第四章
「今日はそこまで寒くないですね。」
14日の昼下がり、家の近くの公園で落ち合った薫は、にこやかにそう言った。
「どっか入らないか?カフェでも・・・ファミレスでも、近くにあるし。」
そこまで遊具のない広々とした公園は、平日の昼間だと人っ子一人いなかった。
「先輩寒がりですか?僕は人が多い場所が苦手なんです、騒がしいと話しにくいですし・・・」
そう言いながら背を向けて薫はベンチに腰掛け、俺も仕方なく隣に座った。
「ふふ、そんなにふてくされないでください、温かい飲み物買っておきましたから・・・。どうぞ。」
「・・・ありがと。」
ペットボトルの紅茶を受け取って、パキリと蓋をねじ開ける。
「そういえば・・・先輩覚えてますか?一昨年の先輩の誕生日は、ご自宅に伺いましたよね。」
「あ~・・・うん、そだな。」
香りのいい紅茶を喉に流し込みつつ、その記憶を思い返した。
言われなければ日常で思い出すことはないけど、一緒に過ごした相手に言われれば、わりと鮮明に覚えているものだ。
「先輩、記憶力はいいって話してましたけど、さすがに忘れようがありませんよね・・・。」
「・・・なに?何が言いたいの?」
先日、薫の読めない言動が多々あったし、俺は早めに聞くことにした。
すると薫は、持っていたコンビニ袋の手元に視線を落としたまま、少し黙った。
その横顔は何か考え込んでいるようで、マフラーもしていない細くて白い首筋が、少し寒そうに見えた。
やがて薫はパッと顔を上げて、柔らかな笑顔を向けて言った。
「先日面白いことがあったんですよ。」
「え?・・・おん・・・。」
「うちの高校って進学校なわりに、ちょっとヤンキーっぽい奴らもいるじゃないですか。そういう人たちに生徒手帳を拾われて・・・いや、盗まれたのかわかんないですけど、取られたんです。」
「は?ああ・・・」
俺が戸惑いながら聞いていると、薫は何てことない日常会話のように続けた。
「それで、生徒手帳の中に忍ばせてた先輩の隠し撮り写真が見つかっちゃって・・・。呼び出された先で、それをネタに散々からかわれた挙句、男が好きなのか、って男子生徒に襲われそうになったんですよ。」
「・・・いや、面白い話じゃないなそれ・・・。」
薫は特に表情を変えず続ける。
「僕は正直どうでもよかったんです。好きになったのがたまたま先輩だっただけの話で、性別は気にしてませんし、自分が中性的だとしても、他人には関係ないじゃないですか。でも彼らは、それの何が面白いのか、からかったり笑ったりしていたんですよ。まるで小学生のいじめのように・・・。」
薫はベンチの背もたれに体を預けて、また正面を向いて言った。
「まぁ結局未遂で終わりましたけど・・・。そこに男としたことある奴なんていなかったので、恐らく僕が慌てる姿を撮影したかっただけなんでしょうね。SNSに流すとか、クラスのグループトークに晒す、とか言ってましたけど、僕はそれすらどうでもよかったんです。それが原因で僕に実害があるなら、被害届出さないといけないかもしれませんけど、残り少ない高校生活ですし・・・。だいたいは特にそこまで酷いことをされずに、彼らは勝手に盛り上がってケラケラ笑ってました。何だか自分に起きた事なのに、そのさまが滑稽過ぎて・・・」
薫は少し微笑んで、隣にいる俺の顔を覗き込むように見た。
「面白いでしょう?どう思います、先輩。」
「どうもこうも・・・生徒指導で済む話じゃないし、普通に犯罪だろ。」
俺がそう言うと、薫は尚も穏やかな表情のままだった。
「そうですね、実際動画や写真を晒されたので、それは保存出来て証拠はありますし、学校側に訴えたら勝てるとは思います。でもここで問題なのは、証拠の有無や学校側の対応じゃないんですよ。何だと思いますか?」
俺は薫の淡々としたさまに、更に困惑した。
「・・・法律的な話してる?」
「いいえ、僕の心情の話です。」
そう言うと薫は立ち上がって、コートのポケットに手を入れて振り返る。
「明らかに犯罪行為を受けた被害者なのに、お前本人がどうでもいい、と思ってることか?」
「惜しいですね。でもそれも正解です。・・・問題は、そんな目に遭ってる最中、僕が考えていた内容にあります。」
「そこまでは・・・ちょっと俺にはわからないな。」
そう言って諦めると、薫はいつか見た薄笑いを浮かべた。
「その時ふとこう思いました。ああ・・・こんな目に遭ったことを先輩に涙ながらに話したら、またあの時みたいに僕を慰めてくれるのかな、って・・・。」
制服を着ていたもっと幼い頃の薫が、一瞬重なった。
「でも僕はそんな演技力もないですし、諦めました。先輩、俺のことまだ好きなの?って聞いた時、僕はあの時の感情とは少し違うって答えたでしょう?あの時の方が純真無垢で、真っすぐに恋をしてただけの少年だったんです。」
薫はそう言いながら、少しずつ俺に近づいた。
「今は時間が経って真っ白だった恋心が、いつしか淀んだ色に変わって、狂気的なそれに成り下がりました。先輩を好きになる人が、どんな風に貴方を見ているのかわかりませんけど、ただやり捨てられた女性たちと違って、僕はきっと特別な存在になれているんだ、って・・・そう思い続けていました。」
薫は誰もいない公園で、座った俺を見下ろし、その細い手で俺の頬に触れた。
「詩人になれそうだな、薫。」
「はは、酷い返し方・・・。先輩のそういう所も好きです。きっと人の前で性格を変えるの上手いんでしょうね。あの時、彼らは先輩のことを考えていた僕を、気味悪がっていたのに。」
薫はまた隣に座って、ふぅと息をついた。
「で?俺の質問に答えてないぞ。何が言いたいんだよ。」
「・・・そうですね・・・。先輩をどうしたら懐柔出来るか、考えながら話してました。難しそうですけど・・・。よっぽど好きな子への気持ちが強いんですかね。」
薫は残念そうに微笑んだ。
「先輩が僕を嫌わないのは何故ですか?気持ち悪いでしょ、今の話聞いてたら。」
「気持ち悪い・・・いや、別に。その程度は誰もが働く悪知恵なんじゃないか?俺は別に薫を全部知った気でなんていないし、そういう風に思う一面もあるってだけの話だろ?」
俺は手元のペットボトルの紅茶を眺めながらそう言った。
「先輩は・・・もしかして、僕以上に気持ち悪いって思うような、何かを知ってるんですね。」
薫のその言葉を聞いて、一瞬空気が止まったように感じた。
フラッシュバックしそうになった記憶を、脳内に押し込める。
薫の顔を見つめ返すと、彼は少し驚いたように表情を止めた。
「・・・すみません、もしかしてパンドラでした?」
俺が視線を逸らすと、薫は唐突に話題を変えた。
「先輩の好きな女の子は、きっと恋愛下手なんですよ。」
「・・・え?」
「気づけそうな何かがわからなくて、憧れや恋の違いも知らなくて、人を自分が思う枠に押し込めちゃいけないとわかっていても、自分の中のイメージが崩れると困惑する・・・何と返せばいいのかわからなくなる。先輩とは、人に対する受け止め方が根本的に違うんでしょう。でも裏を返せば、16歳の少女らしくて普通の子です。なら先輩がわからせてあげたらいいんですよ、恋愛経験豊富な上級者として。」
薫は明らかな作り笑いを俺に向けた。
「急な嫌味に驚きが隠せないわ・・・。わからせるって言ってもなぁ・・・。」
「好きな人を匂わせる作戦で、あからさまにその子のことだとわかるように言うのも手です。鈍感な人相手の荒療治ですけど、後は好きだと言うだけの状態で焦らしてしまえば、向こうは意識すると同時に、ちゃんと先輩を男として見てくれますよ。」
ここにきて薫からも、桐谷と似たような意見がきた。
「そうだなぁ・・・そうかもしれないな・・・。」
そこまで話すと、薫は飲み物に口をつけて、ぼーっとしながら黙った。
「薫・・・呼び出したのはお前だし、お前の気持ち考える余裕なんてハナから無いから、謝らないぞ。」
俺がそう言うと、ふふっと笑った。
「わかってますよ、先輩が実は一途で根が真面目なことも、僕のことを考えてもいないことも。」
そう言うと、ベンチに置いていた俺の左手に、薫はそっと右手を重ねた。
「安心してください、そんなことで今更傷ついたりしません・・・。ところで先輩、江戸川乱歩ってわかります?」
「・・・ああ、小説家の?」
「ええ・・・、その人の・・・「孤島の鬼」って作品、読んだことありますか?」
俺が短く、いや・・・と答えると、重ねた手を薫はぎゅっと握った。
そして少し悲しそうな顔をしながら、ポツリと落とすように言った。
「こういうのは・・・気持ち悪いって振りほどいたほうがいいんですよ。」
そう言って俯いたので、俺が口を開こうとしたとき、公園の入り口でこちらを見つめている人影に気付いた。
「・・・小夜香ちゃん・・・?」
俺がそう呟くと薫は顔を上げ、見つめた先の彼女は、俺と目が合ったことに気付いて小さく手を振ってくれた。
俺が思わず立ち上がると、手が離れた薫が、入り口を振り返った後、また俺を見返した。
「・・・行ってもいいですよ。」
「・・・ああ、悪い、ちょっと待ってて。」
そう言い残して、俺は入り口の向こうに立つ小夜香ちゃんに駆け寄った。
「小夜香ちゃん・・・!学校帰り?」
「うん。ごめんね、お邪魔しちゃったよね。」
小夜香ちゃんはそう言いながら、チラリと俺の後ろの薫を見やった。
「大丈夫だよ。久しぶりに高校のときの後輩と再会してさ、ちょっと色々話してて・・・。」
「そうなんだね。・・・咲夜くん、何だか会うの久しぶりだね。」
小夜香ちゃんはそう言ってニッコリ笑った。
ついこないだ電話で声を聴いた彼女が、今は目の前にいる。
俺がのらりくらりと彼女の誘いを断っていたこともあって、ひと月半ぶりくらいに顔を合わせた。
本当は明日の誕生日に久々に会う予定だったけど・・・
「でもまぁ、毎週のように遊びに行ってたから、別にこれが普通なのかな?・・・あの、ごめんね咲夜くん・・・」
そう言いながら小夜香ちゃんは、少し気まずそうにもじもじとした。
「え・・?何が?」
「ん・・・だって迷惑だったでしょ?それか、何か気に障ることしちゃってたのかもなぁって・・・。」
小夜香ちゃんは、仲良くなってうちに来る前の、再会した頃の感じで、距離感を測りながらそう伺った。
「いや・・・違うよ・・・。そんなことなくて・・・。」
咄嗟に何を言おうか浮かばなかった。
本当は、明日何か聞かれた時に、ちゃんと話そうと思っていたんだ。
人気のない公園の入り口で、急につらつらと言い訳が出てくるはずもなかった。
焦ってどうしようか目を泳がせていた時、ふいに背後から声がかかった。
「先輩、僕そろそろ帰りますね。いい時間ですし・・・。また連絡します。」
「え、ああ・・・薫・・」
俺が見送りの言葉を述べようとしたとき、小夜香ちゃんは慌てたように薫に声をかけた。
「あの!ごめんなさい、お邪魔してしまって・・・。私もう家近くで、このまま帰るので・・・。咲夜くん、送ってあげてね。」
家族のような口ぶりでそう気遣いを述べると、小夜香ちゃんは引き留める間もなく行ってしまった。
「あ・・・小夜香ちゃ・・・。」
俺の声は虚しく、そそくさと遠ざかる彼女には届かなかった。
「先輩・・・」
薫は小さくため息をついて、俺の背中をぽんとたたいた。
「追いかけていいんですよ。」
「・・・いや、明日また会うし、いいよ・・。」
薫は鞄の中を探りながら、少し呆れたように言った。
「そうですか・・・。先輩、すっかり忘れてましたけど、一足先にプレゼント渡しておきますね。」
差し出されたものを受け取ると、綺麗に包装された箱にきちんとリボンもかけられていた。
「・・・ありがとう・・・。」
俺がキョトンとしていると、薫はクスクス笑った。
「何ですか?僕だってちゃんとプレゼントくらい用意しますよ・・・。」
そう言いながら薫はゆっくり駅の方向へ歩き出した。
俺がその背中を早足で追うと、薫は何気ない会話のように続けた。
「先輩、僕本当はこないだ・・・オープンキャンパスに行った時、先輩に会えたらなぁって少し探したんです。偶然会うことが出来たら、そこでまだ縁があるのかな、と運を試せる気がして・・・。そしてその後、何気ない会話をして、僕が先輩への気がまだあるようなことを匂わせたら、どんな反応するのかも見ました。そしてもう一つは、また会う約束を取り付けられるか試しました。そしてさっき・・・学校で遭ったことを包み隠さず話して、先輩がどんな態度をとるのか見ることにしたんです。」
「・・・何で俺の反応を確かめたかったんだよ。」
「先輩はいい意味で変わっていなかったし、少し色んな影響を受けて人間性が変わっているのかもしれませんが、悪い部分はほどほどに、おおらかに僕を受け取るところはやっぱり好きです。確かめたかった理由は、きっとまだ、僕が貴方に受け入れられたい、という欲求を抱いているからですかねぇ。」
薫は横を歩きながら、淡々と答えた。
「シンプルなんですよ、先輩と同じく僕も・・・。好きな人に好きになってもらいたい、受け入れてもらいたい、と。」
そう言っていつもの笑顔を向ける薫が、本当にその表情通りに穏やかな気持ちでいるのか、傷ついているのか、俺には図りかねた。
「そして先輩と同様に、僕もまた、激情を抑えながら相手と対話することを望んでいる。僕はそれに慣れていますけど、先輩はいつまで自制心を保てるか見物ですね・・・。」
少し悪そうな笑みを浮かべて、薫は視線を逸らせた。
「はぁ・・・。保てなくなる前に、恋人同士になれるように努力するわ・・・。」
「ふふ、その意気です。」
昔も今も、少し不思議な関係なのは変わりなく、俺たちは駅へと歩いて行った。