かなくなり、急に居心地の悪さを

  感じた。

  「何故だろう……それは……『傍に彼がいる事で安心感を得られる』そういう事?」


   部屋の中を見回した。菅原梓の気配は感じられなかった。空になったウィスキーのボトルや汚れたグラ

  ス、脱ぎっぱなしのスーツやワイシャツが散らばっていた。余計な事と思ったが、部屋の中を片付け始め

  た。脱いだソックスが片一方しかなく、ベッドの下を探した時に、ゴールドメタリックの携帯電話を見つ

  けた。

  

   風呂場の気配を確かめ、恐る恐る携帯電話を手に取った。

  

   雄一郎は今、iphonを使っている。


   この携帯電話が何を意味しているか……初めて見つけた「証拠」「秘密」どうしようもない程悲しく、

  辛い気持ちが沸きあがったが、液晶画面に傷がついている携帯電話の電源を入れようとした。

   しかし、壊れているのか、電源が入らなかった。


  「やはり何かあった。多分放り投げたのだろう、何かにぶつかって壊れた……何があったか分からないけ

  れど、これが現実。彼はもう私の傍にはいない。バカだな、私は」

   自分が置かれた現実に改めて気が付き「この部屋に私は居てはいけない、ここに居るべき人はあの人。

  一人になって感じた居心地の悪さはこの事。やっぱりこのまま帰ろう」

   携帯電話を元の場所に戻し、ヨロヨロと立ち上がった。気が動転していたためか、よろめいて本棚に手

  をついてしまった。真理の目の前に雑誌の「東洋ビジネス」があった。

   

   今度は無意識のうちに「東洋ビジネス」を手に取ってページをめくっていた。

  自分が掲載されているページに折り目がついていた。ちょうど顔の中心で、自分を否定するかのような折

  り目の付け方に不愉快な気分になり、ロイヤルガーデンのコンセルジュでの梓との事が蘇った。


  「あの人はこれを見て、ロイヤルガーデンに現れたのだろう……」


   その時、洗面所からドライヤーの音が聞こえた。真理は本棚の前で動く事が出来なかったが、ドライヤ

  ーの音が止んだ事で慌てて本棚から離れた。

   

   雄一郎が洗面所のドアを開けた時、コロンの懐かしい香りが漂ってきた。


  「片付けてくれたのか……悪かったな」

   すっかり綺麗になった部屋を見回した。


   白いTシャツの上に、薄いブルーのストライプのボタンダウンのシャツを着て、コットンパンツ姿の雄

  一郎は、さっきとは全く違っていた。

   それは長い間真理が愛した「川村雄一郎」だった。


  「余計な事をしてごめんね」

  

  「本当に帰るのか?」

   淋しげな雄一郎に真理の心が揺れた。

 

  「いつもの姿を見て安心したし今日はこれで帰る。私が来た事は村上さんには内緒ね」

  

  「仲間はずれにされたって、あいつはやきもち焼きだからな」

 

  「そうじゃなくて、私達の事でいつも振り回されていて、申し訳ないかな。って思うの」

  

  「分かった約束する。近いうちに連絡するよ。だからそれまで待っていて欲しい」

 

  「そうね、もうそろそろきちんと話をした方がいいものね」

   真理はバッグを手に取った。

  

  「車の運転に気をつけろよ。眠くなったらパーキングに寄れよ」


   気をつけろよ……と、雄一郎は真理の肩を軽く叩いた。雄一郎に触れられた肩から、温かいものが身体

  中に流れた。


  「ありがとう、大丈夫よ」


   また二人の視線が絡まった……このまま胸に飛び込んで「棄てないで!」と泣いてすがって、抱かれれ

  ば……楽になるかもしれない……


   一瞬そう思ったが、その思いを断ち切るようにして真理は雄一郎に背を向けた。

  

   雄一郎は淋しげな真理の背中を見た時、心の叫びを聞いたような気がした。


  「ここでいいのよ」と言ったが、雄一郎は駐車場で真理を見送った。


  



 


   マンションの敷地を出て、バックミラーから雄一郎の姿が消えた時「愛すること、忘れること、許すこ

  と、それが人生の三つの試練」の言葉を思い出し「帰っちゃっていいの?」と、真理は県道に出る手前の

  雑木林の道で、ウィンカーを出して車を停めた。


  「そう思うなら、自分の気持ちを伝えるのは今よ」

   別の真理が問いかけた。

  

  「でも……」

   躊躇った。


   別れ話を告げられてからいっぱい泣いたが、雄一郎の前では決して泣かなかった。

  それは「泣かなかった」のではなく「泣けなかった」のだ。自分から離れて行く人、自分を受け入れてく

  れない人には、素直に本心をさらけ出す事が出来なかった。

   

   手術をして退院した日の夜、真理はなかなか眠れなかった。でも、その事を雄一郎には悟られたくはな

  かったから、眠っているふりをしていた。

   あの時の雄一郎は優しかったが「子供をダメにしてしまった」という事で「申し訳ない」という気持ち

  と「劣等感」を感じ「自分から離れて行ってしまう」という不安感が沸いて、だから、気を遣って寝てい

  るふりをした。


  「でも、それは真理の勝手な思いこみよ。真理はいつもそうして思い込んでいる。間違いよ。彼は、真理

  を求めているのよ。昨夜の事を思い起こしてみたら? 考え直してごらん?」

   また別の真理が囁いた。


  「『別居生活の不文律』などと勝手に考えていたけれど、そんな綺麗事を言っていないで、真正面からぶ

  つかった方が良かったのかもしれない。仕事の事では、自分をさらけ出す事が出来たのに、大切な生活の

  中でそれが出来なかった自分が、こういう結果を招いてしまった」

   

   別の真理が「そうよ。だから、今、素直に自分をさらけ出したら?」と後押しをした。


  「浮気だったら有り得ても、少なくとも本気だった川村さんを許せる?」

   雄次から言われた言葉が頭に浮かんだ。

  

  「本気でも隠して行く事は出来たんだよね。川村さんもそれを望んでいてさ。真理さんとも別れる気がな

  かったんだろうな。だから真理さんは何も気がつかなかった。だけど、ここに来て隠せない事情になった

  んじゃないかなあ?」

   そう推理を働かせた雄次の言葉も思い出した。


  「でも……許そうと思っているの……」

   雄次からの言葉に反論した。


   突然、お腹を庇う仕草の菅原梓と、壊れた携帯電話と、東洋ビジネスの自分の顔に付けられた折り目が、

  目に浮かんだ。


  「もう、どうにも出来ない状態になっている」


   でも、それでも「戻って、自分の気持ちを彼に伝えよう」と思ったが、やっぱり怖かった。


  「傷つきたくないからお前はいつもいい子でいる」

   村上にはそう言われた。

  

  「やっぱり今日は帰ろう」

   決めた。


  「本当にいいの?」

   最後の最後に、また別の真理が囁いたが、真理はゆっくりと車を発進させた。


   カーステレオからマライア・キャリーの「ウィズアウト・ユー」が流れてきた。


  「私はあなたなしでは生きていけないの……」

   ボリュームを上げた真理は、声を出して泣いた。





   雄一郎は、真理の車が消えても長い間その場所から離れなかった。

  部屋に戻る時、チラッとチェロキーを眺めて「車の停め方がらしくなかったよ」と、真理の言った言葉

  を思い出し、チェロキーの前に立って、横を向いている車輪を眺め「横浜300……」というナンバー

  プレートを見つめた。


  「横浜……やっぱり今だ! 真理に話をしよう!」と思い、ズボンのポケットを探ったが、携帯は持っ

  ていなかった。


  「部屋に戻って、携帯に電話しようか?」


  「間に合わない!」と思ったが咄嗟に雄一郎は走り出していた。

 

   敷地を出て雑木林の道にさしかかった時、ウィンカーを出して左折する真理の車が見えた。


  「真理! 待てよ!」

 

   雄一郎は雑木林の道を走り、必死に真理の車の後を追いかけたが、途中で気分が悪くなりそのままし

  ゃがみこんでしまった。地面に手をついて大きく深呼吸し、吐き気を押さえた。


  「遅かったか……」

  

   吐き気が治まったところで、ヨロヨロと立ち上がりマンションに引き返したが、途中でまた吐き気を

  催して、木の陰で胃の中の物を全て吐き出した。猛烈に苦しくて涙が出て来た。

   フラフラした足取りでマンションに戻り、駐車場でまたチェロキーを見て、何かを振り切るように階

  段を駆け上がり、部屋に戻った。


   玄関のドアを開けた途端、今度は真理の残り香をかいだ。

 

  「そうだ!……エタニティ……だ」

  

  「永遠に続く愛、この香水はそういう意味をもっているのよ」

   真理はそう言っていた。


   携帯を探して真理に電話をかけたが、電話はドライブモードになっていた。

  諦めた雄一郎は、ベッドに横たわってしばらくの間ボーッとしていたが、いつの間にか眠ってしまって

  いた。

  

   どの位の時間が経ったのだろう。

  目が覚めると西側の小窓から西陽が差し込んでいた。


  「真理は横浜に無事に到着したのだろうか」

   携帯を手に取った。

 

  「無事横浜に到着したので安心してね」

   メールが届いていた。


   空腹に気付き「弁当を食べよう」と、部屋を探したがコンビニの買い物袋は見当たらなかった。

 

  「真理が片付けたのか」

  

   冷蔵庫を開けると中に弁当がきちんと納められていた。弁当をレンジで温めながら、缶ビールを取り

  出し、て立ったままで飲んだ。


   その時、本棚に倒れている「東洋ビジネス」が目についた。折り目がついていたのですぐに真理が載

  っているページが開いた。

  

   雄一郎は「なんだ?」と首を傾げた。

  目的のページが開けるように、そこに付箋を貼っておいた記憶があるが、折り目をつけた記憶はなかっ

  た。雄一郎も、真理の顔の中心が折られているのを見て不快な気分になった。


  「梓の仕業だ」

  

  「この部屋を掃除に来た時、雑誌で真理を見て『ロイヤルガーデンホテルに泊まりに行く事を思いつい

  た』そう言っていたが、それだけだったのだろうか?」

   

   レンジが温め終了の合図をしたが、空腹も弁当の事も忘れてしまった雄一郎は、座り込んで真理の記

  事を読んだ。



  「横浜ロイヤルガーデンホテル初 女性ゲストサービス部支配人 川村真理」という見出しで、真理の

  大きな顔写真、プロフィール、仕事の内容、仕事への姿勢、生き方などが紹介されていた。最後にイン

  タビュー形式で、雄一郎との結婚生活が真理自身の言葉で語られていた。


  「結婚して14年になりますが、10年近く別居生活の私は主婦としては失格です。頑固で我がままで、

  仕事の事しか頭にない私を支えてくれている主人に点数を付けるとしたら、それは、天文学的な数字に

  なります。(笑)私にとってはかけがえのない大事な主人との結婚がベースにあるから、良い仕事が出

  来る。月並みな言い方ですね。『自分自身が幸せでないと、本当のおもてなしの心は生まれない』これ

  は、新人研修で講師になった主人が教えてくれた言葉ですが、その事をずっと頭に置いて、仕事をして

  きました。また、主人から『和顔愛語わげんあいご』という言葉を教えてもらった事があります。

  この言葉は、大乗仏教の経典の一つの『無量寿経』の中にある言葉だそうですが『和やかな表情と、愛

  のある言葉で人に接する』という事です。この言葉は仕事だけでなく、日々の生活の中でも基本的で、

  大切な事だと思います。いろいろな事を教えてくれる主人とは、これからもお互いに刺激し合って、自

  分自身を高めていきたい。そして、年を取って仕事から離れて、夫婦二人の生活を始める事が出来た時

  に『良い夫婦になったね』と、心の底から感じられるような、そんなほのぼのとした夫婦になりたい、

  と思っています」と雄一郎への思いを語っていた。


  「不特定多数の人間が読むであろう雑誌で、真理は、ここまで俺への思いを言い切った。それなのに、

  俺は、意気地も男の度量もないくせにいい気になって、真理を……そして梓を弄んだ。梓にも辛い思い

  をさせて悪かった」


   梓を思って雄一郎の目から涙が溢れたが「まさか……」ある事が頭に浮かんだ。


  「この雑誌が出たのは去年の11月の末だった。会社でもその事が話題になり、フロントの誰かが雑誌

  を買ってホテルに持って来ていた。その時、梓は何処かでこの雑誌を読んだのだ」

 

   胸が苦しくなった。


  「あれは12月だ……俺は、梓も子供が出来ない身体だとは知らなかった。関係を持つ時は、いつも避

  妊具を使用しているのに、あの時に限って梓は大丈夫、と言って避妊具を付けさせなかった。そして、

  妊娠を知らされたのは2月の半ば。あの時に梓は『自分の不注意でごめんなさい』そう泣いて謝った……

  そうだったのか……そういう事だったのか……この記事が、梓にとっては大きなショックだった。それ

  で考え、そして既成事実まで作ったのか……声が出ないと言った事もあれもウソだ。俺は、声が出ない

  梓を心配していた、そうするように演技をしたのだ。声が出たのはクリスマスだったが、そのシーンも

  予め決めておいたのだ。夫の幸一を事故で失ったショックで、声が出なくなるような貞淑な女が、半年

  も立たない内に、会社の人間と不倫関係を持てる筈がない。梓に夢中だったから一年半もの間、俺は、

  梓の本当の姿を見る事が出来なかったのか」


   全容が徐々に見えてきて、雄一郎は愕然として、自分の犯した罪の重さに気がついた。



   あの時の真理と同じように無茶苦茶に何かをしたかったが、何をどうすれば、自分が納得する事が出

  来るのかは分からなかった。

   暴れても、激しいロックを聴いても、誰かに話をしても、本を読んでも、カウンセリングを受けても、

  インターネットで「こういう場合はどうしたらいいか?」と相談しても、そんな事で、自分のこの問題

  を解決する事は出来ない。自分の中で考えて、自分で決着をつけるしかない。

   

   それでも急にボン・ジョヴィが聞きたくなった。

  アンプにヘッドフォンを差し込みボリュームを上げ、ボン・ジョヴィの「クロス・ロード」をかけた。

  何も考えず目をつむって、ヘッドフォンから激しく流れるボン・ジョヴィを聞いていたが、頭の中にロ

  ックが流れる分と同じだけ、自分の罪の重さが増した。


   ジョン・ボンジョヴィのパワフルだが、かすれた声が耳をつんざき、更に胸が苦しくなった。梓との

  今の自分の心境をそのまま描いたような歌詞が胸を突いた。


  「だから何だと言うのだ。所詮、歌の世界じゃないか」

   空しさが広がった。


  「俺は本当にバカだ」とまた激しく胸が痛みだした。

 

   あの時、真理がうつ状態になった時、真理を一人で横浜に帰した事を猛烈に悔いた。

 

  「本当に真理の事を思って、俺は真理を横浜に帰したのか? そうじゃないだろう。真理は、そんな俺

  に『優しくしてくれてありがとう』と言ったが、それは『人間としての優しさ』ではなかった。俺も苦

  しくて真理から逃げたかったから、だから真理を横浜に帰した。二人とも同じ位に仕事に比重をおいて

  いた。だが、俺はいつも自分中心に物事を考えていたのだ。真理の願いを受け入れ、仕事への復帰を叶

  えさせたが、心の隙間を俺自身が感じていたのなら、俺が八ヶ岳から横浜に帰る方法だってあった。異

  動願いを出しても良かった。それが受け入れられなかったとしても、選択肢は他にもあった。真理は、

  俺が出世する事だけを望んでいたのではない。ただ、傍にいて欲しかったのだ。俺だって……真理に傍

  にいて欲しかった……真理なしでは生きていけないだろう……それなのに……真理にも、村上にも『真

  理を守る』と約束をしたが、結局、守ろうとしていたのは自分自身だった……だが、自分も守れなくて

  挙句の果てはこの様か……」


   雄一郎はヘッドフォンを外して自嘲気味に笑った。


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