第九章
小夜香ちゃんとの年末のデートまでの間、小夜香ちゃんのことばかり考えていたせいか、或る日不思議な夢を見た。
真っ白い靄の中で佇んでいると、ぼやぁっと周りの景色が現れてきて、見覚えのある場所へ出た。
「ここ・・・」
目の前の塀の上に、桃の木が見えた。少しだけ花を咲かせている。
塀の隙間からは、縁側と和室が見えた。
「小夜香ちゃんの・・・本家の部屋だ・・・」
部屋の中に人気はなさそうだったけど、どこからか少し・・・子供の泣き声のようなものが聞こえて来た。
俺は無性に中へ入りたくなって、正面入り口の方から誰もいない廊下へ足を踏み入れて、キョロキョロ辺りを確認する。
本家の屋敷の中なのに、誰一人いない。
そしてまた、不安にかられる泣き声が聞こえた。
俺は一度確認した小夜香ちゃんの部屋へ、今度は襖を開けて入った。
すると部屋の隅っこで、座り込んだ小さな子供が泣いていた。
「・・・小夜香ちゃん?」
3歳くらいの女の子は、小さい頃の小夜香ちゃんだった。
俺が声をかけると、涙をすすりながらそっと顔を上げて、俺を見るとわっと泣きながら駆けて来た。
小さな体を抱きしめて頭を撫でると、小夜香ちゃんは泣きながらこう言った。
「お母さん・・・・お母さんどこぉ・・・」
その言葉を聞いて、胸が締め付けられる痛みを感じた。
この頃の小夜香ちゃんは、まだ小百合様と一緒にいた記憶があったのかもしれない。
突然いなくなった母親を、こうやって泣きながら呼び続けていたんだろうか・・・。
その小さな体を強く抱きしめてあげることしかできなかった。
すると不意に背後から、小夜香ちゃんを呼ぶ声が聞こえて、はっと振り向くと・・・また景色は変わっていた。
抱きしめていたはずの小夜香ちゃんもいなくなって、見知らぬ部屋にいた。
隅のベッドの上で、今度は小学校高学年くらいの小夜香ちゃんがいた。
「小夜香ちゃん・・・」
呟くように俺が声をかけても、彼女は反応しなかった。
手に持った何か・・・写真だろうか、それを寂しそうに見つめて、膝を抱えていた。
俺はそっと小夜香ちゃんに近づいて、隣に座ってみた。
「・・・何見てるの?」
俺が小夜香ちゃんの手元を覗くと、それは・・・赤ちゃんの小夜香ちゃんを抱っこして微笑む、小百合様の写真だった。
俺は涙が溢れそうになって、小夜香ちゃんの横顔を見ると、彼女は何も言わずに静かに涙をぽろっとこぼした。
「小夜香ちゃん・・・」
何も気の利いた言葉が出て来ず、俺はそっと彼女の肩を抱いた。
小夜香ちゃんはただ、お母さん・・・と小さく呟いただけで、また霧のように景色も小夜香ちゃんも消えて行ってしまった。
その時になって俺はようやく、今夢の中にいる、と理解したけど・・・ぼーっと考え込んでしまった。
小夜香ちゃんはあんな風に、小さい頃から小百合様の死を受け止めていたんだろうか。
ただ一人っきりで、部屋の中、寂しさに耐えて、更夜さんや一緒に暮らしていた悟様や椿様、自分の家族に心配かけまいと振舞っていたんだろうか。
俺や美咲、晶と一緒に楽しく過ごしている時、無理に笑っていたことはなかっただろうか。
俺が俯いてそんなことを考えていると、また不意に背中から声がかかった。
「咲夜くん。」
慌てて振り向くと、今の小夜香ちゃんが座り込んだ俺を見ていた。
いつもの笑顔で・・・。
そしてしゃがんで俺に目線を合わせると、ぎゅっと俺に抱き着いた。
「どうしたの?咲夜くん・・・なんかやなことあった?」
「・・・・ううん、ないよ。」
抱きしめ返してその細い首筋に顔をうずめた。
温かい小夜香ちゃんの体温が愛おしかった。
「小夜香ちゃん、大好きだよ。・・・小夜香ちゃんの寂しさを、俺は埋めてあげられないかもしれないけど・・・ずっと側にいたいんだ。寂しい子供時代を、思い出す暇がないくらい・・・一緒にいたいよ。」
そう言って体を離して、頬を撫でると、小夜香ちゃんは目を細めてニッコリ微笑んだ。
「私も・・・咲夜くんのこと大好き・・・。」
そう言うと再度俺の首に腕を回して、キスをしてくれた。
なんて都合のいい夢の中だろう。
自分の妄想でしかないだろうけど・・・小夜香ちゃんの声で、そんな言葉を聞けて嬉しかった。
小夜香ちゃんの寂しい記憶を、全部かき集めて、飲み込んでしまいたい。
どれだけ寿命を削ってもいいから、苦しい記憶を消してあげたい。
俺にそんな能力が追加されないかな・・・。
これから先、幸せでしか満たされないようにしてあげたい。
そんなことを祈るように繰り返し考えながら、小夜香ちゃんの柔い唇を受け止めて、そっと目を開けて離れた
彼女に、一つゴクリと息を飲み込んで、夢の中と承知の上でもう一度小夜香ちゃんの瞳を見つめた。
「・・・愛してるよ。」
小夜香ちゃんは少し驚いた表情を見せてから、柔らかく微笑んで、今度はぽろっと涙を流した。
そしてもう一度瞬きしたとき、見えたのはいつもの寝室の天井だった。
目じりから涙が垂れて、心の中は空っぽだった。
生きている限り、小夜香ちゃんに会えた時は、何度でも自分の気持ちを伝えようと思った。
人間がどれ程、いとも簡単に死んでしまうか、俺も小夜香ちゃんもわかっている。
伝えられなかった、と後悔はしたくない。
その時、まだ夢見心地だった俺に、スマホの着信音が容赦なく現実に引き戻した。
画面には、大きく小夜香ちゃんの名前があって、俺はぱっと反射的に電話に出た。
「もしもし・・・」
思いっきり寝起きの声で答えると、彼女は少し遠慮がちな声で言った。
「あ・・・ごめんね、咲夜くん、まだ寝てた?」
「あ~うん・・・何時だろ今・・・」
「9時だよ、ゆっくりしてる時にごめんね。あのね、実はね!さっきね!お父さんが知り合いから映画のチケットをもらったからあげる、ってくれてね?ほら、今度行こうかなって二人で言ってた映画あるじゃん!あのチケットもらったの~!だからデートはそのチケットつかお!って言いたくて。」
嬉しそうに話す小夜香ちゃんの声を寝起きに聞いて、俺はまったり癒されていた。
可愛い・・・朝から可愛い・・・。
「そうなんだ・・・ありがとう、じゃあそれデートの時に使おうか・・・。」
「うん!・・・ごめんね、朝から・・・」
「ううん・・・。あのさ・・・俺さっきまで、小夜香ちゃんの夢を見てたよ。」
「え?そうなの?どんな夢?」
俺は寝転がったまま横向きになって、目を閉じて思い出した。
「小さな頃の小夜香ちゃんから・・・今の小夜香ちゃんまで・・・色んな小夜香ちゃんに会えた。可愛かった。」
俺がデレデレしつつそう言うと、小夜香ちゃんは少し黙って照れくさそうにした。
「・・・え~?なあにそれ・・・。」
「小夜香ちゃん・・・」
俺が尚も眠そうに呼ぶと、彼女は優しい声で「ん?」と返した。
「大好きだよ・・・」
「え・・・うん・・・。も・・なに?どうしたの?寝ぼけてるでしょ、咲夜くん!」
「寝ぼけてないよ。ちゃんと受け答えしてるでしょ・・・。」
耳から聞こえてくる小夜香ちゃんの声は、赤らめた表情が見えるようだった。
「夢の中でもちゃんと伝えたから・・・現実でも言いたくて。小夜香ちゃん・・・愛してるよ。」
「・・・咲夜くん・・・。」
小夜香ちゃんの声は少し震えていた。
「映画を観た後は、どうしよっか。俺的には・・・二人っきりになりたいから、うちでまったり過ごしたいんだけど・・・やっぱなぁ・・・理性が持つ気がしないしなぁ・・・。」
小夜香ちゃんは心の声駄々洩れの俺の言葉を聞きながら、いったいどう思っていたのかわからない。
けれど少し黙った後、いつもの調子で言った。
「私は・・・最近全然行ってないし、咲夜くんのおうちでまったりしたいな・・・。」
「・・・そう?じゃあ・・・映画の後はうちで過ごそうか。小夜香ちゃんちに寄って、どうせなら冬休みの課題とか持ってきてくれてもいいよ。」
「ふふ、ありがとう。でも課題そんなに多くないから、ほとんど終わってるの。苦手なやつは残してるから、それだけ持っていくね。もちろん教えてくれるならちゃんとお礼もするからね。」
小夜香ちゃんはそう言うと、デートの日取りと時間を決めてくれた。
電話を終えて、ふぅと息をついてまた天井を眺めた。
「やっぱ俺・・・だいぶ寝ぼけてたな・・・。」
改めて自分が小夜香ちゃんにつらつら話したことを振り返ると、途端に恥ずかしくなってきた。
思えばここ数年の年末は、一人で過ごすことの方が圧倒的に多かった気がする。
去年までは、美咲も晶も当主として本家に在籍していたため、顔を合わせることはなかったし、そもそも本家はごたごたしていたらしいから、年末も正月もなかったみたいだ。
本家を出たばかりの中高生の頃の年末は、世話をしてくれていた使用人とゆっくり過ごすか、友達と年越しを楽しんだりしていた。
でもいつしか自分の将来を考えた時、社会に出たら高津家の生まれということがネックになるんじゃないかと不安になって、自分の基盤を整えるべく、勉強に励むことに時間を割くようになった。
取れるスキルは今のうちに取った方がいいし、来年の二回生のうちに出来ればほとんどの単位を取り切って、就活とインターンのことも早めに考えたい。
本家を出てから、まずどうしたら一人で生きていけるだろうか、と・・・そんなことばかり考えていたからかもしれない。
本家の中の常識しか知らなかった俺は、学生時代、公立の普通科の学校に通いながら、一般人の常識や考え方を学んでいた。
周りと溶け込むために、人見知りを直すべく、明るいキャラを演じた。
人当たりと愛想がよければ、それなりにコミュニティが広がるので、周りと合わせて、色んな人から色んな話を聞くことが出来た。
男女問わず、年齢を問わず、家庭環境の話や仕事の話を聞いた。
価値観の相違で生まれるいざこざや、関係性が築かれて生まれる人間の絆や物事を知った。
それに関しては、本家の中でも同じようなことがあったと思う。
小夜香ちゃんと俺の関係性は、同じ本家で産まれたいわば・・・遠い親戚のような関係。
同じ場所で育って、そして本家から切り離された子供、という共通点がある。
本来、御三家の後続者である子供が本家を出るということは、あり得ないことだとは思う。
だけど俺と小夜香ちゃんは特例で、その特例を認めさせることが出来る当主の親がいた。
そして俺たちの親世代が命をかけて、本家の歴史を終わらせてくれた。
俺も小夜香ちゃんもその実情のすべてを把握しているわけじゃない。
むしろそれらを知られないために、本家から出されたんだ。
いつか小夜香ちゃんが言っていた、「私も子供の頃本家を出たから、のけ者にされてた気持ちがわかる。」と。
今は俺も小夜香ちゃんも、のけ者なんかではなかったことは理解している。
ただ言えることは、歴史を背負うべく存在として生まれたのに、それらの一切を家族に押し付けてしまい、挙句親を亡くす結果になった、ということ。
小夜香ちゃんに関しては、あまりにも無残に・・・理不尽に母親を失った。
そして俺は、その責任の一端であった父親の存在をさして知らず、関わることもなく、関わりたいとも思っていなかった。
だけどそんな父の存在があったせいで、小夜香ちゃんが母親を失ったと自覚したとき、恐ろしいほど罪悪感を覚えた。
それを知ったのは、母さんが病で亡くなる少し前だったと思う。
見舞いに行っていた時に、美咲が本家の話を聞かせてくれて、小夜香ちゃんの事情も同時に知らせてくれたからだ。
正直その後、小夜香ちゃんと再会したのはほとんど偶然だったけど、とても怖かった。
恨まれても仕方ない、と思った。
けれど彼女はむしろ、俺と再会したことを喜んで、晶と美咲のことも含め、小さい頃と変わらず兄姉に甘えるような態度だった。
最初こそその態度に困惑したけど、小夜香ちゃんはいつも俺たちに対して真っすぐで、気持ちを汲むことも、受け取って返す言葉も真摯だった。
その人格者である所以は、父親である更夜さんと、彼女の面倒を見ていた祖父母二人の子育ての賜物だと感じる。
そしてそんな小夜香ちゃんとの関わりを経て、俺も美咲も晶も、本家の柵からゆっくりと離れて行けた気がした。
小夜香ちゃんの明るさが、人間性が、心に少しずつ安らぎをくれていた。
そうやって無自覚に支えられていたんだ。
年内最後のバイトを終えて、帰り道、俺は小夜香ちゃんからのメッセージを開いて眺めた。
そこには「仕事納めお疲れ様!」という文字と、一年間に自宅の庭で育てたらしい花のコラージュ写真が添えられていた。
菜の花、紫陽花、向日葵、コスモス、そしてポインセチア。
とても綺麗に咲いた鮮やかな写真。
思わず笑みが漏れると、続けてやってきたメッセージで、小夜香ちゃんはこう綴っていた。
「咲夜くんは春のイメージ。藤の花とか似合いそうだね!」
それを見て、小夜香ちゃんの笑顔を思い浮かべながら、俺も返信した。
「小夜香ちゃんは明るい夏のイメージだなぁ。向日葵がすごく似合いそう。」
俺がなんとなしにそう返すと、しばらく時間を経て、小夜香ちゃんからこんな返信が来た。
「藤の花の花言葉はね、優しさ、歓迎、決して離れない、とかだよ。向日葵は、あなたを見つめています。」
それを見て、12月の寒さの中、白い息を吐いて立ち止った。
なんてロマンチックだろう・・・。離れたくない、という小夜香ちゃんへの気持ちと、俺を見つめてくれていたら嬉しい、と思うような花言葉・・・。
俺は、その少し胸が苦しくなるような気持ちを抑えて、返信した。
「そうなんだね。教えてくれてありがとう。真冬に春と夏の花の話してるね(笑)」
俺は小夜香ちゃんから離れたくないよ・・・。なんて、さすがに恥ずかしくて送れやしなかった。