第六章
1
桜の花もすっかり散り、四月半ばも過ぎた日だった。
真理がゲストリレーション部支配人の職に就いて半年が経っていた。
部署の責任者として真理は、多忙な日々を送っていたが「現場も経験する必要がある」という考え
で、可能な範囲で、フロントロビーのコンセルジュデスクや、プレミアムクラブフロアのコンセル
ジュデスクのシフトに、自分を組み込ませていた。
「あの、すみません」
少しおどおどした様子で、一人の女性が、フロントロビーの一角にあるコンセルジュデスクを訪れ
た。
その女性は、ゆったりとしたシルエットの、黒地に白い花の模様のシフォン地のワンピースを着
て、黒のカーディガンを羽織っているが、何となく垢抜けなくて、横浜ロイヤルガーデンホテルに
は似つかわしくはなかった。
「いらっしゃいませ」
笑顔で迎えた真理に、ほんの僅かだったが一瞬「嫌な感覚」が身体中を駆け巡った。
真理は、前日に「翌日の到着者リスト」に目を通し、当日の朝「本日の到着者リスト」でマーク
が必要な客をピックアップして、ミーティングでスタッフに指示を与える。そして、現場のシフト
に入る前には必ず「到着済顧客リスト」を確認するが、その中に「C/I 14:30 LP(レ
ディースプラン)菅原梓 1名、1泊 山梨県北杜市……」のリストを見て引っかかるものがあっ
たが、目の前の女性がその客ではないのか? そんな事を考えた。
「菅原様。ようこそいらっしゃいました。どうぞ、おかけになってください」
間違っていたら失礼になるので、勘で名前を呼ぶ事は出来ない。
その事の怖さは重々承知していたが、勘だけで名前を出してしまった自分に少し驚いた。
真理に促されて、女性はお腹をかばうような仕草をして椅子に腰をおろした。
「そうです。今日、こちらのホテルにお世話になります菅原と申します。教えて頂きたい事があっ
て……」
名前を呼ばれた事が嬉しかったのか、真理の笑顔に菅原梓も笑顔を返した。
真理もまた笑顔を向けたが、手はパソコンのキーボードをたたき、今度は宿泊ゲスト照会画面を開
いて、再度「菅原梓」という女性の詳細を確認した。
「この辺に可愛いベビー服を売っているお店があったら、教えて頂きたいのです」
菅原梓はじっと真理を見つめた。
真理は梓の強い視線と「ベビー服」という言葉に戸惑った。
真理より年上に見える梓は、垢抜けなくて地味な雰囲気だが、笑うと出来るエクボがチャーミング
だった。
「子供服のお店ですか? そうですね、横浜駅前にある二つのデパートは、子供服が充実している
という評判ですよ。その他には元町やランドマークタワーの中にも、子供服を扱っているお店があ
るようです」
真理は敢えて「子供服」という表現をした。一時は平気になっていたが、雄一郎と別れてから
「ベビー」という言葉には敏感になっていたせいかもしれない。
「このホテルからですと、何処が便利ですか?」
質問をしながら梓はじっと真理を見つめた。
真理は、自分が目の前の女性に観察されているようで、窮屈な気分になった。
「ランドマークタワーだと歩いて行く事が出来ます。ゆっくり歩いても10分はかからないと思い
ます。デパートは、横浜駅前なのでホテルからシャトルが出ています。西口と東口に分かれていま
すが、デパートに行かれるのが宜しいかと思います。こちらがシャトルバスの時刻表になりますの
で、ご覧ください」
「そうですか、シャトルバスがあるのでしたら、お奨め頂いたデパートに行ってみようかしら。私
が住んでいる所は田舎なのでお店がなくて、今日は、ベビーの買い物を楽しみに横浜まで来ました」
買い物目的にしては、下調べをしていない事に疑問を感じたが「田舎の人は呑気なのかも」と思
いながら「いつ頃ご出産ですか?」と尋ねた。
「秋の予定です」
梓は誇らしげに言い、お腹に手をあてた。
また真理の身体に嫌な感覚が駆け巡った。
それは「子供が産めなくなった自分」を悲しむ、という感覚ではなく、身体の芯を襲う嫌な感覚だ
った。
「今日はお一人で山梨からいらっしゃったのですか?」
画面で確認済みだったが、会話を繋げるために敢えて尋ねた。
「ええ、一人です。主人は、ホテルの仕事をしているので会社が休めなくて。でもたまには一人も
気楽です」
嬉しそうに答えた。
「川村真理さんとおっしゃるのですか?」
梓は真理のネームプレートをじっと見つめていた。
「綺麗なお名前ですね。ご結婚はされていらっしゃるの?」
真理を見つめる梓の視線は、真理の内面を射抜くように鋭かった。
何故、個人的な事の質問をするのか? と真理は、不躾な梓の問いにどう答えようかと躊躇した。
「ごめんなさい。失礼でしたよね。余りにも素敵な方だったので、ご主人がいらっしゃったら、ど
んな方かな? って考えてしまったものですから」
褒められて悪い気はしないが、目の前の梓に言われるのは何となく嫌な気分だった。
「ありがとうございます。今日のご夕食のご予定はお決まりですか?」
感情を隠しながら軽く頭を下げ、そして話題を変えた。
「まだ、何も決めていないのですよ。せっかく横浜に来たから、中華街にでも行ってみようとも思
うし、ホテルのレストランもいいかな? なんて。何処かお奨めはありますか?」
「2階にある、イタリアンレストランのパスタメニューはお奨めです。でも、中華街は楽しいので、
私の個人的な好みで恐縮ですが、中華街を散策しながらのご夕食をお奨めいたします。ホテルから
は送迎バスが出ていないので、市営バスか地下鉄をご利用して頂くようになります。でも、赤レン
ガ倉庫まで行くと、ベロタクシーと言う三輪自転車のタクシーをつかまえる事も出来ますよ。夜は
少し冷えますけれど、お身体は大丈夫ですか?」
「そろそろ、安定期にさしかかる時期ですから大丈夫ですよ。せっかくだから、川村さんのお奨め
なので、そのベロタクシーに乗って中華街に行ってみようかしら」
笑いながら真理を見る梓の視線は、やはり、何かを試しながら観察しているかのようで、見つめ
られると苦しくなってくるようだった。
「そうだわ」
そう言って梓は、バッグの中からガイドブックを取り出した。ガイドブックと一緒に携帯も取り
出し、デスクの上に置いた。携帯には「YK」というイニシャルが入った、キラキラ輝く、小さな
プレートタイプのストラップが付いていた。
「YK」……チラッとそのプレートを見た真理は動揺した。
「もしかしたら……」それは「女の勘」以外の何物でもなかった。
しかし、その「女の勘」は辛かった。
「このガイドブックの中のお店では何処が美味しいですか?」
真理の心の動揺を知ってか知らずか、梓は、真理の前にガイドブックを広げた。だが、梓は携帯
電話も真理の方に押し出した。それは「『YK』のイニシャルがあるストラップを見て!」とでも
言いたいようで、梓のその動作はわざとらしかった。
その時、外国人のカップルがコンセルジュを訪れた。
カップルは先客の梓に遠慮して帰りかけたが、梓が「どうぞ」と言って、外国人カップルに席を譲
るように立ち上がった。
「良かった」
梓ともうこれ以上話をしたくはない、と感じた真理はホッとした。
しかし、梓は席は立ったが帰る気配はなく、横にあるクラシックなソファーに腰をかけ、カップ
ルと真理の会話を聞きながら、カップルの用が済むのを待っていた。
「英語がお上手ですね」
カップルが帰るのと同時に、またコンセルジュの椅子に腰を下ろし、携帯電話もデスクの上に置
いた。
「仕事柄必要な事なのですが、私の英語力はまだまだ不十分です。時々、お客様にご理解を頂けな
い事もあって、ご迷惑をおかけしたりしてしまいます」
イライラしていたが、真理は謙遜気味に丁寧に答えた。
「早く帰ってくれればいいのに」
心の中でそう願った。
「このお店はどうですか?」
梓がガイドブックを見せながら、有名な中華料理店を指差した。その店は「高いだけで美味しく
ない」と評判の高級中華料理店であったが、真理はもうどうでもよくなっていた。後でホテルに
「コンセルジュで奨められたお店は不味かった」と、クレームをつけられても構わなかった。
いつもの真理は、嫌な客に対しては自分の感情を抑えて、丁寧に対応する事を心がけていた。特
に丁寧な対応を心がける事で、嫌だと感じていた客がそうではなくなり、相手も態度を変える。と
いう事があったが「どうでもいい」そう思わせるものが、目の前の梓の内面から滲み出ていた。
「こちらのお店は雰囲気も良いですし、小皿料理もあったりしますから、お一人でも充分に、お食
事をお楽しみ頂けますよ」
心とは裏腹に、満面の笑みで丁寧に真理は案内をした。
「ここに決めようかしら。お忙しいのにいろいろありがとうございました」
ガイドブックをバッグにしまいながら「明日はいらっしゃいますか?」梓はまた尋ねてきた。
「明日も勤務ですので、菅原様がお帰りの時にご挨拶をさせて頂きます。今日は、横浜をご堪能さ
れてくださいね」
その言葉に満足した様子の梓は、やっと帰って行った。
小一時間程して、またロビーに梓が降りてきた。
真理はデスクから離れ、フロントロビーのメインエントランスでドア・パーソンの三浦雅也と見送
った。
「支配人のお知り合いの方ですか?」
三浦雅也が尋ねた。
「コンセルジュで初めてお会いしたのよ。でも、どうして?」
「チェックインに見えた時、川村真理さんは何処にいますか? と僕は聞かれましたよ。だから、
15時からコンセルジュデスクに入ります。と答えたんですけど」
真理は「分かりません」という風に、ギブアップの仕草で両手を上げてデスクに戻った。
「やっぱりそうだ。菅原梓が雄一郎の相手に間違いない」
「雄一郎の相手」は若い女性だと思っていたが、自分と近い年齢だという事に驚き、その事でショ
ックを受けた。そして、梓がホテルに何の目的で来たのかも理解出来た。
「幸せな現実を見せつけるために現れた……嫌な女だ」
真理は、自分の聖域のような大事な職場で「雄一郎と梓との現実」を見せられた事にも、ショッ
クを受けていた。
しかし、それより何より「妊娠」という事実を見せつけられた事が辛かった。
「子供を諦めた私を、彼は否定した。彼女だけが嫌な女ではない。あの人だって嫌な男だ」
そう思うと、悔しくて悲しかった。
見たくなかった現実を見てしまった事で、イライラが高じて涙が溢れそうになった。ストレスレ
ベルが最高値に達していて、無性に煙草が吸いたくなった。しかし、煙草を吸う場所もなかったし、
デスクを外す事は出来なかった。
「支配人、具合でも悪いのですか?」
涙を堪えていた時、客を案内し終えたベル・パーソンの内藤浩明に声をかけられた。部下に優し
く声をかけられ、急に緊張感が抜け落ちて崩れそうになったが、グッと我慢をして「そうじゃない
の。煙草の禁断症状が出てみたい。困っちゃう」と作り笑いをして答えた。
「判りますけれど、じっと我慢ですよ」
笑って答え、配置場所に内藤は戻って行った。
天井を仰ぎ「負けちゃダメよ!」真理は自分自身にそう言いきかせた。
「彼女は一体何なのだろう?」
コンセルジュデスクでその事を考えた。
「愛する人との間に子供が出来て、充分に幸せな筈ではないの? 夫に棄てられた不幸な私を見て、
比較して自分の方が幸せ、と思ったって満足する事にはならないのに……どうして?」
真理には理解が出来なかった。
「彼女は満足していないのかもしれない。それは私という存在があるから。そうだとしたら、彼は
不幸になる」
そんな事も思った。
不幸になろうが、選んだのは雄一郎であって、そんな事を案ずる必要はないが、この期に及んで
も、まだ雄一郎を思う自分の気持ちも分からなかった。
そして、自分の心の何処かに「彼は嫌な男ではない」と、思いたい気持ちがある事にも気がつい
た。
「あの人は『他に好きな人が出来た』その事しか言わなかった。それは充分過ぎる位辛い事だった
が、その陰に隠れている、もっと辛い事は言わなかった。いつか分かる事だとしても、それはあの
人の、私に対する精一杯の思いやりだったのかもしれない」
何故か「雄一郎を悪く思いたくない」そういう気持ちになっていた。
「あの女のために自分が捨てられた」と思う事より「嫌な女を愛した雄一郎」が情けなくちっぽけ
に思えてきて、その事で空しくなりまた泣きたくなった。
2
コンセルジュデスクのシフトが終わって、事務所の自分のデスクに戻った時に、サービスマーケ
ティング部のブースに村上がいるのを見て、急に村上の声が聞きたくなり、内線電話をかけた。
番号表示で真理と分かった村上は「俺だ」奥のブースで、真理に手を振りながら応えた。
「私よ私」
真理も笑ってそれに答えた。
「なんだ? 何かあったか?」
二人の会話はゲストサービス支配人と、セールスマーケティング支配人の内線電話でのやりとり
ではなかった。
「今日は何時に帰れそう?」
「仕事が一段落したから、今日は定時で帰るつもりだが、定時の帰宅より美味しい話があるのだっ
たら俺はのるよ」
「じゃあ、決まり。7時に湖林に来て」
真理は行きつけの中華料理店の名前を挙げた。
「湖林? 余り美味しい話じゃなさそうだな」
村上は不服そうだった。
「だったら平沼のブラジル亭にする?」
真理は、村上の贔屓の店の名前を挙げた。
「どっちにしても俺の相手は真理だろう? 六角橋の漁火にしよう」
その店は、村上が雄一郎と真理の結婚式の前日に喧嘩を起こした店で、その後、村上の「隠れ家」
となった居酒屋であった。
「六角橋? 遠いじゃない」
真理も不服そうに答えた。真理のマンションは本牧で村上の自宅は戸部にある。
「最後まで俺は真理の面倒を見るよ」
「じゃあ、漁火で決まりね!」
真理が村上に教えられた六角橋にある「漁火」に到着した時には、すでに村上は、生ビールのジ
ョッキを一杯飲み終えていた。
二杯目のビールのジョッキを手に持ち「お疲れ」と村上は上機嫌になった。「お疲れ様」真理も、
生ビールのジョッキを持ちあげた。
「何かあったのか?」
村上の表情は優しかった。
「その質問のご期待にそえる事があったのよ」
ビールをグッと飲んで答えた。
「今日ね、雄一郎さんの彼女に会ったの。その人ね、ロイヤルガーデンホテルに泊まっているのよ。
今日の午後、コンセルジュに来て『横浜で可愛いベビー服を扱っているお店があったら教えてくだ
さい』そう言ってきたの。宿泊ゲスト照会を見たら、山梨の北杜市の人だったの。一泊で一人で、
レディースプランで宿泊しているんだけど。806号室。それでね、ご主人は、ホテル関係の仕事
をしているから、今日は一緒に来れなかったんだって。そうよね、来れる筈ないもの。だって、ご
主人って川村雄一郎なんだから」
真理は一気に喋った。
「何言ってるんだ?」
村上の質問には答えず自分の話を続けた。
「不思議なの。ドア・パーソンの三浦君に『川村真理さんは何処にいますか?』って聞いているの。
菅原梓という綺麗な人だったの。秋に赤ちゃんが生まれる。そう言っていた。その人が何をしにロ
イヤルガーデンに来たか? って分かるでしょう? そういう事をしたくなるのが、女の本能なの
かもしれないけれど、私には理解出来ないし、私だったらそんな事はしない。だけど……それは、
立場が変われば分からないけれどね。でも、彼女の方が強い立場にいるのに。だって、彼女の相手
は、十年以上連れ添った女房を捨てたんだから……勝っているわけでしょう?……」
さっきとは違って、今度は少しゆっくりとした話し方になった。
村上は立ち上がって「親父さんこれもらうよ」とカウンター内に入り、冷蔵庫から日本酒を取り
出した。
「まあ、落ち着いて飲めよ。だけど、そんな一昔前のメロドラマみたいな事が実際に起きるか?」
村上は半信半疑の様子で首を傾げた。
「だって起きたのよ。結婚していますか? だって。私が余りにも素敵だからご主人はどんな人か?
と思ったって。気味が悪くなったの」
その時の感覚を思い出し、真理は自分の肩を抱いた。
「一つの思い込みで、間違った判断をする事だってあるぞ」
「その人の携帯のストラップに『YK』というイニシャルのプレートが付いていたの。『YK』っ
て誰だと思う? 分かるでしょう? 村上さんの親友よ」
「川村雄一郎か。俺の親友だけじゃないだろう。お前の亭主だ!」
村上は真理を見据えたが、真理はその視線に目を背けた。
「その人はね、多分私に見せたかったみたい。わざと私に見えるように、携帯の位置をずらしたり
したの。私は動揺したの。見事にはまった……」
そこまで言って真理は声を詰らせた。
「だから何なんだよ。」
村上は強い口調で尋ねた。
「何にはまったんだよ?」
更に強い口調で目の前にいる真理の腕を掴んだ。
「痛い!」
真理が悲鳴をあげて村上を睨んだ。
「いいぞ、その調子だ。鼻っ柱の強い真理に戻れ!」
村上が心の中で叫んだ。
「あんたの大事な川村雄一郎を奪ったのは私よ! ってその人は言いたかったみたい」
「何だそれは? そんな女の企みにお前ははまったのか?」
「はまるわけないじゃない! ……真理さんはそんなに弱くない……」
コンセルジュデスクでの緊張が激しかったせいか、それから解放され、村上を前にして、急に真
理の目に涙が溢れた。そして「弱かった……」そう言って泣き出した。
「バカだなあ……」
村上は何を話してよいのか分からなかった。本当はもっとスマートな事をしたかったが、真理に、
おしぼりを渡す事しか出来なかった。真理はそのおしぼりで涙を拭いた。
居酒屋のマスターが遠慮がちに料理を運んで来た。
少しの間は、真理も泣きながら黙って日本酒を飲んでいたが、思いつめたような表情で話し始め
た。
「嫉妬心は沸かなかった。『嫌な女』そう思ったの……それで、雄一郎さんが可哀相になったの。
私に子供が出来た事を言わないのは、思いやりだと思うの。あの人は、別れる事になった本当の理
由を隠そうとしているのに、自分が選んだ女が、その気持ちを踏みにじった」
……案の定、離婚の理由はそういう事だったのか……最低な男だ!
村上は、無性に腹がたった。それにも増して「雄一郎が可哀相」というその部分の「真理の気持
ち」を村上は理解出来なかった。
……川村がそういう女を選んだ……
自業自得だろう。
愛情が深ければ深い分、自分を裏切った男に憎しみが沸き、恨み言も言いたくなるのが常だが、
真理は、村上の前で一度も雄一郎の悪口を言った事はなかった。
「自分にも非がある」そんな事を考えてじっと耐えているのだろう。そんな真理が村上は好きだっ
たが、時にはイライラする事もあった。
「思いやり? どうして川村は、子供が出来た事を真理に隠す必要があるんだ? 紛れもない事実
だったら、その事を伝えないと話は始まらないだろう? 中途半端な理由でお前は納得しているの
か? 納得してないだろう? だったら、それを告げない事がどうして思いやりなんだよ! 卑怯
で小心者なだけだろう? 違うか?」
「それは違う……子供を無くした私の辛さが分かっているから。同じ痛みを味わっているから……
だから……私への思いやりなのだと、そう思うの」
「本当に思いやりのある男だったら、こういう結果になっていないだろう。いい加減に目を覚ませ
よ!」
「……いいの。私だけが思いやり、だと思っていれば……」
「俺には理解出来ない。川村も、その女の事も、川村が可哀相というお前の気持ちも……」
「それは村上さんが幸せだからよ。こんな辛い気持ちを味わった事がないから……多分そうだと思
う……」
真理のその言葉に「俺が辛い思いをした事がない? ふざけるなよ!」と村上は、真理の横っ面
を張り倒したい気持ちにかられた。
「真理、お前辛いんだろう? だったらその気持ちを川村にぶつけてみろよ。『あんたの愛人が今
日、大きなお腹を抱えて、ホテルに私の品定めに来ました』って言ってやれよ! 『辛かった』っ
て言ってやれよ! いいじゃないか、人間らしくて。それを言えないんだったら『俺が辛い思いを
した事がない』なんて言うなよ! お前はいつもそうだ。お前だけではなくあいつも同じだ。『自
分は傷つきたくない』だからいつもいい子でいる。だから……だから……お前達は……別れる事に
なったんだ!」
激情に駆られて言ってしまったが、最後の言葉に村上は後悔した。
「そうよね……私はいつもいい子でいたい……でも、それは傷つきたくないんじゃない。一人ぼっ
ちが怖いから……それは誰にも分からない……私みたいに早くに家族を亡くして、一人ぼっちに
なった人間にしか分からない。だから村上さんも嫌い! 誰もかれも嫌い!」
真理の目からまた大粒の涙がこぼれた。
「真理は川村も嫌いか?」
村上が優しく声をかけたが、真理はただ泣いていた。
村上が携帯電話を取り出して電話を掛け始めた。
その相手は「雄一郎だ」と真理は思ったが、村上のするがままにしておいた。
雄一郎から離婚を切り出されてから約一ヵ月半。あの日以来、雄一郎とは会ってはいないが、先
月の終わりに「あなたから突きつけられた事を、受け入れる事はまだ出来ませんが、私達の結婚生
活を、元に戻す事は不可能だと考えています。『別れる』という事には同意しますが『離婚』につ
いては、私の中で踏ん切りがつくまで時間をください」という短い手紙を雄一郎に送っていた。
雄一郎からは「辛い思いをさせて本当に申し訳ない。今後については、真理の気が済むようにし
て欲しい」と返事が届いていた。
少しずつだが、自分の中に、あの辛い現実を受け入れる事も出来るようになり、その事に関して、
柔軟な気持ちにもなって来つつある時だった。
「川村か。俺だ。ちょっと待てよ」
村上はぶっきらぼうに言い、携帯電話を真理に手渡した。
真理は携帯電話を受け取ったが、膝の上に置いてじっとその携帯電話を見つめていた……が、決
心したように携帯電話を取った。
「もしもし真理です。私は元気よ。村上さんったら飲むと電話魔になって……ごめんなさい。まだ
仕事?」
「うん、まだホテルだよ……」
二人の会話は続かなかった。
重い雰囲気に嫌気がさした真理は「まだ仕事中だって」と携帯電話を村上に渡した。
「仕事中に悪かったな。こっちは楽しくやってるから。お前も元気で仕事をしろよな。じゃあ、また」
電話を切って村上はため息をついた。
「分かったでしょう? もうこんな事二度としないでね」
「悪かった。余計な事をして」
悪さをして叱られた子供のように村上は身体を縮めた。
「いいのよ。村上さんが心配してくれる気持ちはよく分かるから……弓恵さんは幸せだね……せっか
くだからもっと飲もうよ」
今度は真理が立ち上がり、冷酒の瓶を二本抱えて戻って来た。
「私は村上さんが大好きよ」
村上のグラスに日本酒を注ぎながら、真理は笑顔で言った。
その言葉に村上は嬉しそうに笑ったが、心の中で泣いていた。
「今日はどうするのか? 一人で大丈夫なのか?」
村上の言葉に、真理の中にじわっと熱いものがこみ上げた。自分が一番愛し信頼していた雄一郎は
「真理は一人で生きていかれる」そう言って、真理の元から去っていった。
だが、目の前の村上が、そしてあの時の渡辺雄次も、真理を一人にさせないように気づかってくれ
ている。
「一人になれない。って言ったら一晩中飲んで付き合ってくれる?」
妹が兄を慕うような気持ちで真理は尋ねた。
「真理がそうして欲しいのだったら、俺は付き合うよ」
「じゃあ、そうして。って言いたいけれどダメ。明日、あの人がチェックアウトする時に、挨拶をす
るって約束しているの。二日酔いのみっともない姿は見せたくないから、明日は、バリッとカッコイ
イ真理さんを見せてあげるの」
本心は一緒にいて欲しかった。
「気持ちだけは頂いておくからね。ところで……いよいよ本部に引き抜きっていう噂があるけれど、
本当?」
真理の顔が急に仕事モードに変わった。
事業本部長から内々で、その事を打診された事は事実だった。
「そんな噂何処から聞いたんだよ? 確かに話はあるが、まだ本部はいいよ。俺は現場にいたいから
さ。お前も心配だし。それより俺は、お前をセールスマーケティング部に戻してくれ、って頼んでい
るんだけどさ。俺の言う事を聞いてくれない。会社は、お前を総支配人にでもするつもりなんだろう」
「エーッ! 女総支配人なんて素敵! 夢見て頑張っちゃおうかなあ」
真理の顔が輝いた。
「二度目の東洋ビジネスに登場の時は『ロイヤルガーデンホテル初の女性総支配人』ってか?」
「私が総支配人で、村上さんは社長というのはどう?」
「極上のラグジャリーホテルが出来そうだな」
それからの二人は仕事の話で盛り上がった。
「11時か。未来の総支配人さんは明日の事を考えて、お肌の手入れをする時間じゃないのか?」
その言葉を合図にお開きにする事になった。
「漁火」の肴は美味しかった。
支払いを心配する真理に村上は「気にするなよ。俺はこの店に会計部屋を持っていてさ、売掛が出
来る唯一人の上客」とホラを吹き、店のマスターには「出世払いで頼む」と言って頭を下げ、店で手
配をしてくれたタクシーに二人は乗り込んだ。
「辛い事がいっぱいあるけれど、私は村上さんがいるからこうして気丈にしていられる。ロイヤルガ
ーデンホテルから離れられないのは、村上さんがいるからかも」
真理はそんな事を考えた。
村上の真理に対する気持ちは結婚する前から気がついていた。「恋愛対象には考えられなかった。
でもそれで正解。だからこうして良い関係でいられる……」
タクシーの中で、真理は村上の肩にもたれかかった。
その時、また左胸にチクチクするような痛みが走った。最近、胸に「チクチク感」が襲ってくる事
が何度もあり、階段の昇り降りにも、息が切れるようになっていた。
「ハードに飛ばしすぎたからかな? 若くないんだから気をつけなくちゃ」
深刻には考えていなかった真理は、村上に気がつかれないように、右手でそっと胸をさすった。
3
翌日、十時前にチェックアウトを済ませた菅原梓が、ロビーで待機していた真理の元を訪れた。
「おはようございます。中華街はいかがでしたか?」
真理は万全な体制と満面の笑みで梓を迎え、ロビーのソファーに案内した。
「川村さんのお陰で、楽しく充実した夜を過ごせました。お食事も美味しかったし満足です。ありが
とうございました」
昨日と違って、モスグリーンのエスニック柄のギャザースカートに、ベージュのコットンセーター
姿で、ソファーに腰を下ろす梓は、お腹を庇うような昨日と変わらない仕草をしたが、その動作がや
はりわざとらしく思われた。
「これからお買い物にいらっしゃるのですか? 横浜駅までのシャトルバスは、十時半にホテルの玄
関を出発します」
「はい、それに乗るつもりです。今日は、夕方に新宿から電車に乗るつもりなので、それまでは、横
浜でのベビー服のショッピングを楽しませて頂きます。地下街に、行列が出来るラーメン店があるか
ら行ってみなさい。と昨日、主人からの電話で言われていたので、お昼はそのお店に行こうかな、っ
て思っています」
「第一弾が来たか……」と真理は思った。
梓が話をしたラーメン店は博多ラーメン店だろう。雄一郎も真理も、横浜駅に行くと必ず寄る程の
お気に入りのラーメン店であった。
「主人……が」と言うのは多分ウソだ。梓は、雄一郎には横浜に行くという事は伝えてない。昨日の
雄一郎の様子からもそう感じた。
「やっぱり嫌な女だ」
真理は改めて感じた。
「そのお店は私も大好きです。麺の茹で方も希望通りに聞いてくれますから。東口の地下街に『ジュ
ノン』という小さなカフェがありますが、そこのクリームブリュレはとても美味しいですよ。お時間
があったら寄ってみてくださいね」
笑顔は絶好調になった。
「横浜ってとても楽しくて素敵! 気に入りました。でも、主人は仕事が忙しくて……今、リゾート
ホテルの総支配人の仕事をしていますが、満足したこのホテルでの事は、主人にしっかり伝えます。
川村さんのご親切は忘れません。それだけではなく……いろいろありがとうございました」
梓の表情は勝ち誇っていたが、その中にねたみが混じっていた。
「底意地が悪そうだけど、魅力がある女性」と言うのが真理の偽わざる印象だった。
「お身体を大事にしてくださいね。機会がございましたら、ご主人とご一緒にお越しください。お待
ちしています。今回はご利用頂きありがとうございました」
真理は必要以上に丁寧に頭を下げ、笑顔だが心を込めずに挨拶した。
「主人? 雄一郎と来れるものなら来てみろ!」
その言葉を梓に投げつけたかった。
「自分を見失なっちゃだめだよ」
雄次の声が聞こえた。
席を立つ時、またお腹をかばう仕草をして、キャリーバッグを押しながら梓は、帰って行った。で
も、その梓の姿はやはり何か不自然だった。
「わざとらしい嫌な女」
真理は、後姿の梓に向って心の中でつぶやいていたが、顔だけは笑顔だった
4
雄一郎は、いつもの目立たない場所に車を納めた。
辺りに人がいないのを確かめてドアを開けると、四月半ば過ぎというのに、冷たい夜気が車の中に流
れ込んだ。車からコートを取り出し、肩に羽織って梓の家に向った。
真理と別れてから、こんなにもコソコソと梓の家を訪ねる必要はなくなっていたが、長い間の習慣
と、やはり、まだ後ろめたさが残っていた。
合鍵でドアを開けると、カレーの良い香りが漂ってきた。
気配に、梓がキッチンから飛んで来て、いきなり雄一郎に抱きついた。
「お帰りなさい」
梓は潤んだ眼で雄一郎を見上げ、唇を求めてきた。
雄一郎もそれに応えたが、その時チラッと真理の顔が頭に浮かんだ。
「一昨日、久しぶりに真理の声を聞いたからか……」
慌てて真理の顔を頭から追い払った。
梓は、雄一郎の手を引いて「ねえ、いいでしょう?」と甘え声を出した。
会ってすぐに身体の飢えを満たす。そういう事は今まで何回もあったが、今の雄一郎は、そういう気
分になれなかった。
「急がせるなよ。今日は、仕事が忙しくて昼もろくに食べてないんだよ。まずは腹の飢えを満たさせ
て欲しいな」
優しい言い方で梓を拒否したが「だって一週間も会ってないんだから……」梓は、雄一郎に抱きつ
いて離さなかった。
「我慢をした後のご馳走の味はまた格別だよ」
意味ありげに雄一郎は言ったが、梓はそれでもしつこく迫った。
今晩の梓は何か違っていた。
少し鬱陶しくなった雄一郎はやっとの思いで梓から離れ、自分で冷蔵庫からビールを取り出して、炬
燵に潜り込んだ。
この辺はまだまだ寒い。梅雨が明ける頃まで炬燵を片付けられない家もある。
梓は少し不機嫌になり、横目で雄一郎を睨んだが、諦めてカレーの仕上げにかかった。
ビールを一口飲んだ時、雄一郎はサイドボードの上に置かれた梓のバッグから「見慣れたマーク」
がはみ出ているのを発見した。
梓は雄一郎に背を向けてキッチンでサラダの準備をしている。炬燵を出て、雄一郎はその「見慣れ
たマーク」がついている用紙を手に取った。
……そして驚いた……
それは、横浜ロイヤルガーデンホテルのロゴが入った「BILL」(会計書)であった。
宿泊日は、一昨日の日付になっていた。
「一昨日の村上からの電話はこれが原因だったのか」と気づき愕然とした。
「梓は真理の前に現れたのだろう。そして気づいた。梓の素性と妊娠している事を。そのショックを
癒すために村上と飲んだ」
そういう事だったのか……なんて事を……
短い時間の間に一昨日に起きたであろう事が頭に浮かんできた。
「俺は、梓に真理に関する詳しい事は話していない。梓は何処で真理の事を知ったのだろうか?」
雄一郎はBILLをコタツの上に置き、またビールを飲んだ。
「お待ちどうさま」
支度を終えた梓が炬燵の上にカレーとサラダを並べて、自分も炬燵に入った。
「何だこれは?」
BILLを梓に差し出しながら、険しい表情で雄一郎は尋ねた。
「アッ、見つかっちゃった。言わなくてごめんなさい。急にベビーの買い物に行きたくなって。甲府
まで行くより、思い切って遠くに行ってみたくなったの。インターネットで検索したら、横浜ロイヤ
ルガーデンホテルのレディースプランを見つけたの。あなたの系列のホテルでしょう? だから一人
で出かけたの。本当に一人で、よ。アッ違う……一人じゃなかった。でも、心配しなくても大丈夫、
無理しなかったのよ」
梓は肩をすくめて「怒ってる? 言わなくてごめんね」とまた謝った。
……梓の身体を心配して怒っているのではない。真理の事を心配している……梓の言い訳を聞いて、
雄一郎はハッとした。
「それだけじゃないだろう?」
「それだけじゃないって、どういう事?買い物だけじゃなくて、中華街にも行ったけれど……」
「何かをしたよな? ホテルで誰かと会ったよな?」
雄一郎の表情が更に険しくなった。
「そんなに怖い顔をしないで……」
梓は下を向きながらも、甘えるように上目使いに雄一郎を見た。
叱られた子供のようにしゅんとしている梓の様子に腹が立った。
「言えよ!」
「この間、あなたのマンションを掃除に行った時に、ビジネス雑誌を見つけたの。ビジネスウーマン
ベストテンである人を見つけて……川村真理って、あなたの奥さんでしょう? 素敵な人なのね。だ
から……会ってみたくなったの……それだけ……」
最後は消えるような小さな声になった。
「会っただけじゃないだろう? 何かをしただろう?」
雄一郎は梓の腕を掴んだ。
「私は、客としてコンセルジュデスクにいた奥さんと会っただけよ。彼女は、りっぱなホテルウーマ
ンで、その役目をきちんと果たした」
梓は笑顔で答えた。
平静さを装っている梓に無性に腹が立った雄一郎は、立ち上がって冷蔵庫からまたビールを取り出
し、グラスに注いで一気に飲み干し「灰皿!」と梓に命令をした。
「煙草は赤ちゃんに良くないからダメって」
梓の言葉を無視して雄一郎は煙草を吸い始めた。
「困った人」梓は笑いながら「よいしょ」と大儀そうに立ち上がり、灰皿を取りに行った。
雄一郎は、真理からの手紙を思い出した。辛い現実を受け止め、少しずつ冷静に考えられるように
なっている様子に「申し訳ない」と思いながらも、早く元気になって欲しいと願っていた。
「何て事をしたんだ……なんでそんな事をしたんだ?」
苦悩の表情の雄一郎を見て、雄一郎と真理が電話で話をした事を知らない梓は、急に不安な気持ち
になった。
「なんで……って。ちょっとした興味本位よ。女ってそんな所があるの」
不安な気持ちを打ち消すように、梓はまた甘え口調で答え、灰皿を炬燵の上に置いて、雄一郎の背
中に寄りかかった。
雄一郎は背中に梓の重みを感じながら、黙ってビールを飲み煙草を吸った。
「カレーが冷めちゃう……」
梓は雄一郎から離れ、カレーを食べ始めた。
「今日のカレーは自信作なのよ。チキンをヨーグルトに漬けこんだりして。冷めちゃうから食べて。
お腹が空いているんでしょう?」
梓はスプーンでカレーをすくい、雄一郎の口元に運んだ。雄一郎はそれを嫌って、避けるようにビ
ールを飲んだ。
「仕方ないわね」と首をすくめて、梓はすくったカレーを自分の口に運んだ。
「もう怒るのはやめてね。ホテルに行った事は謝るから、それで許してね」
「俺は、真理に梓の素性は話していない。何故だか分かるか? 梓と生まれてくる子供が大事で、こ
れから二人を守っていこうと思っているからだよ。だから、こんな軽率な事をして欲しくはなかった」
雄一郎のその言葉を聞いて、梓の顔つきが変わった。
「それだけではないでしょう?」
梓はさっきの雄一郎と同じ言葉を投げかけた。
「どういう事だ?」
正体は分からないが「梓の中に潜んでいるもの」に対して猛烈に腹が立った。
「あなたは奥さんの事だって大事なんでしょう?」
「そうだよ。真理だって大事だ。だけど、俺は梓を選んだ。それで充分だろう? 幸せだろう?」
最後の二言はひどい言い方だと思ったが、梓に対して優しくなれない自分がいた。
……その時、梓の中でプツンと糸が切れた……
「その言い方って何? 充分だろう? 幸せだろう? って、あなたの本心は違うのに、無理して言
っているみたい。そんなのイヤ! 奥さんを大事になんて思わないで! 私はずっと奥さんの影に
怯えていたのよ。あなたが私を選んでくれて嬉しいけれど、でも、あなたが奥さんを大事に思ってい
るって、私はこれからもずっと、奥さんの影に、怯えて生きていかなくてはならないのよ。そんなの
絶対にイヤ!」
梓は喚いた。
「しっかりしろよ。梓らしくないよ」
取り乱した梓を見るのは初めての雄一郎は戸惑った。
「梓が辛いのは分かる。だけどよく考えろよ。俺達が幸せになるために、犠牲になっている人間がい
る。それは真理だから、その真理を大事に思わなくてはいけない、と俺は思っている。その気持ちは、
真理への償いなんだよ。分かるだろう?」
「真理、真理、真理って……もう、いい加減にして! そんなのイヤよ! あなたが、私と付き合う
事になったのだって、奥さんにも原因があるのでしょう? 違うの? 私達だけが罪を背負うなんて
不公平!」
「逃げるわけには行かないんだよ」
「奥さんに、子供が出来る事だって言っていないんでしょう?」
「そうだよ。言っていないよ」
「どうして言わないの? 言わないのではなくて、言えないの?」
「そこまで言う必要がないからだ!」
「違うのよね、本心は。子供は可愛くても、私と一緒に生活して行く事には納得していないのよね。
そうでしょう?」
「いい加減にしろよ! これ以上言うと、俺は本気で怒るぞ!」
「怒ればいいじゃない!」
憎々しげな顔をして梓は雄一郎を睨みつけた。
……何を言っても、俺の気持ちは梓には理解してもらえないだろう……
そう思った雄一郎が、梓から顔を背けてビールグラスを取って飲もうとした時……
「弱虫!偽善者!」
そう言って梓は、雄一郎の横っ面を思いっきりひっぱたいた。
雄一郎が手に持っていたビールグラスが弾き飛ばされ、カーペットの上にビールのシミが広がった。
「落ち着けよ!」
雄一郎は梓の両腕を掴んで興奮を静めようとした。
梓は全身の力を振り絞って雄一郎から逃れたが、ぶつかるように、また雄一郎に身体を預けてきた。
その勢いで雄一郎はビールのシミの上に押し倒された。ツーンとビールの臭いが鼻をつき、髪の毛が
ビールまみれになった。
興奮気味の梓が雄一郎を求めてきた。
……その時、雄一郎の中で何かが弾けた……
ずいぶん前、梓を前にして雄一郎の中で何かが弾けた事があった。あの時の「弾け」は甘く切なか
ったが、今の「弾け」には底なし沼に引きずられていく様な「怖さ」があった。
二人にそれぞれの事を一切話さなかったのは、二人の事が大事だと思っていたからだった。
その事は、二人に対する誠意だと雄一郎は考えていた。それに「子供が生まれる」という事は、真理
には言うつもりはなかった。
同じ痛みを味わったが、自分だけは「子供が生まれる」という新たな喜びを得る事が出来た。だか
ら、言わない事が真理への思いやり、だと思っていた。
「梓と一緒に子供を育てて行く」と言っている自分を信じて欲しかったし、その梓には、真理の前に
は現れて欲しくはなかった。真理は梓が仕事場に現れた時、どんな思いをしたのだろう……辛かった
のだろう。
「バカな事をしてくれた」
起きた事を消す事はもう出来ないが、これがきっかけとなって、何か恐ろしい事が起きるような気
がして、雄一郎は怖くなった。
「今日は帰る」
思わぬ言葉が口をついた。
梓は何も答えなかったが、また激しく雄一郎にしがみついて来た。
少しの間、雄一郎は、梓のされるがままになっていたが、執拗な求めを、どうしても受け入れる事が
出来ず、無理やり梓を引き離した。
帰り支度をしている雄一郎を見つめる梓の目は、何かに憑かれたようにギラギラしていた。
そんな梓を一人にしておくのが不安でもあったが、とにかく今は、この場から逃げ出して一人になり
たかった。
「ホテルのBILLを見なければこんな事にはならなかった。見てください、と言わんばかりにバッ
グからホテルのロゴをはみ出させていたのは、一体何のためなのだろう?」
梓の気持ちが理解出来なかった。
車を出す時、大きな石か何かにバンパーを擦ったような衝撃を感じたが、確認もせずそのまま車を
急発進させた。
「底なし沼に引きずりこまれても、その責任はきちんと負わなくてはならない」
真理の顔がまた浮かんだ。
梓は雄一郎の余韻が残っている場所に横たわった。
「『YK』のプレートを見せつけて、あなたを私にプレゼントしてくれた彼女に、ちゃんとお礼を言
ったのよ」
梓は呟き、そして慈しむようにお腹をそっと押さえた。
急に涙が溢れた。何故か「後悔」の気持ちが沸き大きく胸が痛んだ。
「二人とも同じ匂い……私とは違う。だったら二人とも苦しめばいい……」
そう呟いた。




