37.時が止まるその瞬間
「えー、吉永は、家庭の事情で転校することになった」
一瞬ざわついたものの、予想していたとおりだったのだろう。誰も先生を問い詰めたりしなかった。それを意外に思ったのか、先生が首を捻りながら、教室内の一人一人を見渡す。
「おまえら、知ってたのか? いや、あまりにも反応が薄いから……。正直、これを言ったら泣き出す女子がいるんじゃないかと心配していたんだがな」
そう言って、苦笑いを浮かべる。泣き出す女子か……。そっと周りを見渡すと、何人かの目が赤くなっているが見えた。……見なきゃよかった。わたしまで胸がきりきりしてきて、目頭が熱くなってくるし。
「欠席連絡の時にお母さんからあらましは聞いていたんだが、本人の希望もあって、今まで公言するのを控えていた。で……。明日、午後から学校に来るそうだ。みんなにあいさつがしたいと言っている。まあ、ここは小学校じゃないからな。お別れ会を開く予定はないが、はなむけの言葉くらい用意しておけ。あいつ、部活も勉強もがんばってたからな。先生も吉永がいなくなるのは寂しいと思ってる」
とたんにみんなが神妙な面持ちになる。鼻をすする音も聞こえてくる。わたしは絶対に泣くまいと歯を食いしばった。
各委員からの連絡事項のあと、ホームルームが呆気なく終わりを告げる。何人かの男子が先生の周りに集まっていたけれど、わたしは絵里と一緒にすぐに教室を出た。
「優花、よかったじゃん。明日、会えるんだよ。吉永と」
言葉とは裏腹に、絵里の表情は冴えない。
「うん。でも……」
「何、弱気になってるのよ。そりゃあね、あたしだってさっきは泣きそうだったよ。別に吉永が好きとか嫌いとかそんなんじゃなくても、涙がじわーって溢れそうになったもん。先生だって、マジで寂しそうだったしね。でもさ、今はメールだってあるんだしさ、離れ離れになっても心は繋がっていられるって。ね?」
「そうだけど……。わたしちゃんと言えるかな? 吉永君の顔を見たら、何も言えなくなるんじゃないかって不安なの。それに、こんな突然の告白、彼にとって迷惑じゃないかって」
「またそんなこと言ってる。ダメダメ。優花、自信持って。迷惑なわけないじゃない。あたしが吉永だったら、大歓迎よ。ウエルカム、カモーンって手をこまねいちゃう」
「ふふふ……絵里ったら」
絵里が手のひらを上に向けて、小指から順番にぱらぱらと折り曲げていく。
「明日のために、今夜はお肌の手入れがんばるのよ。お母さんの美肌パック、借りちゃいなよ。さ〜て、そろそろ行くとするか。マミのことはあたしにまかせてね。じゃあね、また明日」
絵里が元気よく手を振る。わたしも負けずに大きく手を伸ばして振り返した。
エレベーターの前にある鏡に映して制服のリボンの位置を確かめる。これでよし! 二学期になって一番の出来だ。両方の膨らみがほぼ同じで、歪みもない。もしかして完璧かも。
昨晩は思ったよりよく眠れた。絵里の言いつけは守らなかったけど……っていうか、母さんに聞いたらパックは持ってないって言うんだもん。仕方なく、乳液をいつもより多めにパタパタと叩き込んでおいた。
それと……。グロスを薄く、唇に延ばしてみた。恥ずかしかったけど、これくらいなら先生にも咎められないよね。
わたしははやる胸を抑えて、上から降りてきたエレベーターに乗り込んだ。
「よお! ゆうちゃん、おはよー」
「勇人君! お、おはよ……」
「なんでそんなに驚くんだよ。なんか俺、犯罪者みたいじゃん」
ついさっきまで、鏡を見ながら夢見ごこちだった分、勇人君に心の中まで見透かされたような気がして、ぎこちなくなってしまった。ごめんね、勇人君。
「ゆうちゃんも、昨日聞いたろ? おまえのクラスの担任、言ったらしいな。真澄のこと」
「う、うん。聞いた」
「あいつ、今日の朝、車で向こうを経つそうだ。今ごろ、高速じゃないのかな」
「そうなんだ……。ねえ、勇人君。なんか、吉永君に会うの、すっごく久しぶりな感じがする」
「俺だってそうだよ。ものごころついた頃から、あいつとはずっと一緒だったしな。いるとうっとおしいけど、いないと何か物足りないんだよな」
勇人君が顎に手を掛け、エレベーターの天井を見上げながら言った。
「なあゆうちゃん。冬休みに、長野に押し掛けないか? いや、ちょっと待てよ。おまえと二人っきりで行くっていうのも世間体が悪いから……。本城も誘えば?」
「絵里も? やだ、勇人君。本当はマミの方がいいんじゃないの?」
「もちろん、そうできればいいけど……。でも、考えても見ろよ。あいつのところに、なんで大園を連れて行かなきゃならないんだよ。そんな余計なお膳立てはしたくないからね。これを機会に、大園には真澄のことをきれいさっぱり忘れてもらうつもりだから」
そっか。そうだよね。いつも明るく振舞ってる勇人君だけど、吉永君は恋敵でもあるわけだし。でも男の子の友情って、こんなにも強い物なのかなって、見てて羨ましくなる。
どんなに憎まれ口をたたこうとも、勇人君は吉永君を貶めたりはしない。わたしと麻美もそんな風になれるのだろうか……。
「それと、真澄んちの三階。売らないってさ。賃貸に出すらしいぞ。将来、こっちに戻ってくることがあったら、またここに住むって」
わたしは勇人君の思わぬ話に、立ち止まってしまった。
「おい、ゆうちゃん。一階だよ。降りるよ」
閉まりかけるエレベーターの扉をもう一度開けて、慌ててホールに出る。
引越しと同時にここを売り払うとばかり思っていたわたしは、意外な展開に胸が高鳴る。ということは、将来またここに帰ってくる可能性があるということだ。
わたしはますます心が軽くなっていくのを感じていた。
勇人君の思いがけない情報は、わたしにささやかな幸せと勇気を運んできてくれた。今日、吉永君に会ったら……。絶対に好きだって言える。そんな気がしてきた。本人も気付かないうちに、ためらいがちだったわたしの背中を押してくれた勇人君は、きょとんとした目をしてこっちを見ている。
んもうっ、勇人君っていい人だよ。ホントに大好きだよ……。あっ、でもね、これは絶対に言葉にはしないからね。
だって、前に勇人君に言われたよね。誤解をまねくようなことは口にするなって。へへへ、わたしも少しは大人になったかな。
その後勇人君は、クラスの友達と合流してバスに乗った。わたしは一人、空いている後ろの座席に座り、グロスが取れていないかそっと鏡を覗き込んだ。
こんなに緊張する授業は生まれて初めてだと思うくらい、身体がカチカチになっている。五時間目もドキドキしたけど、六時間目の今は、身体中が心臓になったみたいに、バクバク脈打っている。
斜め後ろの席には……吉永君がいる。教科書をめくる音。ノートにペンを走らせる音。どれが吉永君の音なのか、はっきりとわかる。
久しぶりに見る制服姿で、吉永君がいつもの席に座っているのだ。
昼休みが終わる頃教室の後ろの戸が開き、みんなのどよめきと共に、彼が普段あまり見せないような照れた笑顔を浮かべて、教室に入って来た。
でも……。その笑顔。前に見たことあるってそう思った。
わたしを広川君から助けてくれたあの日。バスターミナルで見た、あの笑顔だ。
そして次の瞬間、わたしと目が合った。笑顔が止まる。空気も止まる。周りの声も、風も、時間も。
すべてが止まった。