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第7話 集客ノルマは50人! ビラ配りと特製・豚の角煮丼

 翌日の午前中。

 高天原プロダクションの1階にあるミーティングルームに、アイドルグループ『神無月』のメンバー四人と、マネージャーである田村範朝が集まっていた。


「今週末の土曜日、駅前の地下ライブハウスを押さえた。これが君たちの初ステージになる」


 田村がホワイトボードに黒のマジックで『初ライブ』と書き込むと、長机に並んで座っていた四人の表情がそれぞれ引き締まった。

 センターのタマモは腕を組んでふんぞり返り、森田は拳を鳴らし、和田はジャージのフードを深く被り直し、イ・サラは静かに微笑んでいる。


「ライブハウスのキャパシティはおよそ百人。そのうち、我々に課せられた集客ノルマは五十人だ」

「ご、五十人……?」


 タマモが少しだけ声を上擦らせた。


「ああ。チケットのノルマを五十枚捌けないと、会場代や機材費で事務所が赤字を被ることになる。宮崎さんが手掛けてくれた新曲のデモ音源に合わせて、フォーメーションの確認は急ピッチで進んでいるが……肝心の客がいなければ話にならないからな」


 田村が極めて現実的で事務的な説明をすると、タマモがガタッと椅子を蹴立てて立ち上がった。


「い、いいこと、タムラ! これはただの赤字とかそういう問題じゃないのよ! もし五十人の『信仰』……じゃなかった、熱狂的な観客を集められなかったら、私たちの内に溜まった力と未練が暴走して、港区一帯が更地になってしまうのよ!」


 タマモが必死の形相で叫ぶと、ミーティングルームの蛍光灯がジジジッと明滅し、空気が微かに震えた。


 田村は腕を組んで、深く頷いた。


(なるほど。ノルマ未達成だとライブハウスへのペナルティや違約金が発生し、この弱小事務所の資金は一瞬でショートする。倒産してビルを追い出され、文字通り『更地』になるということか。中二病的なアイドル設定を交えつつも、事務所の危機的状況をしっかり理解して危機感を持っているのは立派なことだ)


「分かっている。絶対に五十人は集める。そのためには、SNSの告知だけでなく、足を使った泥臭い営業活動も必要だ。これから全員で駅前に行き、ビラ配りを行う」


「えっ……外に出るの……? 無理、絶対無理。おうち帰りたい……」


 ビラ配りという言葉を聞いた瞬間、和田がガタガタと震え始めた。

 同時に、ミーティングルームの天井にある空調の吹き出し口から、急激に冷たい風が吹き下ろしてきた。部屋の温度が一気に下がり、テーブルの上の麦茶のグラスにびっしりと結露がつき始める。


「おいおい、またエアコンの調子がおかしいな。設定温度を下げすぎだ」


 田村は首を傾げながら、パツパツの半袖シャツの腕をさすった。


「だが、今日の外の気温は三十度を超えている。熱中症対策には、このくらい身体を冷やしておいた方がちょうどいいかもしれないな。安心しろ和田、頑張った奴には、休憩時間に俺の『特製・生クリームたっぷりイチゴとキウイのフルーツサンド』を出してやる」


 その言葉を聞いた瞬間、和田の身体の震えがピタリと止まり、室温がスッと適温に戻った。おそらく、エアコンのサーモスタットがようやく正常に作動したのだろう。


「おっしゃ! 肉じゃねェけど甘いのも大歓迎だ! 早くビラ配りに行くぞ、デカブツ!」


 森田が嬉しそうに立ち上がり、パイプ椅子を軽く蹴り飛ばした。


「よし、気合は十分だな。チラシの束は用意してある。行くぞ」


 田村はダンボール箱を小脇に抱え、意気揚々とミーティングルームを後にした。


 正午過ぎの駅前広場。

 平日とはいえ、昼時とあって多くのビジネスマンや学生が行き交っていた。

 強烈な日差しがアスファルトを照りつける中、神無月のメンバー四人は、田村が用意した『今週末、初ライブ!』と書かれた手作りのチラシを手に、通行人に声をかけようと奮闘していた。


 しかし、その成果は芳しくなかった。


「ちょっとそこの愚民! 妾が直々にチラシを渡してあげるんだから、ありがたく受け取りなさいよね!」


 タマモは高飛車な態度でチラシを突き出しているため、大半の通行人は面倒なキャッチセールスだと思って目を逸らして通り過ぎていく。ただ、その圧倒的な美貌に惹かれたごく一部の物好きだけが、恐る恐るチラシを受け取っていた。


「おらァ! そこの兄ちゃん! 今週末ヒマだろ! ライブ来い!!」


 森田は元気が良すぎるあまり、完全に街角のカツアゲのような威圧感を放っていた。彼女が近づくと、サラリーマンたちがビクッと肩を揺らして足早に逃げ去っていく。


「…………」


 和田に至っては、通行人の邪魔にならない電柱の影にピタリと張り付き、一歩も動こうとしない。彼女の周囲だけ、なぜかビル風が異常に冷たく吹いており、通行人たちは「ここだけやけに涼しいな」と不思議そうな顔をして通り過ぎていった。


「あらあら、こんにちは。よかったら、私たちのライブに来てくれませんか?」


 唯一、イ・サラだけはニコニコと愛想よく微笑みながら、順調にチラシを配っていた。

 だが、チラシを受け取った若い男性がデレデレと鼻の下を伸ばしてサラに近づこうとした瞬間、サラの瞳からスッと光が消え、彼女の背後に落ちた日陰が異常に濃く、まるで巨大な蛇のように歪んで伸びたように見えた。途端に、若い男性は急に息が苦しくなったような顔をして、顔面を蒼白にさせながら逃げるように走り去ってしまった。


(……やはり、素人にいきなり飛び込みの営業をやらせるのは酷だったか。だが、サラの周りは急に気圧が下がったのか、あの男性は貧血でも起こしたのかもしれないな。熱中症には気をつけさせないと)


 日陰から彼女たちの様子を観察していた田村は、ため息をついてダンボール箱からチラシの束を鷲掴みにした。


「仕方ない。俺が手本を見せてやる」


 田村は広場の中央へと歩み出た。

 身長一八五センチ、体重九十キロ。分厚い胸板と丸太のような腕を持つ、威圧感の塊のようなスーツ姿の巨漢。

 田村は、足早に歩いてくる中年のサラリーマンに狙いを定めると、ビジネスマン時代に培った完璧な名刺交換のフォームで、スッとチラシを差し出した。


「お疲れ様です! 今週末、弊社所属のアイドルグループが初ライブを行います! 何卒、よろしくお願いいたします!」


 腹の底から響く野太い声と、有無を言わさぬ物理的なプレッシャー。

 サラリーマンは、田村の圧倒的なガタイに反射的に圧倒され、「あ、はい……ご苦労様です」と、まるで取引先の社長から名刺を受け取るような恭しい態度でチラシを受け取ってしまった。


「よし、次だ。そこの学生さん! ぜひ一度、彼女たちのパフォーマンスを見てやってください!」


 田村は次々とターゲットを捕捉し、的確なタイミングと絶対的な威圧感で、断る隙を与えずにチラシを捌いていく。時には、少しガラの悪そうな若者の集団にも堂々と歩み寄り、「君たち、音楽は好きか?」と肩を叩いてチラシを持たせた。若者たちは田村の太い首と隆起した上腕二頭筋を見て、大人しく頷くしかなかった。


「……な、なんなのよアイツ。ただのマネージャーのくせに、なんであんなにメンタルが図太いのよ……」

「……田村、こわい。ヤクザの取り立てみたい……」


 タマモと和田が、遠巻きに田村の無双ぶりを見てドン引きしている。


 結果として、田村の圧倒的な営業力により、用意していた五百枚のチラシはわずか二時間ほどで全て配り終えることができた。


「お疲れ様。全員、よく頑張ったな」


 高天原プロダクションのミーティングルームに戻った田村は、汗を拭いながら長机の上に大きなタッパーをいくつか並べた。

 四人のアイドルたちは、慣れない炎天下での作業で完全にグロッキー状態になっており、机に突っ伏したりパイプ椅子にだらりと寄りかかったりしている。


「あら、ノリくん。おかえりなさい。待ちくたびれたわよ」


 部屋の隅のソファで、特別顧問の宮崎真琴が優雅に足を組みながらスマートフォンを弄っていた。彼女は昨日からすっかりこの事務所に入り浸るようになっており、田村の手料理を心待ちにしている厄介な食客と化していた。


「宮崎さんもお疲れ様です。新曲の調整はいかがですか?」

「バッチリよ。あの子たちの声の波長、最高にクレイジーでパワフルだから、トラックの方もかなり攻めた重低音にアレンジしておいたわ。それより、今日のお昼ご飯は何?」


 真琴が目を輝かせてタッパーを覗き込む。

 田村はパチンとタッパーの蓋を開けた。


「約束通り、休憩用の『特製・生クリームたっぷりイチゴとキウイのフルーツサンド』。それから、体力を回復させるための本命、『特製・豚の角煮と煮卵のスタミナ丼』だ」


 タッパーを開けた瞬間、ミーティングルーム内に八角と生姜の効いた甘辛い醤油の香りが爆発的に広がった。

 大盛りの白米の上に、箸で簡単に切れるほどトロトロに煮込まれた分厚い豚バラ肉の角煮が、これでもかと乗せられている。その横には、味が中までしっかりと染み込んだ半熟の煮卵と、色鮮やかな茹でたチンゲン菜が添えられていた。

 さらに別のタッパーには、真っ白な生クリームと赤や緑のフルーツの断面が美しい、宝石のようなフルーツサンドが綺麗に並べられている。


「……っ!!」


 机に突っ伏していた四人のアイドルたちが、バネ仕掛けのおもちゃのように勢いよく跳ね起きた。


「なっ、何この匂い……! お腹の底から、猛烈な食欲が湧き上がってくるわ……!」


 タマモが喉をゴクリと鳴らす。


「うおおおおっ! 肉だ! しかも分厚い! アタシの求めていたパワー飯だ!」


 森田は既に割り箸を割って臨戦態勢に入っている。


「……フルーツサンド、キラキラしてる。美味しそう……」


 和田は角煮丼よりも先に、甘いフルーツサンドに目を奪われていた。


「さあ、遠慮せずに食え。真琴さんの分も用意してありますよ」

「やった! ノリくん、本当に最高! 私、一生あなたのプロデュースを手伝ってあげる!」


 真琴も含めた五人の女性たちは、まるで数日間まともな食事を与えられていなかったかのような猛烈な勢いで、角煮丼に喰らいついた。


「んんっ……! お肉が口の中で溶ける……! 脂の甘みとタレのコクが、お米と完璧に絡み合って……美味しいっ!」


 タマモが頬を抑えながら、うっとりとした表情で咀嚼する。


「ウメェ! マジでウメェ! この煮卵の半熟具合、神がかってるぜ!」


 森田は文字通り瞬く間に丼を空にし、「おかわり!」と叫んだ。


「……角煮のしょっぱさの後で食べるフルーツサンド、甘くて酸っぱくて、最高……」


 和田は角煮丼とフルーツサンドを交互に食べるという、カロリーの暴力のような食べ方で至福の表情を浮かべている。


 田村は、綺麗に空になっていくタッパーを見つめながら、満足げに頷いた。

 慣れないビラ配りで極限までストレスと疲労が溜まっていた彼女たちの表情から、先ほどまでのピリピリとした不機嫌な空気が完全に消え去っている。やはり、良質なタンパク質と糖質の摂取は、アイドルのメンタルケアにおいて最も重要で確実な手段なのだ。


「よし。これで体力も気力も回復したな」


 田村は食後のコーヒーを啜りながら、真剣な顔つきで五人を見渡した。


「明日はついに初ライブ本番だ。チラシは五百枚配ったが、どれだけの客が来てくれるかは蓋を開けてみるまで分からない。だが、俺が作れる最高のコンディションは整えてやったつもりだ。あとは、君たちがステージで全力を出し切るだけだ」


 田村の言葉に、アイドルたちと真琴は顔を見合わせた。

 満腹になった彼女たちの瞳には、先ほどまでの不安や疲労感はなく、力強い決意が宿っていた。


「当然よ。妾たちを誰だと思っているの。明日のステージで、五十人ぽっちの観客なんて、一瞬で魅了して平伏させてみせるわ!」


 タマモが自信満々に胸を張る。


 集客ノルマは五十人。

 霊感ゼロで物理防御力カンストの新米マネージャーと、彼の手料理に胃袋を完全に掌握されたワガママな問題児アイドルたちの、絶対に失敗が許されない初ライブの幕が、いよいよ上がろうとしていた。

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