芸能人の自殺報道から『自殺』について考える
芸能人の自殺の報道が相次いでいる。それに対して色々な反応も起こっている。
最近、読んだ本の中にチェスタートンの「正統とは何か」というものがある。保守主義の聖典の一つで、イギリス保守を代表する本だろう。その中でチェスタートンが「自殺は最大の罪」だと述べていて、興味深かった。自殺が最大の罪だとチェスタートンがああまではっきり言うのは、キリスト教的道徳観が背景にあるからだ。自殺は意識的な生の否定であるから、他殺よりも悪い、という事らしい。これはこれで興味深い意見だと思った。
自殺については私も以前から考えている。シオランは「一冊の本とは延期された自殺である」と言っている。
自殺という現象は非常に興味深い、根底的な現象だと私は思っている。例えば、キリスト教的道徳観では自殺とは罪である、と最初に言ったが、キリストの死に至る道筋は一種の自死と見る事もできるだろう。キリストが人類の罪を背負って死に近づいていく行為は、彼が「望んで」死のうとする行為にも見える。
自殺という現象が興味深いのは、それが生の否定であると共に、また新たな生の肯定にも繋がるからではないか。「一粒の麦もし死なずば」という聖書の言葉がある。これは「一粒の麦が死んで地に落ちたならば豊かな実を結ぶが、生きたままなら一粒のままだ」という意味だ。死は生誕と結び付けられる。生の否定が新たな生の肯定となる。
もちろん、我々のまわりにそんな高貴な死は滅多に見られない。それで芸能人の自殺報道が流れると、ただ我々は鬱々とする他ない。
どうして芸能人の自殺が我々を暗い気持ちにさせるかと言うと、芸能人は成功者であり、順風満帆な人生、という風な見かけを持っているからだろう。そういう順風満帆なはずの人が突然、自殺すると、人は良い環境、状況でも突然自殺してしまうわけのわからない生物だ、という気がしてしまう。そこで人は背後に因果関係を探ろうとする。
精神分析的なものの見方は、大衆的世界観に随分貢献した。突然自殺する人には何か精神的病があるのだろう、という風に考える事は逆に、そういう病がなければ急に自殺する事はない、という安心感に繋がる。犯罪が起こると、犯罪者を普通人と区別し、犯罪者の裏にはそうなるだけの理由があったに違いない、と考えたがる。そうした理由探しのゲームを行う事によって、密かに自分達は彼らと違う正常人であり、そんな間違いを犯すはずはないだろう、と思おうとする。
芸能人の自殺が起こると、ツイッターなどで陰謀論が持ち上がったりする。陰謀論が何故起こるかと言えば、上記のような突然の、自ら行う生の否定を直視したくないからだ。背後に何か見えない因果関係があったのであり、彼・彼女が自殺したのはそのせいだと思おうとする。
「〇〇君が自殺するわけはない!」 だが、果たしてそうだろうか。実際には、観客が見ている限りの〇〇君が、〇〇君の全てではなかったのではないか。人間の不可解性を我々は単純化して理解しようとするが、そこからいつもはみ出る何かがある。それが彼を自殺に追いやっても不思議ではない。人間は不可解なものだ。
私は自殺を肯定するつもりも否定するつもりもない。仮に自殺を完全に否定した所で、死そのものは否定できない。今の社会は暗いもの、重たいものを極力排除しようとしている。芸能界はその最たるもので、暗いもの、鬱なもの、重たいものは排除し、パロディやお笑い、茶化しといった事柄で埋めてしまう。しかし、それを演じている当の芸能人が自殺するのであるから、この明るい光だけの世界そのものが嘘だという感じがするのも当然だろう。だが、人は認識を変えられない。ものの見方は簡単に変えられない。だから相変わらず、芸能人やユーチューバーといった人達は、明るい虚像を演じつ続けるだろう。
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ここから芸能人についての考察に向かう事もできるだろうし、自殺そのものの考察に向かう事もできるだろう。前者の方が好まれるだろうが、私は後者について考えてみたい。
自殺、というのはそもそも、現代人にとっての根源に位置する事柄ではないか、と私は思っている。先日、「小説家になろう」のエッセイを読んでいたら、『過去の古典だとか偉大な思想とかそんなものはいらねえ、くだらない』と叫んでいる文章に出会った。まだ若い人が書いたものだろうが、ああした考えがはっきり出てくるのは現代的なものの一つの特徴に思われる。
もちろん、そういう風に考えるのは自由に違いない。「それぞれの意見があっていい」わけだから。だが、ああして過去を否定し、今生きている自分の主観だけを肯定する個人には一体、何が残されるだろう? 残されるのはフラットな個人の繋がり、みんなで『いいね』や『ポイント』を付け合う集団。過去からも未来からも切り離されたバラバラな個人が肩を寄せ合って互いに慰め合う。それが現代の我々の姿だ。
教養を捨て、長い時間軸で何かを構築するのを放棄し、ただ自分達の利益だけを考える個人の群れ集い。これらの人達はいつまでも肩を寄せ合っていられるだろうか? やがて、互いの利益が矛盾し、お互いに喧嘩して一人ぼっちになり、最後には薄ら寒い部屋で首でも括るしかないのではないか? 私はそんな事を考えてしまう。
そもそもで言えば、デカルト以降、我々の絶対的な指標は「自我」に確定されてしまったのであり、ここに絶対的な価値が置かれてしまった。そうなると、この自我同士が、互いを支配下に置こうとして闘争を始めるのは必定であるように思われる。ドストエフスキーは「罪と罰」のラストで、『染毛虫の夢』という形でそうした世界を描いている。それぞれが自分に絶対的な価値を置いている限り、それぞれ、他を自の役に立たせようと無限の闘争が始まる。
この闘争の果てには何があるか。主体は個立していて、他者を相手に無限の闘争が続けられるが、主体はあくまでも有限の存在である。だから、主体は、自らが望んでいるものを得られないと知って、最後には首でも括る他ないーー現代人の根源にはこうした自殺が眠っている気がする。
こうした自殺の可能性は普段は問われない。しかし実際はどうだろうか。自己啓発本には勇気が出るような事が書いてある。明日から頑張ろう、という気持ちにさせる。それは自分を「上昇」させる為である。だが、これ以上、上昇は不可能だと分かったらどうだろう。奈落に落ちるような絶望はどう処理すればいいだろう。その問いには誰も答えてくれない。「頑張れ」としか人は言わない。
一方で、芸能人に起こっている自殺はそれとは別の事例なのだろう。個々のケースについてはわからないので、あくまで抽象論として話す。
芸能人は現代の偶像としての役割を期待されている。私の知り合いなどは、あるメジャーアーティストの友達で、文字通りそのアーティストを信奉している。その知り合いは、アーティストの音楽性に感動したとか、曲のメッセージに感動したというのではなく、あくまでも、メジャーなアーティストの近くにいられるという事に喜んでいる。
だがそもそも、そのアーティストをメジャーにさせたのは大衆の承認であり、声援だろう。だから、ここでは集団的な精神が個人に託されて、それをまた人々が信奉するという循環構造がある。我々は我々自身の内部にあるものを外部に対象化し、敬っている。
芸能人は現代ではそんな役割を負わされている。…実際の所、我々の社会のゴール地点はテレビにレギュラーで出る事ぐらいしかない。ユーチューバーだ何だのと言ってもいいが、本質的な点はほとんど変わらない。要するに大衆の承認を受けて、カメラの前に立つという事だ。
ここで「スター」のような存在が出てくる。スターは憧れの存在、理想の存在とされる。しかし実際には、スターも老いるし、スターも死ぬ。要するに、実際には我々と同じ人間なのにも関わらず、芸能人のような人々は、実際の人間とは違う存在として神格化される。ここで分裂が起こる。神格化された芸能人として自己と、生身の人間である自己と、である。
芸能人の自殺というのは、この分裂から起こってくるのではないか、と私は漠然と考えている。光が当たる側面と、当たらない側面が分裂を起こし、自我が崩壊する。この崩壊から自殺願望が出てくるのではないか。…もちろん、これはあくまでも抽象論なので、いきなりこの理屈を個々の事例に当てはめればおかしな事になるだろう。私はこれをあくまでも抽象論として述べるに留める。
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長くなったので、まとめよう。まず、現代の人間は、長い時間軸の価値観というのを奪われている。フラットな世界に個人がそれぞれポツンと立っている。この個人は寄り集まったり、離散したりする。一人になったり、二人になったり、集団になったりするが、それぞれはいつも自分の事を考えている。「自分」を越える価値観を持っている人はほとんどいない。
芸能人はどうだろうか。芸能人は現代人が心から喜べるものとして重要な位置を占めている。もちろん、スポーツ選手だの何だのもここに含めて構わない。ここでは、人々は個人の神格化を行っている。有能な経営者が神格化されるのも同じ種類の事柄だろう。
この神格化は、しかし、これらの人達もやはり同じ人間だという事によって繰り返し幻滅させられる。神であるはずの人のスキャンダルがばれてしまう。老いて醜くなってしまう。なんでもいいが、とにかく偶像としての機能を失ってしまう。そうなると、その人は表舞台から消える。しかし、人々はまた新たな偶像を拵える。この偶像はまた新しいポーズを要求されて、カメラの前に立たせられる。
さて、こうした芸能人・スターといった人達に何かを託す行為は、我々が自分達の不完全性から逃げ出そうとする行為に当たっているのだろう。我々は輝くばかりの芸能人を見て、何かを思い入れようとする。その時に、自分自身の儚い生物としての存在から逃げ出そうとする。
一方では、自我を絶対視する視点に捉えられながら、この人間が愛他的に変化するのはこの時である。自我を絶対視したとしても、その底には、自我は絶対ではないという不安がある。そこで自我の中にあるものを外側に投げ出し、それを絶対化し、敬おうとする。それによって自我の相対性を救おうとする。しかし、外部にあるものも変性された自我観念でしかない。我々は我々自身から逃れられない。
自殺というのは、そういう我々の根底に位置している。我々には「自分」しかないが、この自分は絶対的なものではないという不安が常に背中に張り付いている。そこでこの自分を外部に託して救われようとするが、結局は救われない。投げたブーメランは戻ってくる。ブーメランを受け取った人間はどうするか? 自分の相対性に絶望し、この相対性の中で、暗い絶望を味わい続けるのを良しとはしない。死への不安を持ち続けるのであれば、さっさと死んだ方がマシだ、という風に死んでしまう。そんな死だってあるだろう。
もちろん、そういう死を万人が辿るわけではないが、現代の人間においては、自我という価値観しかないのははっきりしているから、この個人がいずれ絶望するのは目に見えている結果なように思う。もっとも、そうなったとしても別に自殺するには及ばない。自殺しなくても死は向こうからやってくる。
我々がじっと死を見つめる勇気を持てれば、我々は自殺せずに済むだろう。ただその場合、彼は自然という他者によって殺される事になる。それで実際の所、自分自身もまた一人の他者であるから、自殺であろうと自然死であろうと、同じ死であるのは変わらない。死そのものは無色透明だ。問題は我々が死をどう捉えて生きるか、だ。しかし、死をどう考えるのか、という生の問題を回避している現代の我々が死を恐れて、死を恐れるあまりに、自ら死に突っ込むというのも、現代社会を見るとありうべき事柄と言わざるを得ないのだろう。
注:このエッセイはダチョウ倶楽部・上島竜兵の死去報道をきっかけに書きましたが、あくまできっかけに過ぎません。ここで語られている考察を上島竜兵個人の死因と直接、結びつけるのは早計になってしまうでしょう。実際の所、何が起こったのかはわからないので。ただ、芸能人の自殺があまりに多いので、その現象全体について考えるのは無益ではないだろう、という観点でこの文章は書かれています。