豊足姫と大入杵(とよたりひめとおおいりき)
ずっと、幼い頃からなんでも知っている、なんでもできる優しい兄。
豊足姫は、そう思っていた。
突然の優しかった兄が、何かに取り憑かれたのかと恐怖を覚えるような表情で、自分に手を伸ばしてくる姿が恐ろしくて、豊足姫は逃げた。
棘のある橘の薮も、目を射るような藪萱草も、踏み倒し、それこそ《駆け裳姫》の名に恥じない敏捷な足取りは、まるで狩人から逃げる若い牝鹿のようだった。
しかし牝鹿の自由は、一人の大人になろうとする少年の手で奪われた。
「とよたり…」
苦しげな兄の声が、耳元から囁かれた。
背後から自分を抱擁する兄の腕は、先ほどまであんなに優しく、どんなものからも守ってくれそうだと安心できたのに、いまや岩のように硬く、豊足を締め付けていた。
あのほっそりした兄のどこにこんな力が秘められていたのか。
兄の若木のような汗の匂いが豊足の全身を包み、豊足はそれに抗うように手足に力を込めた。
自分の乱れた額髪からも汗が流れおちて、どんなにみっともない姿になっているだろう。
「お兄様…」
豊足は、小さく震えながら、それでも無理に明るい声で背後の兄を呼んだ。
普段であれば、すぐさまあの春の空のような優しい笑顔で腕を離し、冗談だと笑ってくれるはず。
しかし兄の腕の力は、一切揺るぎもしなかった。
それどころか、骨が軋むような痛みを感じるほどさらに強く抱きしめられた。
「とよ、たり…」
兄の声は、ますます何か怪我でもしているのではと思うほど、苦痛に満ちて豊足の心を締め付けた。
怖い。
痛い。
それでも兄に何かあったのかもしれないと不安になる。
おにいさま、もう一度そう呼びかけようと思った瞬間。
「ひっ」
自分の口から出たことのないような悲鳴が漏れた。
苅安と藍を薄く染め上げた、若草色。大好きな自分の色だ。
その優しい草色の衣の上から、兄の手が何かはっきりとした意思を持って、自分の身体を這っている。
大入杵の右手は、今や上着の裾や、下袴の裾から入り込み、そこだけまるで滑らかな蛇になったように、その硬い果実を味わうように、豊足の体を自由に這い回り絡みつき始めた。
「いっ」
まだ膨らみの乏しい真っ白な乳の先を、大入杵が摘んだ。
その手をなんとか外そうとするのだが、張り付いたように剥がれない。
「嫌、嫌です、いや」
恐ろしいのに、体に力が入らない。
嫌なのに、蛇が蠢くたびにどこか体の深い奥から、何か得体の知れない甘い蜜が生まれ、力を奪われて行くような気がした。
それは、豊足にとって許すことはできない甘さだった。
こんなのは自分の身体じゃない。
なんとかその腕の中から逃れようとするのだが、背後から両の手を後ろに回され、兄の左手一本で、その自由を奪われてしまった。
思わず、草の上に膝をつき、身をかがめてその手をかわそうとする。しかし、かえって地の上に膝をついてうつ伏せになるように、背後から兄が覆い被さってきた。
膝が地面の小石を踏んで痛い。
怖い。
「姫様ー、豊足様ー」
遠くで於比の声がする。
そろそろ戻らなくては心配する。
於比、そう声を出そうとした豊足の口を、大入杵がその大きな手で塞いでしまった。
「とよたり!」
その瞬間、
大入杵の声が、豊足の頭の後ろから噛みつくように降ってきた。
こんなに嫌だと言っているのに、兄の声は、自分の方が泣きたくなるほど痛みに満ちていた。
自分の口を塞ぐ兄の指が、口の中を蹂躙し始めた。まるで細い蛇が何か獲物を探すようなしつこさで、舌や歯茎を蠢いている。
「あぁ、とよたり、とよたり、とよたり」
狂ったように自分の名を呼ぶ兄の指を思わず力一杯噛んだ。
一瞬、指はそに動きを止めたが、かえってその残虐さを増したかのように、その数を増やして口の中を侵し始めた。
口の端からはとどめなく涎が流れ落ちた。
豊足の目から流れる涙も、鼻水も止まらなかった。
恥ずかしくて怖くて、それでいて、身体中が火に炙られているかのように燃え盛っていた。
ぐい、と力づくで顔を振り向かされた。
背後の男と目が合った。
それは、豊足が知る兄の顔ではなかった。
目は血走り、戦慄く唇は切れ、血を流していた。
思わず自分は殺されるのかと思ったほどの強い視線で、自分を見つめる兄の顔。
自分は酷い顔をしていたはずだ。
そんな自分の顔を、兄は両手で掴み上げ、口を吸った。
自由になって両の手で、兄の固い胸を叩いたが、許されなかった。
兄の舌が新たな蛇となり、豊足の口の中を這い回った。
まだこの時、蛇の毒がその身に回り始めていることを、妹は知らなかった。




