エリーズ②
夜が明け、日曜日の朝。
デスクで目覚めたぼくは、シャワーと身支度だけ済ませてエリーズ嬢を迎えに上がり、昨日と同じ時間、同じ場所でリハーサルに挑んだ。
しかし――ああ、ダメだ。またやってしまった。
「全然ダメ、また頭が月に行ってる」
これはエリーズ嬢がぼくを注意する度に用いる慣用句で、日本語で言うところの上の空。
ぼくは何度彼女に頭を下げ、おでこで鍵盤を叩いたことか。
とりわけ酷いバッドコンディションの原因は寝不足だけではない。
ぼくの頭の中では、昨日の倍近くに増えたギャラリーの視線が延々と囁き続けている。
「あのみっともないピアノはなんだ」
「ヴァイオリンと全然釣り合ってない」
「これがCMVの講師? 見ていて恥ずかしい」
そうとも。その通り。ぼくは運だけでここにいることを許された、ろくでもないコネ講師だ。
ピアノにいたってはコネ講師どころか何者でもない。
こんな、生徒にすら見下される能無しのところにアンリ・ルノワールは現れた。なぜだ?
「アノン」
「申し訳……ありません……」
ああ、なんて分かりやすい悪循環だろう。
調子が狂えば狂うほど妄想の声は大きくなり、自分という存在が分からなくなる。
どうやってピアノを弾いていたのか、どうして鍵盤の前にいるのか。
「どうせマネージャーになんか言われたんでしょ」
そう言ってエリーズ嬢は弓を置いた。
リハーサルを始めて二時間。痺れを切らしてもおかしくない頃合いだ。
「どうしてそのように思われるのですか」
「別に。そろそろ来るだろうと思っただけ。
あの性悪、アンリに近づく人間は片っ端から追っ払わないと気が済まないらしくてね。
だからアンリが出てってくれるまで勝負を挑むことすら許されなかった」
「まさか。だって、あなた方は――」
「家族だった。今はそうは思ってないでしょうね。ワタシもだけど」
実の兄をまるで他人のように話題にしていた昨晩の彼女が思い出され、思わず絶句する。
こんなにも魅力に溢れた妹君を、愛でずにいられるどころか邪険に扱うなんて……たとえぼくに兄弟がいたとしても、到底理解できなかっただろう。
「贅沢にも程がある。貰えるなら、貰いたいくらいだ」
「貰うって、何を?」
「あなたのこと以外に、何かありますか?」
「クワ……?」
「アン?」
寝不足のせいだろうか。受け答えがままならない。
「ぁあっ……アンタもアンタよ!
駆け落ちする度胸があるんだったら、マネージャーを追っ払ってやるくらい余裕でしょ」
「度胸なんてとても!」
ぼくはとんでもない誤解を否定するのも、実のところは追っ払ってしまったこともそっちのけで続ける。
「今だって、ああして見られるのが恐ろしくて震え上がってるんです。
勝負の本番を思うと、今から気が気でなりません……」
「…………クワ?」
心の底から理解できないとでも言うように口をあんぐりと開ける彼女を見て、思わず弱音を吐いてしまった自分を猛烈に恥じた。
しかし音楽しかり言葉しかり、他者に渡った音をなかったことにはできないのだ。
呆れを通り越し、怒りと軽蔑を剥き出しにした彼女の瞳がぼくを射抜く。
「演奏家のくせに人に見られたくないって、ふざけるのも大概にしなさいよ。
アンタには分からないでしょうけど、ワタシがコンクールに挑戦するのは、一人でも多くの人に見てもらうため。
でもね、何回やっても、どれだけ頑張っても、凡人のワタシじゃ入賞がやっとなの。
ママンは一位にしか興味がないし、順位もつかないヴァイオリニストに興味を向ける物好きはいない。
だからあの手この手を尽くして必死に注目されようとしてる。
分かる? 意気地なしのアンタに興味を持つほど、客は暇じゃないってこと」
「そう……ですね。返す言葉もございません」
「全部、アンリのせいよ」
「それは同意いたしかねますが……あの……マダム」
「何?」
「前言撤回をお許しいただけないでしょうか。
やはりあなたに、ぜひともお返ししたい言葉があります」
「クワ?」
「あなたはご自身を過少評価していらっしゃる」
ぼくは立ち上がり、彼女のそばまで寄る。
何をそんなに驚くことがあったのか、美しい二つのエメラルドがまるでビー玉だ。
「あなたが凡人? まさか。
銀杏の木の下でクライスラーを奏でるあなたを見たとき、ぼくは一秒たりとも目が離せませんでした。
もちろん絵が美しいからだけではありません。
あなたの逞しく華やかな心を映したかのような素晴らしい『愛の喜び』に、ぼくは心から拍手を送ったのです。
一昨日、都さんをお任せしたのも、あなたから学べることがあるに違いないと直感したからです。
断言します。
あなたは、素晴らしい才能の持ち主に違いないと」
そう言ってビー玉をじっと見つめるぼくに、「不思議だわ」と彼女は返した。
「煽てられるのはうんざりするほど慣れてるけど、嬉しいと思ったのは今が初めて」
「煽てているつもりは全くないのですが……」
はにかむぼくを彼女が睨む。心なしか顔が赤い。
「ともかく、人目のことなら心配無用よ。
明日の本番のことはワタシに任せて、アンタは外で頭を冷やしてくる! しっかりね!」




