愛狂死(あいくるしい)
漆喰の白壁に囲まれた小さな部屋、執務室。
壁に設えられた燭台、その溶けかけの小さな蠟燭が灯す明かりは瑟々とゆれ、漆黒の暗がりを掻き消すには及ばない。室温はそれ程でもないが湿度が高く、妙にしつこい。
質問は一つのみ。呉々も失礼のないように。違えれば君の信用は失墜、最悪失命を覚悟せよ、と。
執拗に念押しされた助言を失念せぬよう、慎重に問い掛ける。
「何故……なぜ、あのような輩を雇われるのでしょうか?」
「――」
「……我々騎士がおれば必ずや姫様をお守り出来ましょうや」
「――――」
「……み、未開の、妖しげな異国の野蛮人風情の殺戮禮拜敎團に頼る必要など御座いません」
「 」
「…………何卒、ご再考下されませ。姫様をお守りする覚悟は元より皆出来ております、我等の命を賭して!」
「では、今ここで果ててみせよ」
「――な、なんと!?」
「命を賭すと申したであろう? ならば今、果ててみせよ。然れば、一考の機会を設けよう。無論、帰結に変わりはなかろうが」
「……」
額と背中を伝う汗がやけに冷たい。
老王の気迫は峻烈にして苛烈。言い放たれた言葉には利剣が潜み、痛い程に肌を突き、胸を詰まらせる。
王の無言が作り上げた間に耐えられず、思わず言葉を引き出され、冗長に。決して軽口ではなく、嘘偽りなど微塵もない。
だがしかし、どうすれば良いのか答えが見えない。考えが纏まらない。思考が緩慢。湿気のせいか、暗闇のせいか、それとも王との距離が近過ぎるせいか、思惑が、頭が回らない。言葉さえも見付からない。
どうすれば――
「御爺様、いえ、遍く道の支配者にして穀倉の担い手、神々より与えられし大地の執行官にして国界の調停者、貨幣の鋳造と羊飼いの長にして気高き弓取り、識字の伝道者にして算盤の求道者、伝統の護り手にして歴史の作り手、迷える民草に道標指し示す第一の家長、騎馬民族の駆逐と黄金の小麦の野を広げる国父、精霊の友にして神々の寵臣、愛し愛され慕い慕われ、獅子と竜の心を持ち合わせた慈悲深くいと尊き我等が祝福の“諸王の王”ダンクーガ陛下、お戯れはそこ迄に。
団長様が肝を冷やしております故」
「――ラナか。このような穢苦しい処には来るでない、と申し付けておったろうに」
「わたくしの護衛を買って出て頂きました団長様に、ご挨拶が遅れたとあっては王族の名折れでしょう? 違いますか、御爺様」
「――まあ、良かろう。だが、其方の護衛は疾っくに決まっておる。今更どうこうなるものではない」
「あら、そうかしら? もし、お雇い遊ばされた御方と騎士様とで腕試しをなされ、騎士様がお勝ち召されましたらどうかしら?」
「――余は一向に構わぬが……無邪気とは、時に残酷なものよの。心せよ、ラナ、それと団長よ」
―――――
練騎場――
城内に設けられた闘技の練習場と云える広間。普段は城詰めの騎士達の鍛錬の場になっており、外部の者の立入は許されない。
例外があるとすれば、王族が護身術を学ぶ際、外部の指導者を招き入れるくらい。
とは云え、現在の王族は老王と孫娘の二人だけ。王族に連なる身の上、嗜む程度にラナも足を運んだ事はある。故に、この十年間、外から招かれた客は片手で数えられる程度。
城詰め騎士は現在、白き盾と番紅花勲章騎士団に限られ、かれこれ十年間は務めている。
ダンクーガ王はこれを不満としている。
それもその筈、ダンクーガの故国グリザンドラ王国において白き盾と番紅花勲章騎士団の序列は三位。当然、連合王国全体から見れば序列は遙かに低くなる。
とある事件を切っ掛けに、城詰め騎士を現体制に改める。如何に強壮なダンクーガとは云え、妥協せざるを得なかったのであろう。
始め、団長オニールフェガロ自らが腕試しに臨むつもりだった。
流石に団員に止められ、若いが筋の良さを買われていたゼルティエッガが挑む事になった。
連合王国に限らず、一般に騎士は“三倍士”と呼ばれていた。
並の兵士より三倍は強い、と云うのがその語源だが、実際の戦闘力は三倍どころの騒ぎではなく、騎士一人で百名の兵士を制圧できる程。
入団二年目の若手騎士ゼルティエッガが選ばれたのは、腕試し相手への騎士団なりの温情であった。
そして、間もなく後悔した。
――その男は、神秘的、であった。
高身長だが青年と呼ぶには幼さが残る、そんな印象。凡そ、ラナとそれ程変わらない年頃、それでいて妙に落ち着いて見える。冷静と云うよりは冷徹、そんな面持ち。
一切無駄のない筋肉質なその躰は、節制によって作り込まれた肉体と云うよりは喰うに困った貧民層でよく見受けられる印象。
この辺りでは見られない黒髪に黒い瞳は、極稀に奴隷で見掛けるくらい。異国出身の奴隷との違いは精々肌の白さ。
貧民や奴隷とそいつとの差は浅黒い肌や日焼けが見られない点。白い肌に黒髪や黒い瞳は矢鱈と映え、一見窶れたかのような筋肉質な痩躯が良く云えば神秘的。
悪く云えば――屍体のよう。
神々しいのではない。禍々しい訳でもない。只、微かに不気味。それが視覚的に齎された印象なのか、將亦、雰囲気がそう感じさせているのか迄は分からない。
兎も角、普通とは決して云えない違和感を禁じ得ない。それだけ、妙に惹き付ける得体の知れなさがある。
「彼奴こそ暗殺教団“ゴア・ゴッグ・ゴーマ”、【弔】の指導者“死主”ジクウ!
余の召喚せし、孫娘の守り手、最強の従者、殺戮の使徒! 不滅不敗の生ける死神、鎧われし大剣、呪われし才賢、讃えるべき畜生、聖なる糞っ垂れ!」
老王の弁に奇妙な熱っぽさ。期待がいずれに向いているか、察するに余りある。
臣下とは云え、どうにも解せない。
特に、まだ若く評価を得たいゼルティエッガにしてみれば鼻持ちならない。
――片腕くらい斬り落としても差し支えあるまい……
彼の脳裏にそう過ぎる。
予め、団長からはチラリと耳打ちされている。殺してはいけない、と。
分かっているさ。国王の呼び寄せた姫君の護衛役、そう内定された御仁を無闇矢鱈と斬り棄てる訳には行くまい。
分かってはいるが、素性も得体も知れない異国の破落戸、聞いた事もない野蛮な原始密教の教祖風情が、栄えある王国騎士以上に期待されていると云うのが、どうにも納得いかない。
殺しはしない……只、腕や足の一本や二本は覚悟して貰おう――
奴に核氣は見当たらない。乃ち、騎士に準ずる技を持たない。無論、騎士ではない。
取るに足らん――
若騎士は剣を鞘に納めた儘、黒髪痩身の男の前に歩を踏み出す。
抜身ならざる姿で挑むのは、何も相手を侮っているからではない。
ゼルティエッガの特技は、抜刀。騎士の闘技の一つ、“瞬斬刃”。
貴人に侍る事が常とされる騎士が、抜身の儘、白刃を晒すと云うのは非礼。故に、佩刀からの抜き打ちこそが戦いにおける基本にして神髄。
瞬目禁戒とは騎士の心得。敵と対峙した時の瞬きを禁ずると云う習わし。騎士であれば誰もが知っている。
だが、果たして騎士以外の者がこれを知っているのだろうか?
お前はどうだ、野蛮人?
「ゼルティエッガ、參る!」
吐き出すように一言吠え、若騎士が正に今、一歩踏み出そうとした刹那、
「待ちなよ、あンた」
予想だにしない宗教者の言葉に機先を制され踏み留まったゼルティエッガ。怪訝そうな表情を浮かべ訊ねる。
「な、なにかね?」
「俺の紹介が、未だ、だ」
「……失礼。おっしゃる通り、です――お名前、伺っても宜しいでしょうか?」
「――弔のジクウ」
まずい――
オニールフェガロ、青ざめる。
聞いた事がある。
帝国の隠密組織に属する忍蹕と呼ばれる間諜は、敵意を持つ者や害意をなす者を前にして名乗り上げる時、自身の命を覚悟し、対峙した者の命を奪う、と。
弔とか云う殺戮禮拜敎團は帝国とは一切無縁。併し、殺人を生業、いや、信仰そのものに殺人行為が組み込まれた危険な狂信集団。
そんな馬鹿げた習わしに従ってきた者が初見相手に名乗るとは。
――厭な予感がする……
ドムッ!
鈍い破裂音が谺する。
――なんだコレは?
黒みを帯びた赤い霧が練騎場を覆い尽くし、視界を閉ざす。
生臭さが鼻腔を突き、酷く不快。
生臭い?
いや、これは鉄臭さ。
血……ああ、これは血霧!
晴れる、霧が。
そして、曇る、表情が。
若騎士の首!
ゼルティエッガの生首を、その髪を左手に握り締め、老王に、いや、団長に向ける。
首を斬り落とした……のではない。首下には脊髄が丸ごと残っている。
バカな――
一体、何をした!?
怒りより先に驚愕と疑問が団長の脳裏を過り、混乱に心が支配され、言葉にならない。それどころか、今正に起こった現実を直視出来ない。
――これは一体……
「羅武承魂! この強者の魂は我が魂の内へ。勇者の命を授かる事で俺は益々強くなろう。安らかに眠れい、英霊よ! 我が血肉となりて久遠の光たれい!」
な、なんだコレは――
ジクウと名乗った若者はゼルティエッガの生首を握った儘、祈りを捧げる。
そして、左手を掲げ、滴り落ちるゼルティエッガの鮮血を、大きく口を開き受け止め、喉を鳴らして飲む。
宛ら、獲物を捕らえた肉食獣の捕食の様。
なんなのだ、この光景は!
これが人のする事か!?
――く、狂ってる!!!
「見事だ、ジクウ! 余の想った通りだ!! 我が愛しの孫娘ラナは貴様に預けるぞ、ジクウ! 見事、余のラナを護ってみせよ!!!」
――狂っている……
野蛮な原始密教の教主が? 否ッ! 違う!
我がお慕い申す、我等が偉大なる陛下がッ!!
陛下は既に、お狂い召されていたのだ、この碌でもない未開の殺人鬼にッッッ!!!
陛下の、一歩後ろに控える姫様の、その瞳に光はない。
冷めている、異様な程。
姫様! 貴女は、良いのですか、こんな事で! このような者を!?
暗く沈んだ姫の瞳の奥に何が見えているのか、オニールフェガロには見当も付かなかった。