第4話 初レッスンの惨劇。最強の物理防御とマッサージ効果
翌日の午後。
高天原プロダクションの地下防音スタジオは、昨日までの荒れ果てた廃墟のような有様から一変し、見違えるように綺麗に片付いていた。
散乱していた機材は壁際に整頓され、ひび割れていた床には丁寧に養生テープとDIY用の補修材が張られている。異常に低かった冷房の設定温度は適正な24度に保たれ、カビ臭かった空気も、田村が朝から持ち込んだ強力な業務用空気清浄機によってクリーンに浄化されていた。
「よし。これなら、タレントが怪我をするリスクも減るだろう」
田村範朝は、腕まくりをしたワイシャツ姿で満足げに頷いた。
昨晩、田村が半ば強引に振る舞った「特製・豚バラとニンニクのスタミナ炒め定食」の効果は絶大だった。最初は「人間の飯なんて」と文句を言っていた自称・祟り神のアイドルたちだったが、一口食べた瞬間に目の色を変え、最後は炊飯器のご飯が空になるまで無言でおかわりを繰り返していた。
美味しいご飯は、荒んだ労働環境を癒やす最高のメンタルケアである。前職のブラック企業で学んだ真理だった。
ガチャリ、と重厚な防音扉が開き、レッスンの時間に合わせてメンバーの4人が姿を現した。
「おはよう、タムラ。……あら、ずいぶんと片付いているじゃない」
英国風のチェックのセットアップを着たタマモが、少し驚いたように室内を見渡す。
「おはようございます、タマモさん。他の三人も、体調は悪くないな?」
田村が声をかけると、その後ろからぞろぞろと三人が入ってきた。
タンクトップ姿で気怠げにあくびをする森田。
相変わらずダボダボのジャージのフードを深く被り、不満そうに口を尖らせている和田。
そして、タイトなトレーニングウェアに身を包み、ニコニコと微笑んでいるイ・サラ。
「アタシのガソリンが切れてる以外は絶好調だぜ、デカブツ」
「……暑い。空気清浄機の音がうるさい。帰りたい……」
「ふふっ、マネージャー君。今日のために、私、お弁当を作ってこようか迷ったのよ? 次は私が胃袋を掴んであげるからね」
三者三様の反応を見せる彼女たちに、田村は手元のバインダーをポンと叩いた。
「無駄話はそこまでだ。今週末の初ライブに向けて、時間は限られている。まずは指定したセットリストの通し稽古から始めるぞ。和田、立ち位置についてくれ」
「……うぇぇ、めんどくさい……」
「文句を言わない。終わったら、昨日約束した特製の手作りプリンを出してやる」
「……! やる。本気出す」
スイーツという物理的な報酬で釣られた和田が、のそりと定位置についた。
田村がスピーカーの再生ボタンを押すと、地下スタジオに重低音の効いたダンストラックが鳴り響いた。
「ワン、ツー、スリー、フォー!」
田村の掛け声とともに、レッスンがスタートした。
正直なところ、田村は彼女たちのパフォーマンスを舐めていた。「設定」ばかりが先行した、素人の寄せ集めだろうと高を括っていたのだ。
だが、その予想は良い意味で裏切られた。
センターに立つタマモのボーカルは、圧倒的だった。小柄な体からは想像もつかないほど声量があり、聴く者の心を直接揺さぶるような艶と迫力がある。和田のダンスも、普段の引きこもりゲーマーっぷりからは信じられないほどキレがあり、しなやかで美しかった。
サラも、持ち前のおっとりとした色気で、グループ全体の雰囲気をうまく調和させている。
(すごいな。どこかの大手事務所の練習生でもやっていたのか? これなら、素人集団でも50人の集客ノルマはどうにかなるかもしれない)
田村が感心しながら見守っていた、その時だった。
「あァァもう!! ダメだダメだ! 全然ノリが足りねェ!!」
突然、バラエティ・元気担当の森田が、苛立ったように叫んでステップを止めた。
彼女は音楽のテンポに自分の有り余るエネルギーが追いつかないことに腹を立てているようだった。「もっとガツンと来ねェと、アタシの血が騒がねェんだよ!」と吠えながら、彼女は怒りのままに右腕を大きく振りかぶった。
その拳が向かった先は、スタジオの壁際に設置されていた、高さ2メートル近い巨大なPAスピーカーだった。
ドゴォォォォンッ!!
大きな音を立てて巨大なスピーカーが宙を舞った。劣化した接合部から外れた黒い塊が、田村の頭上へと落下してくる。
「きゃあああっ!?」
タマモが悲鳴を上げた。いくら中が空洞の安物でも、当たり所が悪ければ大怪我に繋がりかねない。
しかし、田村は一歩も動かなかった。
彼は飛んできた巨大なスピーカーを、まるで飛んできたバスケットボールでも受け止めるかのように、左手一本でガシッと受け止めた。
ズウンッ、と田村の足元の床材が嫌な音を立てて沈み込んだが、田村の太い腕は1ミリたりともブレていなかった。パツパツのワイシャツの袖が、限界まで膨張した上腕二頭筋によって弾けそうになっている。
「……は?」
スピーカーを突き飛ばした張本人である森田が、目を丸くして硬直した。
「森田。昨日も言ったが、備品を乱暴に扱うな」
田村は、片手で巨大なスピーカーを軽々と床に下ろしながら、呆れたようにため息をついた。
「いくらこのスタジオの機材が老朽化してて、ネジやボルトが緩みきっているとはいえ、あんなに強く寄りかかったら倒れてくるに決まってるだろう。それに、いくら中身が空洞の安物スピーカーでも、当たり所が悪ければ大怪我をするぞ。お前、本当に力が強いな。過去に砲丸投げでもやってたのか?」
「いや、寄りかかったんじゃなくて、アタシが全力で殴り飛ばし……ていうか、中身が空洞って何!? それ本物の重機材……!」
「言い訳はいい。後でスピーカーの修理代は給料から天引きしておくからな。あと、ステップを踏むときに床を強く蹴りすぎだ。このビルの床材は腐ってるんだから、底が抜けたらどうする」
田村の淡々とした説教に、森田はポカンと口を開けたまま反論の言葉を失っていた。彼女は信じられないものを見るような目で田村の太い腕を凝視し、小さく後ずさった。
森田がなぜかひどく戦慄したような表情を浮かべていることなど気にも留めず、田村はスピーカーを元の位置に押し戻し、手をパンパンと払った。
「よし、気を取り直して再開するぞ。タマモさん、さっきのサビの入り、少し息継ぎが浅かった。腹式呼吸を意識してくれ」
「えっ? あ、ああ……そうね、分かったわ」
「和田も、ターンの時の軸足が少しブレてる。靴のサイズが合ってないんじゃないか? 後で足のサイズを測らせてくれ」
田村はマネージャーとして的確にメンバーたちにアドバイスをしていく。
彼は和田の足元にしゃがみ込み、スニーカーの紐の結び方を丁寧に調整し直した。さらに、タマモの背中に軽く手を当てて、正しい姿勢と呼吸の仕方を指導する。
「そう、その姿勢だ。肩の力を抜いて」
「こ、こうかしら……? って、ちょっと! あんまり気安く触らないでよね! 妾の肌に触れていいのは、神に選ばれた者だけなんだから!」
「はいはい。セクハラにならない範囲で気をつけてますよ」
田村がタマモと和田のケアにかかりきりになっていた、まさにその時。
ジジジジッ……と、スタジオの蛍光灯が激しく明滅し始めた。
同時に、部屋の温度が急激に低下し、耳鳴りがするほどの気圧の変化が空間を支配した。
(……ん? また空調の調子がおかしいのか?)
田村が顔を上げると、部屋の隅に立っていたイ・サラが、うつむいたまま静かに震えていた。
彼女の長い前髪の隙間から覗く瞳から、光が完全に消え失せている。彼女はギリッと強く歯を食いしばっていた。
「……どうして、私以外の女の子に、そんなに優しく触れるの……?」
「イ・サラ? どうした、貧血か?」
「許さない……許さない許さない許さない……! マネージャー君は、私だけのものなのに……!」
サラが恨みがましい声を漏らした瞬間、明滅する照明の下で、壁に落ちた彼女の影が大きく歪んで八つに分裂したように見えた。
さらに、ひどく重苦しい空気が部屋中に充満し、急激な気圧低下による息苦しさが増していく。
「ひっ……! サラ、落ち着きなさい! ここでアレを出したら、ビルごと消し飛ぶわよ!」
タマモが顔面を蒼白にして叫ぶ。
しかし、うつむいたままのサラの耳には届いていないようだった。
分裂した不気味な影の一つが大きく波打ったかと思うと、猛烈な勢いで田村の背後へと伸びてきた。
ドンッ!!
田村の背中から首筋にかけて、目に見えない強風のような衝撃と、万力を締め上げるような凄まじい圧迫感が襲いかかった。
猛烈な局地的な気流が、田村の太い首にまとわりつき、ギリギリと強い力で締め上げてくる。
「……あ、ああっ! マネージャー君……!」
我に返ったサラが、悲鳴を上げた。
しかし。
「おお……」
田村は、太い首をゴキゴキと鳴らしながら、ひどく感心したような声を漏らした。
「すごいな、このスタジオの空調設備は。どういう仕組みになってるんだ?」
「……え?」
田村は、自身の首に巻き付く謎の強い圧迫感を完全に無視して、天井のエアコン吹き出し口を見上げていた。
「さっきから急に気圧が下がって、猛烈な局地的な隙間風が吹いてきたと思ったら……俺の凝り固まった首と肩の筋肉を、ピンポイントで締め付けるように圧迫してくるじゃないか。まるで、一台数十万円はする高級なマッサージチェアに乗っているような強烈な揉み心地だ」
「マ、マッサージ……?」
サラは、ポカンと口を開けて間の抜けた声を出した。
「ああ。IT企業時代からの慢性的な肩こりが、この強力な空気圧のおかげで一気にほぐれていくよ。誰か知らないが、換気扇のスイッチを強にしてくれた奴に感謝だな」
田村はそう言ってニカッと笑うと、背中を覆う強い風圧と気圧の重みを全く意に介することなく、サラの元へ歩み寄った。
「イ・サラ。お前、さっきから顔色が悪いぞ。少し休んだほうがいい」
「あ……えっと……その……」
「お前はグループのお姉さん役なんだ。無理をして倒れられたら困る。ほら、深呼吸しろ」
田村が大きな手でサラの頭をポンポンと優しく撫でると、サラの顔がボフッと真っ赤に茹で上がった。
サラがクネクネと身をよじって照れ始めると同時に、先ほどまでの重苦しい空気圧と隙間風が一瞬にして嘘のように消え去った。
「あ、は、はい……っ! わたし、マネージャー君のためなら、いくらでも頑張るわ……!」
サラは両手で顔を覆いながらモジモジとしている。すっかり機嫌を直したらしい。
その光景を見ていたタマモ、森田、和田の三人は、青ざめた顔で絶句したまま田村を見つめていた。
彼女たちはまるで信じられないバケモノでも見るかのように息を呑み、カタカタと小さく震えている。何やらひどく怯えさせてしまったようだが、田村にはその理由がよくわからなかった。
「よし、ちょうどいい時間だな。少し休憩にしよう」
田村はパンパンと手を叩いて空気を変えると、部屋の隅に置いてあったクーラーボックスからタッパーを取り出した。
「糖分補給のために、自家製のハチミツレモンと、プロテイン入りの特製エナジーバーを作ってきた。森田、酒の代わりにこれを飲め。和田、市販のグミよりこっちの方が集中力が持つぞ」
「お、おう……」
「……いただく」
こうして、新米マネージャー・田村によるアイドルプロデュースは、初日から設備の不良による大きな波乱に包まれながらも、着実に前進していくのだった。




