第6話 天才プロデューサーの来訪と、魅惑のガーリック・アヒージョ
翌日の午後。
高天原プロダクションの1階にある薄暗い事務室で、田村範朝はノートパソコンのキーボードを軽快なタッチで叩いていた。
画面に映っているのは、エクセルで作成した今週末の「初ライブ」に向けた進行スケジュールと、機材の修繕費用の見積もり表だ。
「……はい、そうです。壁掛け式のPAスピーカーなんですが、ビルの老朽化で壁のボルトごと外れて落下してきまして。ええ、怪我人は奇跡的にいませんでしたが、早急に新しいものを手配したいんです」
田村は耳と肩にスマートフォンを挟んで業者と通話しながら、分厚い指先で正確にタイピングを続けていた。
昨日、森田が粉砕したスピーカーの件である。業者は「あんな頑丈なアンカーボルトが自然に抜けるわけがない」と首を傾げていたが、田村は「とにかく湿気と塩害が酷い物件でして」と押し切り、なんとか明日中の納品を取り付けて通話を終えた。
「よし。これで機材のリカバリーはできた。あとは……初ライブ用のオリジナル楽曲だが、これは俺の専門外だな」
田村がパタンとノートパソコンを閉じた、その時だった。
カツン、カツン。
静かな事務室に、ヒールの足音が響いた。同時に、上質な柑橘系とウッディな香水が入り混じった、洗練された大人の香りがふわりと漂ってくる。
「あら。あなたが噂の、新しいマネージャー君ね」
田村が顔を上げると、そこには一人の女性が立っていた。
年齢は田村より少し上、三十代前半といったところだろうか。知性とユーモアを感じさせる大きな瞳に、フレンチシックでエレガントな佇まい。ラフな白いシャツの上に仕立ての良いネイビージャケットを無造作に羽織っているだけなのだが、隠しきれない大人の色気と品格が漂う美女だった。
「初めまして。本日付けで神無月のマネージャーに就任した、田村範朝です」
田村は立ち上がり、名刺を差し出した。
女性は面白そうに田村のパツパツのスーツと、はち切れんばかりの分厚い胸板を見つめると、名刺を受け取ってクスリと笑った。
「立派なガタイしてるわね。これなら、あの子たちがちょっと『暴走』しても、簡単にペシャンコにはならなそう。私は宮崎真琴。この高天原プロの特別顧問で、一応、音楽プロデューサーをやらせてもらってるわ」
「宮崎さんですね。よろしくお願いします」
田村は深々と頭を下げた。タマモから事前に渡されていた資料に、確かにその名前があった。フランスを拠点に世界的アーティストを手がけてきた凄腕のクリエイターで、今回の『祟り神アイドルプロジェクト』の楽曲制作を全面的にバックアップしている外注の天才プロデューサーだという。
「堅苦しい挨拶は抜きにしましょ。私のことは真琴でいいわ。それよりノリくん、今からあの子たちの様子を見に行ってもいいかしら? 新曲のデモ音源を持ってきたの」
「ノリくん……ですか」
「ええ。範朝だからノリくんでしょ? フランスじゃ、親しみを込めてファミリーネームよりファーストネームの愛称で呼ぶのが普通なのよ」
飄々としたマイペースな態度で、真琴は田村のパーソナルスペースにスッと入り込んでくる。
前職のIT企業にいた小難しいだけのクライアントとは全く違う、本物のクリエイター特有の掴みどころのないオーラだ。田村は「業界人というのはこういうものか」と納得し、「ご案内します」と地下スタジオへの階段を促した。
地下防音スタジオの重厚な扉を開けると、そこではアイドルたち四人が自主的にストレッチや発声練習を行っていた。
昨晩の『特製・黄金チャーハン』の効果もあってか、今日はひび割れた床や明滅する蛍光灯といった、ビルの深刻な設備不良は起こっていないようだ。
「みんな、お疲れ様。新任のノリくんとはうまくやってる?」
真琴がひらひらと手を振ってスタジオに入っていくと、四人のアイドルの動きがピタリと止まった。
センターのタマモは露骨に顔を強張らせ、森田は舌打ちをして視線を逸らし、和田はジャージのフードをさらに深く被り、リーダーのイ・サラでさえ、いつも絶やさない微笑みを消して警戒するように身構えた。
(……なるほど。やはり、素人の彼女たちにとって、世界的な大物プロデューサーの視察というのは相当なプレッシャーらしいな)
田村は四人の明らかな緊張状態を、オーディション前の新人特有の萎縮だと解釈し、優しくフォローを入れることにした。
「リラックスしろ。宮崎さんは新曲のデモを持ってきてくれたんだ。いつも通り、元気なところを見せればいい」
「あ、アンタは何も分かってないからそんな呑気なことが言えるのよ……っ」
タマモが恨めしそうに田村を睨むが、田村には何のことか全く分からなかった。
「ふふっ。ノリくんの言う通りよ。あなたたちの『あり余るエネルギー』、この曲に全部ぶつけてみてちょうだい」
真琴が手持ちのタブレットをスタジオの音響機材に繋ぎ、再生ボタンを押した。
流れ出したのは、和楽器の調べと最先端のEDMが融合した、極めてクオリティの高いダンストラックだった。重低音が腹の底に響き、それでいてメロディはどこか郷愁を誘うような、不思議な魅力を持った楽曲だ。
「おお……これは素晴らしい」
田村が思わず感嘆の声を漏らすと、真琴は得意げにウインクをした。
「さあ、タマモちゃん。まずはサビの部分、自由に歌ってみて」
真琴の指示を受け、タマモがマイクを握る。
音楽のグルーヴに煽られるように、タマモの瞳の奥に強い光が宿った。彼女が小さく息を吸い込み、圧倒的な声量でサビのフレーズを歌い上げた瞬間だった。
バチバチバチッ!!
タマモの周囲の空気が急速に乾燥したかと思うと、彼女の足元から天井に向けて、青白い火花のようなものが激しく弾けた。さらに、彼女の背後に九つの巨大な尻尾のようなオーラがはっきりと具現化し、スタジオ内の気圧が急激に跳ね上がる。
(……おいおい。また漏電か? いくらなんでもこのビルの電気系統、ヤバすぎるだろ)
田村は、目の前で起きた激しい漏電スパークと急激な気圧の変化に驚き、慌ててブレーカーを探そうとした。
しかし。
「ストップ、ストップ! 今のすっごくイイわ!」
真琴は、常人なら腰を抜かすようなその超常現象を目の当たりにしても、ケロリとした顔で手を叩いた。
「今のバチバチって弾けるノイズ! それに、空間全体がビリビリ震えるような重いプレッシャー! まさに魂が乗ってるって感じの最高のグルーヴね! ノリくん、今の音、録音できてる?」
「……え? あ、ああ。ハンディレコーダーは回しっぱなしですが……。宮崎さん、いまのはただの漏電によるノイズと、気圧の変化では?」
「アハハ! ノリくんって本当に面白いこと言うのね。漏電だなんて、最高にユニークな解釈だわ」
真琴は腹を抱えて笑い出した。
田村は首をひねった。どうやら、この天才プロデューサーは、機材トラブルの不快なノイズすらも「音楽的な表現」として肯定的に捉える、極めてアバンギャルドな感性の持ち主らしい。
天才と変人は紙一重と言うが、ここまでポジティブなクリエイターとなら、いい仕事ができそうだ。田村はそう納得して頷いた。
「あー、面白いもの見せてもらったわ。やっぱり現場の熱気は最高ね」
一時間ほどのデモのすり合わせとボーカルチェックが終わり、真琴は満足げに伸びをした。
「さて。いい仕事の後は、美味しいワインが飲みたくなるわね。ノリくん、ちょっとこの後、一杯付き合わない?」
「申し訳ありません。俺は勤務中ですし、この後、彼女たちの夕食の準備がありますので」
田村が即座に断ると、真琴は「えー、冷たいのね」と唇を尖らせた。
「じゃあ、私がここに付き合うわ。実は車に良いワインを積んであるのよね。あの子たちの夕食を作るついでに、私にも何か簡単な『おつまみ』を作ってくれないかしら?」
「……まあ、冷蔵庫にある余り物でよければ」
「やった! 期待してるわよ、ノリくん!」
三十分後。
スタジオ併設の給湯室から、食欲を暴力的に刺激する凄まじい匂いが漂い始めた。
「お待たせしました。ワインに合うものを、とのことでしたので」
田村が長机に運んできたのは、二品の料理だった。
一つは、小さなスキレットの中でグツグツと煮えたぎる『マッシュルームと鶏モモ肉のガーリック・アヒージョ』。たっぷりのオリーブオイルに、薄切りのニンニクと鷹の爪の香りが溶け込み、マッシュルームの旨味がオイル全体に染み渡っている。こんがりと焼いたバゲットが添えられていた。
もう一つは、『カマンベールチーズの蜂蜜ブラックペッパー焼き』。丸ごとのカマンベールに十字の切れ目を入れ、トースターでトロトロになるまで焼き上げ、上からたっぷりの蜂蜜と粗挽きの黒胡椒、そして砕いたミックスナッツを散らしたものだ。
「……嘘でしょ。ここ、ただの地下スタジオの給湯室よね?」
真琴は、目の前に並べられたビストロ顔負けの料理を見て、目を丸くした。
彼女はコルクを抜いた赤ワインのグラスを片手に、熱々のアヒージョのオイルにバゲットを浸し、マッシュルームを乗せて口に運んだ。
「……っ!!」
真琴の肩が、ビクッと跳ねた。
ニンニクのパンチの効いた香りと、鶏肉の動物性の旨味、そしてキノコの出汁が完璧なバランスでオイルに溶け出している。安い業務用のオリーブオイルを使っているはずなのに、田村の絶妙な塩加減と火入れによって、高級レストランの味に昇華されていた。
続けて、トロトロのカマンベールチーズにバゲットをディップして頬張る。チーズの濃厚な塩気と蜂蜜の暴力的な甘さ、そこに黒胡椒のピリッとした刺激が加わり、赤ワインを無限に消費させる悪魔的なマリアージュが完成していた。
「ノリくん……これ、本当にあなたが作ったの?」
「ええ。前職が激務で外食ばかりだと体を壊すので、筋肉を作るための良質なタンパク質とオイルの摂取にはこだわっていまして。自炊で鍛えたただの男料理ですよ」
「信じられない……。パリの三ツ星ビストロで食べるより美味しいかもしれないわ……」
真琴はもはや完全に言葉を失い、無言で赤ワインをがぶ飲みしながら、物凄い勢いでアヒージョとチーズを胃袋に流し込んでいった。
飄々としていた天才プロデューサーの仮面は完全に剥がれ落ち、そこにはただ『田村の飯の虜になった一人の女性』がいるだけだった。
傍らでは、タマモたち四人のアイドルも、田村が用意した大盛りの『鶏肉とキノコのペペロンチーノ』をガツガツと無言で平らげている。
「……決めたわ」
グラスのワインを飲み干した真琴が、熱っぽい瞳で田村を見上げた。
「私、明日から毎日このスタジオに顔を出すことにする。ノリくん、私の専属シェフにもなってくれないかしら?」
「いや、俺はあくまでマネージャーですが……」
「いいじゃない。あなた達のデビュー曲、私が徹夜してでも最高の状態に仕上げてあげるから。その代わり、毎晩このクオリティのおつまみとご飯を要求するわよ」
真琴は妖艶に微笑みながら、田村の分厚い腕にツンと指を這わせた。
異常な物理防御力を持つ新米マネージャーは、問題児だらけのアイドルたちのみならず、才能溢れる大物プロデューサーの胃袋をも完全に陥落させてしまったようだ。
強力なバックアップを手に入れ、神無月の初ライブに向けた準備は、さらに加速していくのだった。




