第九章
「お待たせをいたしました」
しばらくして、御雪が小箱を持って部屋に戻ってきた。その小箱を開けると、何ともいえない柑橘類系の香りが匂ってきた。中に入っていたのは高級そうなティパックである。
競羅が思わず声を上げた。
「これか、いい匂いだね」
「さようで御座います。いましばらくお待ち願えますか、お造りいたしますので」
御雪はそう言うと、カップにそのティパックを入れ、お湯をそそいだ。できあがると、
「では、遠慮なくいただくよ」
競羅はティカップを口に近づけた。
「いかがです、ひとごこち、つきましたでしょうか」
「ダメだよ。あの子が、どこに連れていかれたか、場所が判明しない限りね」
「さようなことにつきましては、わたくしも色々と手は打っているのですが、まだ」
「ああ、こんなとこで考えているばかりじゃ、らちがあかないよ。こういうときは・・」
競羅はつぶやいていたが、すぐに、明るい声になった。
「そうだ! まずは、あいつに聞けばいいんだよ!」
「あいつと申しますと」
「うっかりと忘れていたけど数弥だよ。今回の事件、あの子のことだから、警察に張り付いていると思うよ。ということで、あんたとの話は、ここで終わらせてもらうよ」
そう言って、競羅は事務所から立ち去ろうとすると、御雪が声を上げた。
「競羅さん。もう、お帰りですか」
「そうだよ。あんたとの用事は終わっただろ」
「ですが、わたくしとしても、まだ、色々とお話をしたいことが」
「けどね、今は一刻も猶予のない状態だろ」
「ですが、お手元にある電話で、連絡を取られるだけでよろしいのに」
その御雪の言葉に競羅は納得したのか、
「そうだったね。ついつい、あせってしまって」
「さようで御座います。かようなときほど冷静になるのです」
「わかった、うまく、出てくれるといいけどね」
競羅はつぶやきながら電話を取りだし、その発信ボタンを押した。
すぐに、相手は出た。少し眠たそうな声で、
「あー、姐さんすか」
「あんた、のんびりしてるね」
「そんなことないすよ。社内で港豪苑の事件について資料を集めていますよ」
数弥はムキになって答えた。さぼってると思われたのが、いやだったのか、
「資料集めか、では、その港豪苑で第二の事件が起きたことを知らないようだね」
「また、死体が見つかったんすか?」
「いや違うよ。いいかい、驚かないで聞きなよ。あの子ボネッカがね、二時間ぐらい前に、その港豪苑内の自室でさらわれたのだよ」
競羅は真剣な声で言ったが、数弥の方は、
「またまた、姐さん、冗談を」
と本気にしなかった。
「あんた、こっちが冗談を言っていると思うのだね」
「だって、姐さんも知っての通り、天ちゃんには、例のすごいスキルがあるんすよ。それに、自宅にいるのに、さらわれるんすか。どこかに遊びにいっただけでしょ」
「遊びに行ったぐらいなら、こっちも、あわてて、あんたに連絡を取らないだろ」
「そうすけど、いきなり拉致と決めつけるのは。たった二時間、姿を見せないだけでしょ」
「けどね、情況がそう物語っているのだよ。いいかい、よく聞きなよ」
そして、競羅は情況について説明を始めた。 最初は本気にしなかった数弥も、
「でも、あの天ちゃんが、そ、そんな簡単に」
と、さすがに不安に感じたのか、声を震わせながら応答した。
「そのあたりのことは、こっちも、よくわからないよ。けどね、今話した一連の事情から見ても、あの子が裏口から連れ出されたというのは、充分、推理ができるだろ。とにかくね、あんたも、どうこう言わずに現場に行ってみな。警察が、うじゃうじゃいるからね。こっちの言っていることがウソでないことはわかるよ」
「そ、そうすね。今から港豪苑に向かいます」
「では、ついたあと、何かつかんで報告をするのだよ。わかったね」
競羅は最後にそう言ったが、すでに通話は切れていた。
通話が終わると、御雪が声をかけてきた。
「どうも、新たな情報がなかったようですね」
「ああ、知らなかったようだね。未成年の拉致事件なのに」
「となりますと、警察の方は、事件の発生を隠された、ようですね」
「隠したって?」
「さようで御座います。未成年者の失踪、誘拐、かような事件の場合、さらわれた方々の安全を確保なさるために、警察は事件をマスコミには報告をいたしません」
「確かにそうだね。『警察に知らせると人質を殺すぞ』というのは誘拐犯の常套手段だからね。本当に殺されたことも何度かあったし、だから、警察も慎重になっているわけか」
「ですから、数弥さんでも、事件をご察知できなかったのでしょう」
「それなら、無理して連絡を取ることはなかったよ。向こうから、『姐さん大変す! 天ちゃんが、自宅で行方不明になりました!』と、いつもの口調で連絡してくるはずだから」
「ほほほ、さようで御座いますね。確かに、数弥さんでしたら、真っ先に、かような反応を、されますでしょうね」
御雪は数弥の性格を知っているので、そう笑って答えた。
「ああ、さっきは、まだ、そこまで考えつかなかったから、思わず電話をしたけど・・」
競羅の言葉の途中、御雪の胸元が光ったように見えた。そして、声をあげた。
「少し、お待ち願えますか。今、わたくしの端末に合図が」
「何か連絡が入ったのだね。音がしないところから見て、バイブか」
「さようで御座います。では、失礼をいたします」
御雪は胸元から携帯端末を取り出し、その相手との通話は始まった。
始まったころは、明るい顔をしていた御雪も、会話が進むにつれ徐々に暗い顔になっていった。最後に、
「どうも、ありがとう御座いました。また、何か新しいことが判明いたしましたら、よろしくお願いをいたします」
と御礼の言葉を言って、その通話は終わった。
すぐさま、競羅は尋ねた。
「今の相手は?」
先ほどの捜査員の一人です。天美ちゃんが発見されましたら、連絡をしていただだくように、頼んでおきましたから」
「しかし、わざわざ、警察が連絡をかよ」
「わたくしのお仕事をお忘れでしょうか。探偵たるもの、日頃から、警察の一員の方々と仲良くしておくことは重要かと存じます」
「なんだ。言われて見れば、そんなものか。そう言えば、さっきも、色々と手を打っているとかなんとか、思わせぶりのことを言っていたし。それで、その肝心な連絡の内容だけど、どうも、いい結果ではなかったようだね」
「さようで御座います。残念ながら、かんばしい情況では御座いません」
「まさか、あの子の身に!」
「さようなことでは、決して御座いません。つい、今し方ですか、天美ちゃんを連れ去られたと思われるワゴン車が発見された、ということでしたが」
「でも、肝心なあの子はいなかったのだね」
「さようで御座います。車内には誰も乗っていらっしゃいませんでした。また、さような車体が発見された場所ですけど」
「海の中とか」
「競羅さん!」
御雪のとがめるような声に、競羅は慌てて弁解を、
「そういう意味じゃないよ。よくあるだろ、逃走車の始末をてっとり早くするために、海の中に沈めたとか、こっちが思ったのはそういうことだよ」
「さようなことなら、よろしいですけど」
「当たり前だろ。こっちはあんたより、ずーと、あの子と親しいのだよ。おかしな事を考えるわけないだろ。それより、その車というのは、どこで見つかったのだい?」
「実は、お車が発見された場所は、東京駅前でした」
「東京駅だって!」
競羅は驚きの声を上げた。想像していた場所と、まったく違っていたのか、
「さようで御座います。東京駅前の地下駐車場でした」
「となると、拉致犯人は、きっと」
「さようで御座います。おそらく、天美ちゃんは駅から電車で運ばれた、と存じますが」
「ああ、その可能性は高いね。手を引っ張るというわけにはいかないから、気絶をしたままの、あの子を、そのままトランクに押し込んだのと思うね。東京駅だったら、大きなトランクを持った人物がいても変に感じないからね。まいったね、これは。そうなると、捜索の範囲が広がって、ますます探しにくくなるよ」
「さようで御座います。警察も同様なお考えで、捜査を開始されたようです」
「しかし、今頃、あの子はどうしているのだか?」
「さようなことまでは存じません。ですが、競羅さんの、おっしゃる通り、トランク内でしたら、もし目が覚められた、といたしましても、何ともなりません」
「ああ、そういうことになるね。いくら、能力があるとしても、トランクの中じゃ・・」
競羅も顔をしかめて答えていたが、突然、声を上げた。
「いや、待てよ、そこまでするっていうことは、奴ら完全に、あの子の能力の存在を知って動いていると思った方がいいね」
「さようとは限りません。人様に怪しまれないような、ただの運搬方法の可能性も」
「そんなわけないだろ! 本当にもう、のんびりするのもいい加減にしないと」
「競羅さん、今一つ、落ち着かれたら、よろしいかと」
「あんたね。前も言ったと思うけど、こういう場合、落ち着いておれるかよ!」
「とにかく、落ち着きを願います。まずは、事実から見つめましょう。判明されたのは、天美ちゃんを拉致した車が東京駅で見つかったことだけです。トランクの中、何とかというお言葉は、あくまでも競羅さんが後付をされただけで」
「けどね、何度も言うとおり、あの子に触れられた途端、能力が発動するのだよ。それを、防ぐには、気絶をしているうちにトランクに押し込むのが普通だろ」
「ですから、競羅さんは、最初から、今回の拉致犯人が、天美ちゃんの、おちからの存在をご承知と申しますか、肯定を前提にしてのお話ですから」
「ああ、そうだよ。違うというなら、そこまでして、あの子をさらう必要はあるのかよ。その、拉致を一人で実行したという何とか言った守衛、そいつに、バックの連中が、最初のあつかいから運搬について、こと細かに指示を与えた、と考える方が普通だろ」
「朽木守衛のことでしょうか」
「ああ、朽木っていう名前だったか。警官上がりの」
「さようで御座います。とにかく、この場所で、これ以上、議論を続けていましても何も進みません。その朽木守衛について背景を調べませんと」
「ああ、そうだね。あんたの言う通りだよ。ぐだぐだ言い合っている時間なんて、もうないからね。それで、どうするつもりなのだい?」
「まずは、港豪苑に戻りまして衛藤氏に事情をうかがいましょう」
「ナル坊にか」
「さようで御座います。衛藤氏に朽木守衛のことにつきまして、お尋ねするのです。天美ちゃんの拉致のときに、お気づきになられたことも御座いますし」
「確かにそうだね。うまくいくと、あの子の行き先がわかるかもしれないからね」
こうして、彼女たちは再び事件の場、港豪苑に向かった。
競羅と御雪は、事件現場、港豪苑に戻っていた。
天美の拉致事件から三時間はたっているが、現場は騒然としていた。それは、ある意味そうであろう。前回、バラバラ死体遺棄事件が起きたうえ、今回は、その生首が送られた部屋の主が拉致されたのだ。
情報を察知したマスコミの車がむらがり、住民たちにインタビューをしていた。
その中に数弥もいた。競羅は、御雪と一緒にその数弥に近づくと声をかけた。
「あっ! 姐さんたち、いらしていたんすか」
数弥も気がつきそう声をあげた。
「ああ、結局のところ、情報を集めないとね」
「それで、いつ来たんすか」
「ほんの今だよ。それより、やはりというか騒々しいね」
「ええ、大変な情況す。現場の部屋には、立ち入りさえさせてくれません」
「そうだろうね。婦警二人が眠らされた上、未成年の拉致事件なのだからね。しかし、思ったより記者の数が多いというか」
「僕も、実際、驚いているところす。一番かと思ったんすけど、二社ぐらい先に来ていました。当然、情報の出所は内緒だと言っていましたが、両社とも知り合いがマンションに住んでいて、そこから通報が入ったみたいすね。ですから、警察の情報統制は厳しく、外部にはもれていないはずす」
その厳しく、という言葉を聞きながら、競羅は心中では小バカにしていた。徹底的に厳しければ、御雪に捜査状況が入るはずがないからである。だが、一応は、
「確かに、秘密で捜索をしている未成年の失踪事件を、当日に警察から公表することはないだろうね。それだけここに、マスコミの親戚か親友が住んでいたということか」
と話を合わすように答えた。
「ええ、そうみたいすね」
「何にしても、そうなってくると、やはり、この事件、新聞もテレビ発表もないね」
「ええ、当然そうなります。ですが、天ちゃんとしても、その方がいいんじゃないすか。【生首を送られた少女、謎の失踪】とか、面白おかしく書き立てられるのもいやすから」
「何か、その題名、あからさまに、二つの事件を結びつけているね」
「その方が一般受けするからすよ」
数弥はここまでは普通の口調だったが、やがて、声を小さくして言葉を続けた。
「実際、被害者の首は、天ちゃんあてに送られたのですし」
「それで、あんたは、どう思うのだい? つながっているのか違うのか?」
「わかりません。でも他社の連中は、ほとんどが、こんな風に結びつけています。潘大人の殺害は、やはり香港マフィアであって、事件の参考人の少女が、警官たちに保護されているところを、マフィアの仲間が助け出したと」
「助け出した? では、その記者連中の脳内は、あの子が香港マフィアの一員か」
「ええ、そういうことす。彼らが言うには、天ちゃんの身柄を取り戻すために、女性警察官二人を襲ったと、本当は警官たちも拉致したかったのだが、エレベーターが到着した音を聞いたので、そこまではと断念して逃げ出したと」
「たくましい想像力だね。それで、尋ねてきた人物も、女性二人だったわけだけど」
競羅は御雪を横目で見つめながら苦笑いをした。
「そのことすけど、あの時点では、まだ、そこまでわかりませんから、マフィア共も、おそらく、仲間の警官たちが護衛に来たと勘違いをして、撤退をしたと」
「なるほど、一応は話は通っているね」
「冗談ではないすよ。いくら何でも、天ちゃんを、そんな組織の仲間に!」
「けどね、背景を知らなければそんなものだよ。こっちだって、あの子のことを知らなければ、そんな風に感じるかも知れないね。《港区一角の超高級マンションに住む、日本人に見えるが得体の知れない一人暮らしの少女、その少女に届けられた香港人大物の生首、その結果、少女が警察にマークされて、二人の婦警が監視に置かれる。少女のバックの組織はまずいと感じ、強引に少女の奪回行動をした》とこんな感じかな」
「えっ! そんな」
「だから、知らないとそうなるよ。もしかしたら、捜査関係者の中にも、その記者連中と同じように、失踪を奪回だと疑っている連中が、そこそこいるかもしれないね。十条警部が指揮をしている限り、妙なことにはならないと思うけど」
「そうだといいんすけど」
数弥はそう答え、横にいる御雪も曇った顔をしていた。そのあと、競羅は、
「何にしてもね、こっちは、あの子が連れ去られたと確信をしているよ。それよりも、あんたの情報って、それかよ。記者たちの、くだらない妄想というか」
「ええ、残念ながら今のところは」
「あんた、本当に、くらいついているのかい?」
「むろんすよ。天ちゃんが、さらわれたんすよ! 僕だって現場が見られず、ストレスがたまっているとき、いやな話を聞いたから、イライラし始めているんすよ!」
数弥のボルテージが上がった。
「わるかったね。しかし、本当に他にないのかい? どんな、ささいなことでもいいから」
「ささいなことでよければ、あると言えばあるのですが」
「あるなら言いな」
「でも、余計に混乱しますよ」
「混乱するかどうかは、こっちが決めるよ。隠し事は御法度だとはわかっているよね!」
「そうすね、では言いますよ。実は、天ちゃんが裏口から連れ去られた時間に、近くに三人の主婦がいたんすよ。ラウンジがありまして、そこで休憩をしていたというか。しかし、彼女たちは、裏口から連れさらわれた天ちゃんを、見ていない、って言うんすよ」
「見ていないって、三人の女性がか?」
「いえ、正確には一人なんすけど。あとの二人は、裏口通路に背を向けて座っていたようすから、背中では見ることは不可能です。問題は通路が見える位置に座っていた女性なんす。彼女、佐治さんという名前の主婦すけど、その時間帯、裏口通路を通る人影を、まったく、誰一人見ていない、って証言しているんすよ」
「何だ、一人だけかよ」
「ええ、一人だけす。絶対に、誰一人通ったものを見ていない、って証言しています」
「あんたねえ、そんなの、その女性の見落としに決まっているだろ。つまらない報告をするものじゃないよ。一瞬、三人の女性が、見ていないと思って戸惑っただろ」
「ええ、ですが、姐さんが、どんな、ささいなこと、でも教えろと言いましたから。それに、混乱をするとも忠告しておきましたし」
数弥は面白なさそうな顔をして答えた。
「確かにそうだったけど、他にはないのかい。もっと、事件のカギになることとか」
「すみません、まだ」
競羅はなおも追求を続けようとしたが、横から御雪に洋服のすそを引っ張られた。
「何だよ!」
「おそらく、数弥さんは、本当に何もご存知ないようです」
「それで?」
「それで、では御座いません。わたくしたちが、ここを再び、訪れました理由をお忘れですか。守衛の方のお話を、うかがうためではなかったのでしょうか?」
「おっと、そう言えばそうだったよ」
「思い出していただければ、よろしいのです。さようなことで、まずは、この場を」
「ああ、そうだね」
競羅は、まずは御雪にそう答えた。そして、次に数弥の方を振り向き、
「とにかくね、何か情報が入ったら、必ず報告をするのだよ」
と言葉を残すと、その場をあとにした。
そのあと、彼女たちは、本日二度目の港豪苑の入口をくぐった。警備室内では、衛藤君が、窓口前でむずかしい顔をして宙をにらんでいたが、二人の来客に気がつくと、仕切りガラスの応答口から、いつもの口調で声をかけてきた。
「おや、大天使ちゃん悪魔ちゃん、また来てくれて。愛のささやきが足りなかったのかな」
「あんた、いい加減にしな! こんなときに、ふざけている場合ではないだろ!」
競羅の一喝に、一瞬、衛藤君は目を丸くしたが、まずいと気がついたのか、
「わるかった、確かに、今は冗談を言っている場合ではなかったかな。ここに来た用件はわかっているさ。あの子がさらわれたことかな」
と今回は、すぐに、普通の言葉使いになって応対を始めた。
「そうだよ、よくわかっているね。それで、朽木っていう奴について聞きたいのだけど」
「まずは一言、裏切られたっていう感じかな」
答えながら、衛藤君は顔をしかめた。
「感想はどうでもいいよ。奴のことについて知っていることさえ、話してくれればね」
「警察にも言ったけど、実のところ、よく知らなくて。無口で何も話さない人だったし」
「まったく知らないってことはないだろ。一緒に仕事をしていた同僚のはずだしね」
「同僚と言われても、会話なんて、ほとんどなくてさ」
「それでも、仕事上の話ぐらいはあっただろ」
「そうだけど、本当に仕事のことだけしか、話しかけてこなかったし」
「何か聞いていないのかよ。よく行く、立ち回り先とか店とか」
「それもないね。逆に穴吹さんなら、そういうことについて、Hな話ばかりしてくれるから、その分退屈しないけど、なじみの店の姉ちゃんのおっぱいが大きいとか・・」
「衛藤守衛!」
御雪の厳しい声がした。その声に、衛藤君は思わず肩をすくめた。その御雪は、いくぶん顔を赤らめながらも、質問を始めた。
「まったく、何もご存知はないのでしょうか。主任の正式なお名前とか?」
「名前ぐらいは、さすがに知っているさ。朽木留治て」
「とめはる様ですか。あとのことは? たとえば、確か元警察官でしたね。やはり、警視庁にお勤めでしたのでしょうか?」
「いや、神奈川県警。現役時代は有名な刑事だったらしいね」
「さようで御座いましたか。それで、お住まいはどこでしょうか?」
「だから、プライベートのことにまでは知らないよ。どうしても気になるなら、あとで本部で、尋ねればいいと思うけど」
「となりますと、ご家族のことも存じ上げませんよね」
「主任は一人暮らしさ。だから僕と同様に、ほとんどここが、ねぐらということで」
「一人暮らしですか」
「前に奥さんはいたけど、死別したということを、何かの拍子で言っていたから。あと、どうも、娘さんもいたらしいのだけど、ちょっと、その話は・・」
ここで、衛藤君の言葉が止まった。すかさず、尋ねた競羅、
「何か、隠し事があるみたいだね」
「いや、本当のプライバシーさ。だいたい、今回の事件には関係がないし」
「関係あるかないかは、こっちが決めるよ! 知っているなら言いな!」
競羅は厳しい顔をして詰め寄った。その顔に衛藤君は観念したのか次の言葉を、
「もうーこわいね、わかった言うよ。これは主任からではなく、会社の他の人から聞いた情報だから、確信は持てないけど、その娘さん、十七年前に水死体で見つかったとか」
「水死体だって。殺されたのか」
「どうも、話によると、海への身投げらしいね。主任に愛想がないのは、その事件が大きく人生を変えたのではないかな。話してくれた人も、『まあ、そういうことだから退屈でも我慢な』と言っていたしね」
「そうかよ。それで、その自殺をした原因は何だよ?」
「そんなの、わかるわけないよ。探偵なのだから、自分たちで調べれば」
「さようで御座いますね。では、さようにさせていただきます」
御雪が中に入って言った。そして、そのまま質問を続けた。
「では、別の質問に入らせていただきます。その朽木主任のことですか、今回の事件の前に、何か妙な様子は御座いませんでしたか?」
「妙と言うと?」
「落ち着きが御座いませんとか、よそよそしいとか、ですけど」
「そんなことは、なかったなあ。あるとすれば、さっき、警察に話したことぐらいかな」
「あったのかよ! それって何だよ!」
またも、突っ込んできた競羅、
「今日の午前中、メンテナンスの会社から、夕方に空調器械の点検をする、っていう電話がかかってきたのだけど、その電話、主任が取ったとき、一瞬、顔をしかめたような」
「それって、本当に点検の会社だったのかい! 今回の拉致の命令とか」
「急な連絡だったから、十条警部も怪しんだみたいで、そのメンテナンス会社に確認を入れたら、向こうも、その時間に電話をかけたことを認めたよ。だから、絶対に違うね」
「しかしね、もしそうだったら、奴は、いつ指令を受けたのだよ!」
その納得をしてない競羅に向かって、御雪が声を出した。
「競羅さん、落ち着きませんか。あったといたしましたら、おそらく、携帯等でしょう」
「携帯、確かに言われて見れば、そっちを使うよ。ばれたら面倒だからね」
競羅は、ばつが悪そうな顔をしたが、すぐに思い出したように、次の質問を、
「それで、その肝心な点検は、どうなったのだい?」
「中止さ、こんな事件が起きたら、それどころじゃないからね。今から思うと、主任の態度、行方をくらます予定だったから、面倒なことはいやだ、と感じたのじゃないかな」
「きっと、そうだろうね。それで他に、奴について何か気づいたことは?」
「あとはないね。たいていのことは警察に話しておいたから、そっちで頼むよ」
「承知いたしました。このたびは、お手数をおかけさせてすみませんでした」
潮時と感じたのか御雪は最後にそう言い、衛藤君との会話は終わった。
マンションを出ると、すぐに競羅が口を開いた。
「思ったより、話が進まなかったね」
「わたくしは、衛藤守衛のお話、かなり、参考になりましたけど」
御雪は収穫があったのか、機嫌よさそうな顔をしていた。
「実行犯が、口数が少ない愛想がない人物、とわかったことだけだろ」
「さようで御座いますか。わたくしとしましては、ある程度の背景が判明したということで、調査がしやすくなりました」
「けどね。あの子の連れ去られた場所がわからなければ、意味がないだろ」
「確かに、さようで御座いますが、神奈川県警の朽木留治氏ですか。なかなか、興味をそそられます過去をお持ちでしたね」
「過去というのは、十七年前に娘が自殺したことか」
「さようで御座います」
「関係ないだろ。人生観を変え、悪党に成り下がった動機にはなるけどね」
「さようなことも含めまして、今、一度調査をいたします。時間は御座いませんが」
「それなら、しっかりと頼むよ。しかしね、何というか。つまらない内容が多かったね」
その競羅の言葉に、御雪は反応した。
「競羅さん。一言申し上げますと、一見、つまらないと思われるものでも、実は、真相につながっていく重要な要素ということが、結構あるのですよ」
「けどね。見落としを意地張る女性とか、点検の話なんて、真相とは、ほど遠いだろ」
「そちらの話でしたか。さすがに、わたくしも、さようのことにつきましては無関係だとは存じますが、世の中いかようなことになるか、わかりませんので。何にいたしましても、ここで、一度、行動を別々にいたしましょう」
「ああ、こっちも事件からずっと、あんたとつきあってるから、少し休まないと。あんたとしても、こっちが、いないほうが調べやすいと思うし、いい報告を頼むよ」
「ご期待にそえられるようには、するつもりです」
御雪はそう答え、二人は、天美拉致の現場、港豪苑をあとにした。