7.泣かない
「ま、マミったら。なに言ってるのよ。そんなわけないじゃん。吉永君はね、わたしのことなんか全く眼中にないんだから。だって、カレとはもう三年半もしゃべってないんだよ。ホントにホントなんだって。あ、昨日のお弁当事件は別ね。だからわたしがカレのことを好きだなんて、そんなのありえないって。わたしに遠慮することなんてないんだってば」
わたしはありったけの笑顔を振りまいて、哀しそうな目をした麻美を元気付ける。
「そうかもしれないけど……。あたしが聞いてるのは吉永の態度じゃなくて、優花の気持ちだよ。本当にいいんだね? あたしが吉永を好きになっても」
「うん。もちろん。わたしはこれからの未知なる出会いに胸ときめかせてるんだから。マミを応援……するよ。そうするに決まってるじゃない」
「わかった。ありがとう、優花。あたし、一生懸命がんばる。カレにあたしのこと好きになってもらえるようにがんばってみる」
麻美がきっぱりとそう言い切った。これでいいんだ。もしかしたら吉永君も、マネージャーとしての麻美ではなく、ひとりの女の子として意識し始めるかもしれない。そうなったら……。吉永君は麻美と付き合うことになるのかな。彼のあの真っ直ぐな視線が麻美だけに注がれる日が……来るんだ。それもそう遠くはない日に。
「マミ。そうでなくちゃ! あたしも先輩へのアタック、ますますがんばっちゃう! そんでもって優花も早くいい人見つけなきゃね。でね、三人して、おもいっきりロマンチックなクリスマスを迎えるの。いいと思わない? 」
絵里が腕をのばしてわたしと麻美の両方を引き寄せるように抱え込む。わたしは鼻の奥がツンとするのをなんとか我慢すると、両手を左右にいっぱい広げて、絵里と麻美の肩を抱き寄せた。
麻美は優しくて、控えめで、それでいてとっても頭のいい女の子なんだ。数学のわからないところも先生よりわかりやすく教えてくれるし、忘れ物をしたら体操服だってためらうことなくすっと貸してくれる。将来はお父さんの後を継いで、医者になるって言ってた。だから今やってる陸上部のマネージャーも高一の間だけって約束らしい。そんなひたむきな麻美の頼みを即座に却下するなんて出来るわけがない。それに、わたしだって吉永君にただ片想いしてるだけなんだもの。吉永君はわたしのカレシでもなんでもないのだから、麻美の彼への想いを咎める理由はどこにもない。
ベッドから立ち上がると、本棚にある中学の卒業アルバムを出してきて麻美に渡した。そして吉永君のクラスのページをめくって開く。
「写真は卒業アルバムくらいしかないけど……」
麻美が目を輝かせて写真に見入っている。絵里もどれどれと言って身を乗り出して覗き込む。
「きゃあー。かわいい。ねえねえ、この写真撮ったときって、去年の秋くらいだよね。一年くらいしか経ってないのになんか幼く見える。カレってハーフっぽいよね」
「マジで? めっちゃかわいいじゃん。あたしも吉永に乗り換えようかなー」
「もう、やめてよ。絵里は津久田先輩でしょ? 吉永はあたしのものなんだから。絵里には渡さない! 」
わたしはそんな二人のやりとりを聞きながら、小学校の卒業アルバムもあちこち引っ張り出して探していた。そこにはもっとかわいい吉永君が写っている。麻美にも見せてあげたい。だって麻美があんなにも嬉しそうに笑ってるんだもの。吉永はあたしのものだって。そう、あたしの、もの、だって……。
ああ、苦しい……。胸だけじゃなくて、胃も腸も、内蔵全部がギュってなって、息すらも出来なくなるくらいに苦しくて痛い。やだ。目の前が霞んでくる。泣きそう。ダメだ。せっかく麻美を応援しようと決めたのに、めそめそしてる場合ではない。
「な、なんか、食べる物、持って来るね」
わたしはやっとの思いでそれだけ言って、顔を見られないようにして部屋を出た。何も知らない二人の明るい笑い声が、廊下を伝って妙にクリアにわたしの耳に届く。
絶対に泣かない。白い天井を仰ぎ見て歯を食いしばった。そして洗面所の鏡に映る自分に向かってもう一度、泣かないと宣言する。水でバシャバシャと顔を洗い、溢れそうになる涙を押し戻すことにどうにかやっとのこと成功した。
台所で冷蔵庫からジュースを取り出す。すると昨日吉永君が届けてくれたあのぶどうが、目の前にでんと姿を現すのだ。これだけはわたしのもの。麻美には悪いけど、あげたくない。わたしは見なかったことにしてそっと冷蔵庫を閉じた。
なのに次の瞬間、また冷蔵庫を開けていた。一瞬ためらったけれど、実が外れないようにそっと両手で抱えてボールに入れ、水道水で洗い流す。大きめの皿に盛り付けて、ジュースとクッキーも一緒にみんなの待っている部屋に運んだ。
「お待たせ」
「わあっ! 優花、ありがとう。おいしそうだね? 何、このぶどう! いただき! 」
絵里が即座に手を出す。
「あっ、絵里! ちょっと待った! まずはマミから。実はこれね、吉永君ちのぶどうなんだ。昨日、母さんがお裾分けしてもらって……」
吉永君が自ら届けてくれたとは、さすがにこの場では言いにくい。こんな言い方になったけど嘘は言ってないよね。これで最後の房になるけど、わたしはまた来年だって食べられる。毎年食べられるんだからと言い聞かせて目の前の二人にどうぞと差し出した。今日は麻美が全部食べていいからね。吉永君のお爺ちゃんのぶどう。甘いんだよ。とってもおいしいの。
麻美が一粒食べた後、絵里も待ってましたとばかりにピンポン玉くらい大きい実をパクッと頬張った。
「おおお、おいしい。これ、最高! そっか、吉永のおじいちゃんのぶどうなんだね。マミ、良かったね」
「うん。優花、ホントにありがとう。優花も食べて」
「ううん、わたしはいいんだ。夕べも食べたからね。マミに喜んでもらえて嬉しい……」
また目の奥が熱くなってきた。ダメだよ。絶対泣いちゃダメ。今ここで泣いたりしたらすべてが水の泡になる。唇を噛み締めて不自然に瞬きを繰り返す。その時だった。玄関で騒がしい声がしたのは。
──ほら、早く入ってよ。お姉ちゃんなら、部屋で寝てるから。
──お、おい! やめろよ。あいちゃん。
──なに言ってんのよ。自分の目でお姉ちゃんが元気かどうか確かめなさいよ。真澄ちゃんの意気地なし!
絵里も麻美も、そしてわたしも。互いに顔を見合わせたまま、ドアの向こうの会話に黙って聞き入っていた。