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学校のトイレで小便をしていた勲の隣に、別の男性教師でやはり三十代の野村がやってきて、話しかけた。
「先生、井口さんに気があるんですか?」
「え? なんでですか?」
勲は焦り顔で問うた。
「やたらと見てませんか? 最近」
「ああ……」
やばっ、そんなに目立ってたのか。もー、母さんが余計なことを言うもんだから、ちょっと意識しちゃったじゃんかよー。
そう彼は心の中でつぶやいた。
「いえ、恋愛感情なんて、これっぽっちもありません。ただ、あの先生、姉ご肌っていうか、すごく頼りになるものですから、困ったことがあると相談しようかとすぐに思ってしまって」
「ハッハッハッ、そうでしたか。しかし、あまり女性に力を借りると、情けない男だなどと思われかねませんので、なんだったら私を頼りにしていただいてもいいですよ。アーハッハッハッハー」
野村は高笑いした。
「はあ……」
悪い人間ではないと思うし、明るいのは結構なのだけれども、この野村という男の、ノリというか、テンションというかには、自分はとてもついていけないと、勲は日頃から感じているのだった。
「あ、そういえば——」
一足早く用を足し終えて、手を洗っていた野村が、表情は微笑んだままだが、緊張感のある雰囲気へと態度を一変させて、言った。
「先生、近頃何か気になったことがありませんでしたか?」
「え? いや、ですから、井口先生は……」
「彼女ではなくて」
野村は真顔になった。
「はい?」
勲は目をしばたたいた。
「怖い目に遭ったりしませんでしたか?」
「怖い目?」
「例えば、脅迫されただとか」
「……」
彼は、何のことやらちんぷんかんぷんで、すぐに言葉が出なかった。
「別に、何も」
ようやくそう返して、首を横に振った。
「そうですか。先生、あの大場によるリコールの件、何人かの先生が異様に擁護して、おかしいと思いませんでしたか? それまで特に彼を評価したりだとかしていたわけじゃなかった方ばかりで」
「ああ。言われてみれば、そうですね」
「ここだけの話ですよ」
野村は小声になった。
「あの人たちみんな、大場を支持するように、脅されたらしいんですよ。あくまで噂ですけどね」
「ええ?」
勲は驚いた。
「私も特に変わったことはないのですが、下っ端の教員で影響力はないですし、脅迫される材料となるようなやましいこともないので、何の被害にも遭わずに済んでいるのかもしれません。しかし、へたに大場に盾突くと、わかりませんよー。お互い気をつけましょう。では」
そう言い残すと、野村は勲の反応や返事をうかがうことなく、あっという間にトイレから出ていってしまった。
「ええ……」
とっくに止まっているけれども、勲は尿を出す体勢のまま、しばらくの間茫然としたのだった。
「どうかしたんですか? 井口先生。なんだか、ぼーっとした顔になっちゃってますけれども」
職員室で、トイレでの出来事からようやく落ち着いた勲に言われて、早紀は独り言のように声を発した。
「河埜先生たちのことを悪く言ったけど、私のほうが全然生徒についてわかってなかったのかも」
「はあ?」
「子どもたちはちゃんと考えてるし、大場くんが生徒会長になったら、もっとみんなの良さを引きだしてあげられるのかもしれないよ」
「ええ?」
この前の会話からのほんの短期間での彼女の変わりように、勲はまたしても茫然となった。
まさか、井口先生、あなたも脅迫されて?
いや、待てよ。今の話しぶりからすると、それよりも、大場に洗脳された可能性のほうが高いな。
自身の席で、勲はそう考えた。
世の中には他人を洗脳する能力に異常に長けた人間がいるということを、彼は知っていた。
だとしたら、俺も洗脳されかねない。それに、脅されるほうだって、これから何かされるのかもしれないし。野村さんに注意されたように、大場に盾突いたりせず、おとなしくしているのが身のためだな。
でも、いいのか? そんなんで。
だって、しょうがないだろう、教師の鑑のような井口先生までこの有様なんだから。俺なんかに何ができる?
勲は、自分は頼りなく見えるし、また実際に己がいかに駄目かを、しっかり自覚していた。ゆえに、生徒の大半、へたをしたら全員から、馬鹿にされているかもしれないと思ってもいた。
それでもまったく構わなかった。都合がいいときだけこき使われて、わずかの感謝もされることがないとしても、子どもたちが立派に成長して、幸せになってくれさえすれば。誰からも気づかれていなくても、彼の生徒を思う気持ちは、教師の平均の遥か上をいっていたのだ。
しかし——
勲は虚ろな表情でぼそっとつぶやいた。
「できるわけがない」




