第5話 深夜のまかない飯と、黄金色のチャーハン
時計の針が午後十一時半を回った頃。
地下防音スタジオに鳴り響いていた重低音のダンストラックが止まり、田村範朝は手元のバインダーをパタンと閉じた。
「よし、今日のレッスンはここまでだ。全員、よく頑張ったな」
田村の言葉を聞いた瞬間、スタジオの中央でフォーメーションを組んでいた四人の少女たちは、糸が切れた操り人形のようにその場にへたり込んだ。
「はぁっ、はぁっ……っ! ちょっとタムラ! 初日からスパルタすぎるわよ! 妾、もう指先ひとつ動かせない……!」
センターのタマモが、荒い息を吐きながら床に大の字に寝転がる。彼女の金糸のような髪の毛は、乾燥と激しい摩擦のせいか、バチバチとひどい静電気を帯びて逆立っていた。
「アタシも……限界だ。腹が減りすぎて、力が出ねェ……」
森田は壁際にもたれかかり、うつろな目で宙を見つめている。彼女の足元の床材は、ステップの踏み込みが強すぎたせいでバキバキにひび割れていた。基礎代謝が常人の何倍もあるのだろう、極度の低血糖に陥っているようだ。
「……さむい。指先が凍りそう。おうち帰りたい……」
和田はジャージのフードを被ったまま、膝を抱えてガタガタと震えている。彼女の周囲だけ、異常なほど室温が下がっているように感じる。おそらく、彼女の立っている場所の真上にあるエアコンの吹き出し口が、また冷房の温度調節バグを起こしているのだろう。明日、業者を呼んで修理させなければならない。
「ふう……。マネージャー君、私、もう一歩も歩けないわ。おんぶして、上の部屋まで運んでくれないかしら?」
イ・サラは、汗ばんだ肌を隠すこともなく、潤んだ瞳で田村を見上げてきた。しかし、彼女の背後の照明が不自然にチカチカと明滅し、壁に落ちた影が巨大な蛇のように蠢いて見える。さらに、部屋の換気扇が回っているはずなのに、息が詰まるような重苦しい空気がスタジオ内に充満し始めていた。
(なるほど。過度な疲労とストレスで、全員のコンディションが最悪の状態になっているな)
田村は冷静に四人の状態を分析した。
静電気、機材の破損、空調の不具合、そして換気不良による気圧の低下。この老朽化した地下スタジオの劣悪な環境と、長時間のレッスンによる肉体的な疲労が重なり、彼女たちの『アイドルとしての設定』を維持する余裕すら奪っているのだ。
「仕方ない。初ライブの集客ノルマが五十人とはいえ、倒れられたら元も子もないからな。お前ら、そのまま少し休んでろ。俺が『まかない』を作ってきてやる」
田村がそう言うと、死んだ魚のような目をしていた四人が、ピクッと同時に反応した。
「ま、まかないって……昨日の夜にタムラが作った、あの『豚バラとニンニクのスタミナ炒め』みたいなやつ!?」
タマモがガバッと上体を起こす。
「マジか! アタシ、肉がいい! 肉と米を腹いっぱい食わせろ!」
森田が床をバンバンと叩いて要求する。
「……今日はもう夜遅い。消化の悪い重い肉料理は胃もたれの原因になる。冷蔵庫にある余り物で、サッと食えてエネルギーになるものを作ってやるから、おとなしく待っていろ」
田村はそう言い残し、スタジオの隅にある小さなドアを開けて、給湯室と簡易キッチンが併設されたスペースへと向かった。
換気扇のスイッチを強に入れ、冷蔵庫を開ける。
中に入っているのは、昨日の夜に多めに炊いておいた冷やご飯のタッパー、卵が数個、長ネギ、そして賞味期限が近い特売のチャーシューの切れ端。調味料は、醤油、塩、こしょう、鶏ガラスープの素、そしてチューブのラード。
(よし。疲労回復には炭水化物とアミノ酸、そして適度な脂質だ。パパッと作れて、しかも絶対に外さない深夜の最強メニューといえば、これ一択だな)
田村は腕まくりをしたまま、コンロに火をつけた。
事務所の備品である業務用の鉄の中華鍋を五徳に乗せ、強火でガンガンに熱していく。鍋から白い煙が立ち上り始めたところで、チューブのラードをたっぷりと絞り入れた。
ジュワァァァァッ!!
ラードが溶け、動物性の濃厚な脂の香りがキッチンに広がる。
そこに、溶いておいた卵三個分を一気に流し込む。卵が油を吸ってフワッと膨らんだ瞬間、間髪入れずに冷やご飯を投入した。
「ここからは時間勝負だ」
田村の丸太のような太い腕が、重い中華鍋を軽々と振るう。
カンッ、カンッ! とお玉が鉄鍋を叩く小気味よい音が響く。ご飯のダマをお玉の背で潰しながら、米粒の一つ一つに油と卵をコーティングしていく。強火で一気に炒めることで、米の水分が飛び、パラパラとした黄金色のチャーハンが形成されていく。
続いて、細かく刻んだチャーシューと長ネギを投入。
塩、こしょう、鶏ガラスープの素で味を調え、さらに鍋を振る。具材の旨味が米に移り、ネギの香ばしい匂いが熱気とともに立ち上る。
仕上げに、鍋肌に沿って醤油をひと回し。
ジュウウウゥゥゥ……ッ!!
焦げた醤油の香ばしい匂いが、爆発的に広がった。
これはもはや、一種の暴力的なアロマだった。深夜の空腹時にこの匂いを嗅がされて、理性を保てる人間など存在しない。
田村は手早く四つの深皿にチャーハンを山盛りに盛り付け、さらにワカメと白ごまを入れた簡単な中華スープを添えて、お盆に乗せた。
「お待たせしたな。深夜の特製・黄金チャーハンだ」
田村がスタジオに盆を運び込むと、そこには異様な光景が広がっていた。
先ほどまで「もう動けない」と床に転がっていた四人が、まるで餌を待つ雛鳥のように、長机の前に正座して行儀よく並んでいたのだ。彼女たちの視線は、田村が運んできた黄金色のチャーハンに完全に釘付けになっている。
「ほら、冷めないうちに食え。油を多めに使ってるから、腹持ちもいいはずだ」
田村がそれぞれの前に皿を置いた瞬間、四人は「いただきます!」と声を揃え、一斉にスプーンを手に取った。
「んんっ……!! な、何これ! お米がパラパラなのに、噛むと油とお肉の旨味がジュワッて……!」
タマモは最初の一口を食べた瞬間、目を丸くして感嘆の声を上げた。彼女の全身から発せられていたバチバチという不快な静電気が、嘘のようにスゥッと収まっていく。
「うおおおっ! うめェ! なんだこの香ばしさ! 噛めば噛むほど味が染み出してきやがる!」
森田は、まるで掃除機のような勢いでチャーハンを口に運んでいる。彼女の異常な食欲と代謝の高さが、この高カロリーな食事によって急速に満たされ、ピリピリとした攻撃的な雰囲気が完全に消え去っていた。
「……おいしい。あったかい……。お腹の中から、ポカポカしてくる……」
和田は無言で、しかし恐ろしいスピードでスプーンを動かしていた。チャーハンの熱とラードの脂質が彼女の体温を急激に引き上げたのか、青白かった頬にほんのりと赤みが差し、ガタガタと震えていた身体が落ち着きを取り戻している。スタジオの空調の不具合も、いつの間にか感じなくなっていた。
「はぁん……っ、マネージャー君の作ったご飯、本当に美味しくて……私、これがないと生きていけなくなりそう……」
サラは、一口食べるごとに熱っぽい吐息を漏らし、田村の方をチラチラと見つめながら食べている。彼女の背後で蠢いていた不気味な影や、部屋を満たしていた重苦しい低気圧のような空気は完全に霧散し、ただの「少し愛情の重い綺麗な女性」に戻っていた。
ものの五分で、四人の皿は綺麗に空になった。
「ぷはーっ! 食った食った! アタシ、おかわり!」
「森田、夜中にこれ以上食べたら明日の顔がむくむぞ。今日はもう我慢しろ」
田村が却下すると、森田は「ちぇっ」と口を尖らせたが、その表情はどこか満足げだった。
(よし。温かくてカロリーの高い食事を摂らせたことで、彼女たちの身体的・精神的なストレスは劇的に改善されたな)
田村は空になった皿を片付けながら、スタジオ内の空気が先ほどまでとは見違えるほど澄み切っていることに気づいた。
静電気も、異常な冷気も、息苦しい低気圧も、すべて綺麗に解消されている。やはり、人間のイライラや体調不良の八割は、空腹と疲労が原因なのだ。美味しいご飯を食べて腹を満たせば、どんなギスギスした職場環境でも、たちまち平和な空気に包まれる。
「タムラ」
ふと、タマモが少しだけ照れくさそうに口を開いた。
「……その、美味しかったわ。ありがとう。私たち『祟り神』は本来、人間の食べ物なんて必要としない高位の存在なんだけど……あなたの作る食事は、なんだか特別というか、その……私たちの内側にある『飢え』みたいなものを、直接満たしてくれるような気がするの」
「大げさだな。ただの冷蔵庫の余り物で作ったチャーハンだぞ」
「大げさじゃないわよ! 少なくとも、妾は……私たちは、あなたのプロデュースを、もう少しだけ信じてあげてもいいって思ってるんだからね!」
タマモはツンとそっぽを向いたが、その耳の先はほんのりと赤く染まっていた。
他の三人――森田、和田、サラも、タマモの言葉に同意するように、小さく、しかし確かな信頼の眼差しを田村に向けている。
「そうか。なら、明日のレッスンも今日と同じくらい厳しくいくからな。覚悟しておけよ」
「ええーっ!?」
四人の悲鳴にも似た抗議の声が、地下スタジオに響き渡る。
こうして、超ブラック企業で鍛え上げられた田村の異常なタフさと、プロ顔負けの料理スキルは、ワガママで規格外な『設定』を持つ問題児アイドルたちの胃袋と心を、完全に、そして物理的に掌握しつつあった。




