第三章
1
(2006年)
こんなに長くはなると思っていなかったが、お互いの中で別居生活も「当たり前」となってい
た時、真理に嬉しい出来事が起きた。雄一郎がその報告を聞いたのは11月末、一週間ぶりに横
浜に戻って来た時であった。
二週間前に、長い間住みなれた根岸のマンションから、二人は横浜のベイサイドエリアの分譲
マンションに引越しを済ませたばかりであった。その団地は建て替え団地であったが、真理は、
建て替えられる前の団地で高校時代までを過ごした。新居は真理の生まれ育った場所で、2LD
Kのマンションの抽選に当たった時には飛び上がって喜んでいた。
結婚してから10年、別居生活を始めてから6年が経っていた。
「彼が帰って来るまでには引越しの荷物は片付けてしまいたい」という真理の頑張りで、部屋は
すっかり綺麗になっていた。残っているのは寝室のクローゼットだけで「最後の一頑張り」とク
ローゼットの整理を行なっていた。
「いい気持ち!」
風呂から出た雄一郎がバスタオルで頭を拭きながら、缶ビールを持って寝室に現れた。
「しかし、最高のロケーションだよな……」
最上階の部屋の北側の窓からは横浜港とみなとみらいが見渡せる。その夜景は、今夜の二人を
祝福しているかのように煌いていた。
「どうしようかな?」
真理はしばらく片付けの手を休めて考え込んだ。Tシャツにスウェットパンツ姿の雄一郎は、
ビールを飲みながら夜景に見とれている。
「出来たって」
雄一郎の横に立ち、背伸びをして恥ずかしそうに耳打ちした。
「出来たって何が?」
「もう鈍いんだから……出来たって言ったら……他に何がある?」
真理は嬉しそうに言った。
「ウソ……だろう?」
余りにも突然の事で雄一郎は缶ビールを落としそうになった。
慌ててサッシのさんに缶ビールを置いて「まさか……本当にまさか……って事?」
信じられない!という顔つきで真理を見つめた。
「うん……」真理はそれだけ言って、我慢しきれない様に雄一郎に身体を預けた。
雄一郎は真理の身体をしっかりと受けとめて、自分の喜びを表すように更に真理をきつく抱き
しめ「いつ?」と尋ねた。
「こうの鳥が配達予約を入れてきたの」
笑いながら真理は、雄一郎の首に手を回した。
「期待させて、それが間違っていたら? って思っていたので内緒にしていたの。それでね……
一昨日、みなとみらい病院に行ったの。二ヶ月だって。予定日はね、7月24日」
そう言って真理は雄一郎の胸に顔をうずめた。
「ウソだろう?」
まだ雄一郎は信じられなかった。
二人ともそんなに若くはない。それにもう子供は諦めていた。
「男の子だったら雄真で、女の子だったら理子だからね」
真理は潤んだ目で雄一郎を見上げた。
「雄真はいいけど、理子は却下だ。俺の字が入ってない」
雄一郎は笑いながらまた真理を抱きしめた。
40年近く生きて来ていろんな幸せを味わった。
でも、今までの「幸せ感」は今の「幸せ感」と比べたらちっぽけだった。
「子供が出来た」という幸せは何事にもかえがたく、雄一郎は、真理を強く抱きしめる事でその
感動を表現した。
「理子ちゃんが苦しいって」
真理が笑いながら言ったが、それでも雄一郎は真理を離さず、そのまま二人はベッドに倒れ込
んだ。
「ごめん。大丈夫?」
少し激しかった動作に真理の身体を案じたが、じわじわと雄一郎の中に喜びが広がって行った。
「具合は悪くないのか?」
真理の髪の毛を優しくかきあげながら雄一郎が尋ねた。
「うん、大丈夫みたい」
「絶対に煙草はやめろよな」
「はい。でも、私達ってどんなパパとママになるのかなあ?」
「こんな風だよ」
雄一郎はそっとキスをした。喜びが身体中を駆け巡った。優しかったキスが激しくなった。
「先生が無理しないように、って。だから、やさしくね」
真理は目を閉じた。
興奮の嵐が過ぎ去り、リビングに戻った二人の会話は現実の話になった。
「仕事はどうする?」
ビールを飲みながら雄一郎が口を開いた。
「私の希望ではこのまま仕事は続けたい。でも、これはあくまでも私の希望よ」
「子供が生まれてもこのまま別居生活を続ける。と言うのか?」
「それが叶うならそれも有りかな? って思うけど……でも子供の事を考えたら可哀相でしょう?
それでね、幸いつわりもないし、だから……この仕事が済んだら……それをきちんと考える。そ
れまでは保留にして欲しいの」
「この仕事?」
「本当はね、今日の議題はその事だったの。だけど、突発的な幸せな出来事で次の議題になっち
ゃった。来月の半ばに世界規模の『児童の性的搾取からの保護を訴える国際会議』が横浜で開催
されるのは知っているでしょう? 子供救済に手を差し伸べている国連機関や、世界中のその事
に携わっているNPOやNGO団体、それに外務大臣クラスも参加する。会議はみなとみらいの
国際会議場で行なうけれど、それに伴う主だった関係者の宿泊はロイヤルガーデンが請け負って
いる、ってその事も前に話をしたでしょ。その仕事の細かい手配の責任者は村上マネージャーよ。
私は別の仕事の担当だったのだけれど、急遽、サポート役を任せられたの。サポート役と言った
って細かい手配だけよ。それでも私はそういう社会的に大きな意義を持つ仕事に携わっていたい
の。その事は分かってくれるでしょう? だから、その仕事が済むまで……私に猶予を与えてく
れる?」
真理は懇願するように必死の気持ちで雄一郎を見つめた。
「社会的に大きな意義を持つ仕事」……それは分かりすぎるぐらいに分かっている
……俺だって……雄一郎は昔を思い出した。
「転勤命令」はサラリーマンには絶対の「命令」であり、それを断るという事は「業務命令違反」
となり、懲戒解雇を受ける事にもなりかねなかったが、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルに転勤の
内示があった時に、雄一郎は躊躇するものがあった。
「ガーデンリゾートホテル」は日本のトップクラスの「ロイヤルガーデンホテル」の系列会社で
ある。雄一郎は「フロント支配人」の命を受けていたが、年齢的にも異例の抜擢であった。そし
て、その後には「宿泊部支配人」そして「総支配人」の地位を約束されていた。
立場的にはどうであれ、雄一郎の中には「都落ち」という感覚があった。大都会の「ロイヤル
ガーデンホテル」でリアルタイムで「現在の日本」を味わいたかった。それなりの人物と接する
事で「自分自身を高めたい。そして本部の幹部になってロイヤルガーデンホテルチェーンを動か
したい」という野心もあった。
八ヶ岳に赴任する前の送別会の席で「八ヶ岳ガーデンリゾートのフロント支配人については、
フロントの川村君と、セールスの村上君のどちらかにするかで会社は揉めたのだよ」と本部の重
役から雄一郎は聞かされた。
「村上君も優秀な人材で今後の事を考えて、営業畑の村上君にフロントを任せる事も必要かと、
考えていたが、それには少し無理があるという事で会社は君を選んだ。君のフロントでの仕事ぶ
りを会社は高く評価しているし、君の人間性も高く買っている。横浜も八ヶ岳もこれからは厳し
い時代に突入する。我が社としては、リゾートホテルにも更に力を注いで行く必要がある。徐々
に、中高年層がその方面に金を使い始めているからな。それに添える力を持っているのは川村君、
君だよ」
酔った勢いでぽろっと内情を話してしまった重役は、苦笑いをしている雄一郎を見て「余計な
事を喋ってしまったかな」と困惑したが「君には大いに期待を寄せている。八ヶ岳ガーデンリゾ
ートのクオリティを高め、甲信越地域のトップホテルに押し上げる。君なら出来る」
そう雄一郎を褒め称えた。
上高地にある老舗高級ホテルが頭に浮かんだ。
しかし……「競争が激しくなる都会のホテルに必要なのは村上で、俺は八ヶ岳か」雄一郎は、
自分が負け犬になったような気分になった。
村上健司と雄一郎は同期であった。村上は営業畑、雄一郎はフロント畑と別の道を歩いていた
が、何故かお互いに引き合うものがあり親友でもあり、良い意味でのライバルでもあった。
それが少し変化したのは、真理がセールスマーケティング部に異動で、村上の部下となった時
からだった。
雄一郎の目から見ても、セールスマーケティング部に異動になった真理は輝き始めた。それは
「天職」という事を真理が悟ったためであったが、雄一郎は「真理の輝き」を村上と結び付けて
いた。そういう自分を「ちっぽけな男」と思ってもいたが、その思いはなかなか拭い去る事が出
来なかった。
村上に対して「親友」より「ライバル」という気持ちが膨らんでいった。そして「真理もライ
バル」になっていった。
真理の妊娠は雄一郎にとって心の底から嬉しい事であったが、やはり二人の前に壁が立ちはだ
かった。真理にとって「貴重な経験である大きな仕事」は「身体の一番大事な時期」と同時期で
あった。
雄一郎はその話を聞いた時すぐにでも「辞めてくれ」と言いたかったが「真理の仕事に対する
熱意」を感じて事で言えなかった。もし、「真理の仕事」がなかったならそんな事には悩まず
「子供が生まれる」幸せに浸っている事が出来ただろう。しかし、ここでも結局、雄一郎は真理に
押し切られた。
数年前に宿泊部支配人のポストに昇格していたが、転勤の時に感じた「都落ち」という劣等感
が心の片隅に残っていた。
そうであっても、八ヶ岳に戻ってから、雄一郎は仕事をしながらも、子供の事を考えると自然
に笑みがこぼれ、部下であるフロント支配人の吉野浩之にはすぐに気づかれた。
とにかく心配で、真理を、子供が産まれるまでガラスのケースにしまっておきたかったが、ケ
ースに収まっていない真理は、いつもと同じ様に仕事をしていた。
一日に何回も、雄一郎は真理に電話をかけた。
「理子ちゃんのパパは心配性」と生まれてくる子供は女の子、と決め付けている真理は、雄一郎
の電話に毎回同じ事を言って笑っていた。
休みの日は必ず横浜に帰った。真理が仕事に行く時はホテルまで車で送り迎えをし、主夫役も
進んで引受けた。
そして真理の仕事は無事に終了した。国際会議の様子はテレビのニュースで流されたが、勿論
「その裏で働いた真理と雄一郎の苦労」は誰も知らなかった。
その日の夜、真理は雄一郎に電話で「ありがとう」と伝えた。
「大丈夫か?」
真っ先に雄一郎は真理の身体を心配した。
「私は大丈夫。もう、これで心残りはない。退職願いを出すつもりよ」
「ホテルを辞める決心がついたのか?」
「なんかね、私にとっての大事な仕事をし終えて気がついたの……」
真理が急に口をつぐんだ。
「何?」
雄一郎の問いかけに返事がなかった。
「……」
かすかに聞こえたのは嗚咽だった。大きな仕事を終え興奮がまだ残っていて、少しナーバス
になっていた真理は泣いていた。
「泣いているのか?」
「ううん、泣いていない」
優しい雄一郎を感じながら真理は意地を張った。
「真理はバカだな」
その言葉の中には愛がいっぱい詰まっていた。真理はその幸せを心の底から感じた。
「バカな真理と一緒で幸せ?」
「分かっているだろう?」
「でも言って。幸せだって。真理を愛しているって、言って」
「電話じゃ言えないよ」
「だったら……今から横浜に来て」
「バカ、行けるわけないだろう。水曜日に横浜に帰るよ。具合が悪いのか? 真理、大丈夫か?」
雄一郎は急に心配になり電話に呼びかけた。
「大丈夫よ。後三日して会ったらね、そうしたら私も気がついた事を言うから。ね、でも言って。
幸せだって」
「俺も水曜日に会ったら言うから。真理は待てるよな?」
面と向って言えなくても、電話だったら伝えられる事があるが、今の雄一郎は真理の目を見て、
自分の気持ちを伝えたかった。
「うん、分かった。水曜日ね。もう電話切るね。なんだが眠くなった。このまま幸せ気分で眠り
たい」
「そうか。本当に大丈夫か? 何かあったらすぐに電話しろよ」
「本当に大丈夫。眠いだけ、おやすみなさい。理子ちゃんもね、パパにおやすみって」
「ハッハッハ、分かったよ。おやすみ」
電話は真理の方から切られた。
2
翌日、雄一郎は昨夜の「幸せな余韻」を感じながら出社した。車の中でこれから対処しなくて
はならない様々な事の段取りを考えていた。
今は会社が用意してくれたマンションで生活をしているが、真理が来るならもっと広いマンシ
ョンを探さなくてはならない、横浜のマンションはどうするか? 年末年始で仕事が忙しい時期
と重なるが、それは嬉しい事でもあった。
雄一郎がいつもの仕事である館内巡回をしていた時に携帯が鳴った。
「真理かな?」と思ったが「フロント」という表示に「何か問題でも起きたか?」と一瞬不安な
気分になった。
「お疲れ様です。吉野です」
電話の相手はフロント支配人の吉野裕之だったが、その声はいつもの軽快な吉野ではなく硬か
った。
「何かあったのか?」
「今、横浜のみなとみらい病院から支配人あてに電話がありました。折り返し電話が欲しいとの
事ですが、メモ出来ますか?」
みなとみらい病院? そうだ真理だ。嫌な予感がして動揺した雄一郎はすぐにペンを取り出せ
なかった。
「もしもし支配人、大丈夫ですか?」
吉野の声は更に硬くなった。
「大丈夫だよ。電話番号を教えてくれ」
「いいですか? 045 628・・・・・・ 産婦人科の吉岡先生宛にお願いします。との事
です」
産婦人科という事で吉野もただならぬ事態が起きた、と感じていたのだろう。何度も「大丈夫
ですか?」と心配そうな声で尋ねた。
雄一郎はペンは取り出せたものの手帳が取り出せず、仕方なく掌に電話番号をメモして、吉野
からの電話を切ってすぐにみなとみらい病院の吉岡という医師に電話を入れた。
「川村真理さんのご主人ですね? 奥さんの真理さんが先程救急車で搬送されました。電話では
申し上げられませんが良くない状態になっていますので、これからすぐにこちらに来て頂けます
か?」
産婦人科の吉岡という医師は穏やかだったが、強い意志をもったような声だった。
「家内に何が起きたのですか?」
「申し訳ないのですが、電話では詳しい事はお伝えする事は出来ません。今は山梨にいらっしゃ
るのですね。 お仕事中だとは思いますが、早急にこちらに来てください」
「分かりました。これからすぐに車で伺います。今からですと渋滞がなければ、午後の早い時間
には到着出来るかと思います。真理は、家内の様子はどうなのですか? それだけでも教えてく
ださい」
雄一郎は懇願した。
「奥さんは今は落ち着かれていますし、命に別状はありません。お車でいらっしゃるという事で
すが、くれぐれも運転には注意して来てください。お待ちしています」
雄一郎がオフィスに取って返すと、おそらく事情を察しているのであろう吉野が、心配そうな
表情を浮かべていた。
「家内が具合が悪くなって病院に運ばれたが、心配する事はないよ。大丈夫だ」
雄一郎は気丈に振る舞い、仕事の引継ぎをしたが、真理の事が心配で心臓が破裂しそうになっ
ていた。
「こっちの事は僕に任せてください。だけど車で大丈夫ですか?」
吉野は、雄一郎を気遣ったが、その事には応えず「迷惑かけて申し訳ないが、頼む」とだけ言
って社員用駐車場に急いだ。
途中、八王子付近で渋滞に巻き込まれたが、それでも予定より30分程遅れただけで、みなと
みらい病院に到着する事が出来た雄一郎が逸る気持ちを抑えて、産婦人科のナースステーション
に立ち寄り、案内を請うて病室に向うと、真理の病室の前にはうな垂れている村上がいた。
「川村!」と言ってきた村上を雄一郎は思わず殴りつけた。
「どうして村上がここにいるのか?」
看護師がその様子に慌てて駆けつけて来た時、村上は唇を押さえて立ちすくんでいた。
廊下でのただならぬ気配に真理の病室から医師と看護師が飛び出してきた。
吉岡医師はその様子を見て、看護師に雄一郎を自分の部屋に案内するように目配せをした。
「家内に会わせてください」
雄一郎は吉岡医師にすがった。
「その前に私と話をしませんか?」
小太りで誠実そうな吉岡医師は雄一郎に穏やかな口調で話しかけた。先程の電話と同じように
吉岡は穏やかだったが「従いなさい」という強いものがあった。
「分かりました」
雄一郎は唇から血を出している村上を横目で睨み、吉岡医師の後を連いて行った。
「川村さん、今朝、奥さんは会社で強い腹痛を訴えられて救急車で搬送されました。子宮外妊娠
です。卵巣に癒着を起こしていますので、卵管が破裂する前に、緊急に卵管摘出手術を行なう必
要があります」
「そんな……この病院で家内は妊娠を告げられて……そう出産予定日は7月だって、そう言われ
ていたのですよ。それに、家内は、今までその事で具合が悪くなるなんて事はなかった……仕事
をしていたので、その事で無理があったのですか?」
「卵管破裂などが起きない限り、妊娠初期では発見が難しいのです。また、今回の事とお仕事を
されていた事との因果関係はないと思います」
吉岡は雄一郎が少し落ち着くまでじっと黙っていた。
「もう一つですが……赤ちゃんは二卵性双生児です。二卵性であるがために、肥大している両方
の卵管を摘出せざるを得ません」
吉岡は雄一郎にエコー画像を見せながら説明をした。
「大変申し上げにくいのですが……体外受精などの方法はありますが、将来的に自然妊娠は望め
なくなります」
吉岡は辛そうな表情でその事実を雄一郎に告げた。
「おそらくもう子供は無理だろう」
雄一郎は悟り、エコー画像を見た。
「雄真と理子だ……」
真理の嬉しそうな顔が浮かび、涙が出そうになったがグッと堪えた。
「摘出以外に方法はないのですか?」
「抗がん剤を使って妊娠組織を消滅させる方法がありますが、これは副作用がひどいのと、抗が
ん剤ですので細心の注意が必要で一般的にこの方法は用いられておりません。今お話した手術が、
奥さんには有効手段となります」
「その事は本人は知っていますか?」
「私からはお伝えしていません。ご主人に話をしてご了承を頂いて、まず、ご主人から奥さんに
伝えて頂いた方が宜しいかと考えています。詳しい事はその後、私がお二人にご説明いたします」
「分かりました。ご配慮頂きありがとうございます。手術はいつになりますか?」
「緊急を要しますので、明日の午後からを予定しています。局部麻酔での手術になりますが、時
間は一時間位になります。術後の経過を見ながらになりますが、特に問題がなければ、二週間程
で退院出来るでしょう。ただ、その後のケアには、ご主人の力が必要になると思います」
吉岡がボールペンを手で回しながら、ゆっくりとそしてはっきりとした口調で告げた。
「入院の手続きや病室の選択など細かい事は看護師が後程ご案内いたします」
「分かりました。よろしくお願いいたします」
雄一郎は丁寧に頭を下げ、真理の部屋に向った。
廊下に村上は居なかった。右手に村上を殴った感触が蘇り、その右手をきつく握り締めた。
病室のドアを開けようとした時、どこかの部屋からか新生児の泣き声が聞こえてきた。その泣き
声から逃れるように慌てて病室に入った。
眠っている真理の目の端には涙が溜まっていた。起こさないようにそっと椅子に腰をかけ、し
ばらくの間寝顔を見つめた。
「昨夜『今から横浜に来て』と言われた時に横浜にすぐに帰れば良かった……もしかしたら……
真理は具合が悪かったのかもしれない、何かを予感していたのかもしれない……」
しばらくして気配を感じたのか真理が目を覚ました。
「来てくれたの?」
傍に雄一郎がいる事が嬉しかったのか、真理は笑顔を浮かべて手を差し出した。
「仕事は大丈夫なの? 年末の忙しい時なのにごめんね。吉野さんとか八ヶ岳の人は、みんな困
っているでしょう? もう、私は大丈夫だから仕事に戻ってもいいのよ」
雄一郎が着ている制服のブレザーのエンブレムを真理はじっと見つめた。
「とるものもとりあえず駆けつけて来てくれたのだろう」
真理はそう思って嬉しかった。
「バカだな。仕事より大切なものがあるだろう?」
真理の手をしっかりと握って雄一郎も笑顔で話しかけた。
「救急車なんて呼んじゃって、ホテルに迷惑かけちゃった」
「具合いが悪いところはないのか?」
「さっきまではとってもお腹が痛かったけれど、少し治まってきた……村上さんが一緒に連いて
きてくれたのよ。村上さんはホテルに戻ったの?」
「うん、俺が来たからさっきホテルに戻ったよ。あいつも心配していたよ」
雄一郎はウソをついた。
「でも、本当に良かった。大事な仕事が終わった後で」
「真理が良い仕事をしたから……だからだよ」
「でも、まだクリスマスの準備とかいろいろあるんだけど……だってね、仕事だって途中で出来
なくなっちゃったの。マネージャーに報告しなくてはならない事あるのに……あのね、来週のト
ラスト・コーポレーションのパーティの手配書は、パソコンの手配書フォルダーに入っている、
って伝えてくれる?」
雄一郎の指を弄びながら、でも顔は見ずに、真理はさっきからずっとブレザーのエンブレムだ
けを見つめていた。
「村上には俺が伝えておくよ。仕事の事は忘れてゆっくり休めよ」
「交通費の精算も終わっていないの。経理に怒られちゃう。それにね、今日帰って来るって思わ
なかったから、部屋の中グチャグチャなの。お風呂も掃除していないし、洗濯物だってたたんで
いないの。冷蔵庫なんて空っぽ状態だと思う。ごめんね、何にもしていなくて」
「何言っているんだよ。そんな事を俺は気にしないよ」
おそらく「最悪の事態になった」と真理は感じているのだろう。だから、今言わなくてもいい
事の話をしている。
「ねえ、言って」
しばらくしてから、今度は雄一郎の顔をしっかりと見て真理は言った。
「何を? 昨夜の事?」
「昨夜の事は水曜日って約束したでしょう? 今、私に伝えなくてはならない事があるでしょう?」
その時、雄一郎の胸ポケットの携帯のバイブが震えた。
慌てて携帯を探って着信を確認したが、見知らぬ電話番号が表示されていた。
「村上からだ」
雄一郎はまた真理にウソをついて廊下に出た。かかってきた電話は間違い電話であったが、雄
一郎はその相手に感謝をした。吉岡医師から聞いた辛い事を話さなくてはならない時が来たが、
どう対処してよいか分からなかった。間違い電話はその雄一郎に覚悟を決める時間を作ってくれ
た。
「村上が具合はどうかって」
椅子を引いて腰を下ろし、そして、意を決して真理に事実を告げ始めた。
「さっき、吉岡先生から話をされたよ。真理は子宮外妊娠だった。卵巣に癒着が見られて、卵管
破裂の恐れがあるから、明日の午後に卵管摘出手術をする事になった。でも、手術をすればまた
元気になるから心配する事はない」
雄一郎は自分自身にも言い聞かせるように、一つ一つ言葉を繋げた。
「元気になるって、もしかしたら、子供が産めるという事なの?」
真理から視線を外したかったが、真理の必死の視線がその事を許さなかった。
「雄真と理子だった」
その言葉しか浮かばなかった。
「何?」というように真理は眉根に皺を寄せた。
「『雄真か理子』ではなくて『雄真と理子』だったんだ」
……子供はだめになる。二卵性双生児だから、両方の卵管を摘出しなくてはならない……とい
う具体的な言い方は出来なかった。
「雄真と理子……」
真理はそうつぶやいて窓の方を向いた。
「そうだよ、双子だったんだよ。四人家族だよ。それが、俺と真理の川村家の家族だったんだよ」
わざと過去形を使った。その言葉で真理は理解したのだろうか、横を向いている真理の肩が震
えた。
真理は声をあげずに泣いていた。一緒に泣きたかったが「泣くな」と自分を戒めた。
「我慢なんてするなよ。真理と一緒に泣けよ」
村上の声が聞こえたが、雄一郎は涙を堪えた。
「雄真と理子は遠慮したんだよ。ずっと離れ離れだったお父さんとお母さんにさ。やっぱり二人
にしておいてあげたい、って」
言った後「どうしてドラマの台詞のような気休めの言葉しか出て来ないのだろう」
雄一郎は自分を悔いた。だが、「自分がそんな風に考えないと、ダメなものはダメと、早く気持
ちを切り替えてしっかりしないと真理を守れない」
雄一郎は、肩を震わせ声をあげずに泣いている真理を、布団の上からそっと抱きしめ「何があ
っても俺は真理を守るよ」声に出して伝え、抱く手に力を込めた。真理は雄一郎の手を取り、そ
の手を自分の顔に添えて「ごめんなさい」そう言って、雄一郎の手の中で泣いていた。
しばらくして、落ち着いた時、遠慮がちにドアをノックする音が聞こえた。
雄一郎は、真理から離れてドアに駆け寄った。ドアの外で温かそうな雰囲気の看護師が立ってい
た。
「こういう場面を沢山経験していた看護師は、自分が出向くタイミングを考えてくれていたので
あろう。『ホスピタリティ』という言葉は、ラテン語の看護収容施設全般をさす『ホスピス』と
いう事から来る言葉だと聞いたが、今、自分の目の前いる看護師はその『心』を分かっているの
だ」
廊下のソファーに座って、看護師から明日の手術の説明を受け、入院や手術に際しての諸々の
手続きを済ませた。
最後に看護師が「お部屋の件ですが、このままの個室で宜しいですか? それとも大部屋に移ら
れますか?」と聞いてきた。
「個室と大部屋とでは差額ベッド代に大きな違いがあるのだろう」と単純にその事だけを考えて
いた雄一郎は「それはお任せします」と簡単に答えた。
「産婦人科は、無事に出産を終えた方や、婦人科の病気で入院されている方もいらっしゃいます。
奥様のような場合、経産婦の方やこれから出産を控えている方との同室は、避けられた方が宜し
いかと思います。ただ、個室は差額ベッド代がかかってしまいます。ご家庭のご事情があります
ので強制はいたしませんが、私の個人的な考えでは今の個室をお奨めします。今のお部屋は廊下
の外れで、赤ちゃんの泣き声とかが比較的届かない場所にありますから」
「精神的なケアという部分ですか?」
「そうですね。奥様にはそれが一番大事だと思いますよ」
「分かりました。今のままで結構です。しかし、吉岡先生もそうでしたが、こちらの病院では、
細かいご配慮を頂いてとても感謝していますし、安心して家内を預けられます」
「ありがとうございます。でも川村さんが仰るような事ではなく、病院としての当然の対応で
すよ。吉岡先生が5時に病室にご説明のために伺います」
「久保美代子」というネームプレートを付けた温かで信頼出来そうな看護師は、笑顔でそう答
えた。
「藁にもすがりたい」と思って病院の配慮に感謝している患者の家族に「当然の事」と言い切り、
絶対的な安心感を与える久保美代子という看護師に「真のホスピタリティの姿」を見た気がした。
病室に戻ると真理は泣きやんでいた。
そして「本郷町のさかえフルーツのマンゴジュースが飲みたい」と甘えるような言い方でおねだ
りをした。少し元気になった真理に安心したが、そんな真理の様子に戸惑いもあった。
もっと辛い場面を覚悟していた。
「両卵管摘出の話をしたら、気が狂ったように泣きわめき、手がつけられない状態になるかもし
れない」そんな事も想定していた。だが真理は辛い事実を受け止めて、それは耐え難いものであ
っただろうが、取り乱す事もなく比較的冷静だった。
昔から余り喜怒哀楽を表に出さず、辛い事があってもじっと何かに耐え「強さと優しさを内に
秘めている」そんな真理が雄一郎は好きだった。でも「この辛い時にも取り乱さない」というの
はその「芯の強さ」だけなのだろうか?「俺は泣けなかった。泣けなかったのは真理に弱い自分
を見せたくなかった。弱い自分を見せたら、真理も崩れてしまう。それは真理も同じだったかも
しれない。お互いにそんな部分でガードを築いていた。そうではなく、二人で一緒に泣いて、泣
き崩れて、そしてそこから強くなる。そうなった方が良かったのではないか?」
3
雄一郎は面会時間ギリギリまで病室にいて、8時を過ぎたのを機に、後ろ髪を引かれる思いで
病室を後にした。真理は雄一郎が帰る時に涙を流した。普段と違う弱気な真理を見て、このまま病
室で看ていたい、と訴えたが、病院側からは許可が下りなかった。
みなとみらい病院とマンションまでは歩いて5分程の距離にある。
エレベーターで最上階に上がると、部屋の前で村上が寒そうに立っていた。
「なんだよ!」と不機嫌そうな雄一郎に「素晴らしい眺めだよな。こういう景色を見ていると、横
浜って本当に凄い所だって俺は思うよ。それに、さすがベイエリアだよな。そこのコンビニでこん
な極上の酒を売っているんだから」
口に絆創膏を貼った村上が笑いながら、持っていた日本酒の一升瓶を雄一郎に差し出した。
「全く懲りない男だよな。入れよ。だけど散らかってるぞ」
苦笑いをして雄一郎は村上を家に招き入れた。
「家の中はグチャグチャよ」と言った真理の言葉はウソだった。部屋はきちんと片付けられていた。
「出かける時に真理は、もしかしたら何かを感じ取っていたのかもしれない」
胸に熱いものがこみあげた。
「冷えたから、暖かいシャワーを浴びさせてくれよ」
村上はコートを脱ぎながらそんな事を言い出した。
「シャワーなんて家に帰ってから浴びろよ。子供やかみさんが待っているだろう?」
「悪いけど今日は泊めさせてもらうよ。だから極上酒を奮発した。これは宿泊代。まあ、原価だけ
どね。時と場合によっては家族よりも大事に感じる人間がいるって事さ」
「全く勝手な男だ。好きなようにしろよ」
そう言う雄一郎から自然に笑みがこぼれた。
雄一郎は村上のために給湯器のスィッチを入れ、タオルを用意し、風呂上りの着替えに、自分の
パジャマを用意した。
そして村上がシャワーを浴びて出て来た時には、ダイニングテーブルに「飲み会」の準備が整っ
ていた。「真理は、村上と俺が飲む事を予感してセッティングをしていたのか?」と思われる程、
冷蔵庫にはいろいろな物が揃っていた。
「真理はどうだった?」
日本酒を飲み干して、煙草に火を点けた村上が口を開いた。口の絆創膏は剥がしていたが、唇が
はれ上がった村上には凄みがあった。
「しかし、今のお前の顔はなかなかいけるぞ。傷があって凄みがある」
自分の不始末を誤魔化すように村上をからかった。
こうして二人で酒を飲むのは何ヶ月ぶりだろう。差しで向い合っている村上は「心休まる親友」
だった。
「悪かった。そして今日は本当にありがとう」
雄一郎は素直に村上に頭を下げた。
「山梨からの道中辛かったんだろうな。冷静なお前が俺を殴るなんて10年早い、って言いたいけ
れど、俺に素直な感情を表してくれて嬉しかったよ。痛かったけれど」
唇をさすって「痛いッ!」と村上が声をあげた。
「バカな事いうなよ」
突然雄一郎の目から涙が溢れた。
「お前も年を取ったよなあ。いつから泣き上戸になったんだよ? だけど、まだそんなに飲んでな
いだろう。飲めよ」
村上の声は温かかった。
差し出されたグラスの日本酒を一息に飲んで、雄一郎は吉岡医師から告げられた事を話した。
ずっと黙って聞いていた村上の顔から「凄み」が消え「友を心配する優しい親友」の顔に変わった。
雄一郎も長身だが、村上も180cm近くある。「イケメンの雄一郎」と「アウトロー的な村上」
の無粋な男がいる部屋の空気も温かい雰囲気に変わった。
「俺みたいに、結婚して当たり前のように子供が生まれた人間が『元気だせよ』なんて言ったって、
気休めにしか聞こえないだろうから、俺はそんな事は言わない。だから、何も言えないよ」
「いいんだよ。お前がこうしてここにいる、それだけで充分だよ。お前の気持ちは有り難い」
雄一郎は溢れ出る涙をタオルで拭った。
「忘れないうちに真理からの業務引継ぎを伝えておくよ。トラスト・コーポレーションの手配書は
真理のパソコンの手配書フォルダーに入っている事と、交通費の精算もしていない事。迷惑かける
けれど、よろしく頼む」
「病院で真理はそんな事を心配していたのか? バカだよなあ。ちゃんとメールで報告が届いてい
たのに。交通費の精算書も添付されていたし……恐らく、具合いが悪かったんだろう、メッセージ
は誤字だらけだったから。全くバカだよ。真理は」
苦しかったのであろう真理の事を思って、村上は胸が熱くなった。雄一郎の目からまた涙が溢れ
た。
「本当に真理は大丈夫か?」
「かなり参っているけど……だけど俺が守るしかない」
「ちゃんと守ってやれよ。いい加減に真理を山梨に連れて行っちゃえよ」
「そのつもりでいる。真理は退職願を出すつもりだった」
「いろんな事情があるだろうから一概には言えないけれど、夫婦は一緒に住むべきと、言うのが俺
の考えだからさ」
「俺だってそう考えているさ。だけど、真理が別居を言い出した」
「真理は仕事が好きだからな。俺も真理が居なくなると困る、って言うのが正直な気持ちだけど……
真理は意地っ張りだからな……」
「俺だって結構苦労しているんだよ」
二人は同時に真理の事を思って笑った。
「お前が単身赴任で八ヶ岳に行くって聞いた時、俺は真理に言ったんだよ。『ロイヤルガーデンホ
テルでは真理の代わりはいるが、川村にとって真理の代わりはいない。だから一緒に八ヶ岳に行け』
そう言ったらさ、真理は何て言ったと思う? 『両方にとって私の代わりはいない。という存在に
なります』ってさ。俺は『バカヤロー』って怒鳴ったよ。だけど真理はひるまなかった。『強い子
だな』って思って『仕事と家庭とどっちが大事なんだ?』ありきたりの質問をした。『私は生きる
ために仕事をしている』確かそんな事言ったよな」
村上は昔を懐かしく思うような表情になった。
「男は本能と言うかそういう部分で、仕事と家庭の両方を大事に考えられる部分がある。真理もそ
うだ、その部分では、真理も男だ。って俺はいつも感じていたよ」
「今回の仕事では真理に部屋割りを担当させた。真理だったらホテルの部屋を知り尽くしているし。
部屋割りと言ったって重要な仕事で、単純じゃなかったんだけどさ。大臣クラスも宿泊したし、そ
れぞれの団体の思惑や我がまま満載で結構難しかったよ。それに変更だらけでさ。真理は変更の度
に部屋割り表を作り直しているから『表作成は最後にしろ』って言ったら『変更の過程を把握した
いから』そう言うんだよな。ただ無作為に部屋割りをしているのではなくて、部屋割りに意図を持
たせて、間際の変更にも即対応出来るように、その場合の部屋割りや、予備部屋まで考えていてく
れてさ、案の定、当日の人数変更もあったりしたけど、真理のお陰で、ああいったイベントにつき
もののトラブルやクレームもなく、気持ち良く客は宿泊が出来て、ロイヤルガーデンは面目躍如だ
った。『ホテルにとって自分の代わりはいない』その言葉通りの仕事をしたよ、真理は。俺にとっ
ても、仕事の部分だけだったけど……真理の代わりはいないよ。それは認める」
「無理するなよ。お前も真理に惚れてたんだろう?」
笑いながら雄一郎が言った。
「しかし、お前もキツイよな。純な俺の、かさぶたを剥がすような事を平気で言えるよな……」
村上は声を出して笑い、照れを隠くすようにグラスの酒を飲み干した。
今まで何となく感じてはいたが、雄一郎の推理は図星だったようだ。雄一郎も笑いながら村上の
グラスに酒を注いだ。
二人の中で、真理は「女神」だった。
夫婦にとっての最大の不幸に見舞われ失意のどん底にいる雄一郎は、今こうして村上と話をする
事で癒されているが「真理はどうしているだろう?」と雄一郎の中に「女神の真理」が舞い降りて
きて、急に心配になった。
真理は……少し前までは興奮気味で看護師を手こずらせたが、今は病室で眠りについていた……
「そう言えば、酔った時に真理は言ってたよな。俺と会わなかったら、お前と結婚してたかもしれ
ないって。強調して言うよ。真理がかなり酔った時だったけど」
「いい加減にしろよ。かさぶたを剥がしてその上にまた傷をつけるのかよ」
村上はまた声をあげて笑ったが、少年のように胸がキュンと疼いた。
雄一郎から「生意気な女の子がフロントに入社してきた」という話を聞いて、さりげなくフロン
トに見に行き、フロントカウンター内で、先輩フロントマンの後ろで、不安そうに立っていた透明
感の美しさのある真理に、村上は一目惚れをした。
女性社員の憧れの的であり、それなりに女性経験があった雄一郎とは違い、子供の時からサッカ
ー少年の体育会系で、女性と付き合う経験の少なかった村上は、好きな女性にどういう風に接して
よいか分からず、恋心を打ち明ける事も出来ず遠くから真理を見つめていた。
そんな事をしている間に真理は雄一郎にさらわれてしまった。社内の噂でその事を聞いた時、村
上は休みを利用して京都に一人で失恋旅行に出かけた。そんなロマンチストの自分に酔ったが現実
は辛く、失恋を癒す事は出来なかった。
村上の気持ちを知らない雄一郎は、村上を誘って真理と三人で飲みに行ったり、遊びにも行った。
村上の前で、雄一郎と真理は「恋人」という雰囲気は見せなかった。それは「救い」であったが、
それと同じ位「辛い」部分もあった。
二人の結婚式の前日、村上は六角橋にある小さな居酒屋で喧嘩騒ぎを起こした。
店の主人と喧嘩相手の計らいで、無難に事を納める事は出来たが、自分をどん底に落とし虐める事
で辛い気持ちに決着をつけたかった……が、決着はなかなかつかなかった……真理は結婚と同時に
自分の部下になった。
「惚れていたのは矢沢真理で、川村真理ではない」と自分に言い聞かせて感情を抑えた。
村上は、雄一郎と真理が結婚した一年後に、友人の紹介で弓恵と結婚をした。三歳年上の弓恵は
真理とは全く正反対で家庭にどっぷり浸るタイプの女性で、真理ほど美しくはなかったが魅力的だ
った。
弓恵との間に長男が生まれた時に、雄一郎の単身赴任を知らされた。失恋の果てでの弓恵との結
婚であったが、姉御肌で大らかな性格の中にも、細やかさを持っている弓恵との結婚は幸せで、そ
の幸せな家庭生活がベースになっているから、村上は仕事に励む事が出来た。
だから、真理には「一緒に八ヶ岳に行け」とアドバイスをした。
雄一郎や村上の言う事も聞かず「雄一郎と別居していても、しっかりとした夫婦の絆を築いていた
のであろう真理」は生き生きと仕事をしていく中で、人間としても成長していった。
そういう真理を複雑な思いで見ていた村上は、時々自宅に真理を招いて家族で食事を楽しんだ。
酒が好きな妻の弓恵は酒に強い真理と会って「飲み仲間が出来た」と喜び、何かの度に真理を家に
呼んだ。
賢い弓恵は夫の村上が真理に対して「部下」以上の気持ちを抱いている、という事を感じていた
のだ。村上はそう思う。最初は品定めではないが、そんな部分で真理を見ていた。そして、弓恵は
真理が気に入った。真理も弓恵を姉のように慕っていった。
……仕事に追われていて余裕がなくなった時などに、大事な何かを思い起こさせてくれる……
真理にはそんな魅力があった。
しかし、その事に気が付く事が出来るのは「真理」の存在だけではないだろう。
「川村雄一郎」「妻の村上弓恵」「自分である村上健司」そして「仕事」それらの全ての魅力が揃
う事で、何とも言葉では言い表せない「人間として生きている充実感や、幸せ感を味あう事が出来
る」村上はそんな事を思っていた。
ただ、悲しい出来事が目の前に迫っている雄一郎と真理に対しては何も言ってあげられないし、
何もしてあげられない。無力な自分が空しかった。
弓恵に、真理が救急車で搬送されて「もしかしたら子供がダメになるかもしれない」と伝えた時
「余計なおせっかいかもしれないけれど、今日は川村さんと一緒にいてあげたら? パパには人を
ホッとさせる魅力があるから。帰って来なくていいからね」
そんな事を言われた。
4
「八ヶ岳はどうだ?」
村上は話題を変えた。
「うーん……今年は県全体の観光収益は上向きになっていると言われているが、結構厳しい。営業
粗利益も下がってきているし。経費を抑えてサービスを低下させないようにする、というのが一番
の課題だろうな。コストパフォーマンスという言葉を聞くと、胃がシクシクしてくるよ。価格の差
別化を図って付加価値をつけ、高く売れるものは高く売り、安くしか売れないものは安く売る。だ
が、一歩間違えると、安売り戦争に巻き込まれる事にもなりかねない。『格安』の需要が高まって、
それに応えるのも大事だが、俺は頑固と言うか意固地なのか『八ヶ岳ガーデンリゾートホテル』の
姿勢は崩したくない。安売りより、しっかりと固定客を掴む事の方が大事だと考えている。外国人
観光客に目を向けてもまだまだ難しい。観光立国と声高に叫ばれているが、日本を訪れる外国人観
光客数は、諸外国から比べれば圧倒的に少ない。国は、2020年には外国人観光客を2倍にする
方針を打ち立てているが、それに伴う地方の活性化も遅れていて、やっぱり偏る傾向にあると思う
し。敢えて外国人と言うなら、当面はバブル国に期待するか、だよな」
「ロシアや中国の富裕層狙いか?」
「そんなところだな。ロシアは難しいが、中国だろう。だけど、都会とは違って、地方で、そうい
う富裕層を満足させる受け入れ態勢がどこまで出来ているか。都会と地方のその事に関するギャッ
プは大きい、と感じている。俺の偏見かもしれないけれどね。中途半端な受け入れ態勢を敷いたら、
客に対して失礼になるだろう? それに、同じ山梨には富士山があるからさ。外国人には富士山は
絶対だよな。でもどっちにしろ、日帰り圏内になっている事は間違いない。しかし、富士山という
目玉がない八ヶ岳地域の観光振興に向けての努力は自慢出来る。いろいろなシンポジウムが開催さ
れたりしているし、いつかは追い抜く事が出来るって考えて、日々戦っているよ。富士五湖のよう
な賑々しさがないのが一番の魅力だろうな。横浜はどう?」
「同じだよ。イノベーションと、質の高いサービスを提供していく高級ホテルの姿勢は崩したくは
ない。ロイヤルガーデンだって収益率の高い企業ミーティング、企業報償旅行、国際会議、イベン
ト、大規模展示会などを誘致して行かないと、生き残れない。プレミアムフロアのリニューアルも
始まって、ワンランク上の極上サービスの提供を開始する事になるが、アメリカ経済が減速傾向に
あるから、それがどう影響するか? というのも気になるし。もう一度、サッカーワールドカップ
か2016年のオリンピック開催を望むよ」
「南アフリカは、治安の悪化や工事の遅れで開催を危ぶまれていて、万が一開催出来なくなった場
合、受け入れる事が出来るのは日本だけ、というまことしやかな話が出ているが、まずそれは無い
だろうし、まあ、サービスの質を上げて、お互いにコツコツと集客に励むしかないよな」
仕事の話になって雄一郎は元気になってきた。
「やっぱりワールドカップは欲しいよなあ。磯子に日本選手の宿泊を取られたり、外国選手の誘致
も出来なくて悔しい思いをしたけれど、日韓共催のワールドカップの時は最高だった」
サッカー好きの村上の目が輝いた。
「こっちだってカメルーンは河口湖だったし。会社は他人事のように見ていたけど、俺は欲しいと
思っていたよね。でも、物理的に八ヶ岳は無理だったろうけれど。後日談で、カメルーンが宿泊し
たホテルは、民再になったと聞いたから、その事で悔しさを忘れさせたけどさ。日韓共催のワール
ドカップか……」
雄一郎も昔を懐かしむように頭の後ろで腕を組んだ。
「チュニジア戦の時だったか、勝利に酔ったサポーターが、桜木町の駅前に多勢集まっているから
この歓声を聞いて、って。俺は、真理から携帯電話越しにその歓声を聞かされて、改めて『都落ち』
を痛切に感じたよ」
雄一郎は「あーあーニッポン、ニッポン、ニッポン、ニッポン」とあの時、電話越に聞いたサポ
ーターの声を再現した。
「2002年は最高の年だったなあ」
村上は、今でも雄一郎には秘密にしているが、ドイツ対ブラジルの決勝戦の日、チケットは持っ
ていなかったが真理と二人、で新横浜の横浜国際競技場に「感動を味わいたい」と出かけた。
ブラジルの優勝が決まった後のセレモニーで、ロゴが入った何百万羽の折鶴が舞い降りたが、そ
の折鶴を村上は幸運にも一つだけ手に入れる事が出来た。欲しがる真理とじゃんけんをして勝った
村上は、その折鶴をケースに入れて大事にしている。
いつの間にか村上の宿泊代の一升瓶は空になっていた。
「お前の気持ちに感謝して、とっておきを奮発するか。村上様お待ちください」
雄一郎はおどけた様子で村上にうやうやしく頭を下げ、寝室のクローゼットから、一本のバーボ
ンウィスキーを取り出し、ナプキンをかけて村上に差し出した。
「凄いな! ジャックダニエルのゴールドメダルか。こんな酒を何処で手に入れた?」
「1914年ものだよ。闇ルートだ。って言いたいけれどネットで見つけたんだ。真理には言うな
よ。真理に見つかったらお喋りをしながら、ハイボールにして一晩で半分以上は飲まれちゃうから」
雄一郎はバーボンの瓶を大事そうに撫でながら笑って言った。
「子供が無事に生まれ、それでお前達が遊びに来てくれて、お前と俺はこのバーボンを飲んでホロ
酔い気分になっている。弓恵さんと子供を抱いた真理が、俺たちを見ながら幸せそうに笑っている。
そんなシーンを想像していてさ。その時のために買ったんだけど……」
崩れ落ちそうになる雄一郎を……
「こだわり屋のお前らしいよな。でも、両方のシーンに俺は登場しているんだよな? 遠慮なく飲
ませてもらうよ」
と村上が救った。
ウィスキーグラスにバーボンを注いでストレートで村上に薦めた。
村上はゆっくりと口に含んで味を楽しんだ。バーボン特有の木の香りが広がり、思わず「美味い!」
と唸った。
雄一郎はグラスに氷を入れウィスキーを注ぎ、指で氷を突いて慈しむようにバーボンを口に含んだ。
「お前と飲むバーボンは最高だな」
村上が満足そうに言い、二人はグラスを合わせた。
「ところで、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルはまた評価が上がったな」
「お前や真理みたいなホテルバカはいないが、スタッフが粒揃いだからな」
「ホテルバカの真理は退職か……」
グラスを弄びながら村上が呟いた。
「真理はお前に育てられたようなものだよな」
「俺は父親ってところだな。だけど、これからはお前が育てるんだぞ」
「任せろよ!」二人はまたグラスを合わせた。
その時、雄一郎はふと思った……ホームレスになり、悲惨な最期を迎えた真理の父親は、村上の
ような男気のある人だったのだろう。
「お前も自分を大事にしろよ。だけどお前が今一番大事にしなくてはならないのは真理だ」
だいぶ酔いが回ってきたのか、村上はろれつが回らなくなっていた。
「しっかりしろよ」酔いつぶれた村上を見て、何故かまた雄一郎の目から涙が溢れた。
「よく泣く男だな」
村上にそう言われたが、涙を止める事は出来なかった。
村上はソファーで鼾をかき始めた。
雄一郎はおもむろに携帯電話を取り出し電話をかけた。
「こんばんわ」
着信表示を確認した村上の妻の弓恵がハスキーな声で答えた。
「ご無沙汰しています。川村です。ご主人は今、家にいて酔いつぶれています。今日はこ、のまま
泊まるつもりらしいので、取り合えずご報告します」
「あー、やっぱりね」
弓恵は可笑しそうに笑った。
「和也や私より大事な人の所に行く、って電話があって。なんかね、本人は私達に心配させたかっ
たらしいけれど、あの人が行く所と言ったら、ホテルか川村さんの所しかないでしょう。もうね、
困るの。本人はリチャード・ギアのつもりでいるの。プリティウーマンの家に行かなくてはならな
い、とか言って。しつこいとバレるのにね。ごめんなさいね。迷惑かけてない? あの人の鼾は凄
いから寝る時は隔離してね」
「リチャード・ギアはソファーで鼾をかき始めていますよ。僕はジュリア・ロバーツにはなれない
から放っておくけど、心配しないでください」
「心配したいけれど『なんちゃってリチャード・ギアはお断り』そう言ってね」
「分かりました。しっかり伝えます」
弓恵の軽口に雄一郎は軽快に笑った。
「川村さん、飲んでる?」
弓恵の声の調子が変わった。
「村上が美味い酒を持って来てくれたから、しっかり飲んで酔ってますよ」
「あー良かった……でもね……」
電話口の弓恵の声が途切れた。
……川村さんが電話をかけて来た……という事は……パパは、川村さんの気持ちを救う事が出来
たのね……男の友情が羨ましかった。
「ごめんなさい……私も飲んじゃって……私は、あなた達二人が遊びに来てくれるのが楽しみだか
ら、また遊びに来てね。待ってるから……二人が大好きよ……酔っ払いでごめんなさい。主人をよ
ろしくね」
弓恵は酔ったふりをしているらしかった。
村上から聞いて事情を察していたのだろう。雄一郎は弓恵の気持ちが嬉しかった。
村上のために和室に布団を敷き、プリティウーマンのジュリア・ロバーツになって、ソファーで
寝込んでいるリチャード・ギアの村上に「エドワード起きて」と囁いた。
「分かったよ、ビビアン」
村上はそう答えてふらついた足どりで布団に潜り込んだ。
村上が寝ついたのを確認してから、雄一郎は真理のために入院の準備を整えた。寝室から見える
みなとみらいの夜景を見て、真理から妊娠を告げられた時の事を思い出した。
あの時はまだ、観覧車に灯りがついていた時間帯で、みなとみらいは明るく輝いていたが、今は
観覧車の灯りも消えてもの淋しかった。
「今日はエドワードと一緒に寝るか」
雄一郎は和室で村上と一緒に寝る事に決めた。
部屋の電気を消して布団に入った時「ビビアン頑張れよ」まだ、リチャード・ギアのつもりでい
るらしい村上がそう呟いた。
「全く変な奴だな、お前は」
本当に寝込んでいるのだろうか? 村上の背中を見て雄一郎は苦笑いをした。
「雄真と理子は失う事になるだろうし、これから自分達に家族が増える事はないだろうが、家族で
はなくても、本当に自分達を心配してくれている友達がいる」
また、雄一郎の目から涙が溢れたがそのまま布団を被った。
5
翌朝、雄一郎は洗面所の水音で目を覚ました。時計を見ると、まだ6時になったばかりだったが、
村上の布団はきちんとたたまれていた。
「あいつは俺を起こさないようにそっと帰るのだろう」
そう思って雄一郎は寝たふりをしていた。水音が止んで、少しして玄関のドアが閉まる音が聞こ
えた。
しばらくの間布団の中でぼんやりしていたが、時計の針が7時を指したのを確認して、おもむろ
に起き上がり、シャワーを浴び支度をして病院に出かけた。
「おはよう」
真理は笑顔で雄一郎を迎えた。落ち着いた真理をみて雄一郎は安心をした。
「昨夜はね、少し看護師さんを困らせたの。だから、後で謝っておいてね」
午後になり、手術の準備が整のった。半身麻酔での手術は不安だろうが、観念しながらも何かに
必死に耐えている様子の真理は手術室に運ばれて行った。
一時間程と言った手術は実際には二時間近くかかった。待合室で、不安な気持ちで待っていた雄
一郎は、赤ん坊の泣き声と真理の叫び声を聞いたような気がした。
「無事に終了しましたよ」
看護師の案内で雄一郎は病室に飛んで行った。
真理は眠っていたが、昨日と同じように目の端に涙が溜まっていた
「よく頑張ったな」
眠っている真理にそっと声をかけた。
「終わったね」
しばらくして、目を覚ました真理が小さな声で話しかけた。
「具合いはどうだ?」
「下半身が変。自分の身体じゃないみたい」
雄一郎は布団の中に手を入れて、真理の足をさすった。
「先生が、子宮は大丈夫だから体外受精で赤ちゃんを産む事も出来ますよ。って、言って励まして
くれたけれど、どうする?」
真理は笑みを浮かべて問いかけた。
「真理はどうしたい?」
「分からない……」
「その事は退院してからゆっくり考えよう。今はゆっくり休めよ」
「でも、本当にごめんね。雄真も理子も可哀相……」真理は声を詰まらせた。
「昨日も言ったよな。二人は俺達に気を使ってくれたんだよ。親孝行の子供達さ。だから、早く元
気になれよ」
本格的に真理は泣き出した。泣いている真理を見つめる雄一郎の目からも涙が溢れた。
「真理ちゃんの事は任せて、お仕事に戻りなさい」という真理の叔母の矢沢友美に真理の事を頼ん
で、雄一郎は翌日に山梨に一旦戻った。
真理の身体の回復は順調で、様々な検査でも特に異常はなく、術後13日目には、無事退院の運
びとなった。
退院の日はクリスマスだった。
親切で優しい久保美代子看護師達に見送られて二人は病院を後にした。
病院では気丈に振舞っていた真理が急変したのは、マンションに戻った直後だった。
玄関に入るや否や、持っていたバッグを放り投げ靴を脱ぎ捨てた。
北側の寝室のドアを開け「居ない!」そう叫び、ベッドカバーを思いっきり引き剥がした。そして、
次にトイレのドアを開け「居ない!」と言って、洗面所のドアと風呂場のサッシを開けた。
「どうしたんだよ?」
雄一郎の問いかけにも答えず真理はリビングに突進し、キッチンを覗き、和室の襖を開けた。
「やっぱり居ない!」
そう言って和室の真ん中で立ちすくんでいた。
「真理! しっかりしろよ! 誰が居ないんだ?」
雄一郎は叫んだ。
真理は、リビングで唖然としている雄一郎を押しのけ、キッチンにあるサービスバルコニーに面
したドアを開けバルコニーから下を覗いた。
「居ないよ! どうして?」
ヒステリック状態で、何かを探し求めている真理の形相は凄まじかった。
バルコニーのドアを乱暴に閉めて、真理は雄一郎の脇をすり抜け、リビングの掃き出し窓にかか
っているウッドブラインドを引き上げようとした。
「真理がベランダから飛び降りる!」という不安に駆られた雄一郎は、真理を取り押さえようとし
て、身体の向きを変えた時に、ダイニングの椅子のアイアンに、右足の薬指を思いっきりぶつけた。
足の薬指を骨折したような強烈な痛みに襲われ思わず呻いたが、そんな事に構ってはいられなかっ
た。
ブラインドを引き上げ、掃き出し窓を開けようとしている真理を、必死の思いで後ろから羽交い
絞めにして、二人はそのままフローリングの床に倒れこんだ。
少しだけ開いた窓から「ビューッ」という風が舞う激しい音が聞こえ、冷たい空気が部屋に流れ
込んだ。窓を閉めたいが、真理を離すとまた何をするか分からない、そんな思いで雄一郎はしっか
りと真理を押さえつけた。
真理が嗚咽をもらした。
真理は自分がしている事の全てが分かっていた。
無茶苦茶な行動をとっている、と頭で分かっていても感情がそれに連いていけず、どうにも自分
の行動が抑えられなかった。
「いいんだよ。暴れたい時は思いっきり暴れろよ。だけど、俺を悲しませる事だけはするなよな」
しばらくの間二人はそのままの姿勢でいた。
「雄真と理子がいない……」
そう言って真理はその間ずっと泣いていた。
雄一郎は椅子にぶつけた足の指が激しく痛んだがじっと耐えた。風が舞う音がうるさく、冷たい
空気が顔にあたり苦しかった。このまま凍えて固まってしまう。と思った時「暴れてごめんね」と
真理が小さな声を出した。
それでもしばらくの間、二人はそのままの状態でいた。
「もう、大丈夫」
真理が動いた。
「本当に大丈夫か?」
雄一郎は真理をソファーに座らせて、ワインを飲ませた。ワインを飲んだ真理は、少しずつ落ち
着きを取り戻していった。
「お願いがあるの?」
「何?」
「スプリングが聞きたくなったからかけてくれる?」
「いいよ」
雄一郎はラックから「ベートーベン ヴァイオリンソナタ第5番 スプリング」のCDを取り出
し、オーディオのCDプレイヤーにセットした。
部屋中にヴァイオリンの綺麗で優しい音色が響いた。真理は目をつむってスプリングを聞き入っ
ている。雄一郎も真理の隣に座って目をつむった。
繊細なオイストラフのヴァイオリンは素晴らしく、心が洗われるようだった。10分程の演奏が
終わって、雄一郎はもう一度再生ボタンを押した。真理はじっと動かなかった。
「素敵だったね」
二度目の演奏が終わって、真理はため息をついて少し笑顔になった。
「腹が減ったなー。味奈登庵の蕎麦でも取るか?」
真理の笑顔にホッとした雄一郎は、空腹に気付いた。
「食べたい」
そう言って、真理はフラフラと立ち上がり、ラックの前に立って何かを探していた。
雄一郎が蕎麦を注文する電話が終わったと同時に、金属音が部屋中に響き渡った。
ボン・ジョヴィの「バッド メディシン」だった。
「急にボン・ジョヴィが聞きたくなったの」
「ベートーベンのスプリングを聞いて、ボン・ジョヴィが聞きたくなる。というのは、真理の心が
かなり揺れているのだろう……」
雄一郎は真理の心理状態を思い計った。
「古いけど、激しいアメリカンロックを聴きたくない?」
「バッド メディシン」が終わって雄一郎は真理に聞いた。
「聴きたい!」
真理の要望に「待ってろよ、期待に応えるから」と言って、金色のレコードジャケットを取り出
した。
「何? 何?」と言う真理に「だけど、使えるかなあ?」と言って、普段はほとんど使われず、デ
ィスプレイ用に置いてあるレコードプレイヤーにレコードをセットした。
「大丈夫だ!」
レコードプレイヤーは正常に作動した。
針を下ろす時に、久しぶりの動作に手が震えて針が滑り焦ったが、また針を持ち直して、慎重に針
をレコード盤に下ろした。
レコード盤特有のかすかなノイズ音に「これがたまらないよなあ」と雄一郎は腕を組んだ。
イントロを聴いて鳥肌が立った真理は思わず「カッコイイ!」と声をあげたが、曲が終わると、
真理がレコードジャケットを見ながら「もう一回!」とリクエストした。
「ブリティッシュハードロックに負けてないだろう? アメリカのグランド・ファンク・レイルロ
ードの『アメリカンバンド』。亡くなったぶっ飛んでいたお袋が好きだったグループだよ。マーク
・ファーナーが好きでさ」
雄一郎はジャケットの写真を指差した。
「お袋はこの曲を聴きながら夕食の支度をするのが楽しみで、ボリュームいっぱいにかけるから、
近所から苦情が来て困る、って親父は嘆いていたよな」
そう言いながらも雄一郎は嬉しそうだった。
「カッコいい! お義母さんのその気持ち分かる。だって、元気が出てくるもの」
「後楽園球場の『嵐の中のコンサート』って伝説になっているコンサートにお袋は一人で行った
んだよ。そのために俺は近所の家に預けられてさ。次の日、俺に興奮気味で話をしてくれた、お
袋の嬉しそうな顔を覚えているよ」
「お義母さん、素敵だったね」
「でも、淋しかったんだよ。親父はエコノミックアニマルで仕事一筋でさ、おまけに外に女を作
っちゃって。お袋は死ぬ時に親父に傍についていて欲しかったんだろうけどさ、親父は女の所に
いて間に合わなかった。今みたいに携帯電話なんて無かったから、連絡が取れなくて」
母を思う雄一郎の目は潤んでいた。
「でも、今は喜んでいるかもね。『クィーン』が私達を結び付けてくれて『グランド・ファンク
・レイルロード』が元気を失くした嫁を元気づけた、って。会っていなくても『家族』ってどこ
かでそういう事を感じさせてくれる。それが『家族の愛』なのかも。きっと今頃、お義母さんは、
孫の雄真や理子と会っているかもしれない。『可愛い!』って喜んで幸せになっているかもね。
それで、そうして『家族の絆』が強まるのかなあ?」
「うん。お袋も喜んでいると思うよ。それで、二人に、子守唄ってロックを聞かせているんだろ
うな。困っちゃうよな」
雄一郎の話を聞いて真理の顔が泣き笑いになった。
味奈登庵の蕎麦が届いた。
「お食事タイム」
リビングが急に静かになった。
「ビールを飲むか?」という雄一郎に「飲みたい」と答えた真理だが、届いた蕎麦を半分程食べ
たところで箸を置き、ビールは一口飲んだだけだった。
「食欲がないのか?」
雄一郎がそう言った時に携帯が鳴った。
着信音は何故か遠慮がちだった。
「今、大丈夫ですか?」
電話の相手はフロント支配人の吉野だった。
「うん、大丈夫だよ」
「奥様は無事退院されましたか? こっちは特に問題もありません。明後日ご出社と伺っていま
すが、余計な事ですが、少しの間は奥様のお傍についていてあげられたら、と思ったので、その
事の連絡です。総支配人からも無理はするな。という伝言を預かっています」
会社の配慮は有り難かったが、何故か取り残されたような気もした。年末年始を間近に控えて
ホテルは忙しい筈だ。
「迷惑かけて済まない。29日は打ち合わせがあるから休めないが、吉野君や総支配人の言葉に
甘えて、28日に出社する事にして、もう一日休みをもらうよ。家内はさっき無事に退院出来た
から、総支配人にもその事を伝えて欲しい。いろいろ気を使わせて悪かったな。何かあったらい
つでも携帯に電話してくれて構わないから」
「了解しました。こんな事自分の口から言って何ですが……支配人も元気を出してください。支
配人はずっと元気がなかったから自分は……自分だけではなくスタッフみんなも心配していまし
た」
「ありがとう。君達の気持ちは有り難いよ」
そう言って電話を切った。
「もう、大丈夫よ。仕事があるから私達は大丈夫」
真理は雄一郎の手を握った。
「取り残された」と感じた事を真理に見透かされたのかもしれなかった。
「取り合えず明後日山梨に行こう。これからの事は山梨に帰ってから考えよう」
「今度のお正月は一緒に過ごせることになりそうね」
社会人になってから真理は、一度も年末年始をゆっくり過ごした事がなかった。今まではその
事に何の疑問も持たず、忙しい中にも、ワクワク感のある年末年始の仕事を楽しんでいた。「悲
しい出来事」が原因であったが、自分に自信を失くして弱気になっている真理にとって、まもな
く訪れるお正月が楽しみになってきていた。
……雄真と理子からのクリスマスプレゼント……雄一郎が本牧のケーキ屋で買ってきたクリス
マスケーキを、真理はテディベアのぬいぐるみと一緒にカウンターに飾った。
その夜、村上に退院の報告連絡をしたが携帯も繋がらず、自宅も留守電になっていた。
「きっと、村上さん達も気をつかって遠慮しているのね。村上さんからのクリスマスプレゼント
ね」
落ち着いた真理はそう言って、雄一郎の腕の中で安心して眠りにつこうとしていた。
だが、その夜は二人ともなかなか寝付かれなかった。それでも「眠れない」という事をお互い
に悟られないように二人は気をつかった。
6
翌々日の午後、二人は山梨に向った。当面の住まいは、雄一郎の住む2Kのマンションになっ
た。
山梨に戻った翌日から雄一郎は出社した。真理はロイヤルガーデンホテルにはまだ「退職届け」
は出さず「早期流産休暇届け」を出し、その後は有給休暇を消化する事になっていた。
真理はお正月の準備に勤しんだ。
大晦日、雄一郎が帰宅したのは年が明けていたが「明けましておめでとう」と迎え、元旦は、朝
早く起きて、雄一郎のためにお雑煮を用意した。
しかし、雄一郎が傍にいるのに、自分が社会から取り残されたような、焦りと淋しさを覚えた
真理は、松の内を過ぎた頃から急にうつ状態になった。
コンプレックスの塊になった真理は、住人の視線が、山梨と横浜とでは違っているように感じ
るようになった。
「無関心な視線」は半分だけで、あとの半分は「無関心さを装う好奇な視線」と思うようになり、
その事はマンション内だけではなく、スーパーに買い物に行っても、山梨で生活している全ての
空間で感じるようになった。
マンションには、雄一郎の部下の吉野が住んでいるが、吉野夫婦が、真理の悪口をマンション
中に言い触らしている、という被害妄想まで抱くようにもなり、部屋から一歩も出る事が出来な
くなって、真理の顔から笑顔が消えた。
何もする気になれず、一日中ボーっとして過ごす事が多くなった。雄一郎が帰宅しても、電気
も点けず夕食の支度も出来ていない。
しかし、雄一郎はそんな真理を一生懸命にフォローした。
休みの日にはドライブに真理を連れだしたが、真理は「外に出るのが怖い」と言って、車から降
りようとはしなかった。食事はほとんど雄一郎が帰社の途中で買ってくるコンビニの弁当で済ま
せた。
「こんな事ではいけない」
そう気づいていても真理は何もする気が起きなかった。
「山梨に帰ったらこれからの事をゆっくり話し合おう」と二人は考えていたが、今の真理の精神
状態ではその事さえ不可能な状態になってしまっていた。
そんな生活が二週間程続いたある日、仕事を終え帰宅した雄一郎は、電気も点けない部屋で、
ノートブックパソコンの前にうつ伏せている真理を見つけドキッとした。
「まさか!」と不吉な考えがよぎり、慌てて真理の肩を揺すった。
「うん?」
真理が動いて雄一郎はホッと一安心した。
「こんな所で寝ていると風邪をひくよ」
パジャマ姿の真理を抱きかかえてベッドに連れて行った。
「痩せた……」
細くなった真理の肩を抱いた手に、真理の心の痛みが伝わって来るようだった。
「ごめんね。このまま寝かせてね」と言う真理に布団を掛けて、雄一郎はパソコンの前に座り、
真理が見ていたのであろうパソコンのマウスをクリックした。
スリープ状態のパソコンが作動し、現れたデスクトップ画面を見つめて、クラッと眩暈を起こ
しそうになった雄一郎は「何だこれは?」と声をあげた。
パソコンの壁紙には、ホテルの全景写真が十数カット分貼り付けられていて、デスクトップに
は全タイプの部屋、全レストラン、会議室、フロントロビー、宿泊プラン、イベント案内、アク
セス方法などの多数のアイコンがズラッと並んでいた。
「真理は日がな一日中、パソコンの前に座って、横浜ロイヤルガーデンホテルのホームページを
眺めているのだ」
正直のところ、雄一郎も疲れていた。
「真理を病院に連れて行った方が良いだろう」と考えていても、なかなか踏ん切りもつかなかった。
……真理を連れて行かなくてはならない先は横浜で、ホテルの仕事に戻す事が、真理にとって
は一番良い事なのかもしれない……
しばらくの間雄一郎は思案していたが、寝ている真理に「横浜に帰るか? ロイヤルガーデン
の仕事に戻るか?」とそっと話しかけた。
「何?」
真理は重そうに瞼を開いて雄一郎を見上げた。
「横浜に帰るか? ロイヤルガーデンの仕事に戻るか?」
もう一度同じ事を伝えた。
それを聞いた真理は急に起き上がった。
「ロイヤルガーデンに戻りたい。私を横浜に帰してくれる?」
そう懇願する目に涙が溢れた。
そんな真理を見て雄一郎は自分が望んでいた事の全てを諦めた。
「横浜に戻る。ロイヤルガーデンに復帰する」
その事を決めて、真理が横浜に戻るまで僅か一週間しかなかったが、真理は笑顔を取り戻し、
元の真理に戻りつつあった。
山梨での最後の日、二人は約束していた「これからの事」、「みなとみらい病院の吉岡医師か
ら告げられた事」を話し合った。
「もうこんな辛い思いはしたくない」真理はそう言い「今までのように、そしてこれからもずっ
と二人で生きていきたい」そう望んだ。それは雄一郎も真理と同じだった。
「また別居生活で、いろいろ迷惑かける事になってごめんなさい。我がままばかりの私に優しく
してくれありがとう」
真理は心の底から雄一郎に感謝をし、横浜に帰って行った。
しかし、昨年、大事な仕事を終えた後に真理が気づいた事「仕事より大事に思うものがある」と
いう事を雄一郎に伝える事はなかった。
「仕事に復帰したい」という真理の気持ちをしっかりと受け止めたが、結局「真理を守る事が出
来なかった」
雄一郎はそれが悔しかった。
「真理にとって、自分だけでは物足りないものがあるのか? プラス仕事がないとダメなのだろ
うか?」
そして、心の中に少しだけ「真理との生活では埋められないものがある」と感じるようになっ
ていた。真理との結婚生活は刺激もあり、それはそれで幸せだが、何か足りないものがある。
例えば……村上と弓恵のような夫婦のように……
「何なのだろう? 言葉では表現出来ないが何か不足しているものがある」と雄一郎は漠然と感
じていた。
ロイヤルガーデンホテルの仕事に復帰して「真理は今まで以上に輝いてきた」と村上は感じた。
何かつき物が落ちたように真理は仕事に打ち込み、仕事に対して鋭い冴えが増した。
村上でさえ気づかない事を突いてきて、真理の発想の転換からのアドバイスで、セールスマー
ケティング部は数件の大きな団体とイベントの受注を受ける事が出来た。
オリンピック開催でバブル経済に突入する中国を見て「これからは中国からの客がもっと増え
る」と中国語の勉強も始めた。
そして、その年の春、真理はセールスマーケティング部を異動となり、ゲストサービス部マネ
ージャーに大抜擢された。
一時は真理の体調の事もあり、会社は異動・昇進を一旦は白紙に戻したが、不死鳥の如く蘇っ
た真理に再度白羽の矢をたてた。正式辞令の前に異動を知った村上が、セールスマーケティング
部内での昇進を訴えたが、会社はその訴えを退けた。
真理が任された業務は「ロイヤルガーデン・プレミアムクラブ」というロイヤルガーデンホテ
ルが誇る「エグゼクティブ・フロア」のコンセルジュデスク担当であった。
外資系ホテルの進出で、更に競争が激しくなったホテル業界は、生き残りを賭けて「ワンラン
ク上のサービス」を提供すべく、エグゼクティブ・フロアなどを設けるホテルが徐々に増えだし
た。
ロイヤルガーデンホテルでも、最上階を「プレミアムクラブ」専用フロアにリニューアルを施
し、専用のコンセルジュデスクでのチェックイン・チェックアウト、昼間はティータイム、夜は
カクテルやオードブルが無料で楽しめる専用ラウンジ、フロア専用キー、ルームサービスでの朝
食サービスなどを提供した。クラブ専用フロアには、社内から選りすぐりのスタッフを配置して、
万全の体制を敷いた。
そして口数限定で「ロイヤルガーデン・プレミアム会員」の販売を行なった。前評判の高かっ
た会員権は、各国の大使館、政治家、医者、ベンチャー企業や芸能界などで人気となり、短期間
で完売となった。会員以外が「プレミアムクラブ」専用フロアを利用するには、別途料金が加算
されるが「ラグジャリーさと、和のおもてなし心のあるグレードの高いホテルサービス」を提供
する事で、海外からのVIPにも人気を得る事に成功した。
村上同様、雄一郎の目から見ても真理は輝きを増した。
辛い経験を経て毅然と仕事に打ち込み、自身の努力で会社に認められる必要不可欠な人材になり、
輝きを増した真理は見事だった。
その事は夫として誇らしくもあったし、夫という自分の存在があるからだろう、と密かな自負
もあったが、真理がいつの間にか自分を飛び越えて、手の届かないところに行ってしまった。と
いうような淋しい気持ちが沸いた事も事実であった。
八ヶ岳ガーデンリゾートもかなりの高い評価を得ていたが、横浜ロイヤルガーデンホテルとは
格が違う。その事でも「真理に負けた」と考えてしまう、その気持ちは誰も救う事が出来ず、雄
一郎は、自分の心の隙間が広がっていくような不安感を抱いた。




