操人形(あやつりにんぎょう)
108つ――
彼の世此の世普遍の聖璽“ハタラ・キ”の数。
神々すら諍うことのできない真理の数、將亦、呪いの数。
――乃ち、四苦八苦。
生、老、病、死の四つの躰苦、これを四苦。
これに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四つの心苦を合わせ八苦。
失われた原初の言語から、躰苦と心苦をまとめて苦々。聖音韻に照らし合わせば同音異句『九九』と紐解く。同じく四苦八苦を聖音節から導けば『49/89』の數祕が表れる。
太古から伝わる解読法に準ずれば、4✕9=36、8✕9=72、合わせて、36+72=108、と。
そして、108つとは、万物を支配する苦悩の力“秘伝承”の数と同数である。
――とある古代の賢者の述懐より
※ ※ ※ ※ ※
俺は、――死に、生まれた。
物心がつく前の話。当然、伝え聞かされただけの事だが、俺は魂の抜け殻、単なる人の形をした肉塊として生まれてきた。
墓所――余所者は教団と呼ぶ――俺達の共同体に弔われ、死に存えた。
――死人。
死人故、死を恐れぬ。
肉の器にしか過ぎなかった俺に注がれた魂が一体、何モノかは分からない。
神なのか悪魔なのか、英雄なのか犯罪者なのか、名も無き凡夫か野を行く獣か、將亦、異世界からの侵入者のモノなのか、まるで知らない、分からない。抑々、元の魂になど興味もない。
弔われた時点で心も殺しているのだから然もありなん。
確かな事は、死霊・怨霊の類ではないと云う事。
墓所の戒律にある者は、決して屍人にはならない。
死人であって屍人に非ず。
屍人ではないが魂を食む。
弔い弔う事で他者の魂を己が内に食み、此の世の苦しみから解放する。受け皿として我が肉を捧げ、魂を引き受け、苦悩を背負う。是乃ち、供養。亦は、苦養。
苦しみは全て俺が引き受ける。
――だから、もう、苦しまないでくれ……
――――――― 1 ―――――――
ほんの少し、思考が鈍る。
額に浮く僅かな汗。
室温が高い、わたくしには。
濕々する。蒸し蒸しする。
気温も湿度も低めなこの地で、これ程不快な室内。城中探しても此処しかないでしょう。地下は知らないけれど。
多分、そう造られているんだ。理由は知らない。
許しなく入る者は誰もいない暗い部屋。
御爺様とわたくし、そして、異邦の男。
他人を含む三人きり。こんな事、今迄一度もなかった。
而も、躊躇なく人を殺める野蛮人を招くなんて。それを咎めない御爺様もどうかしている。
青年と呼ぶには幼さの残るその男は、頬についた返り血を指先で拭うと微かにはにかむような笑顔を浮かべ、口を開く。
「会うのは初めてだ。俺の戒名はジクウ。これから宜しくな、姉さん」
「――あなた、なにをおっしゃっているのかしら……」
戒名? 姉さん?
短い挨拶一つから疑問が浮かぶ。
只、その挨拶だけでこの者の教養の程は知れる。口の聞き方を知らぬ未開の野良犬風情だと。
「ラナよ。暗殺教団に入信する者は、鬼籍に入る。故に、生者に語る時は“戒名”と名乗り上げる。代わりに只、“名”乗った時、対象者は身罷られよう。等しく死出にある者に、戒名を伝える必要はないのだから」
「……御爺様。此の者は何故、わたくしを姉と?」
「ジクウは余の猶子としておる。其方の弟ということにしてある」
「!」
なんて大それた真似を!
どこの馬の骨とも分からない野蛮人を、形式上とは云え王族に列するとは大胆にも程がある。
わたくし達を快く思っていない者達にとって、この仕打ちは返って反感を生むのでは。それどころか、これを政争の具にしようという者が現れる可能性も否定できない。
それは兎も角――
「あなた、何故、わたくしが姫だと? 初対面でしょう」
「爺さんがあンたをそう扱っている。それに――」
「それに?」
「姫さんの事なら全部知っている。王城にある鏡という鏡、あンたの私室にある姿見も手鏡も、その全てを通し、あンたを視ながら育った」
「!?」
どう云う事なの!?
鏡? 鏡に写った姿を見られていたの?
魔術? そんな魔術か何かがあるの!?
でも、どうして?
王城の対魔防衛措置は絶対の筈。
まさか、これも御爺様の差し金?
「ジクウには其方の事、悉に伝えておる。本物の姉弟以上に、其奴は其方の弟なのだ。臥所だろうと湯殿だろうと仮に雪隠であろうと、共に居っても憚られぬ、それが姉弟。
其方の全てを護衛する為の最善手」
無理があります、御爺様。
寝床はまだしも、湯浴みや花摘みに迄一緒に来る肉親等、どこにおりましょうか。
それとも、平民にとっては当たり前の事なのでしょうか?
「ジクウ! 生まれた儘の姿になれい」
「あいよっ」
服を脱ぎ、全裸になる。
急にどうしたというの、御爺様?
それに何等躊躇う事なく裸になるこの男。
臣下であったとしても一瞬考え、迷い、行動する迄に遅れが生じよう意味不明な命を、即座に熟すなんて。
まるで調教済みの獣の様に恥知らず。
御爺様の絶大な権力の前では、然しもの野蛮な暗殺教団の教主も従わざるを得ない。
不様――
「ラナ。其方も服を脱ぎなさい」
「――えっ!?」
「聞こえなかったのか? 裸になりなさい、と申しておる」
「――――は、はぃ……」
――ど、どうして!?
こんな見ず知らずの未開の下衆相手に、高貴なる王族の姫たるわたくしが素肌を、裸を見せなければならないの!
併し、御爺様の命は絶対。その言い付け、断れる訳もない。
言われるが儘、服を脱ぎさる。仄かに紅潮した白い柔肌が顕わに溢れる。
燭台の灯りに照らされチカチカと煌めくのは玉の汗。汗ばんでいるのは室温の高さ故なのか、恥ずかしさからの体温の上昇か。わたくし本人も分からない。
「ラナ。ジクウを挑発してみよ」
「――ち、挑発……」
「そう、誘惑してみよ。嬌しく艶やかに、官能的に魅惑的に、情婦のように娼婦のように」
「……はい」
どうすれば良いのか分からない。
分からないけれど、躰を開く。腰を捻り、脚を拗らせ、乳房を見せ付ける。
肉親や身近な侍女以外に始めて見せる有りの儘の姿。而も、劣情を喚起させるべく卑猥な真似を。
せめてもの救いは、恥辱に顔を赤らめた表情が蠟燭の灯す暖色に紛れ、地の色が、いえ、内心を気取られない事くらい。
このような辱めを何故、わたくしが。
鼓動が早い。顔が熱い。顔だけではなく、躰全体が、体の芯から熱く火照る。眩暈にも似た感覚が全身を包み、思考が緩慢に。
何かおかしい。感情が制御出来ない。混乱している。嫌々しているこんな姿。だと云うのに違和感が薄れ、一心不乱。
わたくしの内で、ナニかが外れる。
なんて、厭らしい――
こんな事を命じた御爺様が? 目の前で視守る野蛮人が? いいえ、わたくし、わたくし自身が。
笑いたければ、お笑い遊ばせ。
――わたくし、おかしくなりました!
「ラナ。ジクウを見よ!」
「!? ……はい――」
筋骨隆々な闘士や騎士、下男、奴隷らを数多く見た事がある為、体格的には見劣り、一見細く見えるが筋肉質。神経質に鍛え上げられた躰と云うより、下民の肉体労働で培われた様な感じ。
寧ろ目を惹くは、引き締まった肉体を縦横無尽に走る無数の傷痕。特に目立つのは胸にある斜に横断する四条の流線状の切創と放射状に伸びる傷には縫合痕。
下世話な殺し屋稼業故なのか、痛々しく惨めな有様。
特に感慨もなく、別段驚きもない。
御爺様は一体、コレを見せ、わたくしにどうしろと?
「気付いておらんようだな、ラナ。よく見るのだ」
「はい――……特に変わった様子は御座いませんわ」
「――であろう。それがジクウだ!」
「?」
「ジクウの“雄”は其方に一切反応しておらぬ」
「……ハッ!?」
そう云う事だったの!
彼の性器が反応していない。つまり、本能への抑圧、或いは、生理現象への命令。乃ち、理性への介入。
何等かの術が、力が、作用が彼を捕らえている、そう解釈出来る。
「ジクウは其方に対して、決して勃起しない。欲情せぬのだ。抑々、危害を加える事は勿論、間接的に陥れる事さえも出来ぬ。其方に、一切の害意を抱く事さえ出来ぬのだ。
余の保つ祕傳承“鎹”の為せる業」
「秘伝承?」
「この世界に、いや、宇宙に、たった百八つしかない摂理の力――と云っても今の其方にはよく分かるまい。強力な催眠術、暗示の類、そう理解せよ」
「はい――」
わたくしの知らない何かが、わたくしの周りを覆っている。覆い尽くしている。
権力や地位、立場といった人群れの織り成す社会構造だけではない、もっと深い何か、別の何か。
そして、その何かは分からないけれど、わたくしの周りだけではなく、わたくしの内にも影響を齎している。
間違いなく、わたくしはナニかに変わろうとしている。求めざるとも変わろうと。
「踊れい、二人とも!」
「えっ!?」
「あいよ」
「勝利の舞だ。制勝を先取り、雄大に踊れ! 勝利の女神を其方等に振り向かせるよう、暗黑淵で踊り狂え!」
薄っ暗い室内、老王の前、二人の若い男女が全裸で踊る。
正気の沙汰ではない。
当たり前ですわ。
こんなこと、迚も正気では出来ません。
頭の中を真っ白にし、放心の態で舞う、いえ、暴れる。それはもう、踊りなんて呼べるものではありません。乱痴気の類。
わたくしは只、御爺様の命を聞くだけ。
そう、わたくしも人形なのですわ。御爺様の操り人形、生人形と大差御座いません。
ジクウ――
一体、彼は何を考えているのでしょう?
ふと、覗く。
その視線に光は無い。
生まれも立場も境遇も、何もかもが違う二人の人形。
だと云うのに、何故か二人の眼差しは、奇妙な近似を呈していたのです。
――わたくしに女王宣下が為されたのは、それから程なく為ての事でした。