落とし物〜あなたはどこまで拾いますか?
手袋が。
落ちていた。
道の真ん中にポツンと、溶け残った雪の上に。
近づけば、それはまだ真新しい、茶色の革の手袋だった。
顔を上げて見回した。
閑散とした住宅街、片側一車線の一本道に、人の影は見当たらない。
「目立つ場所に置いておくか」
間もなく日が暮れる。
帰宅ラッシュの車に轢かれてしまっては悲しいだろう。
俺は、落とし主が取りに戻ることを祈って、近くのバス停の時刻表に、片方だけの手袋をかけようと――
「お?」
バス停よりもさらに向こう、道路の隅に何かがポツンと落ちている。
いそいそと歩み寄れば、それはもう片方の手袋だった。
「まだ新しい……気がする」
道端に残った柔らかな雪の上に、手袋と共にシューズらしき足跡が。
「これ、急げば追いつけるかも?」
俺は対の革手袋を拾い上げ、一本道を足早に進んでみた。
するとすぐに、帽子が見つかった。
「おいおい、随分どじっこさんだな」
忘れ去られた、毛糸の帽子。
道の真ん中で風に吹かれ、耳当て部分がはためいている。
俺は苦笑しながら、帽子を拾い、汚れを払った。
俺の手よりも少し小さな細身の手袋、そして、耳当て部分に可愛らしい毛糸玉が施された毛糸の帽子。
まず間違いない。
きっと女子学生か、若いお姉さんのものだろう。
緩む口元を引き締める。
"『落とし物ですよ』とクールに差し出す俺"を脳内で予行練習しながら、俺の足は自然と早まった。
やがて前方に人影が見えた。
追いすがって声をかけようとして、出かけた言葉を飲み込んだ。
ヘッドホンをつけた女子大生が、不審そうに俺を振り返る。
スマホをいじる両手には、しっかり手袋がはまっていた。
彼女の冷たい視線に耐えられず、さも「なんでもありませんよ」という風に、俺は女子大生を追い抜いた。
(どうしよう……いっそ、ここらの塀に掛けておくか)
落とし主は見つかりそうにない。
そう思い、俺は近くの民家の石塀に、手袋と帽子を載せようとして――
「おい、あんた何用だい?」
民家の庭にいたおばあちゃんが、じろりとこちらを睨めつける。
「あ、これ、落とし物で。その、ここに掛けさせてもらおうかな、と……」
「人んちの壁に置くんじゃないよ、迷惑な。ちゃんと交番に届けておやり」
気まずさに小声で言い訳する俺に、老婆はけんもほろろにそう言った。
(くそ、いっそ戻るか?)
しかし、先ほどすれ違った女子大生が頭をよぎる。
絶対に気味悪がられるだろう。
来た道を振り返る。
なお悪いことに、先ほどの老婆が勝手口から頭を出して、こちらをじっと見ているではないか。
退路を断たれた俺は、仕方なしに足を進めた。
右手に手袋、左手に帽子、そして――
「財布……?」
今度は財布が落ちていた。
持ち主の情報がないかと中を検める。
「千円札が4枚。小銭とカード、あと鍵か」
残念ながら、個人情報が読み取れるものがない。
(くそ、誰だよナンバーレスカードなんて考えたやつ。名前も何もないじゃないか)
色々面倒になってきた。
老婆の言う通り、交番に届けたほうが良いだろう。
二つ折りの財布を閉じようとして、「チャリ」と金属音がした。
キーリングがはみ出して、鍵がうまく収まらない。
(……家の鍵、だよな)
雪が残るこの季節、寒空の下で途方に暮れる美少女の姿が、頭を過ぎる。
『困っている人がいたら、助けてやるんだよ』
そうだ、じっちゃんも言ってたじゃないか。
(待ってろ、今俺が届けてやる)
俺は財布を掴み、反対の手で手袋・帽子をしっかり握り直すと、一本道を駆け出した。
(幸先良いぞ!)
少し走ったところで、まだらに残る雪の上に、スニーカーの跡が見えた。
持ち主は近い。
そう確信し、走り続けた俺だったが――
靴が落ちていた。
驚愕に、思わず俺は足を止めた。
丁寧に、道端に揃えられた一対のシューズ。
そこに、持ち主のただならぬ心境が込められているようで。
「いやいや、鞄に穴が空いてたんだよ。部活かなんかのシューズが落ちて…」
俺と同じように親切な人が揃えて置いてやったのだろう。
そう言い聞かせる。
どうしたものかと思い、靴には手を出さずに俺は駆け出した。
まだ間に合った。
そこで、進むのをやめていれば――
晩冬の風が一本道を吹き抜ける。
既に日は半分地平線に埋もれてしまい、街灯の明かりが灯る。
薄暗くなった住宅街の通りでも、それは遠くから目についた。
ダウンコート。
白くてふんわり、首元にファーがついた、おしゃれなコート。
道の真ん中にこれ見よがしに落ちている。
「いやいや、さすがにこれは……」
ただごとではない。
落として気づかぬ訳ないだろう。
(もう全部放っぽって、帰ろうかな)
けれども、それで納得できるだろうか。
後悔、しないだろうか。
「ええい、ままよ」
コートは放置だ。
まずは持ち主を確認する。
俺は再び走り始めた。
せめてこのとき、コートだけでも拾わなかったことを。
俺は後悔してもしきれない。
***
ついに、足跡がはっきり見えた。
高級住宅街のこの辺りは、両脇の塀が高く、しっかり雪が残っている。
街灯の明かりに照らされて、ポツポツと続く小さな足跡はおそらく――靴を履いていない。
一度、大きく息を吐いた。
夜の冷え込みが強く、蒸気のように吐息が白い。
俺はスマホを取り出した。
万が一に備え、110番の準備だ。
走って乱れた呼吸が整うと、意を決して俺は前に進み始めた。
素足の跡をなぞるように進む。すると今度は――
「ブラウスと、スカート。その下は……」
制服だ。
闇に溶け始めた道の上に、異常の塊が落ちていた。
白いブラウスに紺のプリーツスカート。
まるでその場で脱ぎ捨てたように、くしゃりと無造作に重なっている。
そして、上下の服の下には何やら細い紐と薄い布地。
ばっと視線を反らした。
その瞬間、何かが聞こえた気がして、道路の先を見つめた。
「助けを……呼んでいるのか?」
正直、怖かった。
しかし、確証もなく通報するのも躊躇われる。
俺は、勇気を振り絞って、一本道を全速力で駆け出した。
遂に、人影が見えた。
ゆっくりと振り返ったその人は――
華奢な、小さな黒い影。
「あら。拾ってくださったの?」
優しげに微笑みながら問いかける、レオタード姿の小さなおじさん。
雪の寒いこの冬に、剃り残しが見える白い素肌を、惜しげなく晒している。
身につけるのは、真っ黒の光沢のあるレオタードのみ。
濃い唇の赤が、妙に艶めかしい。
俺は、戦慄した。
震える体をなんとか動かし、ロボットみたいにカクカクした動きで、財布と、手袋、帽子を差し出した。
「ありがとう。あら?」
おじさんの声が、冷たさを帯びた。
ぞくり、俺は震えて動けない。
「他にもあったでしょ?」
「ちょうだい?」とでも言うように、レオタードおじはこちらに手のひらを差し出した。
「……拾わなかったのね」
おじの声が豹変した。
凍てつく声、表情が消え、口元だけが動いている。
見開いた目は瞬きをせず、焦点が合っていない。
「中途半端な善意だこと」
今すぐにも逃げ出したい。
けれどもちっとも動かない身体が、おじの方に吸い寄せられる。
「拾ってくれたものは返してあげる。でもね、拾わなかったものは――」
耳元で囁かれた瞬間、意識は途切れ――
***
新聞の片隅に、小さな記事が載っていた。
若い会社員の男性が、帰宅途中に行方不明になったらしい。
そして同時期、奇妙な都市伝説が広まった。
"一糸まとわぬ男の怪異"
帽子と手袋、そしてなぜか片手に財布をもったソレは、夕暮れ時に現れるらしい。
「拾って――誰か、拾ってくれ」
皆さんは、どこまで拾いますか?
(ちなみに、全部拾うと……)




