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短編・童話集

恋の天使がその矢を外したとき

 女が男に恋をした。


 女はなぜ、自分が彼に惹かれだしたのかわからなかった。

 それまでずっと同じバイトをしていて、一年半以上もほぼ毎日顔を合わせていたのである。

 女にとって男は好みのタイプではなかった。年齢も一つ下だし、性格が女々しすぎてどうも男というイメージがもてない。

 顔もそうだ。はじめて見たときには何の興味もわかなかったし、バイトをしているときも、別段彼を目で追ったりするようなことはなかった。


 どうしてこんなことになったのか?

 女がわからないのも無理はない。女は恋の天使を見たこともないし、まして、その存在を想像してみたことすらないのだから。

 この世には恋の天使がいる。

 そして恋は、彼女たちが矢を人間の胸に打ち込むことによってはじまるのだ。

 この世界のすべての恋の構造は、何分にもそうなっているのである。


 さて、この恋の天使は腕が悪かった。

 女には矢を命中させたが、男の方を狙った矢は狙いを外してあらぬ方向へ行った。

 男はちょうどバイトを終えて帰宅するところだった。

 そして交代でやってきた女へ、以前に頼まれていた品物を渡していた。

「はい、これ。……誰に作るのか知らないけどさ、こういうのって、自分で買うのが筋なんじゃないの」

 男はチョコレートを女に渡していた。

 実家がスーパーを経営している男は、チョコレートを買ってくるように女から頼まれていたのだ。

 バレンタインデーが近かった。


 チョコはシンプルな袋に入ったもので、溶かして使う手作りのためのものだった。

 矢はその、チョコレートのうちの一つに刺さった。

「ああ、ごめん」普段なら、そんなのどうでもいいじゃん、とか適当な答えをするのに、女はつい謝ってしまった。もう、男に惹かれはじめていたのだ。「ありがとう」

 意外に素直な返答をした女に、男は不気味なものを感じた。

 何かまた面倒なことを頼まれるかもしれない。

 男は早く帰ることにした。

 じゃあ、そういうことで。代金をもらって、さっさとバイト先の控え室を出ていった。


 後に残った女は、男がいなくなってしまったのを残念に思っていた。

 恋の天使はその様子を見ていた。

 矢は外れてしまった。だが、いまさらどうしようもない。

 まあ、どうでもいいか。次、がんばろう。

 そうつぶやいてまた別のカップルの胸に矢を刺すためにその場を離れた。


 恋の天使の矢が刺さる前、女はすでにチョコを渡す相手を決めていた。

 同じ高校の同級生。地元が同じで、登校中に会うとよく話す。顔もいい。

 どこかの誰かとは大違いだ、とバイト先の同僚である男を想像しながら女は考えた。

 大違いのはずなのに……。


 女はすでに恋を自覚しはじめていた。

 なんでこんなことになっちゃったんだろう。

 そして今までの男に対する言動を思い出して、ため息をついた。

 あれを買ってきて。私の代わりにこれやって。男なんだから、もっとがんばってよ。

 ……絶対に好かれているはずがない。


 だが女は前向きだった。元々そういう性格だった。

 こうなった以上、仕方がない。計画は変更だ。なんだかいまいましいけれど、あいつに、チョコを渡そう。

 女はテーブルの上にある二つのチョコをじっとながめた。

 男から買ってきてもらったものと、自分で買ったもの。

 チョコを渡してもらったときの男の言葉、あれは的外れだった。

 女は本命用のチョコを別に用意していたのだ。手作りではない、市販されているものだ。

 男から手渡された方は当然、友達や家族に渡す義理チョコ用のつもりだった。

 本命用と義理チョコ用。男には、どっちを渡そう。

 女は頭を悩ませていた。


「はい、あんたにもあげる」

 二月十四日、バイト先で女からチョコを渡されたとき、男は目を白黒させていた。

 この人は、頭がどうかしてしまったのか?

 最近の言動もなんだかおかしいし。こんな気の利いたことをしてくるなんて。

 不気味だ。


 今までの言行から考えると、男がそう考えるのは当然である。それまで女は男をパシリ扱いしていたのだから。

「あ、どうも。……どうしてぼくに?」

「いままで何かとお世話になってたからね。ま、義理チョコ」

 女は微笑みながらそういった。


 内心では、ものすごくどきどきしていた。女は最近、男に少しづつイメージを変えてもらえるよう、優しく接することが多くなっていた。

「せっかくあげたんだから、ちゃんと食べてよね」

 やや語気を強くして女がいった。

 冗談のつもりだったが、男は顔を曇らせ、わかりました、と敬語で答えた。

「それにしても、チョコなんて作れるとはねえ……」

「簡単だよ、溶かして固めるだけだし。味もいいよ。あ、そうだ、食べてみなよ。感想、聞いてあげるから」

「いま?」

「そう、いま」

 女はうなずいてみせた。

 男は面倒くさそうな顔をしながらも、女の作った生チョコを取り出し、一口かじった。

「あ、結構おいしい」と素直に感心した様子でいった。

 ふふふ、と女は満足した様子で笑顔を浮かべた。これで少しはイメージも改善されることだろう。

 そう思っているとき、男が聞いてきた。

「これ、ちなみに、ぼくが買ってきたやつ?」

「そう」と女は答えた。「それはそれ、これはこれ。ね、うまいでしょ」


 女は結局、本命用は使わなかったのだ。

 だってあんな高級なチョコ、渡すと怪しまれちゃうし。少しづつ行こう。

 段々と、好意を持ってもらおう。女はそう決めていたのだ。

 それに、手作りの方が気持ちが伝わりそうだし。


 本命用のチョコを買ったときにはまったく考えていなかったことが、今の女の頭にはあった。

 いま考えると、同級生に抱いていた気持ちはたぶん、恋ではなかったのだ。

 男を目の前にして胸に抱くこの心の揺らぎこそが、恋なんだ。


 男はもう一度、生チョコを口に運んだ。

 その中に、あの愛の天使が外した矢が含まれていた。それは男の食道を通って胸に到達した。

 チョコを一つ食べ終わってから、男はまじまじと女を見た。男はなぜ、自分が彼女に惹かれはじめているのかわからなかった。

 そんな風にして、二人の恋がはじまった。

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