愛の夢
リスト『愛の夢』第三番。
原曲である歌曲の標題を『おお、愛しうる限り愛せ』というこの曲は、愛を知らない子供のぼくが、懸命にその正体を夢想しながら奏でた記憶と結びついている。
しかしあれほど繰り返したこの曲を、ぼくはもう何年も弾いていない。
この胸にアンリ・ルノワールの音が降臨したとき、心が痛むほどに思い知らされたのだ。
ぼくの想像した愛がいかに陳腐で、薄っぺらな妄想であったかを。
同じ主題を三度繰り返すこの曲は、三つの愛の段階を語る。
一度目は別れの予感。
愛に身を焦がす熱情のクライマックスを歌い上げる二度目。
燃え尽きた心の灰が熱の気流に舞うカデンツァを経て、三度目――成熟した愛が、予期された終焉へと緩やかに歩み始める。
左手と右手が交差する、想いが最も濃縮される瞬間に、顔を顰めてしまうほど胸がつかえた。
過去に数え切れないほど弾いてきたはずなのに、こんなことは初めてだ。一小節に一度、二拍目が来る度に、ぼくは死にそうになる。
もし今、この左手を掴む彼の手がなかったら、ぼくはどうなっていたのだろう――
「あ……アンリ……?」
左手首をぎゅっと掴まれたまま、何か言いたそうな顔でじっと睨み下ろしてくるアンリをあっけらかんと見つめ返す。
これまでも演奏中に気づいたら現れていたことや、その逆もあったが、こう、藪から棒に曲を中断させられたのは初めてだった。
――なぜ? 彼の左手はぼくの左手を掴んだまま、右手が問いかけくる。
そんなの、どう考えたってこっちのセリフだ。
言い返してやろうと思うのに、どうしても左手の力みように思考が持っていかれる。
それほどまでに、ぼくの『愛の夢』は彼の逆鱗に触れてしまったのだろうか――?
「……っ」
痛みに耐えかねて片目をぎゅっと瞑る。
アンリは目を見開き、その手が発揮している力をたった今自覚したみたいにはっと手を引っ込めた。
開きかけた口は壊れたクラリネットみたいな掠れた音を発しただけですぐに閉ざされてしまう。
ぼくは彼を怒らせているのが自分であるという事実を棚に上げ、いつもの無表情を取り繕えずにいる彼を、今すぐ慰めたいと思った。
そこに、タイミング良くなのか、悪くなのか、突然の来客があった。
微妙な距離感で膠着するぼくとアンリ、そして、顔面蒼白の都さんの視線が開かれたドアへと集まる。
「きたわよ!」
緊迫した空気をものともせず、でんと仁王立ちで言ったのは、約一ヶ月ぶりの登場となるエリーズお嬢様であった。
「予め連絡をくだされば羽田まで迎えに上がりましたのに」
三人分のホットドリンクをテーブルに並べながら言う。
二階のダイニングで急遽開かれたエリーズ嬢を出迎える茶会には、主役たっての希望で都さんも同席し、アンリは――研究室に残って一人音楽の時間に浸っている。
買い足されたチョコレートのお供にとホットココアを供じた際にはいつも通りの「よし」をくれたので、怒りは収めてくれたものと思いたいが……先ほどの『愛の夢』の何がまずかったのか、聞き出す機会はもらえるだろうか。
それはさておき、エリーズ嬢だ。
彼女は淹れたてのココアを一口啜り、事も無げに告げる。
「ワタシ、CMVに編入することにしたの」
ぼくは口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになりながら「へ、編入……ですか」と返した。
「することにしたというか、もう手続きは済ませてあるんだけど」
「はあ……」
「通訳」
「あはい」
彼女に言われるがまま、都さんの方を向いてから日本語にする。
案の定、エリーズ嬢の隣でアンリが買ってきたチョコレートを咀嚼していた都さんも盛大に噎せ、ポンポンと胸の辺りを叩いた。
エリーズ嬢は都さんの背中を甲斐甲斐しく擦りながら続ける。
「もちろんアンタたちと同じ弦楽科よ。そういうワケだから、よろしくね、ルツ!
あと……ムッシュ・ツァクモ?」
「マダムにそう呼ばれるのはどうも座りがよろしくありませんね。どうかこれまで通りでお願いできればと。
それにしても、どうしてまたこちらに編入を?」
コンビニのお菓子を制覇しきれなかったことをたいそう悔やんでいたのは記憶に新しいが、結局は買い漁ってルノワール邸まで航空輸送していたはずだ。
「よくご両親がお許しになりましたね」
エリーズ嬢は今朝焼いた苺のジャムクッキーを口の中に放り、咀嚼してから答えた。
「っていうよりパパがね、勧めてくれたの」
「マエストロが?」
「そ。アンリのついでだってのは分かってるんだけど、例の配信を見てくれたみたい。
悪くなかったから、しばらくここで学んでみたらどうかって」
気恥ずかしそうにもう一枚を頬張るエリーズ嬢。
通訳するぼくと、それを聞く都さんの表情に自然と笑みが浮かぶ。
胸が温まるとは、この感覚のことを言うのだろう。
「ママンは全然納得してなさそうだったんだけど……まあ、ちょーっと強引に押し通して来たってワケ。
コンクールで勝ったわけでもないのに、不思議と夢に一歩近づけた気がするわ」
「そういえば……夢の内容については内緒のままでしたね。
幼稚だから話せないとおっしゃっていましたが、今も考えは変わりませんか?」
エリーズ嬢ははっきり「スィ」と言い、立ち上がった。
「ワタシは、世界が認める一流のヴァイオリニストになって、パパの指揮で協奏曲をする。
ママンやアンリみたいに、立派なコンサートホールで、一流のオーケストラをバックにして、観客みんなをワタシの虜にするの!」
エリーズ嬢は椅子に座り直し、翻訳そっちのけで感じ入るぼくに向かって言う。
「でね、副科のピアノはアノンがみてよ。いいでしょ?」
「……ご冗談を。ぼくは弦楽科の講師ですから、残念ながらピアノの単位は出せません。
個人的なレッスンでよければ考えなくもありませんが……ピアノよりもまず、あなたに指南すべきことがあります」
「……クワ?」
「日本語ですよ」
とぼくは言った。日本語に切り替えて続ける。
「都さんにはフランス語を」




