第1話「夜のスポット」
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「来月の目標は、日が変わる前に寝て、7時に起きること。もっと生活リズムを直したいんだ」
1か月前、彼女はそう言った。
俺は、鼻で笑った。
笑ったのは、彼女が早く寝られないと思ったからじゃない。そう言えば、夜に俺と会わずにすむ――そのための言葉だと、なんとなく分かっていたからだ。
2030年11月3日。午後11時47分。
視界のすみで、小さな緑の丸が光っている。
メッセージアプリの、彼女のアイコンの横。オンライン。
日が変わる前に寝るはずの人が、この時間に起きている。
結局、彼女の目標は達成されなかったらしい。
いや――最初から、達成する気なんてなかったのかもしれない。
「……はあ」
ため息がひとつ、白くなって消えた。11月の夜には、もう冬のにおいが混じっている。
俺は、その緑の丸から目をそらした。考えても答えは出ない。答えが出ないことを考えるのは、もうやめにしたい。
だから、夜は走る。
◇
フルダイブなんて、結局、実現しなかった。
10年前、みんなが夢見ていた「ゲームの世界に体ごと入る」技術は、結局どこにも生まれなかった。ソフトウェアも AI も、信じられないほど賢くなったのに。人間の体と脳の仕組みは、そんなに簡単に機械につながってくれなかった。
フルダイブではない VR も、思ったほどは広まらなかった。
メガネをかけている人には面倒で、電気代がかかって、機械は大きくて重い。部屋の中で、目の前をふさいで遊ぶ遊びは、一部の人のものになった。
VR が足ぶみしているあいだに、育っていったのは、目をふさがないほうだった。
現実の上に重ねる技術。
AR――拡張現実。
気がつけば、街そのものが、広がっていた。
◇
洗面所の鏡に、27歳の男がうつっている。
髪は、ソフトモヒカン。サイドは短く刈ってあるけど、てっぺんはセットしていない。昼に起きたときの寝ぐせが、そのまま残っている。
あごには、2日分のひげ。黒ぶちの丸眼鏡のレンズには、指のあとがうっすらついている。
シャツのすそは片方だけズボンから出ていて、洗面台のはしには、飲みかけのペットボトルが3本ならんでいる。
昼間は子どもたちにロボットとプログラミングを教えている顔だ。「先生」と呼ばれるときより、少しだけ目つきが悪くて、だいぶだらしない。
眼鏡のつるを指で軽くたたくと、レンズのふちに細い光が走った。
度の入った AR メガネ。ふく前に起動したので、指のあとの上に、表示がうっすら重なった。
まあ、いいか。
イスの背にかけっぱなしだった、黒のライダースジャケットに袖を通す。
肩とひじには、薄いプロテクター。下は動きやすい黒のカーゴパンツに、くるぶしまであるライディングブーツ。グローブは、普通のバイク用。
耳には、白いワイヤレスイヤホン。
バイクに乗りながらイヤホンは、たぶん道路交通法的にはよくない。分かってはいるけど、外す気もない。
最後に、ヘルメットをかぶる。
シールドの内側が、ふっと明るくなった。眼鏡とヘルメットがつながって、視界に細い線がいくつも浮かぶ。速度、燃料、地図。そして――
《近くのスポット:3》
いちばん近いのは、多摩川の河川敷。ここから15分。
◇
ガレージのシャッターを上げると、相棒が待っていた。
黒のフォルツァ。250cc のスクーター。
べつに、選んで買ったわけじゃない。免許は MT。
本音を言えば、足でガチャガチャとギアを変えて走るバイクに乗りたい。シフトペダルをけり上げて、回転数に合わせてクラッチをつなぐ、あの感じがほしい。
でも、家にあって、誰も乗っていなかったのが、このフォルツァだった。だから、そのまま使っている。
それでも、このフォルツァは気に入っている。
大きなスクーターだから、2人で乗っても楽なのだ。後ろのシートは広くて、長く走っても疲れにくい。シートの下には、ヘルメットが2つまるごと入る。
その後ろのシートに、今はだれも乗っていない。
シートを上げる。
2つ目のヘルメットが入るはずの場所には、黒い傘が1本、ななめに押しこんである。
職場のかさ立てに、いつからかずっと残されていた傘だ。だれのものか、だれも知らない。だから、俺がもらった。
ジャケットの胸ポケットには、チュッパチャプスが3本。コーラと、ブドウと、ソーダ。
Amazon のセールで、駄菓子屋に置いてあるようなタワーごと買ってしまったやつだ。そこから、なんとなく3本ぬいてきた。
スマートキーをポケットに入れたまま、スタートボタンを押す。エンジンが低くうなって、夜の空気がふるえた。
走り出すと、街の明かりが後ろへ流れていく。
信号の上には、本物の信号と、AR の矢印。ビルの壁には、本物の看板と、AR の広告。人の目には見えない二重の街を、俺だけの速さで切り裂いていく。
夜の道は、すいている。
アクセルを開けるたびに、街灯が線になって、うしろへ飛んでいく。風がジャケットのすきまにつきささって、ヘルメットの中で、風の音だけがどんどん大きくなる。その分だけ、頭の中の音が小さくなっていく。
このときだけは、緑の丸のことを考えなくていい。
『ナビ、開始』
イヤホンから、声がした。
シールドのすみに、白い光が小さくともる。雪のつぶみたいな、まるい光。声は静かで、温度がない。
『多摩川まで12分。出現予測、橋の下の河川敷。4体。スケルトン系』
「4体か。……多いな」
『ほかのプレイヤー、なし。ひとりで』
「知ってるよ、スノウ」
『そこ、左』
白い光は、それだけ言うと、またすみっこで小さくなった。
◇
河川敷に着くころには、日付が変わっていた。
エンジンを切ると、静けさが耳にささる。聞こえるのは、川の音と、遠くの橋をわたる車の音だけ。昼はランニングの人や犬の散歩でにぎやかな道も、今は人ひとりいない。
ヘルメットをぬぐと、視界の表示がメガネのほうに切りかわった。
つぶれた寝ぐせを、手でざっとかき上げる。シートを上げて、黒い傘を引っぱり出した。
視界の真ん中に、文字が浮かんだ。
《多摩川河川敷 危険度 3》
そして、橋の下の暗がりから、からからと乾いた音が聞こえてきた。
最初は、だれかがスーツケースを引いているのかと思った。
ちがった。本当に、スーツケースを引いていた。
骨だけの手で。
4体の骸骨が、橋の下から歩いてくる。
いちばん前の大きな骸骨が、スーツケースを引いている。そのとなりの細い骸骨は、テイクアウトのコーヒーのカップを持っている。後ろの少し小さな骸骨は、ダンベルを片手でぶら下げて、いちばん小さな骸骨は、結束バンドの束をじゃらじゃら鳴らしている。
お父さん、お母さん、お兄ちゃん、末っ子。
どう見ても、家族旅行の帰りだった。
《スケルトン・ファミリー LEVEL 18 ×4》
「……なんで家族なんだよ」
傘の柄を、右手でにぎる。
レンズの中で、ただの黒い傘に光の線が走った。
曲がった持ち手も、たたんだ布のひだも、留めバンドも、傘のまま。そのふちに、青い光がまとわりついていく。光は先へいくほど濃くなって、傘の先だけが、細い刃の形に変わっていた。
傘のようで、剣のような、どちらでもない形。
《ナイトエッジ 耐久度 60 / 80》
本物の刃なんて持ち歩いたら、ただの犯罪だ。だから、みんな手に持てる物で戦う。木の棒の子どももいるし、おもちゃの杖の子もいる。
5年前の人が見たら、夜中の河川敷で、寝ぐせのまま傘をふりまわしている、あやしい27歳にしか見えないだろう。
『正面。スーツケース、来る』
スーツケースの骸骨が、スーツケースを前に押し出して走り出した。
キャスターが砂利の上でがらがら鳴る。
ぎりぎりまで引きつけて、右へ一歩、体をずらす。
スーツケースが、すぐ横をごうっと通りすぎていった。風は来ない。それでも、背中にひやりとしたものが走る。
すれちがいざまに、傘をふり下ろす。
《HIT》
青い線が、骸骨のあばら骨を走った。赤い数字が散って、スーツケースの骸骨のゲージが半分まで減る。
傘が切ったのは、ただの夜の空気だ。
それなのに、手の中に、たしかな手ごたえが返ってくる。刃が骨に当たった、にぶい重み。手首に、はね返されるような反動。
ここには何もない。でも、俺の手は、当たったと分かっている。
『右、コーヒー』
ふり向いたときには、もうおそかった。
コーヒーの骸骨が、カップの中身をこっちにぶちまけた。黒い液体が、メガネのレンズいっぱいに広がる。
顔はぬれていない。でも、視界は真っ黒にぬりつぶされた。
指のあとをふいておけばよかった、と、どうでもいいことを思った。
『結束バンド、左手』
左の手首が、ぐいっと下に引っぱられた。
見えない何かに巻きつかれたみたいに、手首から先が動かない。ふりほどこうとしても、腕ごと地面に引きよせられる。
『ダンベル、上から』
「くそっ」
見えないまま、右へ転がろうとした。
おそかった。
ずん、と左の肩に重さが落ちてくる。
次の瞬間、体ごと横にはじき飛ばされた。砂利の上を、2回、3回と転がる。ジャケットの背中が、じゃりじゃりとこすれる。
止まったところで、左腕を持ち上げようとした。
上がらない。上から、だれかにぐっと押さえつけられているみたいに重い。
見ても、そこには何もない。
何もないのに、腕はまだ、しびれたように重かった。
コーヒーの黒が、少しずつ引いていく。
後ろに下がって、距離を取る。息が白い。のどの奥がひりひりして、吸っても吸っても、息が足りない。
ゲームの中の主人公なら、レベルが上がれば力も強くなるし、足も速くなる。
でも、ここは現実だ。どれだけ敵を倒しても、俺の腕の力はふえない。体力も、運動不足の27歳のままだ。
強くなるのは、武器のほうだけ。
胸ポケットに手を入れて、さわった1本を取り出す。
ブドウ味だった。
包み紙を歯で破って、口に入れる。
口の中が、じわっと甘くなる。
上がっていた息が、少しだけ落ちつく。重かった左腕も、いつのまにか軽くなっていた。足に、もう一度力が入る。
「……さあ、いくか。第2ラウンドだ」
俺は傘を左のわきに引きつけた。
右手で柄をにぎり、刃先はうしろへ。左手は、軽く前へ。ひざを曲げて、腰を落とす。
体を、ぎりぎりまでねじる。
岩のすきまにひそむウツボみたいに、じっと待つ。
刃が、ひときわ強く光った。
2体の骸骨が、同時に地面をけった。
右へ踏み込み、斬る。
その勢いのまま、体ごと1回転。
回転の勢いを乗せて、今度は右から左へ斬りぬける。
〈モーレイ・ツイスト〉。
青い光が、うずを巻くように2本走った。かみついて、ねじって、引きちぎる。ウツボのような動きをした2連撃。
2体の骸骨が、空中で止まる。次の瞬間、骨の形が細かな三角形のポリゴンに分かれて、ガラスみたいにくだけ散った。きらきらした破片が、夜の空気にとけて消える。
残りは、コーヒーの骸骨と、結束バンドの骸骨。
『正面、結束バンド。右からコーヒー』
小さな骸骨が投げた結束バンドを、傘ではらい落とす。
コーヒーのカップが、またこっちを向く。
コーヒーが飛ぶより先に、前へふみこんだ。
下から傘をふり上げて、そのまま上からふり下ろす。
《HIT》 《HIT》
2回分の重みが、手首にずしんと返ってくる。
2体の骸骨も、ポリゴンの破片になってくだけ散った。
スーツケースだけが、砂利の上にぽつんと残って、それもすぐに光のつぶになって消えた。
河川敷に残ったのは、川の音と、俺の荒い息の音と、口の中であめを転がす音だけだった。
◇
その場にしゃがみこんだまま、しばらく動けなかった。
足が笑っている。痛くはない。ただ、ひたすら疲れている。
視界に、文字がならぶ。
《ナイトエッジ 耐久度 52 / 80》
《報酬:コンビニ ホットスナック 1品無料クーポン》
「……肉まん、か」
思わず笑った。
命がけでもなんでもない戦いで、もらえるのは肉まん1個。でも、それで十分だった。ここで手に入る物は、全部、現実で使える。だから大人も子どもも、街を走る。
『コンビニ、300メートル先』
「……おつかれ、とかないのかよ」
『ない』
傘をシートの下にしまう。2つ目のヘルメットが入るはずの場所に。
ヘルメットをかぶると、シールドの内側が明るくなって、地図と、スノウの白い光と――
視界のすみの、小さな緑の丸。オンライン。
まだ、ついていた。
「……夏美」
俺はスタートボタンを押した。
エンジンの音で、何も考えなくてすむように。
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