第一章
翌日、水曜日、雨も上がり晴天であった。早朝、天美はジョギングをしていた。その日とは言わずに、大雨でない限りほとんどの日なのだが、
ショートでウルフカットの黒髪。一見、日本人に見えるが、天美は南米の一国、セラスタ生まれの日系人で、正式名は、アマミ・ボネッカ・カスタノーダである。日本では、田野田天美と名乗っていた。
彼女は日本に来てから、一、二時間のジョギングをかかさず行っているのである。
だが、そのコースは、来日当初から少しづづ変わり、現在では、自宅のある天神山から少し離れた距離を走る最低十キロぐらいのランニングを日課としていた。
自宅を出て、広尾の方に向かい、有栖川宮記念公園を一周もしくは横切り、自宅近くにある天神山公園を横切って、商店街の方に抜けるというコースである。
天美は、このコースが非常に気に入っていた。有栖川宮記念公園も天神山公園も、自然豊かな公園で、走っていて気持ちがいいからである。
また、有栖川宮記念公園に集まる常連の人たちとの、ふれあいも楽しみの一つであった。
ここ、記念公園は麻布の閑静な地域にあり、周辺には大勢の外国人が住んでいた。
記念公園内で足をとめた天美は、いつものように、外国人の青年の連れている犬に向かって声をかけた。
「おはよう、アンディ君。今日も元気ね」
その犬は、真っ白なスピッツである。
「キャウーン、キャウーン」
飼い主にくくられたアンディは天美を見ると、なつっこそうに近づいてきた。そして、彼女の顔をペロペロとなめてきた。
「ははは、くすぐったい、アンディったら」
顔をなめられた天美は笑っていたが、すぐに、思い出したように、
「では、今日の、ごちそう」
と答えると、ジャージのお尻ポケットから、かねてから用意をしていたペット用のビーフジャーキーを取りだした。そして、
「アンディ、今日もいい子にしていたから、あげるね」
と言って、スピッツに分け与えた。飼い主の青年が日本語で声をかけてきた。
「天美ちゃん、いつも、ありがとう」
金髪が似合う三十代前半の若者である。甘いマスクで、どこからどうみてもハンサムという言葉が似合う整った顔の青年であった。天美はその青年に向かって言った。
「ミスター・アロン、おはよう。アンディ君、本当にかわいい」
「そう言ってもらえるとうれしいよ。アンディは僕にとっては子供同様だからね」
「でも、アロンさん。さびしくない」
「ははは、神様が、僕たちの仲に嫉妬して、子供を与えてくれないのだよ。ぼくは、ワイフとアンディがいるだけで充分さ」
アロンは屈託もない表情をして答えていた。そこに、もう一人の人物が、天美より二つぐらい年下の感じの少年だ。彼は、
「よっ、お姉ちゃん、グーテン・モルゲン」
とドイツ語で声をかけてきた。人なつっこい、栗色の髪にクルクルした目をした中学生で、名前はヨルクだ。
ヨルク少年は、トレードマークとも言える、両耳にミニヘッドホンをつけていた。彼もまたランニングをするために、公園を利用しているのだが、どうも、走るだけではさびしいのか、携帯端末で音楽を聴いているようであった。
天美も笑顔で、あいさつを返した。
「ヨルク君ね、グーテン・モルゲン」
「お姉ちゃん、今日は、どれぐらい走ったの?」
ヨルク少年は、言葉を日本語に変えて聞いてきた。あいさつだけは、格好をつけてドイツ語を使ったが、日本語もある程度はしゃべれるのである。
「五キロぐらいかな。今日も、もう少し公園内走るつもり、だって、気持ちいいし」
「そうだね。確かに気持ちがいいね。では今日も、今から銅像のところまで競争しようよ」
ヨルク少年の提案に天美はのった。
「いいよ。では、どの銅像にする」
「今日は、新聞少年の像の前にしようかな」
「決まりね!」
と天美が声を出したとき、
「おやおや、本当に若い子たちは元気がいいですねえ」
声をかけてきた人物がいた。洋装ずきんをそつなく着こなした、一見、六十代に見えるロシア人の女性である。天美は、その女性に気づくとロシア語であいさつをした。
「ナターシャさん。ドーブラ・ウートラ」
「ドーブラ・ウートラ。天美ちゃん、そして、ヨルクちゃんとアロンさん」
ロシア人の女性、ナターシャもロシア語であいさつを返すと、
「今日は、昨日と違って、いいお天気ね」
と日本語に言葉を変えて話しかけてきた。やはり、彼女も日本が話せた。話によると、彼女は、一度、日本人の男性と結婚したのだが死別をしたようである。
そのナターシャは笑みを続けながら、
「あら、鳥さんが啼いているわ。何かしら?」
「さあ、よく聞く声だけど」
天美は首をかしげ、そして、ヨルク少年は答えた。
「ツグミじゃないかな」
「そう、ツグミさんね。年を取ったせいか、うっかり忘れちゃった。そう言えば、おばさんの国ロシアでは、そのツグミさんのかわいらしい唄があるの。今日はおばさん。本当に、すがすがしい気分だから、今から歌おうかな」
ナターシャは微笑みながらそう言うと、そのツグミについての唄を歌い始めた。つかみどころのない、のほほんとしたマイペースな女性であった。
とまあ、このような光景が、公園での通常である。天美は、この会話もまた、楽しみで記念公園内を走っているのであった。
公園に集まってくるのは、外国人だけではなかった。当然というか日本人もいた。
「おはよう、ございます。今日もいい天気だすなあ」
「おっはあ、姉ちゃん。よく続くねえ。おいちゃんも感心するよ」
彼らもまた、ジョギングをしている天美に声をかけ、天美もまた、その、声をかけてくる人たちに、笑顔で、あいさつをしながら走り続けた。
記念公園を出ると住宅地である。午前六時半、朝が早い人たちは出勤をするために、通りを歩いていた。
天美は、ここでも、声をかけてくる人に、あいさつをしながらランニングを続けた。
そして、いよいよ、自宅近くにある天神山公園に到着した。ここ天神山公園は、彼女の住むマンションがある天神山三丁目の隣りの二丁目に存在した。
記念公園の五分の一の面積か、この公園内をも走るのが日課である。その天神山公園を抜けると商店街だ。早朝七時、小売店のシャッターは閉まっていたが、コンビニは当然のこと、ファーストフードや牛丼店も開いていた。
彼女は、そのうちの一件に入った。むろん朝食のためである。そして、食事をすますと、再び走りに出かけるのである。
午前八時頃、天美は、現在、自分の住居としているマンション港豪苑に戻ってきた。
港豪苑、名前の通り都内港区、天神山に位置する豪奢な建物である。地上二十四階建てのコンクリート製なのだが、よそのマンションとは、大きく外装が変わっていた。
その外観は普通のコンクリート建ての建物と違い、コンクリートながらも韓国や台湾にある高級ホテルのように一層一層小さな破風がついていた。
玄関もまたこっていて、老舗旅館のように切り妻破風造りである。
購入価格は、最低でも三億をゆうに超え、有名人か、青年実業家か、会社重役というような高給取りしか住まないと、うわさされる特別なマンションであった。
なぜ、成人にもなりきっていない彼女が、こんな、超高級マンションに一人で住んでいるかというと、やはりというか大きな理由があった。
このマンションの真の持ち主は、セラスタに住むザニエルという人物であった。
その男、天美と同じ名字のザニエル・カスタノーダは年令は七八才、表向きは、セラスタで民営カジノの経営をしていたのだが、裏では別の顔を持っていた。反政府者たちに援助をしているレジスタンスの顔役であったのだ。
天美は幼少の頃、政府の把握していなかった、日本人村、そこが犯罪組織に滅ぼされると、わけあって、レジスタンスの隠れ里に住むことになった。そして、そのころの彼女は戸籍がなかった。里の長からザニエルに預けられ名字をもらったのである。
彼女には特殊な能力があり、セラスタ時代、このザニエルのもとで、その能力を使い何度も犯罪組織や非人道的で無茶な政策をする政府などと対決をしていた。
だが、その行動も行き過ぎ、彼女はセラスタにいられなくなった。その結果、ザニエルは資金を出して、天美を日本に住まわすこと(追いやったともいう)にしたのである。
ザニエルは、政府とのトラブルの中心になる天美に、帰ってきて欲しくないので、日本にとどまってくれるのなら、金銭的援助を惜しまないと約束した。
そして、物語はここから始まった。
天美は最初は上野駅近くにある、身体横町という名前の安旅館に逗留していた。昔は出稼ぎにくる労働者たちの宿であったが、最近では外国人留学生の方たちの定宿になっている感じである。身元保証もいらず、ある程度のまとまった金を出せば、詮索されることもなく住まわせてくれる、まことに条件のよい宿屋であった。
ただ、やはり十五才の少女一人が住むのには、とても、おすすめしない危険な場所である。それでも、今までは特殊能力のおかげで事なきを得ていた。
だが、ある日を境に、その環境は変わることになった。
その日、いつものように、天美は、宿近くの公衆電話からザニエルに電話で近況報告をしていた。その会話の途中、ザニエルが次のような言葉を言ってきた。
「ところで、これはな、前から、俺が何度も言っていた話だけどな、正式に住むところは、すでに決めたのか?」
「それ、まだなの。なんか探すの面倒だから。どこでも泊まるとこ、あるし」
天美は面倒くさげであった。助詞が言葉足らずなのは、まだ、しっかりと、語学を会得してないからだ。
「だけどな、お前が住んでいる場所は、物騒で不安定なところらしいじゃないか」
「そんなの、セラスタで慣れてるから平気平気。もっと、ひどいとこばっかりだったし」
「もっと、ひどいとこか。確かに、うちのスラム街に比べたらましか」
「そう、あそこに比べたら、安全すぎて笑っちゃう」
「そうか」
ザニエルはそう相づちをうっていたが、用件を思い出したように、
「やはり、だめだ。せっかく、日本に来たのだから、もっともっと、日本らしいところに住まないとな」
「日本らしいって」
「それはまあ、いろいろあるだろう。あと、どんなに高くてもいいから、新築で海が見える、いかにも高級感がある場所がいいな。そういう場所を見つけてくれ」
「えっ!」
天美は思わぬ発言に驚いた。
「どうした、不満なのか?」
「そうじゃないけど、また、どうして?」
「実はミレッタの提案なんだ」
ザニエルは答えながら、バツが悪そうであった。ミレッタというのは、年は二十三才、天美がセラスタに住んでいたとき、彼女の教育係をしていたザニエルの孫娘の名前だ。
ミレッタの両親、つまり、ザニエルの息子夫婦は、彼女が生まれてすぐに、犯罪事件に巻き込まれて事故死していた。そのため、ザニエルは、その孫娘を、かなり、甘やかせて育てていたのであった。
「確かに、ミレッタの言いそうな言葉」
天美は、いやみっぽく答えた。彼女も、このミレッタのミエや上昇志向の考え方のおかげで、何度も、おかしな事に巻き込まれ、ひどい目にあい、へきえきしていたからだ。
「だけど、わったし、高級なとこ趣味じゃないし」
「しかしなあ、ミレッタが頼むのだよ。あいつは、『日本に行ったとき、ホテル代わりに泊まりたい』と、言っているからな」
「ということは、い、いずれ、こ、こっち来るの?」
天美は言葉をふるわせていた。以前、セラスタ時代のように、面倒なことになるかもしれないという、怯えのためである。
「仕方がないじゃないか。俺の言うことを聞いてくれ。金はいくらでも用意するから」
と、その無茶苦茶な条件を、孫に甘いザニエルはあっさり飲んだのだ。
「いくら、お金出すと言われたって」
天美は、ちゅうちょしていたが、ザニエルは、なおも自分のペースで言葉を続けた。
「とにかく、早く決めた方がいいぞ。前も言ったように、お前からばかりではなく、俺からも連絡を取りたいからな。今の場所ではダメだ」
「でも、そんなミレッタの希望通りのとこ、簡単に見つかるかなあ」
「あいつからの命令でもある。できるだけ探してくれ、援助は惜しまんからな」
そして、天美は、探しに探して何とか見つけたのであった。それを、惜しむことなくザニエルは大金を出して購入し、とまあ、このような理由で、天美はこの超高級マンション港豪苑に住んでいるのであった。
建物の玄関をくぐると、迫撃砲でも壊れないぐらい分厚く頑丈なガラスの扉が、目の前をふさいでいた。高級マンションによくある、住人以外は簡単に入れないようにする扉だ。
この扉を開くためには三つの方法があった。
扉の前の機械に部屋番号を入れて、住民から部屋で開閉ボタンを押してもらう。
所持している部屋のカードキーを、その機械に差し込む。
横の警備員室にいる守衛に声をかけ、ボタンで開けてもらう。のいずれかだ。
天美は、いつものようにその警備員室に声をかけた。
このところ、警備員室には衛藤という若い守衛と、もう一人五十年配の朽木という守衛が勤務しており、その日は彼女は朽木守衛に開閉ボタンを開けてもらった。
中に入った彼女は、そのまま、奥のエレベーターの方には向かわず、手前に見える階段に向かった。
むろん、その階段で上るためである。階段で二十二階まで登り切って、彼女の朝の運動カリキュラムが、すべて終わるのであった。
階段を上りきり、天美は、自室のある二十二階に到着した。両壁が木目のコーティングでデザインされた廊下を歩きながら、彼女は自分の部屋に向かった。
部屋に入る直前、天美は怪しい視線を感じた。見張られているような妙な視線である。
彼女は警戒をする目つきをしながら、自室である二二一一号室、部屋名・琥珀、の斜め向かいに位置する二二〇八号室、部屋名・大河をにらみつけた。
最近、音沙汰がない、この部屋が非常に気になるからであった。
記念公園で出会う外国人のほかに、もう一人、彼女に接してくる外国人がいた。それが、この部屋、大河に住居を持つ香港人藩であった。
本人は貿易社長と称しているが、実際は何をしているかどうかわからない男である。
天美は藩を警戒していた。いつも、目付きの鋭い側近を二人つけ、身を警護をしているからだ。また身体から出てくるオーラが、どうにも、うさんくさいというか、
天美が警戒をしているのを知ってか知らずか、この香港人もまた、ことあるごとに親しげに声をかけてきていたのであった。
だが、気のせいではなかった。実際、今までも話に出てきた中に、毎日の天美のジョギングの習慣を利用し、彼女の身を狙っていた人物は存在していたのだ。
夕方、天美は、朱雀競羅と麻布の一角、天神山商店街を談笑しながら歩いていた。
実は、この競羅と天美は、お互いに気がつかないながらも、叔母と姪の関係であった。天美の実父、朱雀煬介と競羅が、腹違いの兄妹であったからだ。
彼女の両親の朱雀夫妻は、仕事でブラジルに住んでいた時、セラスタ政府に抵抗するゲリラが引き起こした事件の巻き添えをくらって、不慮の失踪をとげてしまった。
その後、十五年たち、天美が日本で生活するようになったとき、神の与えた偶然なのか、最初に知り合った人物が、いまだに叔母と気がつかない、この朱雀競羅なのであった。
さて、この二人が、商店街を歩いている理由は、ただの買い物である。天美の着る洋服を、競羅がコーディネートするためであった。
ファッションビルで目的の買い物を終え、二人は帰路を歩いていた。
「それで、あんたは、相も変わらず、その三人組の連中たちとジョギング中、公園で会っているのだね」
「その三人組の連中って、ざく姉の言葉づかい、相手がなんか悪い人たちみたい」
天美は声をかけてきた競羅にそう答えた。助詞だけでなく、年上に対する敬語の方も使えないようであった。
「そういうわけでないけどね、何かこう、すっきりはしないね」
「わったしは、運動するとき、さびしくなくて、ちょうどいいけど」
「あんたが、そう思っているなら、こっちは、これ以上は何も言うことはないけどね」
競羅は納得しないような顔をしていた。
「それより、せっかく、買い物したんだから、今はそっちの話しないと」
「買い物かよ。それも、あまり、こっちの趣味に合う服はなかったね。洗練されすぎているというか。外人が似合うような服ばっかりだったよ。おまけに高いし」
「でも、それを、わったしにすすめるなんて」
「だって、あんた外人だろ」
競羅の方も、外国人ときちんと言えない性格だ。
「そうだけど」
「それに、ここが大事なことだけど、あんた、目立ったらまずいだろ」
競羅はそう言った。彼女もまた、天美が能力を持っていることを知っている一人であったからだ。そのせいで、気苦労の方もたえないのだが、
「それも、わかってるけど」
「だからこそ、この場に似合う服を着なければならないね。あまり、場違いな格好をすると、変装かと思って妙にかんぐられるからね。もとはといえば、そういう理由で、わざわざ、この商店街まで、こっちは、服の見立てを手伝いにきたのだろ」
「そうだったけど、よくよく考えてみたら、大げさだったような。このへんの人たち、みんながみんな、わったしが、今、買ったような服、着てるわけじゃなかったし」
「けどね、あんたが住んでいるのは特異な場所だよ。とんでもないというか、こっちの稼ぎじゃ、五回生まれ変わっても無理だね。あんな、目のくらむような高級マンションは」
「だって、それ、わったしが好きで住んでるわけじゃないし」
天美は反論した。実際、天美は、格好をつけない自然主義の持ち主である。
「その言い訳は、耳にたこができるくらい何度も聞いたから、わかっているよ。向こうの国にいた女ディーラーの要望だったのだろ。こっちとほぼ同じ年の、まったく、うらやましいね。本当に何も裏の事情を知らされてない、お気楽さんは、いいよねえ」
その競羅の言葉に反応した天美。
「お気楽さんって、ミレッタのこと」
天美は口をとがらせた。ミレッタは天美にとって、姉さん代わりの人物、やはり、いやみを言われたのが面白くないからだ。
「そうだよ。あんたの教育係だったかね、その女性だよ。自分の家が、反政府ゲリラの拠点だということを、まったく知らされていないという」
「でも、ミレッタだって、両親、犯罪組織に殺されてるし」
「小さい頃だし、それも、ただの事故死だと教えられているのだろ。その分、祖父である、反政府の親玉、何と言ったかな、ダニエルだっけ」
「ザニエルさんだけど」
「そう、そのザニエルというじいさんにかわいがられて育てられたのだろ」
「確かにそうだけど、ミレッタ自身、それなりのお金、自分で稼げるし。何といっても、バクチの腕前、ざく姉より、うんと上なんだから」
「それはまあ、ものごころついたときから、カジノで生まれ育ったのだから、勝負カンは自然と身につくのだろうね。駆け引きも技も色々と知ることができるしね」
競羅は答えながらうらやましそうであった。
「本当に、ざく姉ったら」
「すべて事実だろ。話を戻すけど、あんたが、普通じゃ住めない高級マンションに住んでいることも事実なのだから、そこから話を始めないとね」
ここで、競羅は何か妙なものを見つけたのか、
「おや」
と声をあげた。天美も気がついたのか同様な態度である。そして、競羅は口を開いた。
「あんたも、気がついたようだね。向こうの大勢、人が集まっている場所を」
その言葉通り、彼女たちがいる前方の歩道の一角に人だかりが発生していた。
それを見て、天美は反射的に言った。
「もしかして事故かな?」
「そうでもないみたいだよ。歓声らしきものが聞こえるし、何かをやっているのだろ。店の前らしいけど、何の店だい?」
「えーと、確かあそこは」
天美は答えながら首をかしげた。
「何だ、知らないのだね」
「だって、わったし、まだこの商店街、きっちり覚えてないし」
「そうかい、何にしても行けばわかるよ」
競羅はそう答え、そのまま歩道を歩いて行った。
近づくにつれ、その人混みの正体がわかってきた。
それは、福引き! であったのだ。派手な、赤、黄、白で彩られたポップの前で、その福引きは行われていた。オレンジのはっぴ、を着た男性の前にテーブルが置かれ、その上に、小箱に入った多量の三角くじが入っていた。競羅はそれを見て言った。
「どうやら、福引きみたいだね。くじの」
「そうみたい」
「何か、今日だけ、この店で、いくらか買ったら福引きかできるようだね。看板に、『本日限り、当店の商品をお買い物をなされた方に、五百円ごとに抽選券を一枚贈呈いたします』と書かれているよ。さて賞品は何かな?」
競羅は看板を読み上げてきたが、突然、声をあげた。
「おっ、これは、またまたすごいものだね」
「どうしたの?」
「ペアでハワイ旅行だって、一組だけどね」
「ハワイ旅行か」
「あんた、行きたいのかい?」
「当たれば行きたいけど」
「それはこっちも同じだね、ただなのだから」
競羅もそう答えたが、すぐにシニカルな笑いをすると言葉を続けた。
「けどね、こんなことを言っちゃ悪いけど、まだこの時間では、あのくじの中に特賞は入ってないと思うね」
「入ってないって!」
「しいー、声が大きいよ。こんなこと常識だよ。よーく考えてみなよ。もし、今の時間に三角くじを引いた人物がいて、それで商品が当たったとする。となると、ハワイ旅行を目指して、くじを手に入れようとした人たちはどうするのだよ?」
「もう、無理にここの商品、買わなくなる」
「その通りだよ。だから、最初から特賞を入れておくのは、よほど間抜けな店だよ。みんな目当てはその特賞だからね。ハワイ旅行が、開始早々になくなってしまったら意味がないだろ。残りはみんな、大したことない賞品ばっかりだよ。よくてハンカチ、あとはお決まりのティッシュだろ」
その競羅の言葉通り、特賞以外は、あまり魅力のない景品ばかりであった。 そして、競羅の言葉も続いた。
「わかっただろ。仮に店側が当たりを出させる気があるとしたら、時期を見はからって、もっと、あとの時間に入れるね。買い物客が多くなる、夕方とかね」
「そういうこと知ってても、くじ、引く人いるね」
「みんな、そこまでは考えてはいないよ。おまけにもらったくじなんて、いわゆるノリみたいなものだから、買い物をしたら、その流れで引くよ。だいたい、この時間だけしか、買物に来れない人たちだっているだろ」
「確かにそうだけど」
「ああ、そういうことだよ。もともと、こんなようなとこの特賞なんて、当てにしてはいけないよ。ましてや、今の時間に当たりが出るわけは・・」
その競羅の言葉の途中、背後からカラカラと手鐘の音が響き渡った。はっぴを着た男性が鳴らしたのだ。そして、その男性は大きな声を上げた、
「特賞、出ました! ペアのハワイ旅行!」
はっぴを着た男は、周辺全体に聞こえるように興奮した口調で叫んでいた。
「おい、出たのかよ! 確か一組だけだったはずだけど」
競羅が思わず驚きの声を上げ。そして、天美もちゃかすように言った。
「ざく姉の言葉、はずれちゃったね」
「まったく、よくわからないよ。店の考えが。うーん」
「それだけ、正々堂々、勝負した店ということでしょ」
「当たったのだから、まあ、そういうことなのだろうね。きっと、当たらせて好感を得た方が、あとあと良い方に向かうと考えたのだろ」
相変わらず、世の中を斜めに見ている競羅の言葉にはとげがあった。
そのあと、天美は興味を持って、福引きコーナーを見つめていたが、黒山の人だかりで、中の様子はわからなかった。だが、数人の主婦らしき人物の声は聞こえた。
「当たった人、知っているわ。よく奥さんと、いちゃついて買い物に来ている人よ」
「違う、その人は彼女。まだ、あの子、学生さんよ」
「何にしてもいいね、ハワイ旅行ペアか。うちもダンナに甲斐性があればね」
とうらやましそうな口調で、くっちゃべっていた。
その夜、某所では、ある人物が鬼気迫る顔をして、
「これは、復讐ではない。次の犠牲者を出さないための仕方のない措置か」
自分に向かって言い聞かせていた。
その人物は、目の前の一枚の写真を見つめながら、なおも、
「奴には天罰が当たったが、お前のようなものを、二度とは出させないために、やらなければならない!」
激しい口調でつぶやいていた。そして、しばらく、瞑想するように目をつぶっていたが、
「そうだなあ、それでは、お前の気持ちは晴れないか。肝心な、あの女をこらしめないとなあ。でも、それはできないのだよ」
再び、写真に向かって話しかけた。残念そうな顔で、
そのあと、その人物は冷酷な表情に戻ると、
「だからこそ、奴の補助で、あの、のうのうとマンション暮らしをしているセラスタの小娘、あいつを、このまま見逃しておくわけにはいかない!」
厳しい声を出した。そして、もう一枚、別の少女が写っている写真を、引き出しから取り出すと、その写真の少女の顔に万年筆を突き立てた。
そう、その人物は、田野田天美の顔写真に、憎しみをこめた表情を続けながら、万年筆を突き立てていたのである。