犬「いざとなったら」爺「こいつを」
私は犬である。メスの柴犬だ。茶色い毛並みに丸いアーモンド形の瞳、ちょっと間の抜けた顔がかわいいともっぱらの評判だ。ペロという安直な名前をつけられたが、呼びやすく覚えやすいので割りと気に入っている。
長い間、ひとりの女の子と一緒にいた。この家の娘でどんどん大きくなったと思ったら、「元気にしててね。会いにくるから」といって家からいなくなった。東京というところにいくらしい。この田舎町では想像もつかないような大きな建物があるそうだ。
家に残ったのは白髪交じりのじいさんだけ。太っても痩せてもいず、いつも清潔な服を身につけて姿勢正しく歩いている。
「俺とおまえの二人になっちまったな。よろしくやっていこうや」
うぉんと鳴くと、じいさんはびっくりした顔をしたあとカラカラと軽快な笑い声をあげた。私もぱたぱたと尻尾をふって愛嬌を振りまいたやった。
家にいる間のじいさんは静かだった。娘がいたころは何かと騒々しかったが、じいさんは新聞を読むかテレビのニュースをみているばかりだ。
ごく少数の知り合いらしき人間が家を訪ねてくるぐらいで、散歩の時間以外は好きなだけまどろむことができた。
外にいるときのじいさんは本当に元気だった。
昼間の決まった時間になると、じいさんは私を連れて町を歩いた。とにかく歩いた。
この日は、山に向かうと山菜をさがすぞとはりきりだした。私は帰りたくなった。
「帰ったら天ぷらにしような」
テンプラというやつはうまい、私もはりきって探した。
それから山の中を歩くこと小一時間。私は正直へばっていた。喉も渇いたし、腹もへってきた。しかし、じいさんの歩調は変わらない。早くも遅くもない歩調でずっと歩き続けている。年老いたもの同士だというのに、人間というのはずいぶんとタフだった。
しかし、じいさんにも衰えはあったようで斜面に気づかずに足をすべらせた。驚く声をあげながらじいさんが視界から消えていく。あばよ、じいさん。
しかし、じいさんの手がリードをつかんだまま落ちるものだから道連れにされてしまった。首を思いっきり引っ張られきゃいんと悲鳴を上げた。
幸い、落ちた先で固い岩や太い木の幹にぶつかることはなく命に関わるケガはなかった。しかし、引きずられる最中に足をやってしまったらしい。立ち上がろうと足に力をこめると口からは情けない悲鳴がでた。
さっさと起きて私を助けろとじいさんの頬を舐めていると、じきに意識を取り戻した。
「あいたた、やっちまったなあ」
立ち上がろうとしたじいさんが痛みに顔をゆがめた。最悪だ。私もケガで動けない。
森の中が暗くなるのは早かった。日が暮れはじめたと思ったら、木々の隙間から照らしていた光がなくなるとあっというまだった。
まだ暑さの残る時期とはいえ、森の中に冷たい空気が流れ出した。
お互いの体で暖をとりながら考える。どちらのほうが体が長くもつだろうかと計算する。じいさんのほうが体も大きく体重もあるが、しょせんはよぼよぼのじじいだ。いざとなったら、と思いながらじいさんの細い首筋を見る。
「俺一人じゃどうしようかと思ったがおまえがいてくれてよかったよ」
じいさんが首にだきつく力を強くしてきた。こちらの顔をじっと見るその瞳の奥にある感情を読み取る。
こいつ、私と同じことを……。
それから、どちらが先にまいるかの根競べが始まった。
暗闇の中で、じいさんはしきりに私に話しかけてきた。私が子犬だったときのこととか。いつも一緒にいた娘のこととか。
「もしも、おまえが助かったら……俺の代わりに娘に叱られといてくれ……」
急に話し声がとぎれた。じいさんは地面の上に倒れこみ、荒い呼吸をくり返している。頬をなめてやると、異様に体温が熱かった。放っておけば先にじいさんの方がくたばるだろう。
どうやら私の勝ちらしい。
だから、私はその細い首筋に向かって顎を開いて牙を突き立てた。
森を抜けた頃、太陽が高く昇っていた。足の痛みなんてもうとうに忘れた。とにかく家を目指して重い体を引きずるように歩いた。
「ど、どうしたの。おじいさんもペロちゃんもそんな泥だらけで!?」
近所のおばさんが私たちを見つけると、わたわたと駆け寄ってきた。
助かったと思いながら、じいさんの襟首を噛む力を抜いた。つかれた。とにかく疲れた。
目が覚めると、やたらと薬臭い場所にいた。壁も天井も、私が寝かされているベッドのシーツも何もかもが真っ白で、真っ白な服をきた人間が行き来している。
顔を上げるとぬっと上から影が差した。
「よう、くたばってなかったか」
顔のあちこちにガーゼを貼り付けたじいさんがにやりと笑いかけてきた。足は包帯でぐるぐる巻きになっている。
「お父さん、ペロのおかげで助かったんだから、最初にお礼でしょ」
「いや、それはだな、なんか照れくさいだろ。なあペロ、おまえもそう思うよな?」
娘とじいさんの話し声を聞きながら、返事をするのも億劫なので尻尾をぱたぱたと振ってやった。