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STAY WITH ME  作者: yukino
4/9

第四章

(2007年)

 

   二人にとっての悲しい出来事があり、真理がロイヤルガーデンの仕事に復帰してから、一年

  が経っていた。

   ゲストサービス部マネージャーとして、プレミアムクラブ、コンセルジュデスク担当し、横

  浜ロイヤルガーデンホテルで、真理の存在が大きくなり始めた頃、雄一郎は菅原梓と出会った。


   梓の夫の菅原幸一は、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルで送迎バスの運転手をしていたが、運

  転するガーデンリゾートのマイクロバスは、大型トレーラーに追突された。

   マイクロバスは、信号に矢印が出たのを確認して右折しようとしたが、そこに猛スピードの

  トレーラーが突っ込んで来た。大型トレーラーの運転手は、眠気を催したため煙草を吸おうと

  思い、コンソールボックスに入っている煙草を探す事に気を取られていた。更に悪い事に、ト

  レーラーの運転手はブレーキペダルから足を離していて、マイクロバスに気が付きあわてた運

  転手は、ブレーキとアクセルを踏み間違えてしまった。

   交差点は坂の途中にあった。大型トレーラーは下り勾配であったため、アクセルを踏み間違

  えた事で、トレーラーは大きな凶器と化していた。追突された衝撃でマイクロバスは横転し大

  破した。ハンドルと座席に挟まれた状態の幸一は胸を強く打ち、病院に運ばれた一時間後に死

  亡が確認された。

   幸いな事に、バスは駅に客を迎えに行く途中で、幸一以外誰も乗っておらず、被害は幸一だ

  けであった。幸一に全く非はなく、全てトレーラー運転手側の過失責任と言う事で、決着はつ

  いたが、幸一の保険などの諸手続きは雄一郎が担当する事になった。


   葬儀が済み、菅原家が一段落したのを確認して、雄一郎は諸々の手続きのために幸一の家を

  訪ねた。住宅が密集している地域の外れにある自宅は、県営団地の一階にあった。

   雄一郎は、団地の入り口にある案内図で確認し、菅原家の部屋の前で表札を確認し呼び鈴を

  押した。しかし誰も出てくる気配はなかった。雄一郎は腕時計を確認したが、総務から伝えら

  れた時間に間違いはなく、雄一郎は何度か呼び鈴を鳴らした後、誰も出て来ないので、思い切

  ってドアノブに手をかけた。

   ドアは鍵が掛かっていなかった。

  遠慮がちにドアを開け「こんにちわ。ガーデンリゾートの川村です」と声をかけた。ドアの向

  こうにはダイニングキッチンが続いており、部屋越しのベランダで菅原の妻の梓が、洗濯物を

  干している後ろ姿が見えた。


  「ごめんください」

   雄一郎は更に声を大きくしたが、それでも梓は気がつかず一向に振り向く気配はなかった。


  「余程洗濯物を干す事に夢中になっているのか……まさか、部屋に上がりこむ事は出来ない……

  それにしても物騒な家だ。どうして気がつかないのか?」と思っていた時、洗濯物を干し終え

  た梓が、ゆっくりと後ろを振り向き、部屋の向こうにいる雄一郎の姿を見て驚ろいた表情で、

  玄関に走って来た。


  「驚かせて申し訳ございません。チャイムを鳴らしたのですが、ご返事がなかったものですか

  ら。ガーデンリゾートの川村と申します。ご主人の労災の手続きの件でお伺いしました」

   雄一郎は丁寧に頭を下げ、名刺を渡しながら梓にそう伝えた。


  「こちらこそ気がつかなくて申し訳ございません」という仕草で梓は頭を下げた。


   言葉を発しない梓に違和感を持ち「声が出ない位に驚かせてしまったのか」と雄一郎は、梓

  に何度も頭を下げた。梓は、雄一郎の訪問に慌ててリビングにかけ戻り、すぐに玄関に戻って、

  お絵かき帳を差し出した。

   そこには「すみません。声が出なくなってしまいましたので、お話は筆談でお願いします」

  と書かれていた。

   雄一郎は愕然とした。幸一の妻が声を失った、という事を全く知らなかった。葬儀でもそれ

  は分からなかったし、総務でも何も言っていなかった。自分の無知に、反対に恥ずかしくなっ

  た雄一郎は「知らなくてすみません」と頭を下げた。

   梓は「いいんですよ」と手を振り、雄一郎をリビングに通した。


   通された幸一の家のリビングは、陽あたりも良く「温厚な幸一」そのもののように居心地が

  良かった。雄一郎は仏壇の前で幸一に手を合わせ、梓は、雄一郎のためにコーヒーを手際よく

  用意し、そしてお絵かき帳をめくった。


  「会社から手続きのために人が来る」という事を知っていて、スムーズに手続きが終わるよう

  にと、予めいろいろな言葉を用意していたのであろう。次のページには「この度は、主人のた

  めにいろいろご尽力を頂き、ありがとうございました。会社の皆様のご好意には感謝していま

  す。主人も、八ヶ岳ガーデンリゾートでの仕事が好きでしたので、きっと喜んでいます」と綺

  麗な文字で書かれていた。


  「この度はご愁傷様です。自分もそうですが、ガーデンリゾートのスタッフは皆、ご主人の事

  故を悲しく思っています」

   雄一郎は梓の顔を見ながらゆっくりと伝えた。


   確か幸一は50歳を過ぎていたから、梓とは年が随分と離れているようだ。梓は自分と同じ

  位か少し若いぐらいだろうが、顎にかかるボブスタイルが、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。

 「会社の人間である自分の前で、気丈な態度を示しているが、悲しみは大きいのだろう」と梓を

  見ながら、雄一郎はそんな事を心配していた。


   その後も、雄一郎は何度か梓の元に通う事になった。

  様々な手続きも済み、訪問もこれが最後となった。前日に雨が降り、団地の敷地内は、所々に

  水溜りが出来ていた。

  「菅原家を訪問するのもこれで終わりか」と考えながら、来客用スペースに車を納め、梓の部

  屋に向った。


   考え事をしていた雄一郎は、梓の住む棟の前で水溜りを避けようとした瞬間、足を滑らせ尻

  餅をついてしまった。腰をしたたか打ち、余りの痛さに唸り声をあげたが、真っ先に、梓にカ

  ッコ悪いところを見られていないか? と心配になり辺りを見回した。梓にも誰にも見られて

  いない、と安心して急いで立ち上がり、打った腰を庇いながら階段を登りかけた時、梓が笑い

  ながらドアから顔を覗かせた。どうやら見られてしまったようだ。

   梓とは何度も会い、筆談でいろいろな話をしていたが、こんなに笑っている顔を見た事はな

  かった。笑うと出来るエクボが可愛かった。

   転ぶ姿を見た梓の笑顔につられるように、雄一郎も笑顔になり、照れ隠しのために頭を掻い

  た。恥ずかし気にしている雄一郎を家に招きいれ「大丈夫? 怪我はないか?」と手振りで尋

  ね、暖かいココアを用意して、泥で汚れたコートを手に取り、軽く水洗いして「乾くまで少し

  時間がかかりますよ」と筆談で雄一郎に伝えた。

   

   手続きを済ませた後、梓はお絵かき帳をめくった。

  お絵かき帳にはいつもの綺麗な文字で「今日で手続きは終わりですね。川村様には、本当にお

  世話になり、ありがとうございました。最後なので、今日は、私が作った昼食を召し上って行

  ってください」と書かれていた。

   雄一郎の訪問はいつも午前中で、昼食前には辞去していたので、その時間を考えての梓の申

  し出だった。一瞬、躊躇ったが「梓とこれが最後だ」と思うと淋しい気持ちになり「コートが

  乾くまで待っていた」と、食事をご馳走になった理由を正当化する事にして、梓の誘いを受け

  る事にした。

 

   喜んだ梓はいそいそとした様子で、キッチンで雄一郎のために料理の用意を始めた。

  しばらくして出て来た料理はラザニアだった。

  「私の自慢の料理で亡くなった主人の大好物だったのですよ」という前置きで、熱々のラザニ

  アとサラダをテーブルに並べた。自慢の料理と言うだけあって、確かにラザニアは美味しかっ

  た。

   夢中で食べ終わって「ご馳走様」と梓を見た瞬間、雄一郎は梓に引き込まれそうになった。

  真理の溌剌とした美しさとは違う、落ち着きのある美しさの中に、あどけなさがある、そんな

  不思議な魅力があった。

   何度か会う度に梓に情を感じ、訪問するのを心待ちにしているような所もあったが、雄一郎

  は、出来るだけそういう気持ちから目を背けていた。訪問が最後の今日、梓を見ながら、特別

  な感情を抱いてしまった自分にハッキリと気づいた。だからと言って、このまま突き進もうと

  いう気持ちはなかったが「これからどうするのですか? ガーデンリゾートで、仕事をしたい

  という気持ちはないですか?」と言ってしまった。

   そう言わせる魅力が梓にはあった。

  突然の話に梓は驚き、お絵かき帳に「声が出ない私に出来る事があるのですか? もし、私で

  も役に立つ事があったら嬉しいのですが」と記した。


  「前から考えていたのですが、バックヤードで、スタッフの細かい身の回りの事をしてくれる

  人を探しています。用務係のような事ですが、引き受けてくれますか?」


  「川村さんからそういうお話を頂いてとても嬉しいです。出来るのであれば、やらせて頂きた

  いと思います」


  「ありがとうございます。仕事についてはまた後日ご連絡します。但し、待遇については、ご

  期待に添えないかもしれません」

  

  「その事については特に要望はありません。これから先不安に思っていたので、こんな私でも、

  仕事が出来ればそれで満足です」


   今まで、一時の感情などで、仕事の話を進める事など有り得なかったのに、何も考えず仕事

  斡旋の話をした自分に戸惑ったが、何とか実現させたい。雄一郎の頭の中には、目の前の「梓

  の仕事」の事しかなかった。


 

   食事の礼を言い「また」と恋人に別れを告げるような、少し淋しい気分を味わいながら、梓

  の自宅を辞去し、会社への帰路を急いだ。


  「菅原さんのために提案を受け入れてもらいたい」という一心で、帰る車の中で策を練ってい

  た雄一郎は、会社に着くとすぐに総務部長の渥美繁の所に飛んでいった。


  「確かに、用務係的な仕事をしてくれる人がいれば、現場は余計な事に関わらずに、仕事に専

  念する事が出来る。それでも、人件費が発生する事で、すでに、新年度の人件費を含む予算組

  みは終わっているから、菅原さんを何処に所属させるかという事、人件費を何処が持つかなど

  が問題」

   渥美はすぐには返事が出来ない、と答えた。雄一郎は渥美に「あの菅原さんの奥さんに、何

  とか仕事をさせてやってください」と何度も頭を下げた。

   

   雄一郎の本心を知らない渥美も、菅原幸一の事は残念に思っていた事もあり、梓の就職を世

  話する事で、菅原に報いる事が出来ればとは思っていた。また、本来なら梓とは、総務部長の

  自分が対応しなくてはならなかったのだが、自身の異動も控えていたし、仕事が忙しい事から

  雄一郎に押し付けた事、雄一郎がその対応を問題なく片付けてくれた事、梓も特に異議を唱え

  る事なく、会社側の申し出をすんなり受け入れてくれた事、また、現在は、客室清掃を請け負

  っているコスモサービス担当の、従業員スペースの清掃をパート待遇の梓に任せれば、その分

  の経費削減も計れる。雄一郎への後ろめたさなどもあって、上司には採用する方向で、話を持

  って行った。

 

   しかし、渥美にも解せない事があった。


  「川村は、菅原さんの奥さんは声が出ない。と言っていたが、自分は電話で話をした筈だよな。

  まあ、いいか。後で川村に確認してみよう」

   腑に落ちなかったが、渥美はその後引継ぎ仕事に追われ、本部に異動になった事もあり、雄

  一郎に確認する事はすっかり忘れてしまっていた。


  「許可が下りたよ」と雄一郎に報告が届いたのは一週間後の事だった。朗報を受けた雄一郎は、

  すぐさま梓の元に出かけた。梓の家の前に立った時に、妙に浮き浮きしている自分を感じて戸

  惑った。

 

   昨夜、ホテルの業界雑誌で「横浜ロイヤルガーデンホテルが誇る『ロイヤルガーデン・プレ

  ミアムクラブ』」の記事を読んだばかりであった。

  「ロイヤルガーデン・プレミアムクラブ」は高い評価を得ていた。ホテル業界でも注目をされ

  ている記事の内容に、同じホテルマンとしての嫉妬であろうか? 妻である真理の仕事を素直

  に喜べない自分を、苦々しく思っている事に気がつき、その事に苦悩していた時でもあった。

   雄一郎は真理の事を頭から追い払った。


   条件も良くなかったが、仕事が決まって梓は嬉しそうだった。雄一郎も喜ぶ梓を見て、ほの

  ぼのとした思いを感じた。主な仕事はバックヤード清掃、従業員食堂の手伝い、現場スタッフ

  のフォローなど、実際に仕事に入ればまたいろいろ出てくるだろう。勤務時間は10:00か

  ら16:30となっていた。

   梓は一生懸命働いた。スタッフ用トイレや洗面所、社員食堂に、団地の庭に咲く花を飾った

  り、細かい気使いにスタッフも心が和んだ。仕事をしていくうちに梓は、夫の幸一が優秀なド

  ライバーだったという事を知った。そして、何より雄一郎を心の支えにもするようにもなって

  いった。雄一郎も「声が出ない梓」を陰ながらフォローした。




    

   ゴールデンウィークが近づいていた。

   また、当分横浜に帰れなくなるので、雄一郎は一週間ぶりに横浜に帰る事にした。


  「タイ料理でもどう?」と言う真理の提案で、二人は久しぶりにタイ料理を楽しんだ。


  「歩いて帰ろう」とタイ料理を満喫した二人に春の宵の風は心地良く、万国橋から見る「みな

  とみらいの夜景」はきらきら輝いていた。


  「相性ってあるのね。タイ料理には苦味が強いシンハービールがベストマッチ。ねえ、私達は

  どう? ベストマッチしてる?」

   雄一郎の腕に自分の腕をからませて、真理は少し甘え声になった。

  

  「だいぶ古くなったけれど……充分ベストマッチ……だろうな。」

  

   真理は立ち止まり、腕を雄一郎の首に回して軽くキスをした。

  二人とすれ違った高校生風の女の子二人が「やるじゃん」そう言って走って行った。

  

  「やるじゃん……だって」

   真理は笑って、また雄一郎の腕にしがみついた。


  「今年の夏は、ちょっと違った夏にしよう。と思って総支配人に提案するつもりなんだ」

   雄一郎が嬉々として仕事の話を始めた。


  「今の時代、交通費をかけてわざわざ田舎に行かなくても、都会でも様々なイベントが開催さ

  れているだろう。リゾートに客を呼び込むためには、インパクトのあるイベントを考える必要

  があると思うんだ。営業企画部のお仕着せのイベントではなく、現場を知り尽くし、客の動向

  を熟知している各セクションスタッフに呼びかけ、様々なアイディアを出させようか、って。

  そんな事を考えているんだけどさ。都会のイベントとは一味違う、八ヶ岳ガーデンリゾートだ

  から出来る、っていうイベント。テーマも決めて、夏中通してテーマに沿った営業展開を行な

  う。コンクール形式にして、アイディアが取り上げられたセクションにポイントを付ける。社

  員の『遊び心』を引き出す事になるし、士気も高める効果が得られると思う。自分達が楽しめ

  なくては、顧客を満足させる事は出来ないし。会社レベルのイベントって言ったって、今まで

  は、直接携わるスタッフと、そうでないスタッフとの間に温度差もあったりして連携が上手く

  行かない部分もあったから。今年は、ドカンとぶつけてみようかな。って……『イベントが会

  社を変える』そう考えているんだ。生き残りをかけて厳しいしさ」

  

  「イベントイノベーションか、一つ言っていい?」

 

  「遠慮するなよ」

 

  「都会の場合、『都会色』を打ち出したり、反対に都会にいながら味わえるように『自然色』

  を打ち出したり、の企画が多いでしょう。田舎って『自然色』や『ローカル色』だけを出す事

  が多いと思うの。周りが自然だらけだから。でも、そうではなくて、自然を最大限に利用した

  上で『都会色』を作り出すのも、面白いかな? って」

  

  「田舎の中で都会色か……面白そうだな!」

 

  「例えば、同じ山梨県で言うと富士山。結構、富士山というランドマークだけ打ち出す事が多

  いように思うけれど、ランドマークは二番手に考えるの。都会色をいっぱい出して、気がつく

  と、富士山が美味く調和している。みたいな……分かる?」

  

  「ちょっと、分からないな」

   雄一郎は笑って真理を見た。

  

  「都会を離れてリゾートに出かけて、また都会に帰って来る。そのギャップって大きくて、そ

  れがストレスになる事があると思うの。だったら、リゾート側でそのストレスを取り除いてあ

  げるの。自然を味わせてあげながら、都会の良さをも再認識出来る環境作りをするの」

  

  「なる程……アイディアが浮かんで来そうな予感がする。」

 

  「本当? 上手く言葉に出来ない……自分で言って、分からなくなっちゃった」

   真理は肩をすくめた。

 

  「田舎が生活のベースになっていると、考える事が画一的になってくる事もあるよね。都会の

  人は、自然を味わいたいんだ、富士山を見たいんだ、みたいに。それだけを求めているって、

  単純に考えてはダメだ、とそれはいつも思っている」

  

  「ところで、テーマって、発案者の考えるテーマは何?」

  

  「うーん? アジアンな夏はどう? レストランはカタカナの『アジアンな夏』に漢字で『味

  あんな夏』と添える……」

  

  「却下!」

 

  「何だよ! 簡単に却下するなよ」

   雄一郎は不満そうに真理の頭を小突いた。

  

  「口の中にタイ料理が残っているでしょう?」

   真理はゲラゲラ笑って、雄一郎の口元を指差した。

 

  「バレた?」

   つられて雄一郎も声をあげて笑った。


  「でも、素敵! その案大賛成! 楽しそうでいいなあ……」

 

  「間違いなく楽しくなりそうだよ。真理の話を聞いてやる気も出て来たし」

  

  「打ち上げ花火はどう?」

  

  「それ、いただき!」


  「絶対にその夏の提案通してね。でも……これからまた忙しくなるね……」

   真理は回した腕に力を入れた。

  

  「亭主は元気で留守がいい、って。典型が俺だろう?」

  

  「うん……」


  「何だよ。不満そうじゃない?」

   さっきと違って覇気がない真理が気になった。


  「不満じゃないけど……少し淋しいし……一緒に仕事が出来ないやきもちかな?」


  (だったら八ヶ岳に来いよ)

  のど元まで出掛かった言葉を雄一郎は飲み込んだ。


   ……菅原梓の顔が浮かんだ……


  「真理だって今の仕事は充実しているんだし、淋しいなんて言うなよ」

  

  「私らしくないって事? ……でも、忙しくなったら無理よね。ちょっと相談に乗ってもらい

  たい事が出てくるから」


   ……少し、雄一郎が遠のいた様な気がした……だから、遠慮がちに言った。


  「忙しくたって真理の相談事にはいつだって乗るよ」

 

  「じゃあ、今、話してもいい?」

 

  「いいよ。聞くよ」


   ……心の中に、雄一郎が戻って来た……



  「あのね、プレミアム・クラブにバトラーサービス(注:あらゆる用件をきいてくれる、お客

  様専属の客室係)を付けたらどうか? って考えているの。フロアオープンから1年近く経っ

  て、売上も順調に伸びているけれど、もっと付加価値を付ける必要に迫られていると思うの。

  まだ、バトラーサービスを実施しているホテルは少ないから今がチャンス。どう?」


  「バトラーか……確かにプレミアムクラブにはふさわしいサービスだ」


  「ターンダウンサービス(注:客室係が夕方客室を訪れて、就寝の準備を整えるサービス)も

  考えているの。このサービスを行っているホテルも少ないと思う。ナイトキャップ用のお酒や

  チョコレートは、ホテルのロゴ入りの物を用意したいけれど、それは難しいかもね。新婚旅行

  の時に、ターンダウンサービスを受けたの覚えている?」

   雄一郎は新婚旅行で行ったスペインのアンダルシア地方にある、貴族の宮殿を改装した五つ

  星ホテルを思い浮かべた。あの時、日本から真理が持参し、ベッドサイドテーブルに置いてあ

  ったナイトドレスが、ベッドの上に、お洒落れにディスプレイしてあるのを見た真理は「素敵!」

  と感激していた。


  「あの時から、ロイヤルガーデンでもターンダウンサービスが出来たらいいのに、って考えて

  いたの。プレミアムクラブフロアスタッフにも話をして、スタッフの意見も必要で統一されて

  いるの。でも、バトラーのコストはかなり高くなるから、数字を出すのが難しい」


  「必要に迫られている、っていう割りには自信なさ気だよな」


  「骨子は出来上がっているのよ。でも、強く会社に訴えるには内容がまだ弱くて。提案の前に

  リサーチのために、アンケート用紙を部屋に置いてみてはどうか? って考えたけれど、アン

  ケート用紙が部屋に置かれているのって『ホテル』っていう事が見え見えでしょう? プレミ

  アムクラブの部屋は、優雅な気分で、自分の家にいるような感覚で使ってもらいたいから、そ

  れはしたくないの」

   アンケート用紙の存在にも気をつかっている真理に「さすがだな」と雄一郎は思った。


  「細かい数字に気を取られていたら、バトラーサービスや、ターンダウンサービスなんて考え

  られないだろう? 稟議だったら当然数字は必要だけど、真理が考えているバトラーサービス

  と、ターンダウンサービスの必要性を理論的に強く訴えるしかないだろうな。ある程度の試算

  を出せば、会社だって将来を見据えて、おそらく提案を受け入れると思うよ。俺は」


  「そうよね。実はね、私もそう考えていたの。でも、誰かさんの最後の一押しが欲しかったの。

  やっぱり話して良かった。ありがとう」

   元気がなかった真理の目が輝き出した。


  「レベルが違う……」

   真理の仕事の内容と、自分の仕事を比べた雄一郎がつぶやいた。


  「レベルが違う? って何を基準にしてそんな事を言うの? 『レベル』ではなくて『客種』

  と『環境』が違うって言う事でしょう? そんな事を言うのって……あなたらしくない」

   真理は腕をほどき、立ち止まった。


   ……二人の間に気まずい空気が流れた……


  「レベルじゃなくてラベルの違いよ。どう? 凄いでしょう!」とおどけた仕草でジョークで

  返せば、気まずい事にならなかったが、何となくそういう気持ちに真理はなれなかった。

 

   ……雄一郎は何故か急に八ヶ岳に帰りたくなった……


  「ごめん。バトラーサービスなんて羨ましくて。つい……」


   振り返って雄一郎は真理の手を取った。

  真理も手を伸ばして二人はまた並んで歩き始めた。氷川丸もライトアップされて、いつもと同

  じように山下公園はロマンチックな雰囲気だったが、公園の向こうに続く、灯りが映っている

  海を見た時、真理の中に悪寒が走った。


  「もうこれ以上悪い事が起こりませんように」

   真理は雄一郎の腕にしがみついたが「心ここに在らず」の雄一郎を感じ不安になった。






   八ヶ岳ガーデンリゾートはゴールデンウィークに突入していた。

  

   雄一郎は現場を見ながらも、真理に話した「夏のイベントの提案」を総支配人に行なった。

  総支配人の宮野要は、雄一郎の提案に賛成し、ゴールデンウィークが開けてからその提案を

  会議にかけるように指示を行なった。

 

   開催された会議で、全員一致で提案は取り入られる事になった。出て来た提案をまとめるの

  は営業企画部で、その上の統括責任者は雄一郎となった。

   

   最初は戸惑っていた社員も、徐々に協力的になってきた。営業企画部には様々な提案が寄せ

  られ、営業企画部で選りすぐった案件が雄一郎の元に届いた。

   それらの提案を見て雄一郎は驚いた。八ヶ岳ガーデンリゾートホテルには様々な「名人」が

  存在していた。イベントだけではなく通常業務の中に生かせる事が多かった。

  「これも、目的の一つだ」と自信を持った。

   しかし、その選別作業をしている時「レベルが違う」と、また真理の仕事の内容と、自分の

  仕事を比べた。「泥臭い」仕事をする自分に納得がいっていても、真理の仕事を考えると割り

  切れなかった。

 

   そんな雄一郎だったが、その提案の中に「お盆時期の納涼祭に打ち上げ花火をあげる」とい

  う提案に真っ先に興味を持った。真理も同じ事を言っていた。

   その提案は、宿泊部客室課から出ていた。客室課は館内施設管理、ホテル清掃を手掛けるア

  ウトソーシング会社のコスモサービスの手配、梓の夫の幸一が所属していた送迎バス部門など

  を束ねるセクションで、パートの梓もそこに所属していた。

  「打ち上げ花火」には営業企画部も興味を示し「手配出来るなら、絶対これはイケますよ。宿

  泊客だけではなく、地元客も誘致出来る」と乗り気になっていた。


   雄一郎は、客室課マネージャーの相馬俊介を呼び「打ち上げ花火」提案の詳細を確認した。

  

  「これを提案したのは、菅原さんの奥さんですよ。市川大門の花火師を知っている、とか言っ

  ていました」


    そこにまた梓が現れた


   梓を呼び出し、花火師の確認をして、その情報を営業企画部に伝えた。

  営業企画部から「花火師とコンタクトを取れました。市川大門の花火大会とは、日程が被らな

  いのでこっちは大丈夫だし、菅原さんのお陰で費用も抑えられそうです」と嬉しい報告が届い

  た。



  「昭和の夏」というテーマも決まり、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルは、夏の一大イベントに

  向けて、着々と準備を進めていった。

  「昭和の高度成長期の日本」を演出すべく、レストランも、その時代に合わせたメニュー展開

  を考案した。

   早くから告知を行なった事で、エージェントや予約仲介媒体、ネットからの予約も伸びてき

  た。雄一郎の思惑通り、スタッフの士気も高まった。

 


   7月に入った時「会社が提案を受け入れてくれた」と真理から連絡があった。

  

  「バトラーサービスとターンダウンサービスの両方よ。今、私のデスクは、見本のゴディバの

  チョコレートの山よ。食べたいけれど我慢しているの」

   真理は嬉しそうだった。

 


   そして、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルは、本番の夏に突入した。


   お盆のメインイベントである打ち上げ花火が最後の日、雄一郎は「盛り上がっている夏」に

  満足し、会場の外れで花火を見ていた。

   ふと気がつくと隣に浴衣姿の梓がいた。浴衣姿の梓は妙に艶めいていて、雄一郎の心がグラ

  リと揺れた。


  「花火は大成功でした。菅原さんのお陰です。本当にありがとうございました」


   梓は潤んだ目で嬉しそうに雄一郎を見つめたが、その視線を雄一郎はしっかりと受け止めた。


 

    しかし、翌日から梓は会社を休んだ……


   休みの一日目は「公休」となっていたが、翌日からそれが「病欠」に変わった。

   

   一週間を過ぎても梓の「病欠」は変わっていなかった。

  心配になった雄一郎は電話をする事を考えたが「声が出ない」事に気がついた。会社とのやり

  とりは携帯メールで行なっているが、客室課にメールアドレスを聞くのは躊躇われた。そこで、

  思い切って、仕事の帰りに梓の家を訪問する事にした。

 

   ドアを開けて雄一郎を迎えた梓は、心なしかやつれていて辛そうだった。

  「風邪をこじらせたみたいで……でも、明日は出社出来そうです」と手振りを交えて伝えたが、

  玄関口で梓はその場に座り込んでしまった。驚いた雄一郎は、梓を抱きかかえてキッチンのダ

  イニングテーブルに座らせた。

  

  「すみません。でも、もう大丈夫です。」

   梓は笑顔と手振りでその事を伝えた。

  

  「本当に大丈夫ですか?」

 

   雄一郎は心配したが、梓がまた手振りで「大丈夫です。ありがとうございました」と告げた

  ので、心配しつつも雄一郎は梓の家を辞去した。

 

   だが、梓は翌日も出社して来なかった。

  昨夜の具合いの悪そうな梓の事がまた心配になり、雄一郎は再度家を訪れた。梓は、二日連続

  で訪れた雄一郎に驚いた様子であったが「もう大丈夫です。気にかけて頂いてありがとうござ

  います」

   雄一郎が読み取れるように、一言ずつ大きく口を開いて気持ちを伝えた。


  「無理しないでくださいね。元気になって、出社して来られるのを待っています。今日はこれ

  で失礼します」


   そう伝えて雄一郎がドアノブに手をかけた時、梓が雄一郎の右腕を掴んだ。


   腕をしっかり掴んでいる梓の細い指から熱い思いが伝わった時、雄一郎の中で何かが弾けた。


   

   雄一郎はゆっくりと梓に向き直った……

 

 


   男と女に「身体の相性」があるのだとしたら、まさしくそれなのだろう。


   雄一郎は梓に夢中になった。


  「声が出ない」梓との連絡手段は携帯メールだけであったので、梓専用の携帯電話を購入した。


  

  

   ……自信を失いそうになった時、迷った時、同じホテルマンとしての真理に、どれだけ助け

  られただろう……その真理は、自分にとっては「素晴らしい妻」であった。

  

   しかし「生活」と言えるほどの事ではなかったが、梓と過ごす時間は、居心地が良く幸せだ

  った。真理との生活では味わえない安らぎがあった。仕事が終わって、梓の家でたわいない会

  話を筆談で交わし、ビールを飲み、食事をしながらテレビ観る。そこには、コンプレックスと

  いう気持ちもなかったし、ライバルも存在していなかった。

  

  「長い間の単身赴任生活の中で、自分は……たわいない……やすらぎ……それを求めていた……」 




   菅原梓は、もうすぐ一周忌を迎える幸一の仏壇の前で手を合わせていた。

  雄一郎と関係を持ってから、幸一の仏壇は居間と続いていた和室から、玄関脇にある三畳の和

  室に移されていた。

 


  梓は福島県にある小さな町で生まれ育った。

  中学校の教師であり、一回りも年の違う菅原幸一は、一年生の時の梓の担任教師であり、初恋

  の男性でもあった。

   教師という職業に情熱を抱いていた幸一は、決してハンサムではないが、学校内で幸一を慕

  う女子生徒は少なくなかった。バレンタインデーや、幸一の誕生日など、積極的にアプローチ

  をかける同級生がいる中で、地味で、目立たない梓は、そんな同級生を羨ましい思いで眺めな

  がらも、心の何処かに「私も、いつか……」という気持ちを隠し持つようになっていた。

   しかし、梓が中学三年生になった年の夏休みに、幸一は、大学時代から交際していた女性と

  結婚をしてしまい、梓は辛い失恋を味わった。強い思いを内に秘めていた分、幸一への想いを

  断ち切る事が出来ず、そのまま中学校を卒業した。

 

   県立高校の二年生になっていた梓は、その年の冬に、ファミリーレストランでアルバイトを

  始めたが、アルバイト先のファミリーレストランで、客として食事を楽しみに来た幸一夫婦と

  遭遇するはめになった。

  「大人の女性」の雰囲気を持っている妻の佳美を見て、梓は大きなショックを受けた。幸一へ

  の想いを断ち切れない梓は、高校生になってから、数人の男子高校生と付き合ったが、付き合

  いは全て短期間で終わってしまっていた。自分は辛い思いをしているのに「先生は幸せそう」

  目の前の幸せな幸一夫婦を見て梓の中に「奪いたい」という心が芽を出し始めた。


   冬休みに梓は行動を開始した。

  「高校でいじめにあっていて悩んでいる」と母校である中学を訪れ、恩師である幸一に相談を

  した。何度も話を聞いて、梓の事を心から心配するようになった幸一は、ある日「私の事で、

  母が先生に会いたい、と言っているので、家に来てください」と言われ、何の疑いも抱かず梓

  の家を訪問した。


  「お母さんはどうしたの?」

   家には梓しかいない事にいぶかる幸一に「母は用事が長引いてしまって。すみません。30

  分程したら戻りますから待っていてください」そう言って謝った。

 

   そして……

  「毎日学校に行くのが怖くて……もう、死んじゃいたい気持ちで……」

   幸一にすがりついた。

  

  「自暴自棄になっちゃダメだよ」

   幸一は優しく話しかけたが、梓から甘酸っぱい香りがして、その香りに眩暈を起こしそうに

  なった。


   その時、幸一のたがが外れた。気がついた時には夢中で梓を抱いていた。母親は帰ってくる

  気配がなかった。


   梓は「女」になった。

  その日から二人は「師弟関係」ではなく「男女の関係」になった。

   真面目な幸一は、まだ結婚して三年程しか経っていなかったが、教え子との不倫関係に悩み

  ながらも、純朴な中に大人びた怪しい魅力がある梓との、甘酸っぱく魅惑的な関係に溺れてい

  った。

   付き合いだしてしばらくした頃「もう大丈夫です。いじめは収まりました」幸一は梓から嬉

  しい報告を聞いた。勿論「いじめ」の事は梓の作り話であったが、幸一は全く疑いを持たなか

  った。


   二人の関係は密かに続けられた。

  高校三年生になった夏、「梓の妊娠」という大きな危機が二人を襲った。

  「子供を産む」などという事は叶うはずもなく、二人で東京まで出かけて行き、小さな病院で

  人工中絶の手術を受けた。梓は罪悪感を感じていなかったが、幸一は、我が子を自分の手で葬

  った事への罪の意識に苛まれた。


   ……その時、梓はある学習をした…… 

   

   梓が、高校を卒業して地元の信用金庫に就職し、幸一が福島市の中学校に異動になった時、

  今度は、幸一の妻の佳美が妊娠をした。

  「生まれてくる子供に不誠実な親であってはいけない」悩みに悩んだ結果、ついに幸一は梓と

  は別れる決心をし、別れを告げた。

   自分と妻の間を言ったり来たりしている幸一の態度に、不信感を持った事もあるが「幸一を

  許そう」そう思った梓は素直に別れる決心をした。心のどこかに、悲劇のヒロインになった様

  な自分に、酔っているような部分もあった。


   そして「いつか……」また、事が起きる予感がした。 

 

   幸一は「大事な梓」を心の中にある小さな箱にしまう事にした。

  



   5年後、梓は、同じ信用金庫の職員であった椎名達郎と職場結婚をし、夫の達郎が福島市の

  支店に異動になったと同時に、信用金庫を退職し、市内の紳士服専門店に転職をした。

   

   幸一がまだ心の中にいる梓は、達郎を本気で愛したわけではない。

  酔った勢いで関係を持ち、酔いが覚めた後「責任を取るよ」そう達郎に言われ、成り行きでの

  結婚であった。

   幸一と「いつか……」という気持ちを抱いていた梓には、達郎の様な相手が都合が良かった

  ……いざとなったら……あっさりと捨てる事が出来る……

   

    そして……一度解かれた赤い糸が再び結ばれる時がやってきた……


   急に通夜に列席しなくてはならなくなった幸一が、黒い喪のネクタイを求めに、梓の勤める

  紳士服専門店を訪れた。幸一は、思いがけない再会であったが美しく成熟した梓を見て驚いた。

  梓も、貫禄を増しりっぱな先生然とした幸一に心が揺れた。


   幸一は、心の箱にしまっておいた梓を取り出した。


   二人が元の関係に戻るまで時間はかからなかった。

  幸一は40歳、梓は28歳になっていた。



   二人の密かな関係が2年続いた時、梓は二度目の妊娠をした。あの時とは二人の取り巻く環

  境は変わっていた。

  

  「産もうと思えば産める……ご主人の子供と偽ればいい……」

   幸一はとんでもない考えを梓に伝えた。


  「私達は子供が出来ない夫婦……」

   梓からの話にまた自分の希望がまた叶わない事を知った。

  今回も中絶手術を受ける事を決意した梓は、夫の達郎には「高校時代の友人と旅行に行く」と

  ウソをついて、地方都市の病院で手術を受けた。

   

   ……達郎を裏切っている梓にツケが回ってきた……手術後感染症を起こした梓は、二度と子

  供が産めない身体になってしまった。二度も生を受けた子供を自らの手で葬り去った事、自分

  に課せられた十字架……しかし、梓の中では、その事がどんなに大きな事なのか……理解出来

  ていなかった。ただ、幸一と別れたくない……その思いしかなかった……


   2年後……二人の「密かな関係」は遂に、夫の達郎に知れる事になってしまった。

  誰にも知られていない「密かな関係」と思っていたのは二人だけで、二人の知らない所で、噂

  は広まっていたのだ。

   

   日曜日に久しぶりに休みをもらった梓は、昼過ぎまで寝ている達郎を起こさないように、買

  い物に出かけた。夕方近くになって「ただいま」と帰って、玄関に、見慣れない女性用の靴が

  揃えられていたのを見た時に、嫌な予感がした。

  

  「泥棒猫のお帰りね」

   廊下の奥で女の甲高い声がした。

   

   慌ててリビングに行くと、達郎が険しい顔で梓を睨んだ。そして、梓は達郎と向かい合って

  いる女性を見て、思わず声をあげた。

   中年の域に入った女性は、あの時の「大人の魅力ある女性」の面影は、すっかりなくなって

  いたが「幸一の妻の佳美」という事はすぐに分かった。

 

   梓は驚いて、持っていた買い物袋を床に落とした。ガシャッと中に入っていた調味油の瓶と、 

  卵が割れる鈍い音がして、袋から中味が床に染み出した。

  

  「お前は何をしていたんだ! ずっと俺を騙していたのか!」

   物凄い剣幕で達郎が怒鳴った。佳美は目を吊り上げて梓を睨みつけていた。

  

  「……」

   梓は何も言えずその場に立ちすくんでいた。

  

  「あら? この泥棒猫は声が出なくなったようね!」

   佳美が梓を指差しながら憎々しげに言い放った。


   梓はバッグを横目で探した。

   「バッグの中には、財布も携帯電話も入っている」咄嗟に考えてバッグを取って部屋を飛び

  出した。

    

  「梓! どこに行くんだ!」

   後ろで達郎の喚き声が聞こえたが、無視して家を出た。


   優しい幸一の顔が浮かんだ。

  しばらくの間、あてもなく町をうろついていた梓は、駅前のビジネスホテルに部屋を取った。

   

   母親である佳美から話を聞いていたのだろうが、一人娘の由佳里から「汚らわしいあんたが

  出ていかないのだったら、私が家を出る!」という言葉を投げかけられた幸一も「家を出る」

  決心をしていた。

  「由佳里は許してくれないだろう」

   その事は辛かった。



   三日後、梓は、達郎の居ない留守を狙って自宅に帰ったが、家の中はひどい有様になってい

  た。身の回りの物をトランクに詰め、テーブルの上に離婚届用紙を置いた。出る時に、もう一

  度家の中を見渡したが「家を出る」という淋しさは沸いてこなかったし、達郎にも愛着は無か

  った。

   幸一と梓は逃げるように福島を出て、幸一が大学時代に住んでいた、千葉県の幕張に移り住

  んだ。そして、幸一は大型自動車免許を取り運送会社に就職をし、梓は、近くのスーパーに職

  を求め、二人の生活がスタートした。


   ……福島の中学校で先生と生徒として知り合ってから、20年が経っていた……

 

   揉めに揉めたお互いの離婚も成立し、やっと結婚も出来、寄り添うように生活を送っていた

  二人は幸せであったが、またも、災難が降りかかった。

   48歳になった年に、幸一が肺結核を患ってしまった。比較的軽度であったが、半年間の療

  養生活を送った幸一は退院後自分の身体に自信が持てなくなり、運送会社を退職し、知人の紹

  介で「八ヶ岳ガーデンリゾートホテル」の送迎バスの運転手の職に就く事になり、二人は山梨

  県北杜市に移り住んだ。

   

   山梨での生活も穏やかではあったが刺激がなかった。幕張で生活をしていた時はまだ「略奪

  愛」の余韻が残っていた。


   そんな梓の中にあるものが芽生えた。芽生えたものは成長し、熟す時を迎えていた。


   ……そして、すっかり熟した時に川村雄一郎と出会った……




   

   雄一郎にとっての刺激的な夏が過ぎ秋を迎えた。

  「昭和の夏」のイベントでスタッフの自主性を重んじた事で、モチベーションも上がり、成長

  していくスタッフを見て「土台固めが出来た」と満足していた。

 

   定期的に横浜には帰った。横浜にいる時は真理と一緒に過ごす時間を大事にして、最大限有

  効に使った。


  「仕事が自分達夫婦を繋げ、お互いを高める事が出来る刺激薬。仕事から離れれば、梓との安

  らぎの時間が待っている。男は一度に二人の女を愛する事が出来る」

   そんな自分に雄一郎は酔いしれた。そして今となっては「単身赴任の幸運」にも感謝した。



   真理も、プレミアムクラブが予想以上の収益を上げている事で、自身の仕事に、益々自信を

  つけてきていた。

   

  「客の立場に立ち、そして自分だったら、どのようなサービスをされたら嬉しいか? という

  事を考える。自分自身の生活の質の向上を図らないと、真のホスピタリティは生まれない。自

  分が幸せでないと良いサービスは出来ない」

   フロント新人研修で、チーフであった雄一郎からの教えを基本に、様々な改革を提案した。

  顧客の嗜好や過去のリクエストなどが記憶された詳細な顧客情報リストを作成し、利用頻度が

  増す度に、顧客満足度が上昇出来るサービスを心がけた。それはプレミアムクラブに留まらず、

  全ホテル共有のデータベースに保存され「Kファイル」と名づけられた。

   既存の顧客データと併せた綿密なデータを、ホテル全てのセクションで共有し、より以上に

  反映させる体制を整えた。

   毎朝開催される、プレミアムクラブスタッフミーティングでは、当然ながら、スタッフにそ

  の日に宿泊している顧客の情報を把握する事を徹底させる事で、より、質の高いサービスを提

  供する事にも繋がった。

   真理の部下に対する要求は厳しいものであったが、常に部下を信頼し、部下の意見に耳を傾

  け、出来るだけその意見を取り上げ、個々の能力を最大限生かせるように、マネージャーとし

  てサポートし、スタッフが「遊び心」を持ち、楽しく仕事が出来る環境を整える事で、部下か

  らの信頼を得られていた。

  

  「単身赴任の別居生活で良かった」

   真理も改めてその事を感じた。

 

   もし、雄一郎と同じ職場にいたら、部署が違っていたとしても、気持ちの何処かで「夫であ

  る雄一郎の足を引っ張ってはいけない」そういう事に気を使い、思い切った仕事は、出来なか

  ったかもしれない。「同じ職場で、お互いの力を思う存分発揮出来ている夫婦もあるだろうが、

  私は、それは出来ない」と思っていた。

   その事と「仕事が趣味」という事が自分の人生の中で、どんな意義を持つかは分からないし、

  それが、これからずっと続くであろう夫婦生活にどんな影響を及ぼすか? 答えはまだ出ては

  いないが、とにかくホテルの仕事が好きだった。

   勿論、真理の努力は並大抵のものではなかった。

  しかし、仕事に一生懸命になっていると、その合間に出来るプライベートな時間が、とても貴

  重な事に思えて、たわいない日常が楽しくて幸せだった。自分が仕事を通して感じる「幸せ」

  をスタッフは元より顧客にも、サービスを通してその「幸せ」を味わって欲しいと思っていた。


   母を早くに亡くし、父との悲しい事もあり、何より子供を失う、という辛い事もあったが、

  それを乗り越えたからこそ、今の自分がある。それには、夫である雄一郎の支えが一番大きか

  った。その事を心の底から感じた。

   しかし、最近は雄一郎も仕事が忙しいのだろうか、電話をしても以前のように即、繋がらな

  い事が多かった。でも、話が出来なくても「私のそばには、川村雄一郎という人がいる」それ

  で充分満足だった。


   真理も自分を取り巻く環境に感謝をしていた。


 


    そして、今年も……また、クリスマスが近づいてきた。


  

   一年前の「悲しかったクリスマス」の事は忘れていないが「辛い出来事」と、特別な思いで

  思い起こす事がない程、真理は立ち直っていた。真理はいつもの如く「無宗教の私達にはクリ

  スマスは関係ないのよね」と雄一郎にメッセージを送った。


  「クリスマス当日は忙しいから連絡が取れないと思う。少し早いけれどメリークリスマス!」


   雄一郎からクリスマスカードが届いたが、真理は何の疑いも持たなかった。

  「雄真と理子に」そのクリスマスカードを、テディベアと小さなクリスマスツリーと一緒に、

  リビングルームに飾った。


   雄一郎のそのメッセージは、去年までとは違って「自分を守る」メッセージになっていたの

  だが……真理は気がつかなかった。

   

   ……それにクリスマスは忙しかった……

  

   プレミアムクラブの会員であり、元外資系証券会社営業マン出身で、現在シンガポールでフ

  ァンドビジネスを展開している戸川正一郎が、コンベンションルームで、芸能人やスポーツ選

  手などを招待してのクリスマスパーティを盛大に開催する事になっていたし、プレミアムフロ

  アは、VIP客などで満室状態になっていた。

   

   雄一郎とのささやかなクリスマスは諦めるしかなかったが、真理は充実していた。



  「クリスマスイブを楽しみたいだろう……」

   クリスマスイブの夜、家族持ちや、若い部下の事を考えて、夜勤業務を引き受けた雄一郎は、

  満室のホテルのバッチ作業(一日の集積データをメインサーバーに送り、日付を更新する作業)

  を終え、日付けが変わってから梓の家を訪れた。

 

   雄一郎を待っていた梓は、ドアの鍵を閉めたと同時に雄一郎に「メリークリスマス!」と言

  って抱きついた。

  

  「何?」

   何か、特別な事が起きたのか? 


  「鈍い人……分からない?」

   

  「何処かで聞いたような言葉だ……」

   梓の言葉で、真理から、子供が出来た事を告げられた時の事を思いだし、一瞬、胸が痛んだ。

  

  「メリークリスマス!」

   梓が甘く微笑んでいた。

  

   雄一郎は驚いた表情で梓を見つめた。


  「声が出るようになったの……あなたのお陰」

   そう言って梓は雄一郎の胸に顔をうずめた。


  「一週間位前から、徐々に声が出始めたの。でも、ずっと黙っていたの。クリスマスに伝えた

  かったから……あなたへのクリスマスプレゼントにしたかったから……」

   梓は、雄一郎の胸の中で囁いた。


   初めて聞く梓の声は思ったより低く、控えめな梓そのもので魅力的だった。

  

   一週間に一度、甲府の病院でカウンセリングを受けていると言っていた梓の「あなたのお陰」

  という言葉は真実だろう。


  「長い間声が出なくて辛かっただろうに、よく耐えたね」

   雄一郎は心の底から喜んだ。


  「ずっと聞きたかった言葉がある。分かっているよね? 言ってくれるだろう?」


  「愛してる……」梓は何度も繰り返した。


   ……一年前の、辛く悲しいクリスマスイブの事は、雄一郎の頭からすっかり消えていた……

 

 


   その頃、真理は……疲れた身体を自宅のバスタブでほぐしていた……












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