第十章
翌日の午前九時頃、競羅は、再び御雪の事務所を訪れていた。
今日の受付は、いつもの魯ではなく、一目で、臨時の派遣とわかるネームをつけた女性であった。絵里も、まだ退院していないので、急きょ頼んだのであろう。
受付の手続きをすませ、中に通されると、御雪が厳しい目をして持っている書類に目を通していた。御雪は競羅に気づくと、声をかけてきた。
「お待ちしておりました。何か進展が御座いましたか?」
「何もないよ。だから、やっぱりというか、昨夜は、まったく眠れなかったよ」
「さようで御座いますか」
「けどね、あんたの方は何かあったのだろ。こうして、呼び出したところをみると」
「さようで御座います。天美ちゃんの、連れ去られた先は、いまだに、判明いたしませんが、より深い背景が浮かび上がって来ました」
「結局、居場所は、わからなかったのだね」
「さようなことで競羅さん、今回、天美ちゃんを拉致なさった実行犯のことですけど」
「警察上がりの守衛だろ。けどね、奴を追っても、あの子は見つからないよ。今頃、奴は作戦成功の褒美のお金を持って、どこかにしけ込んでいるよ」
「競羅さんは、まだ、さようなお考えのようですね」
「いや、もっともっと、最悪なことも考えているよ。用がすんだから、消されたということも、充分考えられるね。そうなると、手がかりはぷっつりだね」
「では、競羅さんは、あくまでも、朽木元警部補は買収されたとお考えなのですか?」
「ああ、そうだよ。あんたも昨日、そんなように感じていただろ」
「確かに、さようで御座いましたけど、少々事情が違ってきました」
その答える表情を見つめた競羅は、少し顔を厳しくして言った。
「そんな神妙な顔して言うのだから、大きく事情が変わったのだろうね」
「さようで御座います。事件の見方が、まったく変わってしまいました。まずここで、お尋ねをいたしますが、競羅さん、朽木元警部補に、いかような印象をお持ちですか?」
「印象と言われても、暗くて金に汚い、元二流警官としか思わないね」
「わたくしも、面識が御座いませんから、何とも申せませんけど、さようなイメージは間違いだと申し上げておきます。実際のところ、競羅さんは、朽木元警部補と、お会いしたことがあったはずなのですが」
「いや、なかったと思うけど」
「ですが衛藤氏ですか。あの守衛のお言葉によりますと、何度かお会いしてますと」
「ああ、ナル坊か。奴は変なことばかり言うのだよ」
「果たして、さようで御座いましょうか。衛藤氏のおっしゃる通り、競羅さんは、間違いなく、朽木警部補とはお会いしております。きっと、わたくしもですが」
「そんなことは、どうでもいいだろ。過去、犯罪者に会ったとか、会わなかったとか」
「いや、非常に重要なことなのです!」
本当に、重要なのか御雪のトーンが高くなった。
「なぜなのだよ。たとえ、会っていたとしても、今更、事件の解決にはつながらないだろ。だいたいね、そんな影の薄い人物が、こんな、大それたことを計画するわけないだろ。誰かに命令をされた、ただの使いっ走りだよ」
「ほほほ」
御雪は突然、笑い出した。その笑いに反応した競羅、
「何だよ。その態度は?」
「競羅さん、あまりにも、場違いな言葉をおっしゃいましたので、まずは、影のうすい人物だと申しましたが、競羅さんも、さようにお感じになられましたか」
「ああ、感じたけど、あんた、何か言いたそうだね」
「さようで御座います。かような往年の名刑事様を、影が薄い方と申しましたので、つい、おかしくなりまして。やはり、競羅さんもかと」
「しかしね。どうみても、そんな人物だろ。それを名刑事なんて」
「ですから、その先入観こそが、今回の事件につきましては禁物なのです。わたくしも、だまされましたぐらい、朽木元警部補はあなどりがたい人物ですから」
「そんな人物なら、絶対に気がつくと思うけどね」
「競羅さん。ここで、一言、申し上げておきますが、皆様に、影が薄い、と思わせる人物こそが、一番、気をつけないとならない方なのですよ」
「つまり、くせ者ということか」
「さようで御座います。確かに、本来の性格が地味な性格な方もいらっしゃいますが、わざと目立たないように、地味をよそおっていらっしゃる、人物もいらっしゃるのです」
「確かに、あらためて言われてみれば、そういう、控えめな人物は気をつけないといけないね。裏でこそこそと何をしているか、わかったものではないからね。ドラマでも見ていると、どんでん返しの悪役ということが多いから」
「競羅さんは、まだ、大きな勘違いをなさっていますね」
御雪は再び苦笑をした。
「何か、おかしいかい?」
「競羅さん、おっしゃっていてお気づきになりませんか。競羅さんのお説でいきますと、競羅さんの気をつけなければいけない人物は、身近にいらっしゃることになります」
「身近って?」
「まだ、お気づきになりませんか。あの地味な眼鏡をかけられた新聞記者です」
「か、数弥のことかよ」
「さようで御座います。話はくどくなりますが、競羅さんの考えによりますと、一番、気をつけなければならない人物となります」
「数弥が、まさか!」
「競羅さん。先入観は禁物です、と申し上げましたでしょう」
「では、あんたは数弥が黒幕だと」
「わたくしは、一言も、さようなことは、一言も、申して上げておりません。ただ、地味にも色々御座います。数弥さんのようなケースも御座いますが、存在自体が気がつかないという。まさに、朽木元警部補はさようなタイプの人物です」
「存在自体が気がつかないだって」
競羅は答えながら驚いた顔をした。
「さようで御座います。わたくしも、いく度か港豪苑に出入りする機会がありましたけど、あの方の存在は昨日まで気がつきませんでした」
「あんたも、そうかよ。確かに警備員だから、その気にならないと目につかないだろ」
「ですけど、もう一方穴吹氏ですか、彼につきましては、気がついておられたのですよね」
「それは、あれだけ、体格の大きい人物なんだから気がつかないわけがないだろ。あんただって、気がつかないわけないと思うけど」
「さようで御座いますね。穴吹氏、そして衛藤氏、お二方の個性が強かったのも、朽木元警部補にとって有利にはたらかれたと考えられます。また、たまたまだと存じますが、元警部補がお一人のときに訪ねられることがなかったことも。実はわたくしの調べましたところ、あの方は現役時代、落ち葉隠れ、と呼ばれた名刑事でした」
「落ち葉隠れ?」
思わず復唱した競羅、
「さようで御座います、落ち葉は茶色ですよね。土の色も茶色です。ですから、落ち葉や土と同じような茶色のものが、まぎれ込んでいましても、簡単には気がつきませんね」
「ああ、ときと場合によるけど普通は気がつかないよ」
「ですから、落ち葉隠れと呼ばれていたのでした。尾行の名人で、神奈川県警では数々の本部長賞をいただいております。さて、さような朽木元警部補は、いかようにして、天美ちゃんを気絶させることができたのでしょうか」
「それは、昨日も結論が出なかったけどね、組織に頼まれて、怪しいクスリとかガスでも使ったのだろ。そろそろ、警察の方でも、その結果が出ているのではないかい?」
「むろん、結果は出ております」
「何だったのだよ?」
「さようなお答えの前に、お話の続きを、朽木元警部補には、もう一つ特技が御座いました。怪しまれないように相手に近づき確保なさることです」
「なるほど、そういう奴か、思ったより厄介そうだね」
競羅も御雪の言葉の意味がわかってきたのか、そう答えた。
「さようで御座います。相手は捕まるまでは危機感を感じません。元警部補の怖ろしいところは、まったく、その相手に気配を感じさせないことなのです。ですから、競羅さんも、二、三度、お会いなさっても、覚えていらっしゃらないのです」
「いや、よくよく思うと、いたような感じがするね。か細い枯れ木のような人物が」
「さようで御座いましたか。ふらふらと枯れ木のような人物がいましたら、皆様はいかように思われますでしょう。たいていの方は、大したことない無害の人物だと判断をなさいますが、さような考えは大きな間違いです。たとえを申し上げますと、ボクサーをご存知ですね。ボクサーという方は、ご自分の打力を高めるために減量をなさるとか」
「ああ、その通りだよ。身体が軽い方が、素早く拳を決めることができるからね。なるほど、だんだんと、あんたの言いたいことがわかってきたよ。確かに剣道の範士でも、やせた人物の方が多いからね。戦う前の雰囲気からは、強いという気配を、まったく感じさせないけど、戦ってみたら段違いに強いという」
「元警部補につきましては、そちらの、たとえの方が非常にしっくりきますね」
「おい、本当かよ。そうだとなると、かなりの使い手だよ」
競羅は青ざめた。使い走りと思っていた人物が、とんでもない相手だとわかったからだ。
「おそらく、闘気を最大限に押し殺して、天美ちゃんに近づかれたのでしょう。そして、間合いに入られたとたんに一撃を!」
「居合いか」
「さようで御座います。報告が遅れましたが、二人の女性警官が、なぜ、気を失われたか申し上げておきます。お二方とも急所を一撃で打たれておりました」
「当て身だね。確かに場所によっては、しばらくは目が覚めないからね」
「皆様、あっというまにやられたのでしょう」
「ますます、奴が不気味の存在になってきたね。しかし、だからといって、金で動いたという事実は変わらないだろ。よりプロの人さらい屋、という印象はうけたけどね」
「わたくしも、さような感じがいたしましたけど、まだ一概には、決めつけることはできません。調べているうちに動機らしきものが見えましたから」
「動機だって、もしかして、昨日聞いた、水死体で見つかった娘、が関係しているとか」
「競羅さん。さすがにカンがするどいと申しますか。さようで御座います」
「おいおい。では、やはり殺されていたとか」
「さようなご説明の前に、しばらく休憩をとりましょう」
「おい、肝心な話はあとかよ」
「さようで御座います。今、一つ資料がそろいませんので。では、わたくしは用事が御座いますので、ひとまず退室をさせていただきますが、競羅さんは、そのまま、お茶を飲みながら、おくつろぎを続けてもらえますか」
そう言うと、御雪は、一旦、所長室を出て行った。その立ち去ったあと、競羅は厳しい顔をしながら思っていた。
〈居合いを使うとは、御雪の言ってた通り、あなどりがたい奴だね。しかし、それほどの手練れとなると、ただの使い走りではないね。それより、動機というのが気になるね。あのもったいぶった態度、かなりの、隠し玉を用意しているね」
そして、十五分ぐらいは過ぎたであろうか、
「お待たせしました」
ドアの外から御雪の声がした。そのあと、その御雪が手にファイルらしきものを持って部屋に入ってきた。そして、もう一人、いつもなら受付席に座っている魯君、フルネーム魯信明が、一緒に所長室の中に入ってきた。競羅が不思議そうな目で見つめるなか、御雪が声をかけてきた。
「おや競羅さん。まだ飲み物を口につけていませんね」
「ああ、まだ、色々と考え事をしていてね。しかし、なぜ?」
「魯のことですね、お答えをいたします前に、まずは、こちらの記事をご覧願えますか」
御雪はそう言うと、持っていたファイルを広げた。そのファイルには、
【相模湾で若い女性の死体、行方不明の女子高校生か】
と、小見出しの記事がはさまれていた。そのファイルを見ながら、競羅はしみじみとした声をあげた。
「これか、その自殺した事件というのは、本当にあったのだね」
「さようで御座います。まずは、記事をお読み願えますか」
御雪に言われ競羅は記事に目を通した。
「いかがですか?」
「いかがと言われても、返答に困るね。当時、十六才か、かわいそうぐらいしか。それで、あんたとしては、この記事以上にわかったことはあるのかい?」
「さようで御座います。記事にはのせられておりませんが、当時、神奈川県警に勤めていらした同業者の方に事情について尋ねますと、驚くべき事実が判明しました」
「もしかしたら、ヤク中だったのかい?」
「なぜ、さようなことを」
御雪は驚いて問い返した。
「どうも、図星だったようだね。けどね、当てずっぽうだよ。ただの」
「しかし、さようなことにいたしましても」
「実は、昨日、ナル坊から自殺の話を聞いたあと、何か漠然と、そんなことが頭に浮かんだのだよ。今、あんたが驚くべき事実と言ったので、思わず答えただけなのだけどね」
「さすがと申しますか競羅さんですね」
「そんな言葉はどうでもいいよ。それで、どういうことがあったのだい?」
「では、ここからは、魯に説明を変わらせていただきます」
「なるほど、だから、ここに同席させたのだね」
「さようで御座います。魯が探り出してきました情報ですので、やはり、かようなとこは、魯からのご説明を、直接に聞かれた方がよろしいかと存じまして。実のところ、わたくしも、まだ、詳しいことまではうかがっておりません。魯は、ほんのたった今、事務所に戻ってきましたばかりですので」
「そうなのかよ」
「さようで御座います。では魯、今から、わたくしたちに報告をお願いいたします」
御雪に言われ、魯はかしこまった声で口を開いた。
「では、今から小民が、つかんだことを報告するであります。所長の想像通りでありましたように、朽木元警部補の娘さんの死にはファン・ゴン・ユェンが絡んでおりました」
「えっ! 確かファンって!」
競羅は驚きの声を上げた。
「さようで御座います。バラバラ殺人の被害者です」
「ということは、今回の事件の根は奴なのか」
「競羅さん。まずは、落ち着いて魯の報告を最後まで拝聴しましょう」
御雪は競羅にそう言うと、魯の方を向き言った。
「では、魯、報告を続けてもらえますか」
そして、再び魯は口を開き始めた。
「話を要約しますと、ファンは十七年前も日本で、ブローカーのような仕事をしておりました。現在は、まだ、まっとうだともいえる仕事なのですが、当時は、かなり、闇に近いことを行っておりました。それは人身売買や麻薬のあっせんであります」
魯の言葉を競羅は、かみしめるように聞いていた。
「さて、話を続けますが、当時のファンの手下は香港人というよりも、東南アジア、南米の人間がほとんどで、それも女性でありました。ファンはその女性たちを使って、出稼ぎに来た東南アジアや南米の女性、または家出をした日本人の女の子たち、にクスリを売っていたのです。その一人が自殺をされた夏江さんでありました」
「さようで御座いましたが、しかしまた、なぜ?」
「所長、日本にすんでおります南米の女性というのは、みなラテン系の顔でしょうか?」
その質問に御雪はハッとした。
「そうであります。夏江さんに接触をしてきたのは、一見、どこから見ましても、まったく日本人とは見分けのつかない、当時、十代の日系セラスタの女性でありました」
「何、セラスタだって!」
競羅が声を上げた。思わず出てしまったのだ。
「はい、セラスタであります。朽木元警部補の娘、夏江さんに、その日系セラスタの少女が近づきクスリ仲間に引き入れたのであります」
「また、何でそんな奴らに!」
競羅は、いったん声をあげたが、さすがというか、ある程度は、その背景が理解できた。
そして、魯の説明も続いた。
「まずは、夏江さんの父親の朽木元警部補のことですが、昔の刑事にありがちな、家庭よりも、捜査を第一に考える人物でありました。妻を過労でなくしても、その態度は相変わらず変わりませんでした」
その説明を聞きながら競羅は思っていた。実に、よくありがちな話である。実際、不良になった昔の仲間には、そのような仕事中毒の親を持った子供も何人かいた。
「それは、娘にはこたえただろうね。思春期だったらなおさら」
競羅の同情的な言葉に、 魯も同様に同情を帯びた口調で言った。
「まさに、そうであります。母親もいず寂しかった。だけど、父親は相変わらず仕事に夢中でかまってくれない、そこに、悪魔が忍び込んだのでありましょう」
「寂しいからクスリか。これもよく、ありがちな話だけど、結局は悲劇しか生まないね」
「そうであります。より、クスリが欲しくなった夏江さんは、セラスタ人少女の言いなりにならざるおれませんでした。その結果、ファンの組織に入ることになったのであります」
「売春組織か」
「そうであります。組織に入れられて使われるうちに、みるみる間に彼女の身体はボロボロになっていきました。夏江さんは父親のことを悩まれたと存じます。娘が麻薬中毒者で売春組織に属していることがばれたら、警察にはそれ以上はいられません。思いあまった夏江さんは、近くの海の断崖から身投げをしたのであります」
魯の説明を競羅は目をつぶって聞いていた。そして、自殺に追い込まれるまでの悲劇を、頭の中で浮かべながら、感傷的な気持ちになっていた。
その感傷的な気分を振り切るように、競羅は声を出した。
「だから、あの香港人と、クスリに誘ったセラスタ人少女を奴が恨んでいるのか!」
競羅の声に魯は一瞬びくっとしたが、すぐに体勢を立て直し、報告を続けた。
「そうであります。さて、朽木警部補の後の処遇でありますが、娘は麻薬中毒でしたが検挙をされることなく命を落としましたので、警察を辞めることはありませんでした。
とは言いましても、警部補への仲間からの風当たりは強くなったのであります。普通の神経の持ち主でしたら依願退職でありましょう。また警部補は、以前にいくつかの県警特別表彰をもらっておりましたので、本部としても、おもい切った処分もできず、そのまま、県警の刑事部の在籍を許されたのであります。
とは言いましても、部下は誰一人、警部補にはついてきませんでした。娘一人を守れず、クスリ漬けにしたような人間に嫌悪感を感じたのでありましょう。警部補は一匹狼に近い状態になり、県警では異端の存在になったのであります」
「なるほどね、奴には奴なりの事情があったのか」
競羅は、少しだが朽木元警部補に同情する声を出した。
「さて、話を続けますと、部下がいないのにかかわらず、警部補の犯人検挙率はあがりました。犯罪者を憎む信念が強くなったのでありましょうか。組織犯罪関係の事件ではトップクラスの実績をあげるようになったのであります。そして、三年前、定年退職を迎え、現在にいたったのでありました。以上で報告を終わらせていただきます」
報告後、御雪がねぎらいがてら感嘆の声をあげた。
「さすがです。早くも、真相をつきとめられましたとは。今回のこと、中華がらみの件に関しましては、魯にお頼みして本当によかったです」
「今回もまた、パーパの手をわずらわせてしまいましたが」
魯は、はにかむように答えた。
「そのお父上に、わたくしが非常に感謝をしていたことを、よろしくお伝え願います。いずれ、近いうちに御礼を申し上げにうかがいますことも」
「そこまでしていただかなくても結構であります。所長には、いつも小民、お世話になっておりますので、パーパもいつでも使ってくれ、と言っておりましたし」
「ですが、わたくしの・・」
御雪の言葉をさえぎり競羅は声を出した。
「ちょいと、いいかい」
「なにでしょうか、競羅さん」
「その今回、殺された香港人の元締めは、そのとき、どうなったのだい? 警察に捕まったのかい? それに娘に近づいたセラスタの少女はどうなったのだよ?」
「パーパからの報告によりますと、ファンは夏江さんの死体が上がるとすぐに、まずいと思ってか本国に帰国したようです。セラスタ人の少女も同様に帰国をしたみたいです。そのあと十年間は、ファンは日本に戻ってきませんでした」
「結局、そのときにケリがつけれなかったということか」
競羅は難しい顔をして、つぶやいた。そして、御雪も同様な顔で口を開いた。
「ですから、今回の事件が起きたと申しますか。しかし、わたくしの想像ですが、朽木さん、復讐を一度は断念なさったのでは御座いませんでしょうか」
「断念、また、なぜだよ? それに、奴に、さんづけなんて」
「まずは、わたくしのお話を、きちんとお聞き願いますか。さんづけもご了承願います」
そして、御雪は自分の推理を話し始めた。
「朽木さんが、娘の夏江さんの死亡後も警察を続けられた理由は、もう一つあったと存じます。おそらく、夏江さんの亡くなられた背後関係をお調べになられるためでしょう」
「いや、やめた方が調べやすいだろ。自由がきくし」
競羅は反論した。
「果たして、さようで御座いましょうか。わたくしも探偵のお仕事をしていますと、よく壁にぶつかります。発信記録とか住民登録は簡単な方法では調べられません。その点、警察の方々は、裁判所から令状をいただくだけで簡単に調べ上げることができます」
「けどね、いくら警官でも、個人的な理由で、そんな勝手なことはできないと思うけど」
「魯の報告に御座いましたように、夏江さんの事件後は、朽木さんは一人ぼっちで捜査をしていたようです。捜査にかこつけて、さような行動はできたと存じますが。
さて、問題はここからです。努力のかいが御座いまして、朽木さんは、夏江さんの死の真相をつきとめることができました。ですが、肝心な犯人たちは、すでに、国内から逃げだし姿を消していました。朽木さんは、くやしがりましたが、どうにもなりません。かような怒りの心を組織犯罪を摘発することによって晴らしておられたのでしょう。そして、そのまま定年を迎えることになりました」
「そして、その再就職の仕事場に、再び復讐の相手が現れたということだね」
「さようで御座います。朽木さんの、お気持ち、多少はご理解していただけましたか」
「けどね。かといって、あの子を、ここまで巻き込む必要はないだろ」
「先ほどの魯の報告に御座いましたね。わたくしも、大変、驚いておりますけど、夏江さんの死に関わっておりましたのは、当時十代の日系セラスタ人の少女でした。マンションでの守衛の仕事についておられた朽木さんが、天美ちゃんと、潘のお二人が一緒の場面を、ご覧になられましたら、いかようなお気持ちになられたでしょうか。当時のことを思い出され、天美ちゃんを潘と共に制裁なさる決心をされたかと存じます」
「しかし、まと外れだよ。それって、江戸の仇を長崎で討つ、ようなものだろ」
「確かに、さようで御座いますが、人様の心は複雑なものなのです。天美ちゃんがセラスタ人ということが、朽木さんに取りまして決して許せないことだったのでしょう」
「何か、それって、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、っていう考えだよ。おっと、ことわざを連発するなんて、磨弓に似てしまったかな」
競羅は答えながら苦笑をした。
「さような考えでは御座いません。朽木さんが、天美ちゃんを狙われましたのには、もう少し、何とも申し上げることができない、微妙なお考えがあったかと存じます」
「その何とも言えない微妙な考えって何だよ?」
「天美ちゃんがお住みになっておられるマンションですが、朽木さんは、潘が天美ちゃんを手元に置いておきたいがために、あてがわれたものと想像されたと存じます」
「おいおい、それって奴が、あの子を怪しげな香港人の愛人、と思ってたということだよ」
「さようで御座います。怒りに視野を閉ざされ、物事を正確に見分けることができなくなられたのでしょう。おそらく、朽木さんは潘が天美ちゃんを新たなパートナーとして、再び少女を麻薬に引き込む犯罪、を計画中かと想像をなされたかと存じます。夏江さんと同じような被害者を二度とだされないために、二人を何とかなさろうかと」
「だいたい、事情はわかってきたけどね。そういうことなら、香港人を始末して、生首を送りつけるだけで充分だろ。大きなショックを与えたし、警察の目を、あの子に引きつけることもできたのだから、今更、さらうことまで考えなくてもね。そこまでしたからには、この裏には、まだ何かあるかと考えないとね。何度も言うようにあの三人組とか」
「ショックを感じておられないのが、しゃくに触られたのでは御座いませんか。まだ反省が足りないので、もう少し、こらしめましょうとか」
「こらしめねえ。何か、あんたの説明を聞いていると、奴の単独犯行の感じがするけど」
「むろん、さようで御座います。今回、決行をなさった決め手は、穴吹氏の恒例の家族旅行です。守衛がお二人だけになりますと、かなり、行動が自由になりますから」
「けどね。何度も表彰された名刑事だったのだろ。よく考えたら殺人まで犯すなんて」
「恨みと申すのは、人様では、はかれないものですが、さような程、強かったのでしょう」
「それでも引っかかるね。どうしても、もう一つ何かがあるような」
「おそらく、寿命が、いくばくかだったのでは御座いませんか。おタバコも、かなり根元の方まで吸われておられましたし」
「それも、確かに考えられるけどね。奴の単独犯行となると、どうしても、納得がいかないことが色々と出てくるのだよ。まず聞くけど、マンション前に止まっていたワゴン車は、どうやって説明をするのだい?」
「競羅さんこそ、きちんとお考えになられた方がよろしいかと。あらかじめ無人の車が用意されておりましても、別に問題は御座いません。さようの方が逃げ出しやすいですし」
「わざわざ、偽物の洗濯屋の屋号を用意してまでかい。それにね、誘拐犯が一人で少女をさらう場合。普通だったら、目立たないように平凡な小型乗用車を使うだろ」
「さようの理由までは存じ上げませんが、手頃なレンタカーとか」
「まだあるよ。動機が復讐だけであったら、こんな目を引く、手の込んだ方法を使わないよ。相手は十五の女の子だよ。不意を打たなくても簡単に捕まえることができるだろ。それを、こんな方法にしたのは、奴があの子の能力に気をつけろと、誰かに吹き込まれたからだよ。だいたいね、最初に奴を疑ったのは、襲撃現場に落ちていたタバコが始まりだろ。奴はそのとき、組織の言葉が本当かどうか、あの子を観察していたのだよ」
「ただ、こわがらせるためだけに、公園の襲撃を計画したことも考えられますが」
御雪はそう答えたが答弁は苦しそうであった。
「こらしめの次は、こわがらせかよ。もしかして、あんた、奴の単独犯行なら問題がないと勘違いをしているのではないのかい。いいかい、ここが肝心のところだけど、あんたの考えている単独犯行にもせよ。公園の襲撃現場で起きた光景を見た奴は、何か、あの子に異常を感じて警戒をしているということだよ。その証拠に、いまだにあの子、帰って来ないのだよ。自由の身なら、最低でも連絡ぐらいはしてくると思うけどね」
「確かに、さようで御座いますが」
「とにかくね、単独犯と裏に組織、ここで、あんたと意見は分かれたようだね。ということで、こっちは、これで、おいとまするよ。最後に一言いうけど、今回のようなケース、一つの考えにとらわれたら、取り返しのつかないようなことになるような感じがするよ。まあ、こんなこと、今更、探偵のあんたには言いたくないけどね」
そう言って、競羅は部屋から出て行った。