5.一生の不覚
愛花と一緒に部屋から出ると、玄関で母さんと誰かがしゃべっているのが見えた。どうもありがとうと言いながら、ていねいに頭を下げた母さんの肩越しにわたしの目に映った人は……。
な、な、なんで、吉永君が、そこにいるの?
「あらっ、優花。ちょうどよかったわ。真澄ちゃんがね、ぶどうを持って来てくれたのよ。今年もおじいちゃんの家の畑でたくさん収穫できたんだって。毎年頂いてるでしょ? さあ、優花も真澄ちゃんにお礼を言って」
「えっ? ああ、そうだね」
ドキドキしてるのを悟られないように極めて平静を装って、短くありがとうとだけ言った。そして、横でいたずらっぽい目をしてニッと笑う愛花を睨みつけるのも忘れずに。いつも愛花は、わたしが教えたわけでもないのに、お姉ちゃんの好きな人は真澄ちゃんでしょ、とひやかしてくる。年の近い姉妹だと、お互いのことが何でもわかっちゃうのかもしれないね。愛花にしてみれば、吉永君に会わせてあげようと気を利かせたつもりなんだろうけど、今日はいくらなんでもタイミングが悪い。お弁当事件があったばかりなんだから。こんな風に顔を合わせるのって、やっぱり気まずい。
なのに吉永君が、どういうわけかいつものふてぶてしい態度は微塵も見せずに、俯きながら、どうもとわたしに返事をするのだ。どうして? なんか調子が狂う。
「久しぶりに一緒に夕食でもって誘ったんだけど、真澄ちゃん、今から塾に行くんだって。誰かさんと違って偉いわねえって、言ってたところなのよ」
一緒に夕食って……。これまた母さんの飛躍した行動に腰を抜かしそうになる。小さい頃とは違うんだよ。今は吉永君と仲がいいわけでもないのに、勝手に夕食に誘うだなんて。母さん、どう考えてもおかしいよ。吉永君、いつまでもこんなところにいなくていいから、お願いだから早く塾に行って。
わたしは、どうしようもなく申し訳ない気持ちになって、心の中でごめんねと謝りながら、玄関にたたずむ吉永君をそっと伺い見る。
あれ? 吉永君が笑った。確かに今こっちを見て、口元を緩めてにっこりしたのだ。わたしもつられてやや引き攣りながらもにこっと微笑み返した。その後も吉永君は、どこか笑いを堪えるような感じで、時折肩が震えている。なんでそんなに機嫌がいいのかな。
「それじゃあ、これで失礼します」
吉永君が母さんに軽く会釈をする。
「お父さんお母さんにもよろしく伝えてね。真澄ちゃん、今日はわざわざどうもありがとう」
母さんは吉永君を玄関先で見送り、戸を閉めた直後、わたしを見てプッとふき出した。
「あら、やだ。優花のその前髪、どうしたの?」
「あははは! ほんとだ。お姉ちゃん、ウケる〜。手首のバンダナもイミフだし。怪我でもしたの?」
お腹を抱えて笑い出す二人を無視して、わたしは大急ぎで洗面所に駆け込み、上半身を鏡に映してみた。
あ、ありえない……。
そうだ、さっき鏡を見た時、前髪を束ねて頭のてっぺんで結んだんだった。それに手首にバンダナもつけたまま……。こんな格好、小学生ですらやんない。今どきの子はもっとおしゃれだからね。ということは、この姿を吉永君に見られたってこと? だから彼、笑ってたんだ。
わたしはその後、極度の自己嫌悪に陥り、夕食の母さん特製の串カツがほとんど喉を通らなかった。
翌朝わたしは、ベッドの中で身体を丸めてため息ばかりついていた。高校に入学して初めて学校を休んだのだ。何度も何度も携帯を手にして、今何時になったのかを確認する。なのにさっきから三十分しか経っていない。どうしてこんなに時間が経つのが遅いのだろう。まだ二時間目の授業が終わったところくらいだ。みんな、何してるのかな。吉永君も、元気に授業を受けてるのかな。こんなことなら学校に行った方がよかったかもと、すでに後悔し始めていた。
母さんはついさっき、仕事に行ったばかりだ。学生時代の友達が経営しているインテリアショップに、週に三回、手伝いに行っている。夕べわたしがあまり食べなかったものだから、てっきりどこか身体の具合が悪いと思い込んでいる母さんが心配そうにわたしのおでこに手をやって、学校には連絡しておいたからね、と気遣いながら仕事に向かったのだ。何かあったらすぐに電話しなさいよと言って。
母さん。嘘ついて、ごめんなさい。本当は、どこも悪くないんだ。ただ、今日はどうしても学校に行きたくなかった。吉永君に会いたくなかったから。昨日のあのひどい格好を見られたんだと思うと、今朝は玄関から一歩たりとも外に踏み出すことが出来なかった。いったいどんな顔をして彼に会えばいいのか。けれどその不安な気持ちも徐々に薄れつつある。時が解決してくれているのだろう。多分、明日は行けると思う。ううん、絶対に行く。だから、今日だけはわがままを許して……。
わたしは、母さんが用意してくれていたおかゆを食べて、冷蔵庫から冷えたぶどうを出してきた。黒い大粒のそれは、店で売っているのとは比べ物にならないほど甘くて、果汁がたっぷりあふれ出す。毎年、この時期になると吉永君ちからやってくる、大きなぶどう。わたしは果物の中で、このぶどうが一番好きかもしれない。
昼のバラエティー番組を見て、そのまま連続ドラマをつけっぱなしにしていたけど、ちっともおもしろくない。夏休みに母さんと愛花の三人で見た時は、あんなに感動して泣きながら見ていたのに。学校のことばかりが気になる。やっぱり休んだのは間違いだった。どっちみち吉永君とは学校では何の接点もないんだし、これから先もしゃべることなんてないに決まってるのに、わたしったら何を怯えていたんだろう。変な格好や最悪の顔なんて、とっくの昔に全部見られてる。今さらよそ行きの姿を見せたって、過去が消えるわけでもないし。だったら、昨日のことなんか気にせずに、堂々と学校に行けばよかったのだ。
そう思ったとたん、俄然元気が出てきた。明日は模試だ。机の上の本棚から数学の問題集を取り出し、まずは苦手な単元を復習することにした。小学生の時に、すでに将来なりたい職業が決まっている。だからそれを実現させるためには是非とも入らなければならない大学がある。よし、がんばるぞ。難しい数式と悪戦苦闘しながらも、なんとか集中して勉強に取り組んだ。
携帯からメールの受信を知らせるメロディーが鳴ったのは四時。絵里からだった。
────ゆうか、身体、大丈夫? 帰りにマミと一緒にお見舞いに行くね。
しばらく画面を眺めた後、ふと我に返ったように脳が超高速で回転し始める。大変だ。こんなことしてる場合じゃない。机の上の問題集を慌てて片付けると、ずる休みがバレないように再びベッドにもぐり込み、タオルケットをおでこまで引っ張り上げた。