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STAY WITH ME  作者: yukino
2/9

第二章

(1995年)


   1983年に着工が始まった「みなとみらい21」に1993年には横浜ランドマークタ

  ワーがオープンし、横浜都市部の再生を目指したウォーターフロントは、輝く未来に向って

  着々と進み出した。

 

   1994年パシフィコ横浜に世界国際会議場が完成した翌年1995年に、真理は、同じ

  みなとみらい地区にある横浜ロイヤルガーデンホテルに就職した。

   当時みなとみらい地区は、数年おきに高級ホテルが開業を始めた時期で、都市部に高級ホ

  テルを展開する、日本でトップクラスのホテルチェーンの「ロイヤルガーデンホテル」も、

  横浜ホテル戦争に巻き込まれ厳しい戦いを強いられる時期に突入していた。


   配属されたフロントには真理の他に男女各一名の社員が一緒に入社した。

  真理が入社した時、5歳年上の川村雄一郎はフロントチーフの職に就いていた。

   雄一郎の笑顔を絶やさず、客の気持ちを読み取る事が出来る洗練された接客態度は、社内

  でも高い評価を得ていた。仕事だけではなく、長身の雄一郎は、きりっとした日本的な風貌

  に関わらず、身のこなしや雰囲気が日本人離れしていて、真理の好みそのものだった。


   そんなチーフに真理は一目ぼれをしてしまった。

 

   初めて真理を見た雄一郎は、真理の美しさに目を奪われたが「生意気そうな子だな」と感じた。


   社内新人研修が済んだ後のフロント研修で雄一郎が講師になり、自己紹介をした後「このホ

  テルの稼働率は何%ですか?」と真理に問われて、自身が勤めるホテルの稼働率を、真っ先に

  質問する事に対して「なかなかやるな」と思ったが、新入社員としての初々しさを、雄一郎は

  感じなかった。

   すでに社内研修で稼働率の事は聞いているであろうが、改めてフロントの上司に、同じ質問

  をする真理のしたたかさの方が気になった。

  「平均82%」と答えた雄一郎に他の二人は驚いた。

   当時の、大型シティホテル稼働率の全国平均は75%程だったので、平均を上回っているロ

  イヤルガーデンの稼働率実績は自慢に値するが、真理は「山下にある老舗ホテルは、常に90

  %近くの稼働率を誇っていたと聞いています」と言ってきた。


  「何を言いたいのか?」と言いたかったが「矢沢さんの他ホテルの稼働率を問題にしている、

  その姿勢は見習うものがある」とまず真理を持ち上げた。


  「確かにホテルにとっての客室稼働率は大事だ。ホテルの客室は、その日に販売しないと何の

  価値もなくなる。物販販売のように明日売れればいい、というものではない。しかし、稼働率

  だけで、ホテルの経営状態の良し悪しの判断をする事は出来ない」と雄一郎は言い切った。

 

   真理は講師である雄一郎の話しに顔色一つ変えずメモを取っていた。


  「数あるホスピタリティの中で、最高のクオリティを求められるのがホテルサービスである。

  極上のサービスを提供するホテルのフロントマンとして、客の立場に立ち、そして自分だった

  らどのようなサービスをされたら嬉しいか? という事を考える。実体のない空間をプロデュ

  ースし、数字だけではないプラスアルファーをいかに増やして行くか、そのサービス精神と思

  いやりの心が、数字になって表れる。そして、自分自身の生活の質の向上を図らないと、真の

  ホスピタリティは生まれない。自分が幸せでないと良いサービスは出来ない」と雄一郎は研修

  の最後を締めくくった。



 

   真理が入社してから、5ヶ月経った9月、雄一郎は、まもなく海外に赴任をする事になった

  大学時代の友人の国谷敦夫婦と、伊勢佐木町の日枝神社のお祭りに出かけた。

   帰りは「伊勢佐木長者町駅で地下鉄を降りて、石川町のマンションまで歩いて帰ろう」とい

  う事になった。

   国谷敦の住むマンションは、首都高狩場線の下を流れる中村川の対岸にあるが、マンション

  に行く途中には、寿町や松影町など、ドヤ街と言われている地区を通って行かなくてはならな

  い。

   妻の美枝は「大通りを通って」と頼んだが、縁日で飲んだビールでほろ酔い気分の国谷と雄

  一郎は、美枝の言う事を聞かずに寿地区を通る事にした。

 

   寿地区には、酔っ払って道路に寝込んだり、座って酒を飲んだりしている労務者風の男が多

  いて美枝は早足になった。


  「映画の天国と地獄を地で行っているようだよな」


   国谷がそう言った時、何人かの男に絡まれている若い女を見つけた。

  若い女は労務者に手をっ張られていて、懸命にそれを振りほどこうとしていた。

   酔って強気になっている二人が「助けに行くか」と顔を見合わせた時、若い女は、労務者の

  手を振りほどいて駆け出した。


   雄一郎は「あれっ?」と声を上げた。

  駆け出した時、自動販売機の灯りに映し出された横顔に見覚えがあった。


  「なんだよ。知っている子か?」

   国谷が尋ねた時、美枝が「早く帰ろうよ!」と国谷の手を引っ張って走り出した。


  「待てよ!」と言って美枝に手を引っ張られている国谷に「先に帰っていてくれ、後から行く

  から」と雄一郎は声をかけて女の後を追った。

 

   女は次の角の手前で、また労務者風の男達と話をしていた。


  「やっぱり矢沢真理だ」


   雄一郎は足を止め、10メートル程向こうにいる真理の様子を立ち止まって見てい

  た。

   次に真理は、道端に座り込んでいる別の男に何かを見せていた。

  「何をしているの?」と声をかけようと思ったが、真理の一生懸命な様子に、何故か「見ては

  いけないものを見てしまった」というような気持ちになり動く事が出来なかった。

 

   真理に何かを見せられた男は、横に座っている男にも見せたが、眠っているのかその男は、

  俯いたまま顔を上げようとはしなかった。がっかりした様子で真理はその男達から離れ、角を

  左に曲がった。

   真理の姿が見えなくなったのを確認して、雄一郎は見つからないように後を追い、角に隠れ

  て様子を伺った。

   真理は自販機の傍で酒を飲んでいる何人かの男と話をしていた。


   その時「ねえちゃん、彼氏が待ってるよー」と反対側にいた男が、ろれつの回らない口調で、

  冷やかし半分に声をかけた。

   その声にハッとした真理は、チラッと雄一郎の方を見て、慌てて駆け出しそのまま駅の方向

  に走り去って行った。


  「気付かれたか?」

   心配になったが、陰に隠れていた自分の姿は見ていない筈だ。

  「それにしても、夜遅くこんな所で何をしていたのか?」

   気になった雄一郎は、真理が何かを見せていた男に「さっきの人は何を見せていたのですか?」

  と勇気を出して訊いた。


  「おにいさん、あのおねえちゃんのコレ?」

   前歯が一本抜けている男が親指を立てて、酒臭い息を吐きかけた。

  

  「違います! 友達です」

  

  「教えてやってもいいけどさ、ちょっと待っててよ」

   男はもったいぶった様子でワンカップの酒を美味そうに飲んだ。


  「あのおねえちゃんは、パパさんを探してるんだってよ。写真も見せてくれたけど、俺に聞い

  たってダメだよね。だって、俺は人の顔はみんな同じに見えるからさ」

   男はまたワンカップの日本酒を美味そうにすすった。


  「パパさん?」

 

  「そうだよ。ちちだよちち」

   男は両手で胸を押さえて笑った。よく見ると男は人の良さそうな笑顔をしていた。

  

  「ちち? アーッ!お父さんですか!」

   男のおどけた仕草に思わず噴出した。

 

  「分かってくれた? 何とかって名前も言ってたよ。何だっけかなあ? 忘れちゃ

  ったよ」

  

  「そうですか……彼女は一人でお父さんを探していたのですか。大丈夫なのかなあ……」

 

  「心配ならお兄さんも一緒に探してあげなよ」

   つぶやきを聞いてか、男が声をかけた。

 

  「分かりました。ありがとうございます」

   雄一郎は男に丁寧に頭を下げ、縁日で買ってきたたこ焼きが入っている袋を差し出した。


  「何だよ! 俺は酔っ払いだけど、人の施しは受けないよ」

  「さっき伊勢佐木町のお祭りで買ってきたたこ焼きです。食べてください。ご親切に教えてく

  ださったお礼です」

   そう言って雄一郎は男の手に袋を持たせた。

  

  「お礼なら、有り難くもらっておくよ。あのおねえちゃんと仲良くしなよ。おいっ!ベーブル

  ース。今日はお祭りだってよ」

   男は、横で背を向けて座って寝ている風の男に声をかけた。


  「ベーブルース」と呼ばれた男はゆっくり振り向き、雄一郎をしっかりと見上げた。

   その男の身なりは汚かったが、綺麗な目をしていた。そして、その目は潤んでいた。

  雄一郎も少しの間、その男の目をしっかりと見つめた。


  「本当にありがとうございます」

   二人に頭を下げその場を去ったが、国谷のマンションに向おうとしてズボンのポケットを探

  り「しまった!」と声をあげた。

   万が一のために、国谷からマンションの番地とマンション名を書いたメモをもらったが、そ

  のメモをポケットにしまわずに、たこ焼きが入っていたビニール袋に入れたままだった事を思

  い出した。

  「まっ、いいか。近くに行けば分かるだろう」

   国谷のマンションに急いだが「お父さんを捜している」という真理のあの一生懸命な様子が

  頭から離れなかった。



   翌日、職場で真理と会った時はドキドキしたが、真理は、雄一郎に見られた、という事には

  気付いていない様子だった。

   

   その日を境に雄一郎の中に変化が起きた。

  真理は、懸命に自身の仕事と向かい合っていた。

   ロイヤルガーデンホテルのフロント職はかなりキツイが、真理は滅多な事では根を上げなか

  った。「何かあってもじっと内に秘めて耐えている」というけなげさが真理にはあった。

  「生意気な子」という印象を持っていた雄一郎は、真理に特別な感情を抱くようになった。




  「今晩、飲みに行きませんか? ベストメンバーが揃っていますよ」


   雄一郎はフロントの部下の杉山直樹から誘いを受けた。

  クリスマスや年末年始を控えて忙しい時期で、しかも少し風邪気味だったが、有り難く杉山の

  誘いを受ける事にした。

 

   少し遅れて野毛小路にある居酒屋に着いた時には「ベストメンバー」が揃っていて、かなり

  盛り上がっていた。

   参加者を見回して、真理がいるのを見た時に、雄一郎は胸がときめいた。

  職場では髪を後ろで一つにまとめて地味な印象になるが、肩までかかるゆるやかなウェーブヘ

  アーをたらし、白のカットソーに淡いパープルのカーディガン姿の真理はハッとする程美しく、

  職場とは全くの別人になっていた。

   雄一郎は自分の気持ちを悟られないように、さりげなく真理から目をそらした。

 

  「チーフ待ってました。ここへどうぞ」

   杉山から手招きされた雄一郎は「なるほど、ベストメンバーだな」と言って真理と杉山の間

  に腰を下ろした。

   雄一郎を待っていたのは、フロントの杉山と真理の他には、ドア・パーソンの上田慎一、ベ

  ル・パーソンの川中美知子、広報の林健人、レストランホールサービスの本郷真弓で、全て杉

  山と真理の同期入社組であったが、新人ながらも彼らは会社で期待されていた。

   雄一郎の参加で飲み会は更に盛り上がった。仕事の話が中心だったが、よく飲みよく笑った。

  隣にいる真理を意識しながら、雄一郎もかなりのハイペースで好きな日本酒を飲んだ事で「一

  次会」がお開きになった頃には、酒に強い雄一郎もすっかり出来上がってしまい、足元がおぼ

  つかなくなっていた。


  「今日はヤバイな」と感じた雄一郎は「次はカラオケ!」と盛り上がっている杉山に「俺はこ

  れで帰るけれど、みんなで楽しんでこいよ」と一万円札を渡した。

   職場の先輩として、後輩にみっともない姿を見せる事は出来ず「じゃあ!」と手を上げたが、

  足元がふらつき、思わず杉山に抱えられる始末になってしまった。

   そんな雄一郎を心配して「エスコート役を付けますよ」と杉山が真理を促した。


  「了解! バトラーの私に何でもお申し付けください」

   酔いがまわってご機嫌の真理が雄一郎を支えてタクシーをつかまえた。

  タクシーに乗り込む時「俺は大丈夫だよ。カラオケに行っていいよ」と雄一郎は断ったが「私

  カラオケ苦手なんです」と真理もタクシーに乗り込んで来た。


  「杉山君は、私はカラオケが苦手なのを知っていて、でも私が『帰る』と言うと場がシラケル

  と思って、エスコート役をやらせたのだと思います。杉山君って空気が読めるし、みんなの事

  も考えているんですよね」

   真理が杉山を褒める言葉を聞いて「ふーん……」と関心がなさそうに答えたが、雄一郎は、

  かなり酔っていたにも関わらず杉山にやきもちを焼いていた。


   ……自分の上司であるチーフの雄一郎と真理の二人の思いに気がついていた杉山が、雄一郎

  を飲み会に誘い、真理をエスコート役につかせた……

   二人がそれを知ったのは横浜ロイヤルガーデンでの二人の結婚披露宴の時だった。



  「根岸旭台のドルフィンの近くまでお願いします」

   運転手に行き先を告げて雄一郎はそのまま寝込んでしまった。

 

  「チーフのマンションは何処ですか?」

   目が覚めた時、自分が何処で何をしているのかが分からなかった。少しして雄一郎は真理に

  支えられて、赤いドルフィンの看板の前に立っている事に気がついた。

 

  「タクシーは?」

  「帰しました。だって、いくら起こしてもチーフは起きないから、降ろすのに大変だったんで

  すよ」

   真理が口を尖らせた。

  「悪かった。じゃあ、お詫びに飲みなおしだ」

  「飲みなおしは一人でゆっくりやってください。私はマンションまで送りとどけたら帰ります」

   真理は笑っていた。

  

   しかし、15分後には、雄一郎に強引に誘われた真理はマンションで缶ビールを飲んでいた。

 



   1LDKなのだろうか、さりげなく見回した広めのリビングルームは雑然としていて、新聞や

  車の雑誌が散らばり、テーブルの上には、缶ビールの空き缶や、汚れた灰皿がそのままになって

  いたが「女の気配はない」と真理は確信した。


  「随分広いリビングですね」

   ホッとして尋ねた。

  

  「うん、このマンションはたった一つ親父が残してくれた物で、外国人が多く住んでいるんだよ」

   そう言って雄一郎は散らかっている物を片付け始めた。


   CDラックに目が行った時に、クィーンのアルバムが沢山あるのに真理は驚いた。

  真理もずっとクィーンが好きで、そのために大学を休学してイギリスに一年間留学をした。

   フレディ・マーキュリーがこの世を去った時にはショックでしばらくの間、クィーンの曲が聴

  けなくなってしまう程のファンだった。

 

  「クィーンが好きなんですか?」

 

  「小学生の時からずっとファンだった。可愛くないよな、クィーンが好きな小学生なんて。クィ

  ーンを教えてくれたのはお袋で、小学校三年生の時だったかなあ。誕生日のプレゼントがクィー

  ンの『オペラ座の夜』で、ロックママの血を引いた俺は、クィーンが好きになった。だから、イ

  ギリスに留学したくていろいろ勉強していたのだけれど、ちょうどその頃、親父の会社がダメな

  って、それで諦めた。君もイギリスに留学していたって言っていたよね」

  

  「はい。私もチーフと同じ動機です。名目は語学留学だったのですけれど、フレディ・マーキリ

  ーの足跡巡りの一年間でした。彼が亡くなった時はショックで曲が聴けなくなったのですよ。英

  語を一生懸命勉強したのもクィーンのため。フレディ・マーキュリーと同じ言葉を喋りたかった

  から!」

   真理は目を輝かせて嬉しそうに話をした。

 

  「エーッ! 以外!」

   雄一郎は驚いた様子で声をあげた。

 

  「チーフだって以外! ですよ」

   真理は心外という風に雄一郎を睨みつけた。

 

  「小学生の時に、母のお店の人がクィーンのライブビデオを観せてくれて……母は本牧でパブを

  やっていたんですけどね」

  

  「クィーンで一番好きな曲は?」

 

  「チーフは?」

  

  「じゃあ、同時に言おう!」

  

  「ボヘミアン・ラプソディ!」

   声が揃っていたので二人は顔を見合わせて笑った。

 

   雄一郎は立ち上がってラックから「オペラ座の夜」を取り出し、CDプレイヤーにセットした

  フレディ・マーキュリーの甘く切ない声が響いた時には、感動で二人は同時に身震いをした。

   それからしばらくの間はクィーンの話で盛り上がった。



  「もう11時、帰らなくちゃ」

   時計を見て真理が呟いた。

  「帰りたくない……」と真理は思った。真理は、会った瞬間から雄一郎に憧れていた。

   その「憧れ」は日々職場で雄一郎と接していく間に「恋心」に変化していった。

   フロント研修では、講師になったチーフに「自分の気持ちを気付かれたくない」という……

  ちょうど、腕白坊主が好きな女の子にわざと意地悪をする……そんな子供っぽい気持ちから、突

  っ張った態度を取ってしまった。

  「生意気な新入社員だ」

   きっとそう思われただろう。後でちょっぴり後悔した。


  「帰らせたくない……」

   そう思っていた雄一郎は「ニュースの時間だ」と言ってテレビをつけた。



 

  「多摩川の河川敷でホームレスが殺されました」

   アナウンサーの声に二人は同時にテレビに顔を向けた。


   アナウンサーがホームレスの死体が発見された状況を説明した後、画面は発見者らしき男の、

  インタビューに変わった。


  「俺がテントに戻る時、いつもは隣からいい匂いがしてくるけど、今日は真っ暗だったから、気

  になって覗いてみたんですよ。そしたらここに倒れていて、それで驚いちゃって、通報したって

  わけ。名前も年も知らないよ。だけど、あいつは自分の事をベーブルースって言ってましたよ。

  一ヶ月半位前かなあ。横浜から川崎にトレードになったって言っててさ。野球が好きだったみた

  いで。いい奴でしたよ……早く犯人を捕まえてくださいよ」

   男性の声は涙声になっていた。

 

   真理の顔つきが変わった。

  「ベーブルース?……お父さん……」

   その声は絞り出すような低い声だった。

  

  「何? お父さんって……ベーブルース?」

   雄一郎は寿町での出来事を思い出した。

 

  「……そんな事……何があったの!」

   真理は突然叫び声をあげた。

 

  「どうしたの?」

   その声に驚いた雄一郎が声をかけたが、真理は茫然自失でテレビ画面を見つめていた。


   テレビはコマーシャルに変わっていた。


  「もしかしたら……私が探しているのを知って多摩川に移り住んだの? 私が探さなければその

  まま横浜にいて、だからこんな事にはならなかったかもしれない……」

   ひとり言のように言う真理の顔は青ざめていた。

  

  「大丈夫?」

   心配する雄一郎の問いかけにも、しばらくの間答える事が出来ない程、真理は動揺していた。


   下を向いて固まったままの真理の様子を見ながら、雄一郎はお湯を沸かして、ホットウィスキ

  ーを作り「これを飲むと落ち着くよ」と言ってカップを手に持たせた。

   真理は少しウィスキーを飲んでため息をついた。

  「良かったら話をしてくれないかな。黙っていて悪かったけれど、伊勢佐木町のお祭りの日、寿

  町で君を見かけていたんだよ」

 

  「……!」

   真理は驚いた様子で雄一郎を見上げたが、淋しそうな表情をしてまたうつむいた。


   雄一郎の酔いはだいぶ覚めてきていた。


   しばらくして「お話してもいいですか?」うつむいて何か考え事をしていた真理が、覚悟を決

  めたように顔を上げた。雄一郎を見上げる真理の目には涙が溢れていたが、その視線に雄一郎は

  ドギマギした。

 


   真理は本牧でパブを経営していた母の矢沢由理子の女手一つで育てられた。

  物心ついた時に、母から「真理のお父さんは船員さんだったのよ。でもね、遠い南の島で船が遭

  難して亡くなったの」と聞かされた。真理は父の写真も見た事がなかったし、名前も知なかった。

  それにお墓参りもした事がなかった。

  「それはね、大きなお魚がみんな持って行っちゃったの。だから何もないのよ。でも、お母さん

  の心の中にはいつもお父さんがいるし、お父さんはずっと真理の事を見守っているのよ」

   長い間真理はその事を信じていたが、山手にあるミッション系女学院の中等部に入学した頃か

  ら「私の生い立ちには何か秘密があるのかもしれない」と考えるようになった。「でも、その事

  を話すとお母さんが悲しむから」疑問は自分の胸の中にしまい込んでいた。

 

   祖父がアメリカ人である母の由理子は、目をみはる程の美人で、友達から「真理ちゃんのお母

  さんは綺麗で羨ましい!」そう言われる事が真理は自慢だった。


   母の店は、本牧交差点を山手トンネルに向う、本牧でも下町の雰囲気がある場所にあり、昔の

  グループサウンズの人気ヴォーカリストや野球の選手、サラリーマンなどが毎日たくさん出入り

  し、店は繁盛していた。

   夜、母が出かける時は、母娘が住む公団の団地の階下に住む、年配の柴崎靖男夫婦が真理の面

  倒をみてくれた。子供のいない柴崎夫婦は真理を可愛がり、真理もそんな二人が大好きでなつい

  ていた。

   父の顔を知らない真理は、母の愛情と頑張り、柴崎夫婦の愛情に包まれ、経済的にも精神的も

  恵まれた少女時代を過ごす事が出来た。しかし「自分の生い立ちに関する秘密」の事が頭か離れ

  る事はなかった。

   真理が「自分の生い立ちに関する秘密」を知る事が出来たのは、女学院の大学の英文学科に入

  学した年、母の由理子がクモ膜下出血で亡くなった時であった。

   売却が決まった母の店の整理をしていた時、店のカウンターの隅にひっそりと置かれてある茶

  色の箱を見つけた。ずっしりと重いその箱は鎌倉彫のオルゴールであった。

   オルゴールの蓋を開けると、乙女の祈りのメロディーが流れた。かなり古そうなオルゴールが

  綺麗な音色を奏でている、という事は母が時々は蓋を開けていたのだろう。

   オルゴールの内部は三段になっていて、一段目のビロード生地の箱を外すと、二段目にピンク

  花柄の和紙に包まれたものが置かれていた。真理はそれを手に取り恐る恐る開くと、中には白い

  封筒と古い手紙が一通入っていた。真理の心臓がドキドキしだした。

   震える手で封筒を開けると、中に、関西のプロ野球チームのユニフォームを着た、精悍でいか

  にもスポーツマンタイプの男の写真と、男に肩を抱かれて幸せそうに微笑んでいる母の写真、そ

  の男と母、そして男の腕に抱かれた赤ん坊時代の真理の写真が入っていた。

   

   次に真理は手紙を開いた。

  「由理子へ 僕に出来る事は同封の通帳を渡す事ぐらいしかない。真理を頼む。今まで僕は幸せ

  だった。僕は家族の元に帰るが由理子への愛は永遠に消えはしない。許してくれてありがとう」

  と手紙には書かれていた。日付も名前も書かれていないその手紙を、真理は何度も読み返し、父

  であろう男の写真を見つめた。

  「45」という番号をつけたユニフォーム姿の男に見覚えはないが、父はプロ野球の選手だった。

  多分……母は妻子のある男を愛して真理を産んだ。

   母は、淋しい時や辛い時に、このオルゴールを開け、写真や手紙を見て自分を励ましていたの

  だろう。

   辛かったであろう母の事を思い、真理はその場に泣き崩れた。

  「私が経済的には何不自由なく育つ事が出来たのはこの人のお陰だった……」

   プロ野球選手だった父の事を「恋しい」という気持ちは沸かなかったが、自分をバックアッし

  てくれた父に感謝の気持ちが沸いた。


   真理は父の名前だけは知りたくて、いろいろ調べてみたが探し出す事が出来なかった。

  そこで、以前に母の店に出入りしていた、横浜ベイスターズのバッティングピッチャーだった山

  崎慎介を思い出し、つてを頼って聞いた関内にある山崎が経営している天ぷら屋を訪ねた。

   突然の真理の訪問に、山崎は懐かしがって喜び、そして母の死を悼んでくれた。

  写真を見せた真理には何も事情は聞かず「俺は記憶が無いが、誰かに聞いてみるよ」と気持ちよ

 く素性探しも引き受けてくれた。

   

   その山崎から連絡があったのは、僅か一週間後であった。

  「真理ちゃん、分かったよ。あの男は佐々木真司だ。俺より5年先輩でドラフト三位で関西の球

  団に入団した有望な外野手だったんだけれど、入団7年目に肩を壊して、その後、福岡の球団に

  トレードに出されて再起を計ったが、結局ダメで、移籍後6年目には自由契約になったらしい。

  自由契約後はどうなったかは分からない。そこまでしか分からなかったけれど、役に立ったかな

  あ?」

   最後まで山崎は理由も聞かなかった。

  「佐々木真司……私の名前は、父と母の名前を一字ずつとった。真理……という名前は二人の愛

  が詰まった名前」

   そう思うと、自分の名前が無性に愛おしくなった。

  「山崎さん、ありがとうございます。そこまで調べて頂いて充分です」

   真理は丁寧にお礼を言った。

  「素性が分かればそれで充分」と真理は父の事を封じ込めた。

  「役にたてて良かったよ。真理ちゃんもお母さんを亡くして淋しいだろうけれど、頑張れよ。

  今度、彼氏でも連れて遊びにおいでよね。待ってるからさ」

   それから、真理は山崎の店を贔屓にするようになった。

  

   そして、何年も経った今年の夏前に山崎の店で思いがけない話を聞いた。

  「真理ちゃんが店に来るきっかけになった、佐々木真司の事だけど覚えているだろう?」

   忘れようと思っても忘れられなかった父の名前を久しぶりに聞いて驚いた。

  「この間、ベイスターズ時代の先輩が来てさ、先輩も俺と同じでパッとしなくて、早々と退団し

  た口なんだけど……」

   山崎は照れ笑いを浮かべて頭をかいた。

  「先輩は佐々木と一時期同じ球団にいた事があった奴でさ。その佐々木を見た。って言ってきん

  だよ。だけど、見た場所が問題で、寿町のドヤ街だったって言うんだけど。でも、あれは絶対に

  佐々木に間違いない、佐々木は、先輩の顔を見て名前を口に出し、驚いて逃げ出したって言うん

  だよ」

   真理は母の店で真実を知った時より、今の話にショックを受けた。

  最後は福岡の球団で野球生活を終えた父が横浜の寿町に現れた……「それは、あの手紙に書いて

  あったように、母の事が忘れられなかったのではないだろうか? どうして父が寿町で生活すよ

  うになったのかは分からないが、母が住む横浜に来て、私達の事を見守ってくれていたのかしれ

  ない」

   そう思った真理は急に父が恋しくなった。

  

   妻子持ちの父は母を愛してしまい、きっと苦しんだのだろう。でも、妻子の元に戻らなくては

  ならなくなり、身を裂かれるような思いで母と別れた。

  「由理子への愛は永遠に消えはしない」というのは父の真実だった。

  「父と母の悲しい恋」を思うと、自分の事以上に胸が張り裂けそうになった。

 

  「父を探そう」と決心して古い写真を持って寿町で行動を開始した。

  写真が古かったあり、父親探しは困難で、酔っ払いに付きまとわれたりして嫌な事もあったが、

  9月の終わりに山崎からまた連絡があった。

  「佐々木の事だけど、寿町で佐々木を見かけたっていう、例の先輩から聞いたんだけどさ。佐々

  木は仲間から『ベーブルース』って呼ばれたらしいよ。先輩は忘れていたけど、最近思い出しっ

  て連絡があったよ」

   山崎は真理がどうして佐々木を探しているのか? という事情に薄々気づいていたのだろう。

  その真理のために「少しでも多くの情報を提供したい」と心がけてくれているのだろう。山崎の

  気遣いが嬉しかった。

  「思い切って話をしようか?」と迷ったが、やはり、父と母の事は自分の胸だけに納めておきた

  かった。

  

  「ベーブルース」という手懸りのお陰ですぐに手応えがあった。

  「ベーブルースなら知っているよ」という人と出会った。「ベーブルースは野球が大好きで、横

  浜球場で試合のある日は、いつも球場付近をうろうろしているって言ってたなあ。歓声を聞くと

  元気になるって言って、俺も連いて行った事あったけどさ、俺は元気にならなかったよ。だから

  試合のある日に行ったら、ベーブルースに会えるかもしれないから、あんた行ってみてごらんよ。

  俺もベーブルースに会ったら、あんたが探している事を伝えておくよ」

   その人は親切にそう言った。シーズン終了を控え、残り少なくなった試合の日に横浜球場付近

  を探したが父には会えなかった。

 

   そして、ついに父が真理の前に姿を現した。

  しかし、探していた父は悲惨な最期を迎えてしまっていた。

   父は真理が探しているのをその人から聞いたのだろう。

  真理は成長した自分の姿を父に見せかったし、感謝の気持ちも伝えたいと思っていたが「娘が探

  している」という事は父にとっては辛い事だったのかもしれない。そのために、真理から逃げる

  ように川崎に移ったのだろう。

 

  「私は父がどんな境遇になっていても、父が母と私を思う気持ちにウソはないと思うから、だか

  ら父に会いたかったの。母の事も伝えて『ありがとう』という私の気持ちを伝えたかったの。だ

  から探したの。でも、その事で私は大きな罪を作ってしまったのかもしれない」

   全てを話し終えて、真理は泣きじゃくった。

 


   真理の話を聞いた雄一郎は、泣きじゃくる真理の肩をそっと抱いた。

  「娘が探していた事を知ってそれが辛くて川崎に移った。と言うのは違っていると思う。娘が自

  分を探していると知った時、お父さんは安心したんじゃないかなあ。自分を探す事が出来るよう

  になった位に娘が成長した。って、きっと嬉しかったんだと思うよ。自分の役目は終わった。お

  父さんは安心して川崎に移り住んだ、と俺は思うけど」

   その話をした後、雄一郎は「あの事を伝えようか? どうしようか?」と迷っていた。


   真理は、父親と会っていたのだ。しかし、顔は見ていないだろう。ずっと下を向いていたから。

  雄一郎に親切に真理の事を教えてくれた男の横にいたのは真理の父親だった。

  「ベーブルース」確かにそう呼ばれていた。自分をしっかりと見据えた「目の綺麗な男」を雄一

  郎はハッキリと思い出した。

   あの時、その男の目は潤んでいたが、それは自分を探している娘を目の当たりにして泣いてい

  たのだ。

   あの潤んだ目線は自分に何かを訴えたかったのか?

  「真理を頼む」

   自分の思い込みかもしれないが、きっとそうだったのだろう。

 

  「言わない方がいいだろう」

   散々迷ったが、結局その事を真理には伝えなかった。


  「本当にそうだと思うよ。トレードになった、って言うのがその証拠だよ。役目は終わたって。

  お父さんは君の気持ちを良く分かってくれていたんだよ。お父さんを信じてあげようよ。それが

  お父さんへの一番の供養だと思うけれど」

 

  「……」

   真理は黙ってうなづいて雄一郎に寄りかかった。

  「温かい……こんな風に人に甘えられるのって、お母さんを亡くしてからはずっとなかった」

   真理は穏やかで落ち着いた気持ちになった。

  「この子と結婚したら幸せになる!」

   真理の心のぬくもりを感じた雄一郎の中に、突然その思いが沸き起こった。


   本牧に帰る真理をタクシーに乗せるため、雄一郎は真理と一緒にマンションを出た。

  師走にさしかかる深夜の街は静かだった。肩を並べて不動坂を下りてバス通りまで歩いたが「ず

  っとこのまま一緒に歩いていたい」と二人は思っていた。

  「タクシーが来なければいい」

   二人は心の中で同じ事を思っていたが、タクシーはすぐに見つかった。

 

   真理がタクシーを止めるために手を上げた時

  「結婚しよう!」

   雄一郎はハッキリと真理に伝えた。

 

   余りにも突然の言葉に驚いた真理は、タクシーのドアが開いても動く事が出来なかったが、少

  して「はい」と笑顔で答え、タクシーに乗り込んだ。


   翌日の朝刊に「ホームレス撲殺される。犯人は近所に住む大学生」という記事が載った。

  恋人にふられムシャクシャして「誰でもいいから殴りたい」と思った犯人の大学生は、自宅から

  持ち出した金属バットで、たまたま最初に出会ったそのホームレスを目茶苦茶にした。慌てて自

  宅に戻ったが、深夜のニュースで「ホームレスが死んだ」という事を知り、怖くなり自首をして

  きた。との事であった。

   その日の午後、山崎からも連絡があった。

  「なんか、大変な事になっちゃったね。身元不明ってなっているから、先輩は警察に行くって言

  ってたよ。真理ちゃんが何の目的で佐々木の事を調べていたのか、って俺は聞かないけれど、真

  理ちゃんが悲しむような事になっているんだったら、可哀相だって心配しているけれど、大丈夫

  か?」

   山崎の優しさが身にしみた。

 

  「山崎さんありがとう。私は大丈夫よ。でも、身元が分かれば、その人は家族の元に帰れるのよ

  ね」

   父は再び家族の元に帰るであろう。

  「でも、お父さんとお母さんは天国で結ばれるかもしれない」

   真理は会った事もない「父の家族」に詫びながらも、二人が天国で幸せになる事を願った。

 


(1996年)

 

   翌年の春、根岸森林公園に満開の桜を見に行った帰りに、二人は結ばれた。

  「初めて」という事を知った雄一郎は感激に胸をふるわせた。

  「心から大事な人と思える人とめぐり会うまで、大事なものはしまっておきなさい」

   母は真理にいつもそう言い聞かせた。

  母の教えをずっと守っていた真理にとって、雄一郎は「めぐり会う事が出来た大事な人」であっ

  た。

 

  「幸せになるのよ」

   真理は母の声を聞いた。

 

   クィーンの「キラークィーン」が小さく流れていた。


   二人が公園で付けてきた桜の花びらが、リビングルームの床にたくさん落ちていた光景を、

  真理は忘れる事はなかった。


 

   昨年11月末のプロポーズから、早い結婚を望んでいた雄一郎であったが「夫婦同部署は認な

  い」という社則を考えると「会社には内緒で当分同棲生活も有りかな?」とも考えていた。

   二人のうちのどちらが異動対象になるのかは分からないが、自分ではなく真理が異動させられ

  る可能性の方が多い。そうなった場合、チーフとして真理のフロントでの仕事ぶりを認めていた

  し、ここで真理がシフトから外れるのは厳しかった。

  

   ……ときめきの時間が過ぎた後、リビングに落ちた桜の花びらを一つずつ拾いながら「早く川

  村真理になりたいな……」とつぶやく真理を見た時「決めたよ! ジューンブライドだ!」

   思わず約束した。


   その翌日、上司に結婚の報告を行なったが「慎重派」と言われている雄一郎の突然の結婚報告

  で、社内は大騒ぎになった。

   フロント支配人の大沢克己は頭を抱えた。チーフの雄一郎をフロントから外す事は出来ない。

  そうなると真理を異動させる事になるが、入社後1年経って、これからフロントマンとして優秀

  な戦力と期待されている真理の異動は痛かった。

  「やってくれたな」

   幸せな報告をする二人を前にして、思わず本音を言ってしまったが、結婚というお目出度い事

  であればいた仕方なかった。

  「迷惑かけてすみません」

   二人は頭を下げるしかなかった。


   そして、真理はセールスマーケティング部に異動になった。


   二ヶ月後、二人の結婚披露宴は、横浜のロイヤルガーデンホテルでささやかに執り行われた。

   ウェディングドレスをまとった「ジューンブライドの真理」の余りの美しさに、列席者は息を

  呑んだ。


   根岸旭台にある雄一郎のマンションが新居となった。

  それまで無機質で生活感のなかった部はリフォームを施し、真理の好みでアジアンチックなイン

  テリアのお洒落で居心地の良い部屋に変貌した。



(2000年)


   二人は4度目の結婚記念日を迎えたが、その記念日に雄一郎は系列の八ヶ岳ガーデンリゾート

  ホテルのフロント支配人の職に転勤の内示を受けた。


  「今年の記念日は、ホテルのバーで大人の時間を過ごしたい」

   真理からのリクエストで、シフトを終えた雄一郎は、日本大通りにある待ち合わせ場所のレス

  トランに急いだ。

   通りが見渡せる窓側の席に座っている真理が、雄一郎の姿を見つけてガラス越しに手を振った。

  今日の真理は、サーモンピンクのフレンチスリーブのシンプルなワンピースを着ていた。


   今朝、今晩のデートを考え、憂鬱な梅雨空を吹き飛ばすように、雄一郎はクローゼットから、

  明るいベージュのスーツを取り出した。

  「今日はこのセットでね」

   真理はチャコールグレイのチョークストライプのスーツと、紫がかった赤みのある渋いネクイ

  のセットを用意していた。

  

  「少し、暗くない?」

   雄一郎は、自分が取り出したベージュのスーツと見比べながら、不満げに言ったが「いいの。

  今日はシックに決めてね」

   真理は譲らなかった。

 

   レストランの席につき、ガラス窓に写る自分達の姿を見て雄一郎は納得した。

  チャコールグレイとサーモンピンクのカラーコントラストは、フェミニンで大人の雰囲気が漂っ

  ていた。

   

   軽く食事を済ませた後、予約済みの山下公園の近くにある老舗ホテルのバーに席を移した。


   重厚な雰囲気が漂うバーは、二人を静かに包んでくれた。

  世界的に有名なカクテルで乾杯をして結婚記念日を祝った。アニス独特の味が口に広がり「ちょ

  っとキツイかな?」と真理は思ったが、雄一郎は満足そうにカクテルを味わっていた。

 

   アルコールが程よく回り、幸せ気分になった頃「転勤の内示があったよ」静かな口調で雄一郎

  が告げた。


  「……」

   真理は雄一郎の表情が一瞬曇ったのを見て、すぐに返事が出来なかったが、ロイヤルガーデン

  ホテルがあるいくつかの都市が頭に浮かんだ。

  

  「何処に?」

   真理も静かに尋ねた。

  

  「山梨」

  

  「山梨? ってロイヤルガーデンではないの?」

   解せなくて首を傾げた。

 

  「うん、八ヶ岳ガーデンリゾートホテル。だけど、フロント支配人」

  

   今はアシスタントマネージャーだから、マネージャーを飛び越えての2階級特進だが、横浜ロ

  イヤルガーデンから離れたくはないのだろう。真理はそう感じて次の言葉が出なかった。それに

  伴って様々な事も頭に浮かんだが「おめでとう。横浜で積み重ねた実績が認められたのね」 

   笑顔で祝福した。

 

  「ありがとう。ちょっと考えちゃったけどね。ロイヤルガーデンから離れる気持ちはなかったか

  らさ」

   真理も系列ホテルだから名前は知ってはいるが、馴染みがない八ヶ岳ガーデンリゾートホテル

  のイメージが沸かなかった。現実的になり、幸せ気分が少し遠のいて行くような気がした。

  

  「単身赴任になるかもしれないけれど、大丈夫?」

   本心とは違う事を雄一郎は口にした。

 

  「単身赴任?」

   真理はそう言ってうつむいた。淋しげな真理を見て、雄一郎は少し期待をした。

  

  「別居生活っていう事になるの? どれ位の期間?」

   しばらくして真理が尋ねた。

 

  「分からない。短いかもしれないし、半永久的かもしれない。俺の仕事次第だろうけれど……」

   また沈黙の時間が流れた。

  

  「時々は横浜に帰って来てくれるでしょう?」

 

  「時々じゃないよ。休みの度に帰るよ」

   雄一郎は答えたが、真理が単身赴任を前提として言っている事が少しショックだった。

  

  「淋しくなる……」

   そうつぶやき「山梨に一緒に行って欲しい?」雄一郎の手を取って訊いた。

 

  「分かっているだろう? 俺の気持ちは。一緒に山梨に行って欲しい。だけど、真理からロイヤ

  ルガーデンの仕事を奪う事は出来ない」

   そう言って雄一郎はカクテルを飲み干した。


  「川村様、お代わりはいかがですか?」


   二人の間に少し重い空気が流れた時、年配のウェイターがカクテルのお代わりを勧めに来た。

  絶妙なタイミングの見事なキラーパス。

 

  「同じカクテルをもう一杯……」

  

  「私はドライマティーニを……」

   二人は笑顔でオーダーした。

  

  「かしこまりました」

   ウェイターがかもしだす柔らかな雰囲気が、重かった空気を吹き消した。

 

  「ねえ? 少し時間をもらってもいい?」

   真理の口調も優しくなった。

 

  「俺の気持ちは伝えたから、真理は自分に正直になって真理の気持ちを伝えてくれればいいよ。

  別居って言ったって、八ヶ岳と横浜なんだからさ。いつでも会えるし、それも新鮮でいいかもれ

  ないしさ」

   やっと雄一郎に笑顔が戻って来た。

  

  「ちょうど良かったかな? 昇格おめでとう!」

   真理はバッグからリボンがかかった小さな箱を取り出し雄一郎に渡した。

 

  「何?」

  

  「私からの感謝の気持ちよ」

  

  「開けていい?」

   そういう前にすでに雄一郎はリボンを解いていた。

 

   お洒落なケースに納められた全身ブラックメッキの腕時計を手に取って「これ欲しかったんだ

  よ!」雄一郎は嬉しそうに声をあげた。

  

   プレゼントに無邪気に喜ぶ雄一郎を見て「幸せ感覚」に真理は包まれた。


  「付き合う」という実態がないままの突然のプロポーズから結婚まで約半年。

   二人で過ごす時間より、職場で上司と部下として接している時間の方が多かったが、雄一郎と

  結婚して本当に幸せだった。


  「これからもずっと一緒に時を刻んでいってね」

   利き腕の右腕に時計をはめる雄一郎を見つめて言った。

  恋人が腕時計をプレゼントする時に交わされるであろう、ありきたりの言葉だったが「一緒に時

  を刻む事」の大切さを真理は心の底から感じていた。


  「ありがとう!」

   誰もいなかったら、雄一郎は真理を抱きしめていた。


  「お待たせいたしました」

   ウェイターターが、二杯目のカクテルをスマートな手つきでテーブルに置き、何か雄一郎に耳

  打ちをした。真理は怪訝な表情で二人を見ていた。


  「ごゆっくりお楽しみください」

   笑顔のウェイターが去ってから「ちょっと目をつむっていて」雄一郎が笑って言った。

 

  「何?」

   そう言いながら真理は目を閉じた。

  

  「いつもありがとう! 俺の気持ちだよ」

   目を開けた真理に、少し緊張した面持ちになった雄一郎が真っ赤なバラの花束を手渡した。

  

  「……」

   感激で真理は声が出なかった。


   バーカウンターの所で、バーテンダーと先程のウェイターが二人を見て、遠慮がちに拍手をし

  ていた。それに気がついた年配の客がウェイターに何か話しかけ、そして頷き「おめでとう」と、

  二人を祝福してくれた。雄一郎と真理は恥ずかしそうに「ありがとうございます」と、スタッフ

  と客に向って軽く会釈を返した。

 

  「ちょっとキザだったかなあ?」

   雄一郎が照れた。

  

  「ちょっとどころじゃない。とってもキザだったけれど、感激! ありがとう……」

   真理は涙ぐんでいた。

  

  「バカだな。こんな所で泣くなよ……」

  

   真理は複雑だった。

  「時間をもらってもいい?」と言ったけれど「ロイヤルガーデンでの仕事は辞めたくない。だか

  ら単身赴任で」気持ちは決まっていた。

   涙には「ありがとう」という感謝の気持ちと「ごめんなさい」という謝罪の気持ちが込められ

  ていた。


   社内通達で正式に雄一郎の辞令発令が回った時に、真理は雄一郎に自分の気持ちを伝えた。

  諦めていて覚悟をしていたが、雄一郎は真理から改めて「単身赴任」を言い出されて、新たなシ

  ョックを受けた。

  「八ヶ岳近辺にもホテルはある。真理の力を持ってしたら、そのホテルでの勤務も叶うだろうし、

  一緒に生活が出来る」

   雄一郎は期待を込めて訴えたが、真理はどうしても納得しなかった。


   結局、雄一郎は会社の「命令」と真理の「提案」に従い、単身赴任で「八ヶ岳ガーデンリゾー

  トホテル」のフロント支配人職に就いた。





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